七崎観音の近現代

2月17日は

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)の

ご開帳日です。

 

この日は

午後8時よりご宝前にて

法要を執り行います。

 

この行事は「おこもり」と

通称されます。

令和4年おこもりのご案内

 

明治時代になり七崎観音は

行ったり来たりを繰り返した

ということは

これまでも触れてきましたが

そのことをいまに伝える

明治10年(1877)『伺』(うかがい)

という県令への文書があります。

 

以下に引用するのは

その翻刻です。

 

往来がわかる部分は

色を付しています。

 

赤は1回目

青は2回目

紫は3回目の遷座の記述です。

 

なお

原文のくずし字を

拙僧泰峻が翻刻したのですが

何文字か解読困難な箇所があり

文脈から字をあてていることを

あらかじめお断りしておきます。

 

 

当七崎村郷社七崎神社

曩日仏体正観音混一七崎山観音社号二付

衆庶参拝罷在昔時

文化六年當時第九大區三小區

新井田村盛元太郎曽祖父半兵衛代

梵鐘壱鳴寄附有之候処

御維新来各社寺

一般神佛混淆不相成旨

御達二付

過ル明治二己巳年

右正観音佛体外附属之什器

并梵鐘共該社ヨリ

當村真言宗普賢院へ

一旦移置候処

従来近郷人民信仰之霊佛二付

衆庶旧慣ヲ不脱

猶受持旧神宦ヲ訪来

空殿ヲ参拝スルノ族モ

間々有之二付

更二永続方法ノ目途相立可成

丈ケハ小堂ナリトモ建立仕度義

村方一同志願二付

其際旧神宦神殿江移転

人民信仰二任セ

参拝為致居候

昨九年十二月

教部省第三拾七号御達之趣モ有之

素ヨリ佛体二候得共

当院へ再ビ移転

什器共悉皆可引渡ハ勿論二候所

前顕梵鐘寄附人私有之訳ヲ以

今般取戻之義掛合有之

殆ド困迫之次第

尤廃社等二至テハ寄附什器

本人随意取戻之義可有之候得共

既二神佛区分右佛体

現今普賢院二存在候上ハ

概シテ廃社寺与

同視スベカラザル様有之

且本人情願二依リ寄附候者

今更無用ノ贄物抔申唱候義

如何与存候得共

元ヨリ私共二於テ

其可否討論可致ノ権理無之二付

無余儀次第与思考仕候得共

従来正観音江寄附之鏡故当院へ

備置仕度

且つ当院境内之義ハ村中中央土地髙壟

鐘堂建築適当之地二付

自今報時鐘二仕候得共

昼夜旦暮之時報ヲ耳二シ

各自農民臥起之教戒ハ勿論

臨時之為成丈ケ

取戻等無之様

再三先方ヘ示談二及び候得共

兎角承諾無之

依之右等共一般寄附人二付

自侭二取戻之権理可有之哉

且つ弥取戻候節ハ

右梵鐘寄附之際

村方人夫二付

鮫村より運搬仕候二付

其入費并右二関諸入費

悉皆本人より償却為到候義

如何可有之哉

此段共奉伺候条何分之御指令

奉希望候

以上

 

明治十年六月七日

第八大区三小区七崎村

旧社人惣代 嶋森亀之助 印

同旧神宦 白石守 印

同普賢院住職 佐藤法隆 印

同総代 久保杉嘉藤治 印

同村用係 橋本岩松 印

 

青森県令 山田秀典殿

 

以上が『伺』の翻刻となります。

 

どのような

伺いがたてられているかというと

江戸期に梵鐘を奉納した方の

孫にあたる方が

奉納した梵鐘の返還を

強く求めていることに対する

対応について

当地の代表者方が

当時の県令に問うているわけです。

 

この文書中に

明治初期の当地における

神仏分離の対応を

読み取ることが出来ます。

 

これまでの慣習も尊重しつつ

新たな時代に対応しようと

努められている様子が

伝わってくるように思います。

 

昨日の投稿では

当山61世の長峻和尚について

少しばかり紹介いたしました。

 

名僧というべき長峻和尚は

住職在位中の約20年にわたり

普賢院を復興され

さらには兼務寺院興隆にも

ご尽力されました。

 

長峻和尚は研究者肌だったようで

晩年に到るまで時間があれば

ひとり研究に励まれていたそうです。

 

1901年(明治34)に

普賢院では興隆講という

講が発足しています。

 

興隆講については

以前にブログで触れているので

よろしければそちらも

ご参照下さい。

稀代の古刹 七崎観音⑩

 

興隆講は

七崎観音堂の再興事業とでも

いうべき取り組みです。

 

定期的に集まり

護摩祈祷を行ったり

法話を聞いたりなど

積極的な活動が

なされていたようです。

 

長峻和尚の祈祷や護摩には

多くの人が集まったそうです。

 

カリスマ的な住職だったと

いえるかと思います。

 

東北屈指の霊場である

山形県鶴岡の

湯殿山大日坊の住職を

最晩年は務めるわけですが

多忙が過ぎたこともあり

病魔におかされ

行年60でご遷化されました。

 

それからしばらくの間

当山は困難な時期となります。

 

62世晃雄和尚が住職になるのは

長峻和尚亡きあと

しばらくたってからとなるのですが

その晃雄和尚の晋山式は

同時に出征送別のひとときでもありました。

 

戦争期において

七崎観音へは

身内が出征した方が

多く参詣されるようになったそうです。

 

明治から昭和まで

話が飛んでしまった感がありますが

明治以後の激動期については

可能な限りの記述を試みたいと思います。

 

今回は

明治初期における神仏分離への対応を

今に伝える文書『伺』の紹介と

“巨星”長峻和尚とその後について

多少触れさせていただきました。

 

 

 

 

普賢院近現代の「巨星」長峻大和尚

東北を代表する霊山である

山形県鶴岡の大日坊の住職を

八戸(当時は五戸)のお寺の住職が

兼任していたことを

ご存じの方は少ないと思います。

 

普賢院第61世にあたる

品田長峻(1877〜1936)は

俊秀な僧侶で

その手腕は内外に

高く評価されていた方で

三戸郡南部町の恵光院を兼務され

最晩年は大日坊の

第88世住職を務めた名僧です。

 

現住職である拙僧泰峻の僧名は

先代泰永の「泰」と

長峻和尚の「峻」の字を

いただいております。

 

長峻和尚は拙僧泰峻の

曽祖父にあたります。

 

江戸時代までは

当山住職は選抜された方が

就任されていたのですが

明治になると事情が大きく変わり

在地の者が住職として

お寺を守ったようです。

 

秀でた僧侶の赴任が途絶えたため

在地の方が住職になるために

取り急いで出家して僧侶となり

住職をつとめた方がいたり

同宗派寺院住職に

代務者を務めていただきながら

何とか体裁と整えていた時期も見られます。

 

実際に僧侶として

あるいは住職を務める者として

思うのですが

修行と修学の両輪を

必要最低限納め

さらに様々な法要や儀式や

慣習を経験しながら

道を深めていくには

長い年月が必要なので

突発的に出家して

住職を務めるというのは

相当大変だったと思います。

 

そのような状況で

この長峻和尚が

当山住職に抜擢され

当地に赴任されて以後

普賢院は大いに復興され

併せて七崎観音堂も

再興を遂げていくこととなります。

 

長峻和尚の葬儀にて

大導師により読まれた

歎徳文(たんどくもん)や

僧侶としての履歴書ほか

過去帳を手がかりに

関連する事柄を

時系列に並べると以下のようになります。

 

  • 明治10年(1877)10月4日生(出生地は新潟県刈羽郡/五男/俗名 弥平太)
  • 明治22年(1889)12月11日 千光院(大崎)住職・鬼山長慶師の室に入る(弟子となる)
  • 明治24年(1891)12月11日 檀林所円満寺において学頭(権田雷斧師に従い全科卒業)
  • 明治25年(1892)1月27日 得度(千光院において/戒師阿闍梨 文澄師)
  • 明治25年(1892)四度加行(2月12日[開白]〜11月21日[結願]/千光院において/履歴には「報恩院流憲深方二依り」と記載)
  • 明治26年(1893)4月21日 灌頂(新潟の善照寺において/長慶阿闍梨に従い入壇)
  • 明治26年(1893)7月10日 改名(戸籍名も長峻とする/この年月日に「安田正秀殿聞届」と履歴に記載あり)
  • 明治28年(1895)12月12日 度牒(真言宗長者 権大僧正 鼎龍暁師より拝受)
  • 明治29年(1896)一流伝授(7月10日[開白]〜20日[結願]/高善寺において/穂波快念阿闍梨による小島流伝授)
  • 時期詳細不明 新義真言宗中学林(長野県で3年間/葬儀の際の歎徳文に記載)
  • 時期詳細不明 正則英語学校(東京で5年間/葬儀の際の歎徳文に記載)
  • 時期詳細不明 管長猊下の命により北海道開教に従事(2ヶ所に寺院を新設/葬儀の際の歎徳文に記載)
  • 大正4年(1917)10月17日 『重要神誓文』(亡母の命日に、結婚にあたって自身の誓文をしたためている)
  • 大正5年(1916)7月20日 先妻せつ子逝去
  • 大正5年(1916)10月 普賢院61世住職就任
  • 大正7年(1918)8月8日 長女 道子誕生
  • 大正8年(1919)6月 恵光院(三戸郡南部町)住職兼任
  • 大正10年(1921)8月10日 長男 晃雄誕生
  • 大正12年(1923)6月5日 次男 高明誕生
  • 大正15年(1926)8月18日 次女 豐誕生
  • 昭和2年(1927)八太郎の蓮沼で「聖観音」と刻された石が発見される
  • 昭和4年(1929)旧8月17日に蓮沼に「北沼観音」のお社を建立
  • 昭和6年(1931)観音堂(内御堂)と仁王門を改築
  • 昭和6年(1931)子安地蔵堂建立
  • 昭和9年(1934)本堂と庫裏を修繕(当時、累年の凶作で経済的に大変な時代)
  • 昭和9年(1934)8月 弘法大師1100年御遠忌を厳修
  • 昭和10年(1935)5月 山形県湯殿山の大日坊88世住職兼任(大日坊での住職名は慈念海上人忍光上人)
  • 昭和11年(1936)3月3日(旧2月10日)ご遷化(行年60)
  • 昭和17年(1942)3月28日 晃雄和尚四度加行成満(阿闍梨 神林隆淨僧正/慈光山道場にて)
  • 昭和17年(1942)10月12日 晃雄和尚灌頂(東京の護国寺にて)
  • 昭和18年(1943)晃雄和尚の割切袈裟一領(年月と晃雄と墨書きあり)
  • 昭和19年(1944)晃雄和尚晋山・出征(2月28日頃出発、3月1日弘前野砲隊へ入隊)
  • 昭和19年(1944)6月5日 後妻ツネ逝去(行年61/明治17年(1884)9月15日生まれ/出身地は現在の岩手県沼宮内の柴田家/60世宥精師[大正5年(1916)5月24日 行年35でご遷化]の妻で、長峻師とは再婚)
  • 昭和19年(1944)6月15日 高明氏出征(前日に送別会が行われ、その時の写真が残っている)
  • 昭和20年(1945)4月8日 高明氏戦死(フィリピンルソン島マウテル州バキオ付近にて/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和20年(1945)7月30日 晃雄和尚戦死(フィリピンルソン島ダラカン州にて戦死/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和22年(1947)本堂屋根葺替の木札に当時の様子が記述され、その中に「晃雄住職の生死不明」とある。

 

正則英語学校で学んでいたため

英語には通じていたようで

亡くなった祖母の話ですと

通訳をお願いされたり

英語の教えを請われる程だったそうです。

 

長峻和尚は幼少の頃から

修行と修学に励まれていたことが分かります。

 

長峻和尚の

観音堂でのご祈祷には

大勢の方がご参列され

その法話に耳を傾けたそうです。

 

3つもの古刹の

再興に情熱をもって粉骨砕身した

長峻和尚ですが多忙が過ぎ

行年60でご遷化されています。

 

2022年である今から

100年さかのぼる1922年は

大正11年にあたり

長峻和尚は当時45歳にあたります。

 

その頃は当山住職に

就任されて6年という時です。

 

ここ最近は

七崎観音の近現代について

主にブログで取り上げておりますが

長峻和尚が書かれた表白などの文書に

それまでの状況であったり

観音堂の修繕の様子が

細やかに述べられているので

それらについて

改めて見ていきたいと思います。

 

さらに

長峻和尚ご遷化の後

当山は戦争の影響で

かなり困難な状況を迎えます。

 

戦争期については

何かしらの形で

書きとどめておくべきものと思いますので

祖母から生前に聞いた話のメモを

手がかりにその当時の様子について

紹介したいと思います。

 

▼長峻和尚

 

▼湯殿山大日坊での一枚

 

▼愛娘たちとの一枚

 

 

 

 

 

棟札に耳を傾ける④

当山では本堂建替事業の

第5年目を迎え

本年より新本堂の建設が始まり

来年秋頃に完成する予定です。

 

この機会に

普賢院の寺史を

作成したいと考えています。

 

新本堂が完成すると

棟札や古い文書は

再び丁重にしまうことになるので

このタイミングでしか

行うことが出来ないので

当ブログの投稿も活かしつつ

まとめていこうと思います。

 

次第をはじめ文書については

除きますが

当山所蔵の棟札ほか

年代が判明している(一部推定)

江戸期以降の

主な仏像や灯籠などを

あげると以下のようになります。

※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])に掲載される神社所蔵の棟札については青字で記します。

 

  • 仁王門造営(寛永2[1625])
  • 本七崎観音(明暦元年[1655])
  • 観音堂並十二末社再興(観音堂3間四方/棟札は明暦2年[1656]に宥鏡上人が作成)
  • 吊灯籠(寛文10年[1670])
  • 現七崎観音(貞享4年[1687]/4間四方の観音堂が再建[棟札が神社にアリ]
  • 観音堂並小宮葺替(元禄6年[1693])
  • 仁王門改造(享保2年[1717])
  • 仁王像(享保3年[1718])
  • 前机(享保9年[1724])
  • 稲荷大明神造営(享保12[1727])
  • 快傳上人逆修建立の墓石(享保14年[1729]、施主信敬とある)
  • 寺屋敷(庫裡)(享保18[1733]/この時に観音山[現在の七崎神社境内]に2000本余の杉を植樹と記載アリ)
  • 学秀仏・千手観音坐像(享保年間奉納と推定/学秀仏と思われる不動明王像と大黒天像アリ)
  • 龜峯扁額(享保頃の可能性/落款が「龜峯」「主忠信」「不爾」)
  • 南祖法師尊像(延享元年〜2年[1744〜45]と推定)
  • 賽銭箱(寛保3年[1743]12月)
  • 御輿再修覆(宝暦6年[1756]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 鳥居新築(宝暦10年[1760]春)
  • 愛染堂再興(宝暦13年[1763])
  • 不動堂再興(宝暦13年[1763])
  • 天照皇大神宮再興(宝暦13年[1763])
  • 大黒天堂造営(宝暦13年[1763])
  • 仁王門修造(宝暦13年[1763]3月)
  • 御輿新造(明和2年[1765]3月)
  • 夫婦地蔵(安永3年[1774])
  • 鈸(寛政2年[1790]/宥慎上人により奉納)
  • 荒神堂再建(寛政5年[1793]8月6日)
  • 地蔵菩薩(享和2年[1802]/現在、位牌堂本尊)
  • 鐘楼堂再建(文化5年[1808]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 愛染明王(文化7年[1810]/宥瑗上人により奉納)
  • 本堂再建(文化8年[1811])
  • 千手観音堂再建(本堂再建と同時期)
  • 香炉(本堂再建と同時期/宥瑗上人により奉納)
  • 圓通閣扁額(文化14年[1817]/三井親孝の書)
  • 秋葉権現堂再建(天保4年[1833])
  • 吊灯篭(天保8[1837]/宥威上人により奉納)
  • 不動尊祈祷札(吊灯籠と同時期と推定/権僧正とあるため瑜伽者は晩年の宥威上人)
  • 鰐口(天保12[1841]/河内屋により奉納)
  • 八体仏(弘化年間[1845〜48])
  • 稲荷大明神(嘉永2年[1849]/普賢院宥青[当山先師]、善明院栄隆[修験“善行院”14代])
  • 一王子再建(安政4年[1857]8月)
  • 観音堂再修(安政10年[1863])
  • 斗南藩縁故者墓石16基(主に明治4〜5年[1871〜72])
  • 旧神臣略系(明治7年[1874])
  • 観音堂内御堂造立(明治19年[1886])
  • 興隆講規則(明治34年[1901]/観音講を組織化して再興)
  • 十三仏掛軸木箱の蓋(明治39年[1906])
  • 本堂屋根葺替(大正3年[1914]12月)
  • 七崎山龍神堂木札(大正4年[1915]5月)
  • 地蔵菩薩(明治末〜大正期/一時当山の代務者をつとめた赤穂覚信師が作仏)
  • 北沼観音(昭和2年[1927]蓮沼にて発見、昭和4年[1929]旧8月17日建立)
  • 観音堂並仁王門改築(昭和6年[1931]/『七崎観世音道場普請報告書』に記載)
  • 子安地蔵堂(昭和6年[1931])
  • 本堂庫裡修繕(昭和9年[1934]/長峻和尚尊霊歎徳文に記載)
  • 大日坊大黒天(昭和10年[1935]頃と推定/61世長峻上人は昭和10年に大日坊88世住職にも就任)
  • 戦勝祈願札3枚(戦争期)
  • 本堂屋根葺替(昭和22年[1947]12月/戦後の統制経済の様子を伝える記述がある)
  • 「北ノシノキ」と書かれた木板(昭和22年[1947]12月12日/3名の名が列記)
  • 本堂修築(昭和26年[1951]/写真アリ)
  • 戦没者慰霊碑(昭和37年[1962]11月)
  • 本堂改築並位牌堂新築(昭和51年[1975])
  • 観音堂宮殿塗装修復(昭和56年[1981])
  • 子安地蔵厨子(昭和59年[1984])
  • 仁王門新造並山号札・観音札所札(昭和59年[1984])
  • 観音堂内陣格天井並中台八葉院法曼荼羅及新装照明(昭和60年[1985])
  • 子安地蔵内格天井(昭和60年[1985])
  • 観音堂内格子前扉(昭和61年[1986])
  • 鐘楼堂建立(平成2年[1990])
  • 本尊厨子(平成5年[1993])
  • 客殿並位牌堂新築(平成12年[2000])
  • 鐘楼堂修繕(平成25年[2013])
  • 長谷寺式十一面観音三尊造立(令和二年[2020]/仏師・小堀寛治氏)

 

先に少しだけ触れている

大正15年(1926)の

『郷社七崎神社誌』は

当時の社司・小泉幸雄氏が

編纂したもので

結びとして書かれた自序に

次のように記されてあります。

 

神社誌の編纂に志すこと多年。即ち明治37年より大正6年3月に至る14年を以て、漸く完成を見るに至れり。此間資料蒐集に務め、特に盛岡藩南部伯爵家及遠野南部男爵家の古文書の拝見を許され、之れに力を得て多大の成果を収めたり。御両家に対し甚深なる敬意と感謝の誠意を表するものなり。

本誌編纂に当り参考資料は、盛藩旧事記、南部男爵家の御邦内郷村誌、東北太平記、七崎観世音伝話記、其他棟札、不肖幸雄保存せる南部五世伝、南部地雷復、霊験縁起、小泉家系図、言ひ伝並に明治維新に至るまでの事績等の参酌に依るものなるを以て、地方の史実に関するものあるべきも、多少とも本社に関係あるものは或は重複の嫌あるも之を記載せり。

大正6年以降現在までの事績にして、将来記録すべきは之れを記載し且つ新事実の発見する毎に訂正したり。

本年は皇輝ある紀元2600年を迎え奉祝記念として、本誌を印刷に附し広く有志に分ち永久に伝え、以て御神徳発揚の資に供せんとす。

 

当山近くの七崎神社は

明治になるまでは

当山が管理していた

旧観音堂(寺号・徳楽寺)でした。

 

小泉家は

明治まで修験家でもあり

旧観音堂に深く関わりがありました。

 

参考資料にある

七崎観世音伝話記は

幸雄氏の曽祖父にあたる

大学院泰道などが

「古老の伝説」を文政年中に

編纂したものと説明されおり

参詣人の案内役をすることもあった

修験の方々が

一種の手引のような形で

七崎観音にまつわるお話を

まとめられていたことがうかがえます。

 

引用した自序をみると分かるように

神社誌は参考文献をもとにしつつ

神社所蔵の棟札や

当地での言い伝えを踏まえて編集された

力作といえます。

 

当時の状況を考えると

大変なご労力があったと思うのです。

 

この神社誌で

挙げられている棟札と

当山が所蔵する棟札や

一部仏像や仏具などについて

寛永2年(1625)以降のものを

先に列挙してみました。

 

青字で示したのが神社誌で

触れられているものですが

全体からすると

ごく一部のものですし

お寺の歴史を紐解くうえで

ある意味最も尊い古文書たる

過去帳にも触れられていないので

明治以前のことを述べるには

やはり限界があるように感じます。

 

当地の大先輩であり

旧観音堂に仕えていただいた

修験の流れを組むお家の

小泉幸雄氏の労作にて

語られるお寺の歴史を

さらに厚みのあるものに

したいと考えております。

 

また本山の長谷寺や仁和寺や

当時の本坊・盛岡永福寺や

その他多くの関係寺院との

関わりであったり

宗派における節目の行事などを

踏まえると

意義が浮かび上がるものもあるので

そういったことも押さえながら

後世に託すべく『寺史』を

作成したいと思います。

 

ここでようやく

棟札の本題に入らせていただきます。

 

ここに至るまでで

かなりの分量をさいたので

今回の棟札の紹介は

少しだけにします。

 

本堂建替事業まっただ中なので

旧本堂の棟札について見ています。

 

次の画像資料の通り

この棟札は結構大きく

形は剣形(けんがた)で

表裏に文言が見られます。

 

幅についてですが

底が21cmで

上に向かって多少

幅が広がっていまして

一番広い所が22cmです。

 

文言については次回以降

紐解いてまいります。

稀代の古刹 七崎観音⑨

当山本堂内の観音堂に

本尊としてお祀りされる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)

と呼ばれその起源は

平安初期にまでさかのぼるとされます。

 

これまで「稀代の古刹」と銘打ち

七崎観音について

紹介を続けておりますが

今回は明治以後を焦点に

お伝えさせて頂きます。

 

七崎観音は

明治になるまでは

現在の七崎神社(ならさきじんじゃ)

の地に建立されていた

観音堂(以下、旧・観音堂)に

お祀りされており

当山が永福寺時代より

別当をつとめております。

 

旧・観音堂には

七崎山 徳楽寺(ならさきさん とくらくじ)

という寺号(じごう、お寺の名前)が

ありましたが明治の神仏分離により

廃寺となり郷社 七崎神社として

改められました。

 

神仏分離の際に

旧・観音堂に祀られていた

仏像や仏具は

当山に移されることになります。

 

その際の

『目録』(明治36年(1900))と

青森県令・山田秀典氏へあてた

『伺』(明治10年(1877))が

残っております。

 

明治36年の『目録』より

旧・観音堂より当山へ

遷座(せんざ)された仏像の

記述を以下に引用してみます。

 


 

仏像ノ部

一 正観世音大士木像 一躯

一 仁王木像 ニ躯

一 禅林地蔵大士木像 一躯

一 無二地蔵大士木像 一躯

一 護讃地蔵大士木像 一躯

一 延命地蔵大士木像 一躯

 ※1寸8分の仏像

一 弘法大師木像 一躯

一 木像 一躯 十二童子ノ一

 ※5寸の小さな仏像

一 十一面観音金像 一躯

 ※現在行方不明。

【以下、八体仏(はったいぶつ)を指します。

十二支守護尊とも呼ばれます。】

一 普賢菩薩木像

一 大日如来 仝(木像)

一 不動明王 仝(木像)

一 文殊菩薩 仝(木像)

一 千手観世音 仝(木像)

一 勢至菩薩 仝(木像)

一 阿弥陀如来 仝(木像)

一 虚空蔵菩薩 仝(木像)

 


 

以上の仏像が

旧・観音堂から当山へ移されました。

 

現在の観音堂は

七崎観音を中心として

実に多くの尊格が

お祀りされておりますが

その約半数は

引用箇所に記される

旧・観音堂より遷座された仏像です。

 

逆にいえば

上記以外の現・観音堂の仏像は

もともと当山にお祀りされていたものや

各所にあったお堂の仏像です。

 

宝暦13年(1763)の

『御領分社堂』によれば

七崎(現在の豊崎)には

大日堂、不動堂、愛染堂

大黒天社、毘沙門堂、薬師堂

虚空蔵堂、天神社、明神社

稲荷社、白山社

の「小社」があり

さらに一間四面の

月山堂、(千手千眼)観音堂

があったそうです。

 

現在の当山観音堂は

とても荘厳な設えとなっておりますが

これは明治の七崎観音御遷座以後の

歴代先師と有縁の方々の

絶大なるご尽力によるものです。

 

明治19年(1886)に

本堂に内御堂の観音堂が

用意された際の

棟札が残っております。

 

昭和6年(1931)には

観音堂と仁王門(堂)が

改築されました。

 

仁王像は現在の場所ではなく

本堂の観音堂正面の所に

門が作られております。

 

この時の経過等が

『七崎観世音道場普請報告書』という

文書にまとめられております。

 

落慶の日は正午より

新観音堂にて法要が行われ

その後は祝宴が午後5時まで行われ

さらに外では午後5時より

青年分団の方による相撲大会が開催され

1500人もの観衆がいらっしゃり

加えて鶏舞(けいまい、けいばい)も

行われてかなりの盛会だったようです。

 

『七崎観世音道場普請報告書』の

序文には当時の住職である

長峻(ちょうしゅん)大和尚の

表白(ひょうびゃく)という文言が

添えられており

改築に至るまでの

先師方の“七崎観音復興”への

強い思いに触れられております。

 

その表白の一部を

以下に引用してみます。

 


 

明治初年神仏分離の結果

今の神社に奉安されし観世音は

当然の帰結として当普賢院道場へ

付属三宝物と共に

遷座されるに至れり。

 

爾来六十有余年の間

当道場の一隅に安置して

先師宥浄をはじめ宥精師等は

往時の隆盛を偲んで

之が復興を念願たりしが

嗚呼悲哉

機縁未だ熟せずして涙を呑みて

世を去られたり。

 

其後

小衲不思議の縁を以て

大正六年の春

任に当院に就きたりしが

思えば同じ大悲観音

法儀復興にてありき。

 


 

「七崎観音の復興」は

明治以後の先師方の

“大悲願”であったことが伺えます。

 

長峻大和尚は

当山61世住職のみならず

南部町の恵光院住職と

山形県の湯殿山大日坊住職をも

兼任された方で

“激務”に追われる中で病となり

60歳で御遷化(ごせんげ)されました。

 

後を継いだ62世住職の

晃雄(こうゆう)大和尚と

その弟である高明(こうめい)大和尚は

若くしてフィリピンにて戦死しており

その間は2人の妹が

有縁の方のお力添えを頂きながら

お寺を守りました。

 

戦争の時期は

尽きない困難があったそうです。

 

戦争が終わり

新たな住職として

裕教(ゆうきょう)大和尚が迎えられ

当山は復興されてゆきます。

 

本堂は昭和58年に

大改修が成し遂げられます。

 

また現住職を中心に

当山伽藍は一層整えられます。

 

観音堂内陣は

格天井に改装され

その中央には法曼荼羅が刻まれ

吊り灯籠や荘厳具

護摩壇(ごまだん)や

法具(ほうぐ)類が整えられ

現在のお堂となりました。

 

そして現在

当山では本堂建替にあたり

七崎観音の新たな歴史が

紡がれようとしております。

 

内陣の内殿には

七崎観音が納められる

厨子(ずし)以外にも

大きな観音像をはじめ

小さな観音像や

宝剣はじめ奉納物など

多くのものが納められており

歴史を感じると共に

いかに多くの願いが

捧げられてきたのかが

伝わってまいります。

 

託されてきたもの

捧げられてきたもの

守られてきたもの。

 

七崎観音は

無量のおもいにより

今に伝えられていることを

心にしっかりと刻み込み

新たな歴史を有縁の方と共に

紡いでまいりたいと思います。

 

▼本堂建替事業について

https://fugenin643.com/blog/新たな歴史を紡ぐ/

 

▼長峻師と愛娘達

※本堂前にて大正初期に撮られたものです

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▼高明師 送別会の写真

※写真の裏には以下のように書かれます

 昭和拾九年六月十四日

 高明 応召出発前日

 送別会ノ日 写ス

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▼昭和26年 本堂修築記念

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▼昭和30年代の本堂

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▼昭和の本堂大改修(昭和51年8月落慶)

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▼現在の観音参拝所

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▼現在の観音堂内陣

観音堂

▼現在の普賢院

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稀代の古刹 七崎観音⑧

七崎(ならさき)とは

現在の八戸市豊崎町の古称です。

 

当山は現在でも

「七崎のお寺さん」と

呼ばれることが多くありますし

「永福寺さん」とも呼ばれます。

 

この七崎の地には

かつて永福寺(当山の前身)があり

多くのお堂を管理する

別当でもありました。

 

当山本堂内の観音堂に

祀られる聖観音は七崎観音と呼ばれ

古くから多くの方に

ご参詣頂いた観音様で

明治以前は現在の七崎神社の地にあった

観音堂(以下、旧・観音堂)に

お祀りされていたものです。

 

この観音堂をはじめ

多くのお堂の別当寺を

当山が永福寺時代より担ったようです。

 

現在の八戸市白銀にある

清水観音堂(糠部第6番札所)は

当山が別当寺をつとめたお堂であり

古くから海の方面とも

関わりがあったことが分かります。

 

海に関連する御祈祷の一例として

「舩(船)祈祷」というものがあります。

 

時代が違えども

海に限らず船は

とても重要なものです。

 

当山には舩祈祷の

次第(聖教(しょうぎょう))や

それに関係する文書が幾つか

所蔵されております。

 

船祈祷の聖教(古文書)には

「慶長20年(1615)授与」と

記されたものもあれば

安永5年(1776)の浄写されたものを

寛政6年(1794)に書写されたと

奥書されたものもありますし

実際に用いられた

船祈祷の祈祷札の文言を写した

宝暦13(1763)と寛政4年(1792)との

年代が記された文書も所蔵しております。

 

文政10年の聖教(古文書)もあり

これら船祈祷のものは

いずれも当山61世である

長峻(ちょうしゅん)大和尚が

新潟よりお持ちになられたものです。

 

長峻大和尚は新潟県出身で

ご縁があって当山61世となり

さらには南部町の恵光院(長谷寺)を

第29世(99世ともされます)として兼任され

晩年は山形県鶴岡の湯殿山大日坊も

第88世住職 慈念海上人 忍光道人として

兼任された方です。

 

恵光院の由緒はとても古く

平安期の十一面観音像が祀られ

これは青森県最古のもので

糠部観音第22番札所です。

 

山形県鶴岡の

湯殿山 大日坊(ゆどのさん だいにちぼう)

には即身仏(そくしんぶつ)の

真如海上人(しんにょかいしょうにん)が

お祀りされます。

 

即身仏とは

平たくいえば“僧侶のミイラ”です。

 

拙僧(副住職)の法名は

泰峻(たいしゅん)といいますが

現住職の「泰」の字と

長峻大和尚の「峻」の字を

頂いております。

 

長峻大和尚は

船祈祷の聖教のみならず

非常に多くのものを

当山に請来されております。

 

ほぼ全てが江戸期のものですが

御祈祷はもちろんのこと

どのような作法や次第が

継承され施されていたのかが

垣間見られる貴重なものだと感じます。

 

先に南部町の古刹である恵光院

についても少し触れましたが

恵光院も当山も

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場の札所です。

 

糠部は

「ぬかのぶ、ぬかのべ、ぬかぶ」とも

読みますがここでは

「ぬかべ」として読ませて頂きます。

 

糠部三十三観音霊場

第15番札所は七崎観音です。

 

三十三は「無限」を意味し

尽きることがない

無量の慈悲を表しております。

 

全国各地に「三十三観音」と名のつく

霊場は沢山あるかと思いますが

最古の霊場は西国三十三観音で

その起源は当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺にあります。

 

養老2年(718)に

長谷寺の徳道(とくどう)上人が

病床にみた夢で

閻魔大王より三十三の宝印を授かり

衆生救済のため観音霊場を作るよう

告げられたとの開創伝説が伝えられます。

 

徳道上人は三十三所を定めたものの

機運が熟さなかったため

宝印を中山寺に納め

それから約270年経った後に

花山法皇により復興されたとされます。

 

花山法皇は

播磨(現在の兵庫県)にある

書寫山(しょしゃざん)の

性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。

 

書寫山ついででいうと

“最古の十和田湖伝説”が収録されている

『三国伝記』(さんごくでんき)では

難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は

書寫山の法華持経者とされます。

 

南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したと伝えられ

全国練行の末に十和田湖に入定し

青龍大権現という龍神として

十和田湖の主になったと伝えられます。

 

西国三十三観音霊場に続いて

坂東(ばんどう)三十三観音

秩父三十三観音(のち三十四観音)の

霊場が成立します。

 

それに続いて成立した地方的札所が

糠部三十三観音だそうです

(山崎武雄1980

「糠部三十三所観音巡礼(一)」

『天台寺研究』pp.60-117。)。

 

永正9年(1512)9月

観光上人によって成立した霊場です。

 

観光上人御選定の札所番数は

現行の番数とは異なっており

その詳細は一部しか

分からないようですが

1番札所が天台寺(現在は33番)で

33番札所が恵光院(現在は22番)です。

 

観光上人の「観光」という

言葉についても

少し触れさせて頂きます。

 

観光といえば各所に赴く

旅行や行楽といったニュアンスがある

言葉として定着しておりますが

一説によると

音のを頂きに行くこと」

の意味で観光という言葉が

使われたそうです。

 

糠部霊場の創始に携わるとされる

観光上人について

詳細は不明とのことですが

一観音霊場創始者の法名が

観音菩薩と縁深きものである点は

深秘であると思いますし

その当時の時代背景を踏まえながら

全国的にも古い霊場である

糠部三十三所の魅力を後世に伝える意味で

新たな“草創譚”を編むことが

出来るようにも感じます。

 

観音霊場の札所ともなった七崎観音は

観光巡礼が流行した時代を迎え

それまで以上の多くの方が

参詣されたことと思います。

 

▼船祈祷の聖教

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▼長峻大和尚

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▼恵光院(南部町)

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古い祈りの形を伝える金峯山寺

奈良県吉野の名刹

金峯山寺(きんぷせんじ)。

 

こちらのお寺は

修験本宗(しゅげんほんしゅう)

総本山です。

 

京都に赴いた際

立ち寄らせて頂きました。

 

修験道(しゅげんどう)や

山伏(やまぶし)という言葉を

多くの方が聞いたことが

あるかと思います。

 

細かなことはさておき

東北の信仰を考える上で

修験道は非常に大切な要素です。

 

金峯山寺は

古くからの

祈りと実践の形を

今に伝える古刹です。

 

吉野は熊野に通じる山で

古くから霊験あらたかな

聖地とされます。

 

金峯山寺の本尊は

金剛蔵王大権現

(こんごうざおうだいごんげん)

という尊格で

高さ10メートル近くの仏像が

3体並んでお祀りされます。

 

蔵王権現は

全国各地で祀られる程

“知名度”の高い尊格です。

 

その形相は

明王の如くの忿怒形で

迫力満点です。

 

権現(ごんげん)とは

「仮のお姿」という意味で

「まことのお姿」のことを

本地(ほんじ)といいます。

 

本堂に祀られる3体は

仏が仮の姿を以て

力強いメッセージを

担っております。

 

中央の本地が釈迦如来

右側の本地が千手観音

左側の本地が弥勒菩薩。

 

またそれぞれに

過去、現在、未来の

三世(さんぜ)の

意味もあるそうです。

 

これらの考え方は

東北の信仰を紐解く上で

とても大切なものです。

 

当山は

湯殿山(ゆどのさん)と

ゆかりあるお寺でもあります。

 

また

当山にて修行したとされる

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)は

修験者として描かれます。

 

金峯山寺を始め

今に伝えられる所の

修験道の”伝統”は

古の姿を浮かび上がらせる上で

大きな手がかりとなります。

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▼金峯山寺HP

http://www.kinpusen.or.jp/zao/index.html

 

湯殿山大日坊と普賢院

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これは山形県鶴岡市にございます湯殿山大日坊(ゆどのさん だいにちぼう)というお寺で撮影されたものです。

昭和10年末に撮影されたものだそうです。

 

写真の中央に写っているのは普賢院第61世住職の長峻(ちょうしゅん)大和尚です。

長峻大和尚は、晩年に大日坊の住職も務めました。

長峻大和尚は、大日坊第88世住職でもありました。

大日坊の住職には大日坊住職としての名前があり、大日坊にて長峻大和尚は慈念海上人忍光(じねんかいしょうにん にんこう)という名前でした。

 

現在の当山住職の祖父にあたります。

現在の当山副住職の曾祖父にあたります。

 

ちなみに当山副住職の泰峻という法名は

現住職・泰永の一文字と

長峻大和尚の一文字を頂いております。

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大日坊は即身仏(そくしんぶつ)でも有名なお寺です。

真如海上人(しんにょかいしょうにん)がお祀りされております。

 

山形にお運びの際は、ぜひ大日坊にもお運び下さい。

湯殿山は弘法大師空海が開いたとも言われます。

湯殿山は東北地方の文化を紐解く上で非常に大切な場所です。

 

「月山(がっさん)・羽黒山(はぐろさん)・湯殿山」の出羽三山(でわさんざん)の文字が刻まれた石碑を見かけたことのある方もいらっしゃるかと思います。当山のございます豊崎町にも見られます。

 

出羽三山のうち特に湯殿山信仰は広く普及したものだそうです。

 

大日坊には当山先々々代住職である長峻大和尚のお位牌も祀られております。

普賢院ともご縁のある御寺院様ですので、機会がありましたらお訪ね下さいませ。

 

◎湯殿山大日坊ホームページ:http://www.dainichibou.or.jp