江戸期の香炉〜歴史を感じながらの引越作業〜

本堂解体に向けた引越作業も

大詰めを迎えています。

 

今春に完成した倉庫には

大分物が収められてきました。

 

引越作業は

歴史と向き合う作業でもあり

歴史的なものを扱うことも

しばしばです。

 

本日も一つ貴重な宝物(ほうもつ)を

扱わせていただいたので

紹介させていただきます。

 

本日紹介させていただくのは

江戸期の香炉(こうろ)で

こちらは江戸時代の当山本坊である

盛岡永福寺住職もつとめた

宥瑗(ゆうえん)上人が奉納したものです。

 

宥瑗(ゆうえん)上人は

当山本尊として祀られる

愛染明王像を文化7年(1810)に

奉納された方でもあります。

 

文化7年に

当山が火災に見舞われたことをうけ

同年にお仏像をご奉納下さいました。

 

現本堂は

文化7年の火災をうけ

文化8年(1811)に再建されたもので

この現本堂は本年10月より

解体が始まり

令和4年秋に新本堂が完成する予定です。

 

今回とりあげた香炉は

前回の本堂建替にまつわるものであり

当山の歴史を今に伝える

貴重な仏具です。

 

足が一部破損しているのですが

何かしらの形で

有縁の方々のお目に触れて

いただけるように

考えたいと思います。

 

 

▼江戸期の香炉[施主・宥瑗(ゆうえん)上人]

稀代の古刹 七崎観音⑭

このタイトルでの投稿は

気がつけば一年以上ぶりです。

 

殊に本年に入ってからは

現本堂解体に向けた準備にも

追われていまして

相変わらずバタバタと

過ごしております。

 

本堂解体に向けた準備作業には

仏具や所蔵品の整理も含まれており

作業を進めていると

次々と貴重なものが出てきたり

新たな視座を得たりということもあり

良い功徳を頂戴しながら

歴史的大事業を進めさせて頂いております。

 

当山は

菩提寺という性格に加え

これまで祈願寺という性格が

色濃いお寺でもあったので

古い祈祷の御札や版木が

所蔵されています。

 

今回は

当山の歴史について

興味深い文言が刻されてた

正(聖)観音の古い版木を

ご紹介いたします。

 

まずは写真をご覧ください。

 

▼正(聖)観音の版木・全体像

 

▼同版木・下部

写真だと見にくいですが

七嵜山 普賢院」と刻されています。

※「嵜」は「崎」の異体字。

※以下、「崎」で記させて頂きます。

 

当山は

平安初期(弘仁初期頃)に

圓鏡(えんきょう)上人が開創され

承安元年(1171)に

行海(ぎょうかい)上人が開基され

享保年間(1716〜1736)に

快傅(かいでん)上人が中興されました。

 

鎌倉時代〜江戸時代初期は

永福寺(えいふくじ)の寺号(じごう)が

用いられております。

 

現在の観音堂の中尊として

祀られる聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)と

通称されており

その起源もまた平安時代に

遡るとされます。

 

当山は

永福寺時代も含め

現在に至るまで

七崎観音の別当を勤めております。

 

現在の七崎観音の仏像は

南部29代・重信公が

貞享4年(1687)に

奉納されたものです。

 

七崎観音は

明治時代に至るまでは

現在の七崎神社の地に建立されていた

観音堂に祀られていました。

 

その観音堂は

七崎観音堂(ならさきかんのんどう)と

呼ばれており

徳楽寺(とくらくじ)という

寺号(じごう)が用いられていました。

 

明治になり発令された

神仏分離令により

徳楽寺は廃寺となり

跡地には七崎神社が建立されました。

 

徳楽寺の廃寺に伴い

七崎観音は現在の場所に

遷座(せんざ)されました。

 

徳楽寺は

七崎山(ならさきさん)という

山号(さんごう)が用いられ

七崎山徳楽寺という寺院名が

まかり通っていたというのが

一応の「定説」でした。

 

しかし

今回紹介させて頂いている

古い版木が示している

「七崎山普賢院」という

山号と院号は

「定説」以外の可能性を

宿したものとも捉えられますし

当ブログで重ねてきた考察や仮説に

幾つかの具体的イメージを

与えうるものでもあると感じます。

 

現在において

必ずしもそうではありませんが

寺院名は山号・院号・寺号で

ワンセットなので

単に

七崎山普賢院徳楽寺という形で

徳楽寺の院号として

普賢院の御名が

用いられていた

とも考えられます。

 

あるいは

江戸初期に

幕政・藩政における

本末関係の組織化が

図られるにあたり

本坊永福寺自坊として

改めて「編成」される際

山号が七崎山から

仏道的な意味合いも濃い

宝照山になったという

推測もありえるかと感じます。

 

今回ご紹介した古い版木は

七崎山という山号をめぐり

沢山の可能性を示唆するものとして

とても興味深いものといえるでしょう。

永福寺時代の木箱

ここ一ヶ月以上

大掛かりに境内建物の

掃除や整理を行なっています。

 

これは本堂建替のための

現本堂解体に向けた

準備を兼ねたものです。

 

当山は古いお寺で

文化7年(1810)に火災に

あってはいるものの

多くの古い仏像や仏具や文書を

所蔵しています。

 

ただでさえ

物が多いのに加え

歴史的に大切なものも多いため

時間をかけて作業しています。

 

隅々に手を入れる中で

拙僧(副住職)も初めて

目にするものや

知ることが多くありました。

 

例えば

当山がまだ永福寺と呼ばれていた

時代に使われていた

江戸期の木箱があります。

 

住職から話は聞いていましたが

現物を見たのは本日が初めてでした。

 

寶珠山(ほうしゅざん)という

永福寺時代の山号(さんごう)が

朱で記されており

歴史が感じられます。

 

当山は平安初期に開創され

鎌倉期〜江戸時代初期には

永福寺(えいふくじ)の寺号(じごう)が

用いられていました。

 

その歴史を今に伝える

貴重な宝物(ほうもつ)だと感じます。

 

研究者の方より論文を頂戴しました

盛岡にお住まいの

研究者である阿部幹男様より

ご丁寧なお手紙と

十和田湖伝説の論文を頂戴しました。

 

光栄なことに

十和田湖伝説について調べる中で

当山のブログもお読み下さり

参考にして下さったとのことです。

 

お手紙には

その御礼として

論文をお送り下さった旨が

したためられており

とても嬉しく感じております。

 

十和田湖伝説に散りばめらている

仏道的な部分や

神仏習合的な部分は

曼荼羅思想をはじめとして

密教的視点や手法が

とても有効です。

 

ですがこういった部分は

書籍などを読むだけでは

多くを汲むことは難しく

実際の修法や儀礼等に通じなければ

浮かび上がりにくいものです。

 

そういった背景もあり

仏道的な視点や

当山の伝えられる所の由緒などを

踏まえながら

これまでブログで

拙稿を気まぐれで

アップしてまいりました。

 

本当に小さな積み重ねなのですが

少しでもお役立て頂けたことを

とても嬉しく思います。

 

お送りいただいた論文を

ありがたく拝読させて頂き

さらなる研鑽に励ませて頂きます。

 

阿部様

お心遣い大変ありがとうございました。

 

機会がありましたら

是非当山へおいで下さいませ。

 

【阿部様へ追伸】

貴論文にも

触れられていましたが

拙僧(副住職)も以前より

八郎太郎と諏訪信仰との関係は

大切な視点であると感じております。

 

記紀神話にも連なる

諏訪明神の本地仏は

普賢菩薩とされ

深秘な意味が通わされています。

 

ちなみにですが

当山本尊脇仏として

祀られる普賢菩薩像は

一般的な像相ではなく

どこか神像の雰囲気を帯びたような

“異形仏”で何かしらの意味が

託されているようにも思われます。

 

また諏訪信仰と当地域近辺は

様々な関わりが見られ

諏訪という地名も見られます。

 

挙げると切りがありませんが

伝説を構成する

多くの要素の一つとしての諏訪信仰は

丁寧に紐解くべきものと考えます。

 

阿部様の今後益々の

御発展を衷心より祈念申し上げます。

 

合掌

 

吉田初三郎の鳥瞰図

新幹線で読むことができる

フリーマガジン『トランヴェール』。

 

2019年7月号では

“大正の広重”ともいわれた

吉田初三郎の特集が組まれていました。

 

吉田初三郎は八戸とゆかりのある方で

多くの鳥瞰図(ちょうかんず)を

手がけられました。

 

吉田初三郎の

『十和田湖鳥瞰図』(昭和8年)には

大きな十和田湖が山頂に描かれ

県内各所が周囲に配置されています。

 

デフォルメされ

印象的なタッチで描かれる

吉田初三郎の鳥瞰図。

 

その中に当山も描かれています。

 

このことについては

以前にもブログで触れておりますので

そちらもご参照頂ければと思います↓

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音十二/

 

『十和田湖鳥瞰図』には

当山は「永福寺」の名で

記載されています。

 

「永福寺」の隣に

「七崎神社」と記され

鳥瞰図にバッチリ登場しております。

 

七崎神社は

明治時代まで観音堂で

徳楽寺の寺号が用いられております。

 

徳楽寺の名が記された

木札が当山には残っております。

 

そのような歴史や

十和田湖伝説なども

この鳥瞰図には

落とし込まれているように思います。

 

棟札に耳を傾ける②

棟札について

久しぶりの投稿になりましたが

当山の歴史に触れつつ

まずは現在の本堂の

棟札に“耳を傾けて”みたいと思います。

 

掲載内容に

ボリュームがあるので

複数回に分けて

内容に触れていきます。

 

※棟札に耳を傾ける①はコチラ

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/棟札に耳を傾ける一/

 

この棟札は文化8年(1811)のもので

縦110cm×横20.5cm×厚さ3cmの

大きさがあります。

 

▼現在の本堂の棟札(文化8年(1811))【表】

▼同上【裏】

▼記載内容(右:【表】、左:【裏】)

 

本堂は言うまでもなく

お寺で最も大切なお堂で

本尊が祀られるお堂です。

 

本堂という言葉は

(ほんぞんどう)

または

(こんぽんちゅうどう)

に由来するとされます。

 

ここで少し

当山の由緒について

簡単に整理してみます。

 

当山は弘仁初期(810頃)に

圓鏡(えんきょう)上人が開創

承安元年(1171)に

行海(ぎょうかい)上人が開基されました。

 

鎌倉時代から江戸時代には

永福寺という寺号が

用いられており

永福寺42世・清珊(せいさん)の代に

当山では普賢院の寺号を主に

用いるようになったとされます。

 

永福寺の寺号は

現在も当地の住所・地名として

その名前を留めておりますが

鎌倉二階堂の永福寺(ようふくじ)に

由来しております。

 

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

二階堂の永福寺の僧侶・宥玄(ゆうげん)が

担当することになります。

 

その「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職に任じ

永福寺(えいふくじ)と号したそうです。

 

また宥玄は

沖田面村とともに

五戸七崎村を賜ることとなり

それを契機として

七崎のお寺も宥玄が司ることとなります。

 

宥玄は

永福寺の僧侶であったことから

七崎のお寺(当山)も

永福寺(えいふくじ)と

呼ばれるようになったそうです。

 

当山の本尊は現在

愛染明王(あいぜんみょうおう)

という尊格ですが

もともとは十一面観音を本尊としており

篤く敬われていたそうです。

 

今回採り上げた棟札には

愛染明王を本尊としてお堂(本堂)を

建立したことが記されております。

 

現在の本尊の愛染明王像は

文化7年(1810)に

盛岡永福寺 宥瑗(ゆうえん)より

寄付されたものです。

 

前置きが長くなりましたが

棟札の本文を見ていきます。

 

【表】中央部分は

以下のように記されています。

 


 

ジャク(愛染明王の種字の1つ)

奉本堂再建一宇 八間仁六間

本尊邏ギャ(訁に我)尊(愛染明王)

院内安穏 興隆佛法 諸難消除

當寺檀家息災延命 子孫繁昌 所

 


 

現在の本堂は

文化7年(1810)に火災に

見舞われております。

 

そのために

翌年に再建されたのが

現在の本堂であり

その際の棟札が

今回紐解いている棟札です。

 

冒頭に愛染明王をあらわす

種字(梵字)が書かれています。

 

この棟札は

単に記録が記された木札ではなく

この棟札自体が

本尊の愛染明王の象徴であり

曼荼羅を象徴することを意味します。

 

8間(けん)6間の

本堂を再建したこと

本尊が愛染明王であることが

記されているとともに

建立に際して託された

願いが添えられていることが

分かるかと思います。

 

〈院内安穏〉

お寺が安穏でありますように

 

〈興隆佛法〉

尊いみ教えが

多くの人々のために

なりますように

 

〈諸難消除〉

様々な困難を乗り越えられますように

 

〈當寺檀家息災延命子孫繁昌〉

ご縁ある方々が

健やかで過ごせますように

家々が繁栄しますうに

 

棟札には

様々な書式があると思いますが

当山所蔵の棟札は

どれも仏道的な作法が施されております。

 

今回見た棟札の中央には

①尊格(仏)の種字(梵字)

②建立したお堂のこと

③願目(祈願の項目)

が記されていました。

 

この構成は

当山に所蔵される他の棟札にも

見られるものです。

 

次回以降も

さらに読み進め

棟札が今に伝えていることを

少し丁寧に見ていきたいと思います。

 

▼現在の本堂

幾度となく修繕を繰り返してまいりました。

 

▼昭和26年(1951)の改修記念

▼昭和59年(1984)改修(屋根葺替ほか)記念

七崎姫観音への祈りのあと

鯉のぼりが

各地で泳いでおりますが

「のぼり」は古くから

神仏への奉納品の1つでもあります。

 

以下の写真は

当山に奉納された

昭和期ののぼりです。

 

これらののぼりには

「北沼神社」や「北沼氏子」

という字が見られますが

北沼は現在の八太郎蓮沼に

あった沼です。

 

当山仁王門裏手にお祀りされる

「北沼観音」は元々

北沼にあったものです。

 

北沼観音は

七崎姫(ならさきひめ)という

お姫様を観音様として

お祀りたといわれます。

 

埋め立てることになり

現在地に遷座されました。

 

少し前までは

北沼観音の祭事がありましたが

現在では年末年始、彼岸、お盆に

お膳をお供えする程度です。

 

七崎姫伝説のことを

ご存じない方も多いと思いますので

何らかの祭事を設けたり

七崎姫について案内板を設けるなどして

“七崎姫観音”と

ご縁を深めて頂けるよう

準備をしたいと考えております。

 

▼関連記事

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音六/

 

▼北沼観音(七崎姫観音)

▼八太郎にあった頃の写真

稀代の古刹 七崎観音⑬

当山本堂内の観音堂の

内殿中央に祀られる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)と呼ばれ

その起源は平安時代にまで

さかのぼるとされます。

 

当山は古くから

七崎観音の別当をつとめております。

 

七崎観音は明治時代になるまでは

本堂の位置から南方に位置する

現在の七崎神社の地に建立されていた

観音堂にお祀りされておりました。

 

その観音堂は七崎山徳楽寺

という寺号が用いられ

諸堂も整備されておりましたが

明治の神仏分離政策のため

廃寺となり七崎神社として

改められました。

 

七崎観音へ捧げられた祈りの痕跡として

今回は観音堂へ奉納された

吊り灯篭を紹介させて頂きます。

 

現在観音堂には吊り灯籠が

6つ吊るされております。

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そのうち2つの吊り灯篭について

紹介させて頂きます。

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その①【寛文10年(1670)吊り灯篭】

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まず1つ目の吊り灯篭ですが

六面の各面に

以下のように刻字がされております。

 

金燈籠所願成就所

奉懸奥州南部三戸郡之内

七﨑村観音御宝前

願主 槻茂左衛門尉 藤原清継

寛文十庚戊(1670年)月日

 

この吊り灯篭は

平成31年・令和元年(2019)から

349年も前に奉納されたものです。

 

この時期は

永福寺41世・宥鏡(ゆうきょう)上人の

時代にあたります。

 

当山先師である宥鏡上人は

奈良県の長谷寺から

永福寺住職として

お迎えされました。

 

慶安4年(1651)

三代将軍家光公がご逝去された際には

日光東照宮でのご供養のため

召し出されております。

 

さらに宥鏡上人は

盛岡城の時鐘の銘文を

仰せ付けられたり

二戸の天台寺の

桂泉観音堂と末社の棟札も

記されていらっしゃいます。

 

宥鏡上人の晩年である

延宝8年(1680)に

盛岡永福寺は火災にあっており

その後焼けて損じてしまった

仏像や経典などを

東の岡の地中に納め

歓喜天供養塚を建立し

同所を41世以後の住職はじめ

末寺住職や所化などの境内墓地とし

さらには十和田山青龍権現を

勧請して祀られました。

 

宥鏡上人と七崎観音堂の関係でいうと

当山所蔵の明暦2年(1656)の棟札には

宥鏡上人の名が見られます。

 

この棟札は

観音堂と末社十二宮を再興した時のものです。

 

南部第28藩主・重直公が

病気の際に七崎観音に祈願した所

霊験があったとして

再興が成されました。

 

同時期には

三戸の早稲田観音堂も再興されております。

 

早稲田観音堂がある

三戸の沖田面は

三戸永福寺があった場所で

本坊が盛岡に建立された後は

自坊・宝珠山 嶺松院(れいしょういん)

が旧地を引き継ぎました。

 

余談を挟ませて頂くと

先に盛岡永福寺が

延宝8年(1680)に焼尽したことに

触れましたが

この嶺松院についても

火災に見舞われており

万治2年(1659)の

棟札(むなふだ)では

寛永17年(1640)3月に

門前の焚き火が飛び火して焼失して

宥鏡(ゆうきょう)大和尚が再興したと

記されており

また『新撰陸奥国誌』によると

寛文年間(1661〜1673)に

焼失したとされております。

 

宥鏡上人の後に永福寺住職となられたのが

清珊(せいさん)上人です。

 

清珊上人と南部29第藩主・重信公が

なされた連歌が

盛岡の地名の由来といわれます。

 

清珊上人の代になり

七崎永福寺は普賢院に

「改められた」とされます。

 


その②【天保8年(1837)吊り灯篭】

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2つ目の吊り灯篭は

天保8年(1837)正月に

永福寺57世・宥威(ゆうい)上人により

奉納されたものです。

 

こちらの吊り灯篭には

以下のように刻字されております。

 

奉納七﨑山観世音菩薩

諸願成就 皆令満足

永福寺権僧正 宥威 敬白

天保八歳次丁酉(1837年)

春正月摩訶吉祥日

 

宥威上人は

権僧正(ごんそうじょう)という

とても高い僧階(そうかい、僧侶の位)

にあられた住職です。

 

宥威上人は

天保10年(1839)に御遷化(ごせんげ)

されていらっしゃるので

観音堂の吊り灯篭は

亡くなられる2年前に

奉納されたことになります。

 

当山の『先師過去帳』には

先師として盛岡の

当山本坊である永福寺住職も

記されてまいりましたが

永福寺57世・宥威上人が

本坊の住職として記される

最後の住職となります。

 

▼宥威権僧正

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今回は

2つの吊り灯篭を

紹介させて頂きました。

 

お寺に祀られる仏像や

設えられるもののことを

宝物(ほうもつ)といいます。

 

宝物に通わされる

個々の物語は

どれも尊いものです。

七崎山龍神堂

当山所蔵の木札の中に

「分龍守護神」と記された

木札があります。

 

中央には宝珠が彫られ

両脇には海上安全と大漁満足の

願目(がんもく)が記されます。

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この木札の浦には

大正4年(1915)の年号があり

七嵜山龍神堂分と記載されます。

 

当山において

龍神へ捧げられた祈りの

一端を伝えるものといえます。

 

当地はかつて

七崎(ならさき)と呼ばれました。

 

この七崎には

いつくか龍神伝説が伝えられます。

 

十和田湖の青龍大権現という

龍神となった南祖坊(なんそのぼう)

の伝説が有名ですが

その他にも行海伝説と七崎姫伝説が

伝えられております。

 

七崎姫伝説は

八戸市八太郎にある

蓮沼神社と関連があり

当地より蓮沼まで赴く行事が

行われておりました。

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音六/

 

嘉永年間(1848〜1855)に

三峰館寛兆(さんぽうかんかんちょう)

が描いた『八戸浦之図』には

白銀の清水観音(糠部第6番札所)の

別当は永福寺(現在の普賢院)であると

記されております。

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これらのことからも分かるように

当山は海の地域とも

古くから関わりがあります。

 

また

この清水観音に祀られる

十一面観音は

港町出身の禅僧

津要玄梁(しんようげんりょう)が

晩年に作仏されたものです。

 

当山には

南祖坊の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)

が観音堂にお祀りされますが

この御像は津要玄梁の晩年作の

ものではないかと

拙僧(副住職)は考えており

調査を進めております。

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/8272/

 

余談ですが

津要玄梁の足跡をたどると

「青龍」ととてもご縁のある方です。

 

この点については

別稿にてお伝えさせて頂きます。

 

今回は

龍神の木札について

紹介させて頂きました。

稀代の古刹 七崎観音⑫

当山本堂内の観音堂

内殿中央にお祀りされる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音と通称され

古くから親しまれております。

 

七崎観音は明治時代になるまでは

現在の七崎神社の地にあった

観音堂にお祀りされておりましたが

神仏分離政策のため

旧観音堂は“廃寺”となり

七崎神社に改められました。

 

“大正の広重”とも称された

鳥瞰図(ちょうかんず)絵師である

吉田初三郎(よしだはつさぶろう)

(明治7年(1884)〜昭和30年(1955))

の「十和田湖鳥瞰図」には

当山も描かれております。

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「十和田湖鳥瞰図」には

永福寺と七崎神社の名称が

記されております。

 

ここに記される永福寺とは

現在の普賢院です。

 

当山は江戸時代初期頃まで

永福寺の寺号が

主に用いられており

永福寺42世住職である

清珊(せいさん)の代に

普賢院になったと伝えられております。

 

永福寺という寺号は

鎌倉時代からのもので

南部氏との関わりがあるものですが

普賢院そのものは

弘仁初期頃(810頃)に

開創されたと伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)が

修行したと伝えられるお寺です。

 

南祖坊は

七崎永福寺(現在の普賢院)の

月法和尚(当山2世)に弟子入りしたと

伝えられております。

 

吉田初三郎氏がこの伝説を

踏まえていたのか否かは

分かりませんが

「永福寺」と七崎の名が付され

明治以後に神社に改められた

「七崎神社」の名称が

鳥瞰図に記載されていることは

十和田湖と当地の関わりの深さを

反映してのことであると

言えるかもしれません。

 

現在の観音堂は

多くの荘厳具が設えられており

現在に歴史を伝えるものが多くあります。

 

以下の写真は

観音堂内陣の扁額です。

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この扁額は

文化13年(1816)4月に

菊池氏により奉納されたものです。

 

扁額の書は

三井親孝によるものです。

 

三井親孝は

江戸中期に活躍した書家である

三井親和(しんな)の子です。

 

この扁額には

「正観世音(しょうかんぜおん)」

の文字が“芸術的”に

記されております。

 

つい先日

他の扁額の落款を解読するために

様々な字典にあたったのですが

その際に文字の奥深さを

感じました。

 

白川静氏によると

「文字」は祭祀儀礼のために

生まれたそうです。

 

口という漢字の字源は

「祝詞を納める箱」だそうです。

 

話を扁額に戻すと

三井親孝の「正観世音」の

「正」の一画目の一の部分が

“原初的な漢字の口”

(「さい」といいます)に

なっており

字自体に祭祀的意味合いを

見て取ることが出来ます。

 

扁額を通じてご縁のある

三井親和・親孝については

文化的に功績のある

方なので今後改めて

その足跡を追わせて頂き

学びを深めさせて頂こうと思います。

 

さて

今回は三井親孝書の扁額を

紹介させて頂きました。

 

観音堂には多くの仏像や

宝物(ほうもつ)がありますので

次回からはそれらについて

紹介させて頂きたいと思います。