永福寺ゆかりの札所 早稲田観音②

糠部三十三観音霊場

第23番札所

早稲田観音

 

こちらはかつて

当山前身である永福寺の

堂宇が建立された地です。

 

現在は永福寺の

後身であるお寺は

三戸にはありませんが

嶺松院(れいしょういん)という

永福寺自坊が明治時代までは

存在しておりました。

 

永福寺の起源は

不明な所が多いのですが

永福寺の寺伝によれば

延暦13年(794年)に

坂上田村麿公により

奥州六観音の1つとして

現在の当山の地に

十一面観音を祀る

祈願寺として建立された

とされます。

 

寺伝によれば

永福寺は別院として

別所にも堂宇を

構えたとされます。

 

永福寺と深く関わったことを

今に伝えるものとして

早稲田観音のお堂裏手に

広がる墓地内に

永福寺僧侶の

五輪塔や供養塔がございます。

 

永福寺の先師方に

限ったことではありませんが

かつては供養塔として

墓石を縁故ある各地に

建立するということは

珍しいことではありません。

 

もちろん世間一般的な

ことではありませんが

僧侶でいえば

縁故あるお寺数カ所に

墓石や位牌が祀られることは

よく見られることです。

 

早稲田の地に

永福寺僧侶にまつわるものが

残されていることが

三戸の地が永福寺と

とても縁が深い場所である

ことを物語っております。

 

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永福寺ゆかりの札所 早稲田観音①

糠部三十三観音霊場

第23番札所

早稲田観音

 

三戸郡南部町の

新羅神社のすぐそばに

札所の観音堂があります。

 

こちらの本尊は

十一面観音という観音様です。

 

 

早稲田観音の地は

かつて永福寺の堂宇(どうう)

があった場所でもあります。

 

当山の前身である永福寺は

三戸にも堂宇を構えたと

寺伝は伝えております。

 

永福寺が祈願所として

殊に大切にされたのは

宮中祭祀とも深く関りのあった

真言宗の「法流」を受け継ぐ

お寺であったことが

大きな理由であろうと

考えられます。

 

後七日御修法

という行事をご存知でしょうか?

 

今もなお東寺にて

年頭に行われる国家安泰を

ご祈願する尊い行事ですが

弘法大師の御代より

真言宗が担っているものです。

 

永福寺が

南部家累代の祈願所

とされたのは

由緒ある法流を受け継いでいた

ことが大きな理由であったのだと

思われます。

 

南部実光公が

建久2年(1191年)に

三戸城の鬼門の位置である

早稲田の地に永福寺を

建立したと伝えられますが

鬼門の地に

七崎の地で古い歴史のある

永福寺を早稲田の地にも

わざわざ建立したことから

いかに大切なお寺であったかが

伝わるかと思います。

 

早稲田観音と

永福寺のかかわりについて

次回またお話させて頂きます。

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田村将軍の伝説 清水寺観音

糠部三十三観音霊場

第26番札所

清水寺(きよみずでら)観音

 

田子町にある

真清田(ますみだ)神社が

26番札所となっております。

 

こちらの神社は

かつて金龍山清水寺

というお寺でした。

 

創建は坂上田村麿公と

伝えられます。

 

糠部三十三観音霊場には

明治の神仏分離以降に

お寺から神社に改められた

札所が多く見られます。

 

観音様は

神様にも連なる尊格として

多く祀られた歴史があります。

 

歴史的なことを述べると

そもそも明治以前は

寺社仏閣に明確な線引きを

することは稀だったのです。

 

東北全般に共通する話として

田村将軍が開基とされる

寺社仏閣は多く存在します。

 

当山も例外ではなく

前身である永福寺は

田村麿公が奥州六観音の1つとして

十一面観音を祀り建立された

と伝えられております。

 

田村将軍が直々に

足を運ばれて開基したか

否かは別として

田村将軍の影響力がいかに大きな

ものであったかを

今に伝えるものと思います。

 

坂上田村麿公は

京都の清水寺を建立され

観音様を殊に大切にされたことで

すこぶる有名な方です。

 

26番札所もお寺であった頃は

清水寺の名がついております。

 

伝説ゆかりの観音様として

長らく大切にされてきた

清水寺観音。

 

伝説を感じながら

お参り下さいませ。

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田村の里 七崎

当山はかつて

永福寺という名前でした。

 

当山の創建は古く

そのルーツは

平安時代にまで

遡ります。

 

その起源には

諸説ありますが

1つの説として

奥州六観音のひとつとして

坂上田村麿公が建立した

観音堂が当山のルーツで

あるといわれます。

 

当山のある地域は

七崎(ならさき)と呼ばれます。

 

この七崎の地を古くは

「田村の里」といったそうです。

 

その田村とは

田村将軍に由来するとのことです。

 

田村将軍自らがこの地に

赴いたという史実はありませんが

田村将軍指揮下に展開された

奥州における一連の動きの中で

七崎の地に観音堂が建立され

この地が田村の里と

呼ばれるに至ったと

永福寺縁起は伝えております。

 

その観音堂の本尊は

十一面観音という観音様

であったといわれます。

 

ちなみに当山本尊は

現在は愛染明王ですが

かつては十一面観音でした。

 

江戸期の火災の後

現在の本尊様をお迎えしましたが

それまでは十一面観音が

本尊でした。

 

田村将軍の伝説は

東北各地に伝えられておりますが

当山にも伝えられております。

 

田村将軍は観音信仰に

篤い方であったそうです。

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田村麿公への祈りに触れる

征夷大将軍

坂上田村麿(さかのうえの たむらまろ)公。

 

田村麿公の伝説は

東北各地にございます。

 

当山にも

田村麿公の伝説が

伝えられます。

 

普賢院の前身である

永福寺(えいふくじ)は

延暦19年(西暦800年)に

奥州六観音の1つとして

現在の当山の地に

楢崎観音(ならざきかんのん)として

坂上田村麿公により

建立されたと伝えられております。

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6/27に奥州市、一関市を訪れた際

平泉にございます

達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわや びしゃもんどう)

にも立ち寄らせて頂きました。

 

こちらは国指定史跡であり

延暦20年(西暦801年)に

田村麿公が創建した名刹です。

 

たまたま訪れた所

金堂(こんどう)にて

大将軍会(だいしょうぐんえ)

という田村麿公の法要が

営まれておりました。

 

毎年旧暦5月23日に

厳修されている

1年に1度の法要だそうです。

 

偶然とはいえ

光栄にも尊い法要に

立ち会わせて頂きました。

 

平泉は

仏教文化が荘厳に花開き

国土安寧の願いが

託された地でもあります。

 

歴史を今に伝える

平泉の地にて

受け継がれ祈り継がれた

“色あせぬ風土”を観させて頂きました。


▼達谷窟毘沙門堂

http://www.iwayabetto.com/mysite1/bisyamondou.html

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今に伝えられる南祖坊伝説

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青森県の

景勝地のひとつ

十和田湖。

 

十和田湖には

伝説が伝えられます。

 

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)は

幼少期に当山にて

修行されたとされます。

 

南祖坊は

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

という名の神仏として

十和田神社の奥の院に

お祀りされております。

 

当山はかつて

永福寺(えいふくじ)というお寺でした。

 

南部氏が拠点を盛岡に移す際

永福寺も盛岡に改められました。

 

永福寺は現在も盛岡にございます。

永福寺にも南祖坊の碑が建立されております。

 

石碑正面に

「十和田山青龍大権現」

と刻まれております。

 

両側面には

「十和田山南祖坊大菩薩」

「十和田山観世音菩薩」

と刻まれております。

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▼十和田神社について

http://towadako.or.jp/rekishi-densetsu/towada-jinja/

▼十和田湖伝説について(紙芝居動画)

http://towadako.or.jp/rekishi-densetsu/towadako-densetsu/

 

南部氏の祈願寺 永福寺

当山はかつて

永福寺というお寺で

南部氏の祈願寺(祈願所)

として重宝されました。

 

南部氏が

盛岡に拠点を移す際に

永福寺も

盛岡の地に改められます。

 

永福寺は

真言宗の「惣録(そうろく)」(統括寺院)であり

寺領800石の大寺でした。

 

南部氏には

流れがあります。

 

当山は

南部氏宗家である

三戸南部氏と

深く関わった

お寺です。

 

三戸南部氏が

盛岡に拠点を移した後も

永福寺は

祈願寺として大切にされました。

 

『邦内郷村志(ほうないごうそんし)』

という古文書の中に

永福寺について

以下のように書かれております。

※以下、抜粋です。

 

重信公貞享三年 御造営成

慶長元和之頃 従三戸御移

真言宗歴代祈願所

寺領八百石 是為邦内諸刹之冠成

故寺格無出其右

最多末山

 

「寺領800石」と

聞いても中々ピンとは

きませんが

南部藩領において

2番目に大きな石高だそうです。

 

現在、永福寺は

盛岡市下斗内に

構えられております。

 

 

▼『邦内郷村志』はイーハトーブ岩手電子図書館でご覧頂けます。

http://www.library.pref.iwate.jp/ihatov/index/sakuin.html

 

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▲「根城の広場」(八戸市)の案内板

 

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▲現在の永福寺(盛岡市下斗内)

永福寺と普賢院

当山の起源は古く

弘仁初期(810年頃)草創

承安元年(1171年)開基

の古刹(こさつ)です。

 

当山は

かつて永福寺(えいふくじ)

というお寺でした。

 

当山付近の住所が

永福寺という地名なのは

かつては永福寺があった

ということを物語っております。

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当山は

江戸期に当地域を治めていた

南部氏の祈願所(きがんしょ)

として重宝されておりました。

 

祈願所とは

ご祈願やご祈祷をお願いする

お寺のことです。

 

一方で

ご供養をお願いするお寺を

菩提所(ぼだいしょ)

菩提寺(ぼだいじ)

といいます。

 

永福寺は

南部氏が拠点を

三戸から盛岡に

移す際に

盛岡に改めて建立されました。

このように

居城を構えるに当たり

お抱えのお寺も一緒に

移転させるということは

当時では珍しくはないことでした。

 

当地域から盛岡へ

移転された寺院は他にもあり

永福寺はその筆頭でした。

 

永福寺は

盛岡に移転され

隆盛を極めます。

その“勢力”たるや

東北において“3本の指”に

入る程であったと伝えられます。

 

永福寺は

元和3年(1617年)に

お城の艮(うしとら)の方角に

改めて建立されます。

 

艮とはいわゆる鬼門の方角です。

 

居城守護のために

鬼門の位置に構えられました。

現在、永福寺は

盛岡市下斗内にあり

当山と同じ

真言宗豊山派の寺院です。

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