お寺の位置を俯瞰する

今の場所にお寺を建てる際

どのように場所を定め

どのように設計をし

どのように木材を運び込み

どのように組み立てたのか等々

思いをめぐらせることがあります。

 

方角や位置にも

曼荼羅(まんだら)や風水の

思想が踏まえられることが

伝統的に多く見られますが

当山の場合もどうなのか等々

想像することがあります。

 

当山の起源は古く

約1200年もの歴史が伝えられますが

不明な部分が多く

その分ロマンがあるともいえます。

 

そもそも古くは

「言い伝え」が主流だそうです。

 

何度かの火災により

文書等多く焼失してはおりますが

お堂の位置や町のつくりから

“歴史的なもの”を感じます。

 

当山から真東にのびる道や

西、北、東と平野部を一望出来る

見晴らしの良い場所にあること等に

仏道的な意味も含めて

“意図”が感じられます。

永福寺町内

普賢院の位置と世話人担当地区

正しい歴史をお伝え願います

当山のある地域は

かつて七崎(ならさき)と呼ばれ

伝説や伝承に彩られた地域です。

 

当山の起源は

1200年以上の昔に

さかのぼることが出来ます。

 

初代住職 圓鏡(えんきょう)上人は

弘仁8年(西暦817年)に

亡くなられております。

 

圓鏡上人が亡くなられたのは

平成30年(西暦2018年)から

さかのぼること1201年前

ということになります。

 

当山第2世住職は

月法律師(がっぽうりっし)

という方ですが

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)は

この月法(月体)和尚の弟子とされ

当山にて修行したと伝えられます。

 

当山はかつて

永福寺というお寺でしたが

後に盛岡に拠点を移すこととなります。

 

盛岡に改められた

永福寺を本坊(ほんぼう)とし

発祥の地であるとともに

十和田湖伝説に連なる七崎のお寺を

自坊(じぼう)普賢院とします。

 

ちなみに永福寺は

三戸にも自坊として

嶺松院(れいしょういん)という

お寺も持っておりました。

 

三戸は盛岡南部氏(三戸南部氏)が

勢力を拡大させる“足掛かり”となった

象徴的場所でもあります。

 

永福寺は南部氏の祈願寺であり

多くの末寺を抱える権威ある大寺院でした。

 

本坊とは「行政等を取り仕切るお寺」

といった意味です。

 

自坊には色々な意味がありますが

ここで意訳すれば

「永福寺が直接管理するお寺」

といった具合でしょうか。

 

話は少し変わりますが

最近は地元でも「歴史ブーム」

のようで新聞や雑誌などで

地域の歴史が紹介されることがあります。

 

ご興味をお持ち頂きまして

記事を通じて歴史や伝説が

多くの方にお伝えされることは

大変尊いことなのですが

残念なことに

歴史的事実が誤っているもの

正直見られます。

 

伝説の内容云々は幾通りもあるので

バラエティーに富んで当然ですが

前提となる寺社の縁起等の

歴史については誤って

伝えられてしまっている

部分が時折見られます。

 

特に永福寺と

七崎神社について

ごちゃごちゃになって

しまっている感があるので

改めてご紹介させて頂きます。

 

当山の地域には

七崎神社(ならさきじんじゃ)

という神社がありますが

こちらは明治まで

七崎山 徳楽寺(ならさきさん とくらくじ)

という寺院でして

当山が別当寺を担っておりました。

 

徳楽寺の本尊は

現在当山の観音堂に祀られる

聖観音(しょうかんのん)で

明治の神仏分離の処置により

当山に移されまして

糠部三十三観音霊場

第15番札所の観音様となっております。

 

ちなみに当山の本尊は現在は

愛染明王(あいぜんみょうおう)ですが

もともとは十一面観音とされます。

 

「七崎神社が永福寺であった」との

記述が各所で相次いで

見られたのですがこれは誤りです。

 

永福寺を七崎神社であると誤解して

南祖坊が七崎神社で修行した

などと紹介されているものも

ありますがこれも誤っております。

 

当山の寺伝(じでん)や

七崎神社誌は

一般資料ではないので

あまり知られていない部分ですが

歴史的事実は大前提の部分なので

情報発信の前にせめて

歴史や伝説の舞台である寺社で

裏付けを行なって頂くことを

お願い申し上げます。

 

▼七崎神社と普賢院

https://fugenin643.com/blog/七崎神社と普賢院/

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慈悲の仏 観音菩薩

観音様という言葉で

一般的にも馴染みがある

観音菩薩(かんのんぼさつ)。

 

観音信仰の歴史は古く

坂上田村麿将軍も

篤く大切にされた尊格です。

 

当山本堂の

観音堂に祀られる観音様は

糠部三十三観音霊場

第15番札所の観音様です。

 

観音様は

三十三の姿をもつとされます。

 

三十三身の姿を現すというのは

妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五

というお経に記されており

このお経は『観音経(かんのんぎょう)』

とも通称されます。

 

三十三の姿は無限の慈悲を意味すると

お考え頂くと分かりやすいと思います。

 

ちなみに

その三十三の姿の中に

「龍」も記されているので

龍神にまつわる説話や伝説に

観音様はよく登場します。

 

龍のみならず

観音様にまつわる霊験譚や伝承は

挙げればきりがありません。

 

当山は十和田湖伝説とも

関わりのあるお寺です。

 

十和田湖伝説の大筋は

南祖坊(なんそのぼう)という僧侶が

十和田湖の主であった八之太郎に代わり

「神」として十和田湖の主となるという

物語です。

 

八之太郎は

大蛇や八頭龍として描かれております。

 

伝説なので

語られる場所や書物によって

細かな点や描写は

当然のことながら定まっておりませんが

仏教的要素を多分に

汲み取ることが出来ます。

 

南祖坊と八之太郎が向き合う場面で

南祖坊も大蛇となり

八之太郎と対峙したという

描かれ方をすることもありますし

九頭龍として八之太郎と対峙した

という描かれ方をすることもあります。

 

南祖坊が

「龍には龍の姿を以て」向き合う

この場面は観音経に記される

三十三身のくだりに通じているとも

言えるでしょう。

 

 

本堂内左手が観音堂となっております。

 

観音堂には観音様のみならず

十二支を司る八体仏(はったいぶつ)

お不動様

南祖法師尊像と

それぞれに様々ないわれのある

尊い御像が多く祀られております。

 

お立ち寄りの際は

是非お参り下さいませ。

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永福寺ゆかりの札所 早稲田観音②

糠部三十三観音霊場

第23番札所

早稲田観音

 

こちらはかつて

当山前身である永福寺の

堂宇が建立された地です。

 

現在は永福寺の

後身であるお寺は

三戸にはありませんが

嶺松院(れいしょういん)という

永福寺自坊が明治時代までは

存在しておりました。

 

永福寺の起源は

不明な所が多いのですが

永福寺の寺伝によれば

延暦13年(794年)に

坂上田村麿公により

奥州六観音の1つとして

現在の当山の地に

十一面観音を祀る

祈願寺として建立された

とされます。

 

寺伝によれば

永福寺は別院として

別所にも堂宇を

構えたとされます。

 

永福寺と深く関わったことを

今に伝えるものとして

早稲田観音のお堂裏手に

広がる墓地内に

永福寺僧侶の

五輪塔や供養塔がございます。

 

永福寺の先師方に

限ったことではありませんが

かつては供養塔として

墓石を縁故ある各地に

建立するということは

珍しいことではありません。

 

もちろん世間一般的な

ことではありませんが

僧侶でいえば

縁故あるお寺数カ所に

墓石や位牌が祀られることは

よく見られることです。

 

早稲田の地に

永福寺僧侶にまつわるものが

残されていることが

三戸の地が永福寺と

とても縁が深い場所である

ことを物語っております。

 

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永福寺ゆかりの札所 早稲田観音①

糠部三十三観音霊場

第23番札所

早稲田観音

 

三戸郡南部町の

新羅神社のすぐそばに

札所の観音堂があります。

 

こちらの本尊は

十一面観音という観音様です。

 

 

早稲田観音の地は

かつて永福寺の堂宇(どうう)

があった場所でもあります。

 

当山の前身である永福寺は

三戸にも堂宇を構えたと

寺伝は伝えております。

 

永福寺が祈願所として

殊に大切にされたのは

宮中祭祀とも深く関りのあった

真言宗の「法流」を受け継ぐ

お寺であったことが

大きな理由であろうと

考えられます。

 

後七日御修法

という行事をご存知でしょうか?

 

今もなお東寺にて

年頭に行われる国家安泰を

ご祈願する尊い行事ですが

弘法大師の御代より

真言宗が担っているものです。

 

永福寺が

南部家累代の祈願所

とされたのは

由緒ある法流を受け継いでいた

ことが大きな理由であったのだと

思われます。

 

南部実光公が

建久2年(1191年)に

三戸城の鬼門の位置である

早稲田の地に永福寺を

建立したと伝えられますが

鬼門の地に

七崎の地で古い歴史のある

永福寺を早稲田の地にも

わざわざ建立したことから

いかに大切なお寺であったかが

伝わるかと思います。

 

早稲田観音と

永福寺のかかわりについて

次回またお話させて頂きます。

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田村将軍の伝説 清水寺観音

糠部三十三観音霊場

第26番札所

清水寺(きよみずでら)観音

 

田子町にある

真清田(ますみだ)神社が

26番札所となっております。

 

こちらの神社は

かつて金龍山清水寺

というお寺でした。

 

創建は坂上田村麿公と

伝えられます。

 

糠部三十三観音霊場には

明治の神仏分離以降に

お寺から神社に改められた

札所が多く見られます。

 

観音様は

神様にも連なる尊格として

多く祀られた歴史があります。

 

歴史的なことを述べると

そもそも明治以前は

寺社仏閣に明確な線引きを

することは稀だったのです。

 

東北全般に共通する話として

田村将軍が開基とされる

寺社仏閣は多く存在します。

 

当山も例外ではなく

前身である永福寺は

田村麿公が奥州六観音の1つとして

十一面観音を祀り建立された

と伝えられております。

 

田村将軍が直々に

足を運ばれて開基したか

否かは別として

田村将軍の影響力がいかに大きな

ものであったかを

今に伝えるものと思います。

 

坂上田村麿公は

京都の清水寺を建立され

観音様を殊に大切にされたことで

すこぶる有名な方です。

 

26番札所もお寺であった頃は

清水寺の名がついております。

 

伝説ゆかりの観音様として

長らく大切にされてきた

清水寺観音。

 

伝説を感じながら

お参り下さいませ。

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田村の里 七崎

当山はかつて

永福寺という名前でした。

 

当山の創建は古く

そのルーツは

平安時代にまで

遡ります。

 

その起源には

諸説ありますが

1つの説として

奥州六観音のひとつとして

坂上田村麿公が建立した

観音堂が当山のルーツで

あるといわれます。

 

当山のある地域は

七崎(ならさき)と呼ばれます。

 

この七崎の地を古くは

「田村の里」といったそうです。

 

その田村とは

田村将軍に由来するとのことです。

 

田村将軍自らがこの地に

赴いたという史実はありませんが

田村将軍指揮下に展開された

奥州における一連の動きの中で

七崎の地に観音堂が建立され

この地が田村の里と

呼ばれるに至ったと

永福寺縁起は伝えております。

 

その観音堂の本尊は

十一面観音という観音様

であったといわれます。

 

ちなみに当山本尊は

現在は愛染明王ですが

かつては十一面観音でした。

 

江戸期の火災の後

現在の本尊様をお迎えしましたが

それまでは十一面観音が

本尊でした。

 

田村将軍の伝説は

東北各地に伝えられておりますが

当山にも伝えられております。

 

田村将軍は観音信仰に

篤い方であったそうです。

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田村麿公への祈りに触れる

征夷大将軍

坂上田村麿(さかのうえの たむらまろ)公。

 

田村麿公の伝説は

東北各地にございます。

 

当山にも

田村麿公の伝説が

伝えられます。

 

普賢院の前身である

永福寺(えいふくじ)は

延暦19年(西暦800年)に

奥州六観音の1つとして

現在の当山の地に

楢崎観音(ならざきかんのん)として

坂上田村麿公により

建立されたと伝えられております。

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6/27に奥州市、一関市を訪れた際

平泉にございます

達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわや びしゃもんどう)

にも立ち寄らせて頂きました。

 

こちらは国指定史跡であり

延暦20年(西暦801年)に

田村麿公が創建した名刹です。

 

たまたま訪れた所

金堂(こんどう)にて

大将軍会(だいしょうぐんえ)

という田村麿公の法要が

営まれておりました。

 

毎年旧暦5月23日に

厳修されている

1年に1度の法要だそうです。

 

偶然とはいえ

光栄にも尊い法要に

立ち会わせて頂きました。

 

平泉は

仏教文化が荘厳に花開き

国土安寧の願いが

託された地でもあります。

 

歴史を今に伝える

平泉の地にて

受け継がれ祈り継がれた

“色あせぬ風土”を観させて頂きました。


▼達谷窟毘沙門堂

http://www.iwayabetto.com/mysite1/bisyamondou.html

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今に伝えられる南祖坊伝説

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青森県の

景勝地のひとつ

十和田湖。

 

十和田湖には

伝説が伝えられます。

 

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)は

幼少期に当山にて

修行されたとされます。

 

南祖坊は

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

という名の神仏として

十和田神社の奥の院に

お祀りされております。

 

当山はかつて

永福寺(えいふくじ)というお寺でした。

 

南部氏が拠点を盛岡に移す際

永福寺も盛岡に改められました。

 

永福寺は現在も盛岡にございます。

永福寺にも南祖坊の碑が建立されております。

 

石碑正面に

「十和田山青龍大権現」

と刻まれております。

 

両側面には

「十和田山南祖坊大菩薩」

「十和田山観世音菩薩」

と刻まれております。

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▼十和田神社について

http://towadako.or.jp/rekishi-densetsu/towada-jinja/

▼十和田湖伝説について(紙芝居動画)

http://towadako.or.jp/rekishi-densetsu/towadako-densetsu/

 

南部氏の祈願寺 永福寺

当山はかつて

永福寺というお寺で

南部氏の祈願寺(祈願所)

として重宝されました。

 

南部氏が

盛岡に拠点を移す際に

永福寺も

盛岡の地に改められます。

 

永福寺は

真言宗の「惣録(そうろく)」(統括寺院)であり

寺領800石の大寺でした。

 

南部氏には

流れがあります。

 

当山は

南部氏宗家である

三戸南部氏と

深く関わった

お寺です。

 

三戸南部氏が

盛岡に拠点を移した後も

永福寺は

祈願寺として大切にされました。

 

『邦内郷村志(ほうないごうそんし)』

という古文書の中に

永福寺について

以下のように書かれております。

※以下、抜粋です。

 

重信公貞享三年 御造営成

慶長元和之頃 従三戸御移

真言宗歴代祈願所

寺領八百石 是為邦内諸刹之冠成

故寺格無出其右

最多末山

 

「寺領800石」と

聞いても中々ピンとは

きませんが

南部藩領において

2番目に大きな石高だそうです。

 

現在、永福寺は

盛岡市下斗内に

構えられております。

 

 

▼『邦内郷村志』はイーハトーブ岩手電子図書館でご覧頂けます。

http://www.library.pref.iwate.jp/ihatov/index/sakuin.html

 

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▲「根城の広場」(八戸市)の案内板

 

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▲現在の永福寺(盛岡市下斗内)