南祖坊伝説の諸相⑥ 山の神

宝暦年間(1751〜1764)の

『御領分社堂』の

修験持の社堂をまとめた巻に

以下のような記述があります。

 

十和田銀山

一 山神宮 同

往古南蔵坊を

候由申伝候

(いわいそうろうよし

もうしつたえそうろう)

 

ここでの「」は

「お祀りする」「祈りを捧げる」

といった意味合いです。

 

詞(のりと)という単語での

」も同じ意味です。

 

十和田銀山の山神宮は

往古(その昔)に

南祖坊(南蔵坊)がお祀りされ

祈りが捧げられたということが

『御領分社堂』には

記されております。

 

山神の眷属(けんぞく)は

「お犬さま」とも呼ばれ

狼とされます。

 

“狼の神”が

「三峯(みつみね)さま」

とも呼ばれることは

柳田國男の『遠野物語拾遺』でも

とりあげられております。

 

三峯という言葉は

埼玉県秩父の三峯神社に由来します。

 

この三峯神社が

「お犬さま」や「三峯さま」と呼ばれる

眷属の信仰を各地に広めたといわれます。

 

奥州市衣川の三峯神社は

享保元年(1716)に秩父の三峯神社から

勧請(かんじょう)したと伝えられます。

 

県内でも

山の神が祀られ

参道に阿吽の狼が

祀られる所をご存知の方も

多いのではないでしょうか。

 

山神は

山の神

山ノ神

山之神とも表記します。

 

東北では

古い猟法に則り

狩猟を行うマタギが

山の神を篤く信仰したそうです。

 

マタギの伝書に

『山立根本巻』

(やまだちこんぽんのまき)

というものがあります。

 

『山立根本巻』は

マタギが神仏が司る聖地でもある

お山において

狩猟(殺生)を行うことを

山の神が認可したという

マタギの狩猟の由緒が

記されるものです。

 

こういった伝書は

様々あるそうです。

 

マタギに関連する文書には

様々な作法や経文や

真言陀羅尼(だらに)が

多く記されており

神仏への祈りが

大切にされていたことが

伝わってまいります。

 

十和田湖伝説に登場する

八郎(八の太郎、八郎太郎)は

マタギであるとの

いわれもあります。

 

全国的なものかどうかは

存じ上げませんが

山神

山の神などと

刻まれたり

書かれた石碑や石が

東北では

寺社仏閣の境内に建てられたり

納められている所が

多く見られます。

 

当山にも

大きくはありませんが

石が納められております。

 

山が身近な地域でもあるので

山の神はとても

身近だったのだと思います。

 

今回は

『御領分社堂』に記される

十和田銀山の山神宮に触れ

山神として祀られた

南祖坊を伝説の諸相の1つとして

紹介させて頂きました。

 


 

▼山神の碑(花巻市 光勝寺 五大堂裏手)

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▼以下、岩手県立博物館の企画展の写真

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花巻の清水寺

花巻にございます

音羽山 清水寺(おとわさん きよみずでら)。

 

花巻にて研修会があった際に

お参りさせて頂きました。

 

京都、播磨(はりま、現在の兵庫)と

こちらの清水寺を

日本三清水」というそうです。

 

清水寺といえば

坂上田村麻呂将軍です。

 

花巻の清水寺は

大同2年(807年)に

田村将軍により創建されたと

伝えられます。

 

また慈覚大師の伝説も

伝えられる古刹です。

 

境内には

本堂と庫裏(くり)

観音堂

山門

毘沙門堂

薬師堂など

多くのお堂が並びます。

 

とても立派な伽藍の

御寺院様です。

 

本堂の隣にある観音堂には

十一面観音が祀られます。

 

観音堂本尊の

十一面観音は秘仏ですが

お前立ちとして

大きな十一面観音が

お祀りされております。

 

田村将軍は

十一面観音と関わりのある方で

東北各地にその伝説が残っております。

 

当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺の

霊験譚を伝える

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

という古い書物にも

田村将軍のエピソードが

掲載されております。

 

当山の前身である永福寺は

奥州六観音の1つとして

七崎田村の里に

田村将軍が十一面観音を

祀ったことで創建されたと

伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)という僧侶が

修行したとされますが

その伝説の最も古いものとされる

お話が掲載されている

室町期の『三国伝記』という書物は

京都の清水寺にて

インドと中国の日本の三者が

観音への法楽(ほうらく)として

輪番でお話をしていくという

筋書きのものです。

 

花巻には由緒ある

寺社仏閣が多くあります。

 

神仏が連なるものとして

お祀りされていた時代の

祈りの形が垣間見られる所が

多く残されているように思います。

 

当山の観音様(七崎観音)は

本堂内の観音堂に

お祀りされますが

かつては本堂とは別の

観音堂にお祀りされていたものです。

 

その観音堂は

七崎山 徳楽寺として

現在の七崎神社の地に

明治時代まであり

当山が別当をつとめておりました。

 

かつては観音堂であったり

何らかの尊格が祀られるお堂が

明治に神社になったり

統廃合されたりすることが

東北でも多く見られます。

 

当山でも

観音堂(七崎山 徳楽寺)が

七崎神社に改められ

七崎観音(聖観音)は本堂内に

お迎えされることになりました。

 

ですが

こちらの清水寺の伽藍は

古い時代の配置を

とどめている部分が多く

今に伝えるものが

多いように思います。

 

▼花巻 音羽山 清水寺HP

http://kiyomizudera.org

 

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南祖坊伝説の諸相⑤ 長谷寺と南祖坊 その参

当山には十和田湖

南祖坊(なんそのぼう)伝説が

伝えられます。

 

“最古の十和田湖伝説”とされるのは

室町期の『三国伝記』所収の

「釈難蔵得不生不滅事」の

エピソードです。

 

『三国伝記』という書物は

十一面観音をはじめ

長谷寺の影響が

色濃く見られます。

 

この点につきましては

これまでにもブログで

紹介させて頂いております。

 

南祖坊伝説(十和田湖伝説)は

南部藩領を中心に

広く親しまれ

信仰においても

少なからず影響を与えたことが

様々な文書や

各地に残る石碑や神社などから

うかがい知ることが出来ます。

 

この伝説の発信拠点となったのは

七崎(現在の豊崎町)とされます。

 

当山の前身である永福寺が

殊に深く関わっております。

 

この永福寺は

小池坊(長谷寺)の末寺です。

 

前々回と前回は

江戸期の紀行家である

菅江真澄(すがえますみ)の

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

『十曲湖(とわだのうみ)』

という両著作の記述に触れながら

長谷寺との関係を

見てまいりました。

 

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

は天明8年(1788)に北海道を

目指した際の紀行文で

ここでは先に触れた

『三国伝記』の「釈難蔵得不生不滅事」

を紹介しております。

 

『十曲湖(とわだのうみ)』は

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

から約20年経った後の

文化4年(1807)年夏の紀行文で

こちらでは幾つかの

南祖坊伝説が紹介されます。

 

まず初めに『三国伝記』の

伝説が記述されるのですが

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

での内容とは異なっております。

 

跡形もなく変化している

というわけではありませんが

“重要な舞台”が

熊野ではなく泊瀬(長谷)に

変化しているのです。

 

この変化の意味する所を

永福寺と長谷寺の

本末関係や歴史的背景を踏まえ

紐解こうと試みたのが

前々回と前回の投稿です。

 

長谷寺の本尊は

十一面観音という尊格です。

 

長谷寺の十一面観音は

右手に錫杖(しゃくじょう)

左手に瓶(びょう)を執り

大盤石(ばんじゃく)という

台座に立つ尊容で

長谷式・長谷型といわれます。

 

東国(関東)や東北においても

十一面観音は

古くから信仰されたようです。

 

当山の前身である永福寺も

本尊は十一面観音です。

 

東日本で長谷寺といえば

鎌倉の長谷寺が有名ですが

この鎌倉の長谷寺も

奈良の長谷寺と関わりがあり

この両長谷寺は「姉妹」とも

いわれます。

 

鎌倉の長谷寺の本尊は

奈良の長谷寺と同じ

長谷式の十一面観音です。

 

伝承によれば

奈良の長谷寺の本尊を

造立する際に用いた霊木(楠)と

同じものを海に解き放ち

それが流れ着いた場所に

同じ本尊を建立しようとしたそうです。

 

そして流れ着いた先が

鎌倉であったとされます。

 

また海に流したのは

霊木(楠)ではなく

奈良の長谷寺と同じく彫られた

十一面観音像であったともいわれます。

 

そういった伝承があるがゆえに

奈良と鎌倉の長谷寺は“姉妹”と

いわれるのです。

 

奈良の長谷寺に対して

鎌倉の長谷寺は新長谷寺ともいわれます。

 

東国(関東)において

鎌倉は密教の一大拠点の1つです。

 

鎌倉ついででいえば

鶴岡八幡宮寺

勝長寿院

二階堂永福寺の三学山は

鎌倉の密教を考える上で

重要な寺院となるようです。

 

青森県で最古の仏像は

三戸郡南部町にございます

蓮台山恵光院(けいこういん)の

観音堂にお祀りされる

十一面観音立像で

平安時代のものとされます。

 

恵光院は通称・長谷寺と呼ばれますが

かつては蓮台山長谷寺という

とても古くからある寺院で

盛岡永福寺の末寺として

盛岡に改められることとなり

その旧地を継承したお寺です。

 

かなり古くから

十一面観音や長谷の信仰が

伝わっていたことを

今に伝えているように思います。

 

長谷寺と名のつくお寺の大部分は

鎌倉の長谷寺もそうですが

奈良の長谷寺にその起源があります。

 

長谷寺をキーワードに

話がかなり膨らんできたので

今回はこの辺で

終わりにしたいと思います。

 

江戸期においては

永福寺が小池坊(長谷寺)末寺で

あることが文書に明記されるのですが

それ以前について詳細は分かりません。

 

ただ長谷信仰や十一面観音の信仰が

とても古くから関東にとどまらず

東北にも伝わっていたようなので

伝説や信仰を考える上で

興味深い要素かと思います。

 

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南祖坊伝説の諸相④ 長谷寺と南祖坊 その弐

前回の「南祖坊伝説の諸相③」では

紀行家である菅江真澄(すがえますみ)の

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』(1788年)

『十曲湖(とわだのうみ)』(1807年)

という著作に触れられる

南祖坊伝説の明らかな変化として

南祖坊と長谷寺が

関係づけられていることを見ました。

 

※前回はコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相③/

 

南祖坊と長谷寺が

関係づけられることは

永福寺が小池坊の末寺

つまり奈良県桜井市の

長谷寺の末寺であることと

深く関わるといえるでしょう。

 

伝説や伝承というものは

常に固定的なものではなく

時に見直され

時に教相(教学)や事相(法流や作法)

によって深められ

そして発信され

受容されるものかと思います。

 

江戸時代は

全国のお寺の本末関係が

確立されていく時代であり

その本末関係は全国各地の

人民統制など行政においても

意味を持つものでした。

 

盛岡城の鬼門に

改められた永福寺は

盛岡南部藩筆頭の寺院であり

祈願寺という立場であるのに加え

田舎本寺(いなかほんじ)という

お寺を統括する立場にもあったお寺です。

 

さらには檀林(だんりん)という

僧侶の大学のような場所でもありました。

 

広大な南部藩領における

以上のような

永福寺の様々な役割は

南祖坊伝説のあり方に

影響を与えている部分が

あろうことは容易に想像できます。

 

当山のある豊崎町(かつての七崎)は

永福寺発祥の地ですが

盛岡に永福寺が建立された後も

三戸の嶺松院(れいしょういん)と共に

支配や末寺扱いではなく

「旧地」「自坊」として

区別されて維持されました。

 

これは当山が

南祖坊が修行したとの

伝承があることと

関係があるように思います。

 

話が大分それましたが

長谷寺との関係に

話を戻します。

 

長谷寺は正式には

豊山 神楽院 長谷寺といいます。

 

長谷寺は始め東大寺の末寺で

正暦元年(990年)に

興福寺の末寺となります。

 

興福寺は藤原氏の氏神の

春日大社の別当でもあります。

 

長谷寺の本尊は十一面観音で

その脇士として

本尊に向かって右側に

難陀龍王(なんだりゅうおう)が

お祀りされますが

これは春日大明神の化身とされます。

 

藤原氏の関係でいえば

長谷寺の十一面観音造立には

藤原房前が関係しております。

 

ちなみにですが

南祖坊も藤原氏とされます。

 

長谷寺も荒廃した時期があり

それを再興したのが

根来寺の学頭であった

専誉(せんよ)僧正です。

 

専誉僧正は豊臣秀長に招かれ

天正15年(1587年)に長谷寺に

入られます。

 

専誉僧正の住坊を

小池坊中性院といいます。

 

専誉僧正入山以後

長谷寺は新義真言宗の

根本道場となります。

 

徳川時代には厚い庇護を受け

本堂や大講堂や登廊が

再建されます。

 

また専誉僧正が入山以来

“学山”としての性格が明確化され

“長谷学”の名は一世を風靡したそうです。

 

長谷寺は現在でも

真言宗豊山派の総本山で

当山の本山です。

 

江戸期には長谷寺は

様々な宗派の僧侶が集まり

1000人もの修行僧がいたそうです。

 

新義真言宗の

根本道場であることに加え

学山としても

長谷寺が隆盛したのです。

 

長谷寺は古くから

十一面観音の霊験で

有名なお山です。

 

当山の前身である

七崎永福寺の本尊は

十一面観音とされます。

 

盛岡の永福寺は修法本尊として

歓喜天(聖天)がお祀りされますが

内々陣にはその本地として

十一面観音がお祀りされます。

 

最古の十和田湖伝説が収録される

『三国伝記』という書物は

インドと中国と日本の

三者が観音法楽(かんのんほうらく)

つまり観音菩薩に捧げるべく

1人ずつ持ち回りで

お話をするという設定で

その話の中の一話が

最古の十和田湖伝説とされます。

 

『三国伝記』という書物は

長谷寺の影響が指摘されており

この点はとても重要かと思います。

 

十一面観音と南祖坊伝説との関係は

これまで述べられたことが

なかった視点なので

仏道の視点とあわせて

今後も深めていきたいと思います。

 

以上

関連する事柄を

あまり整理することなしに

記してきました。

 

詳細に記すと

膨大になってしまうので

大雑把に紹介させて頂きました。

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空き時間を活用して

昨日の積雪のため

本日予定されていた

当山での御詠歌の会を

休会いたしました。

 

午後は法事の予定があったので

それまでの間

調べ物で用いる資料の

整理を行いました。

 

調べ物というのは

当山の由緒や伝説・伝承

についてです。

 

本堂建替という

歴史的事業に取り組んでいるので

これを機会に

色々と整理をして

有縁の皆様にお伝え出来ればと

考えております。

 

ちなみにですが

本日午前中は

京都の仁和寺(にんなじ)に

かつてあった皆明院(かいみょういん)

というお寺についての資料を

まとめておりました。

 

当山の前身である永福寺は

『邦内郷村志』

『奥南旧記』には

仁和寺皆明院院跡

和州小池坊末寺

と記されております。

 

「和州小池坊末寺」とは

奈良県桜井市の長谷寺の末寺

であったということです。

 

小池坊とは

長谷寺の本坊(ほんぼう)で

長谷寺内の筆頭寺院のことだと

お考え頂ければ結構です。

 

仁和寺には

約80もの院家(いんげ)と

称されるお寺がありました。

 

それらは皆

皇族や貴族の方が

出家されて

入られた所でもあります。

 

その中に皆明院というお寺もあり

永福寺と関係がありました。

 

それがどのような背景の中での

関係であるかについてまで

触れると長くなるのですが

地方の有力寺院が

皇族や貴族ゆかりの

門跡(もんぜき)寺院と

関わりを持つことを

院家兼帯(いんげけんたい)といい

江戸時代に盛んだったようです。

 

色々と複雑な事情がありますし

専門的な部分でもあるので

あまり深掘りはしません。

 

何事もそうだと思いますが

調べや学びを進めていると

いくらやってもきりがない程

広く深いものを感じます。

 

だからこそ

続けられるのだと思います。

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南祖坊伝説の諸相③ 長谷寺と南祖坊 その壱

十和田湖南祖坊伝説の

発信拠点は七崎(ならさき)

つまりは現在の豊崎とされます。

 

七崎には当山の前身として

永福寺というお寺がありました。

 

永福寺にしろ

普賢院にしろ

当山が別当をつとめた

七崎観音堂(現在の七崎神社)にしろ

焼失により詳細な由緒は

不明な所が多いのですが

受け継がれる『先師過去帳』や

語り継がれる所の口伝や伝承があり

それらを元として

縁起は大切に伝えられております。

 

今回からは近世の文書である

菅江真澄の紀行文を手がかりに

当山の本山である長谷寺(はせでら)

との関係を何回かに分けて

とりあげたいと思います。

 

江戸期の紀行家である

菅江真澄(すがえますみ、1754-1829)は

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

『十曲湖(とわだのうみ)』で

南祖坊伝説について

触れております。

 

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』は

天明8年(1788)に北海道を

目指した際の紀行文です。

 

ここでは南祖坊伝説について

室町時代の書物である

『三国伝記(さんごくでんき)』所収の

“最古の十和田湖伝説”について

紹介しております。

 

『十曲湖(とわだのうみ)』は

文化4年(1807)年夏の紀行文で

こちらにおいても

南祖坊伝説に触れております。

 

そこでも同じ筋書きで

伝説を説明しているのですが

その中に南祖坊像の変化を

汲み取れる箇所があり

さらに「別伝」として

幾つかのバージョンが

紹介されております。

 

室町期の『三国伝記(さんごくでんき)』

に記される所の“最古の十和田湖伝説”が

菅江真澄の両紀行文において

伝説の“メインストーリー”として

紹介されているのですが

『十曲湖(とわだのうみ)』では

南祖坊が長谷寺と明確に

関係づけられております。

 

『三国伝記(さんごくでんき)』では

弥勒出生値遇のために

熊野山に山籠して

祈願祈請千日の夜に

白髪老翁が釈難蔵(南祖坊)に

お告げをするという

くだりがあり

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』で

この部分は紹介されております。

 

同部分について

『十曲湖(とわだのうみ)』では

南祖坊が泊瀬寺(長谷寺)に籠もり

ひたすらに法華経を読み

「お告げを頂く」という形で

紹介されております。

 

長谷寺の本尊である

十一面観音は

長谷観音(はせかんのん)と呼ばれ

古くから篤く信仰されました。

 

南祖坊は

「法華経の持経者」として

描かれますが

修行における法華経を

考える上で

「法華滅罪(ほっけめつざい)」

という言葉がキーワードとなります。

 

専門的な話になってしまうので

詳しくはお伝えしませんが

自身を清め(六根(ろっこん)清浄)

功徳を積み善へとつなげることと

お考え頂ければ結構かと思います。

 

長谷寺や長谷観音との関係を

踏まえながら南祖坊伝説と

それに関連する諸要素を見ることは

とても有効であると感じております。

 

“最古の十和田湖伝説”が収められる

『三国伝記』の研究でも

長谷寺との関係が指摘されております。

 

十和田湖伝説の研究でも

しばしばとりあげられる

池上洵一氏の著書

『修験の道 三国伝記の世界』

(以文社、1999年)において

長谷寺との関係が指摘されております。

 

また小林直樹氏は

長谷寺と『三国伝記』について

丁寧な研究をされており

その諸論文がまとめられ

『中世説話集とその基盤』

(和泉書院、2004年)に

「第二部 『三国伝記』とその背景」

として収められております。

 

これらのことは

また改めてお伝えしたいと思います。

 

長谷寺で法華経三昧に入った

南祖坊が「長谷観音のお告げ」により

十和田湖へ向かうこととなった

とも読めるような形となった

南祖坊伝説。

 

“神託”を頂く

伝説の重要な舞台が

熊野から長谷へ変化した

その背景を次回以降

もう少し追いたいと思います。

 

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▲長谷寺内 歓喜院の本尊

(長谷寺本尊と同じ三尊形式)

中央:十一面観音

左:雨宝童子(天照大神の化身)

右:難陀竜王(春日大明神の化身)

南祖坊伝説の諸相② 阿闍梨と化す南祖坊

拙僧(副住職)は昨年秋より

真言宗豊山派の研究機関に

所属することになって以降

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説を

仏教的視点から改めて紐解き整理し

研究を進めております。

 

研究を進めているとはいえ

他にも研究テーマがあるので

南祖坊伝説について

本年は史料の整理や

史料収集や参考資料・文献の収集が

主な作業となりました。

 

研究のための準備といったところです。

 

とはいえ

新たな気づきがあったり

新たな道筋が見えたりと

有意義なことがありました。

 

まとめるにはかなりの時間が

かかると思いますが

丁寧に整理したいと思います。

 

前置きが長くなりましたが

今回は「南祖坊伝説の諸相②」として

史料に記される“南祖坊像”の

一旦が垣間見られる部分を

少しだけピックアップ

したいと思います。

 

『来歴集』(元禄12(1699)年)

という書物に所収の

「十和田沼 亦十和田」に

難蔵坊(南祖坊)は

額田嶽熊野山十瀧寺住職で

幼名を額部麿といい

神通力があったとあります。

 

また「或説」として

南蔵坊(南祖坊)は

糠部三戸永福寺六供坊の

蓮華坊の住侶であり

斗賀の観音堂を建立した

ことが伝えられます。

 

さらに同箇所には

永福寺什物として

南祖坊が自ら画いた

両界曼荼羅があり

裏には康元(1256-1257)の年号が

書いてあったとあります。

 

さらに続けて

その曼荼羅は

延宝年中(1673-1681)の

永福寺が焼失した際に

燃えてしまったと書かれております。

 

これとほぼ同内容のことが

『吾妻むかしものがたり』

で紹介されております。

 

『盛岡砂子』『邦内郷村志』

『奥々風土記』では

南祖坊が自ら書いた

不動尊一軸があり

その不動明王はあたかも

生きているようで

“霊容猛威”でその両目は

拝者を追うかのような

威容であるといったことが

紹介されております。

 

この不動尊一軸ですが

明治になり廃寺となった

盛岡永福寺が再興された記念に

発行された『永福寺物語』によれば

所在不明とのことです。

 

『盛岡砂子』では

永福寺住持(住職)は

「位 権僧正に至る」とあります。

 

多くのことに触れながら

お話すれば良いのですが

かなり専門的になってしまうので

細かな説明は省略してお伝えすると

南祖坊が阿闍梨(あじゃり)という

非常に尊い位の

僧侶として描かれております。

 

さらっと書かれてある部分ですが

仏教的(真言宗的)視点で

紐解くと重要な意味が

含まれているのです。

 

曼荼羅を画くことが許されるのは

阿闍梨(詳しくは伝燈大阿闍梨)です。

 

不動尊一軸を自らが画いたという

部分からも南祖坊が阿闍梨として

描かれていることが伺えます。

 

記しはじめると

止まらなくなりかねないので

ここまでにしたいと思います。

 

今回は

「南祖坊伝説の諸相②」として

阿闍梨として描かれる南祖坊について

紹介させて頂きました。

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南祖坊伝説の諸相① 中尊寺姥杉

『平泉雜記』という書物に

南祖坊(なんそのぼう)が

植えたという伝えのある

姥杉(うばすぎ)について

記されております。

 

「中尊寺姥杉」の伝説として

以下のように記されております。

 


姥杉は中尊寺鎮守白山宮の傍にあり

此樹四丈八尺ありしが

今は幹も枯朽うつぼ木となれり

枝條少し残て

猶緑葉を存す

 

郷説に

昔本州南部

南宗房と云し僧

手自植しと云

 

近世此杉

根を香となし香會に用ひ

雅玩と為とかや

 

中條吉村公道奥と

名を命じ玉ひしとかや

未だ其の實否を不知

 

南宗は本州南部の産にして

康元年中(1256〜1257)の人と云り

 

慈氏菩薩の下生を待とて

鹿角郡十和田沼に入りて蛇と變じ

今に水底に居て

種々奇異の事多しろ

南部の故人語れり

 

南宗か事

予所聞を書して

別に一小冊と為す


 

ここで南祖坊は

鎌倉時代にあたる

康元年中(1256〜1257)の人であり

中尊寺鎮守である白山神社のそばに

杉を手植えし

それが約15メートルもの

大きさになったとされております。

 

白山神社の由緒によれば

慈覚大師円仁が

白山を鎮守として勧請し

自ら十一面観音を作り

それを白山権現と号したとされます。

 

この十一面観音の信仰は

奈良時代頃から盛んだったようで

“最古の十和田湖伝説”が収録される

室町時代の仏教書である

『三国伝記(さんごくでんき)』自体に

十一面観音信仰との関係が見られます。

 

白山は

石川県と岐阜県にまたがる山で

白山を開山した

行者の泰澄(たいちょう)が

越前・越知山(おちさん)での修行中

霊夢により白山へ登ることを決めます。

 

そして山麓の林泉(りんせん)で

妙理権現(白山神)と逢い

その導きにより頂上に登り

十一面観音を感得したと

伝えられます。

 

当山は永福寺発祥の地ですが

その永福寺は十一面観音を本尊とし

奥州六観音の一つとして

田村将軍によって創建されたとの

伝えがあります。

 

諸要素を仏教的視点を踏まえて

細かに見てみると

十一面観音との関係が

驚くほど多く見られます。

 

少し専門的な話になりますが

近世までにおいて

修験者や山伏をはじめとした語り手により

伝説として語られる過程で

南祖坊と青龍権現が

七崎観音(正観音)との関係の中で

本地と垂迹として

捉えられて行った

一方で

修験者や山伏ではない

僧籍を持つ僧侶が担い厳修された

法会や祈禱会などの

行法・修法においては

深秘に仕立てられた

次第に則って藩の祈願寺としての

役割を果たす中で

十一面観音立てや

不動明王、愛染明王立ての

ものを使用していたようです。

 

それは永福寺住職で

事相(じそう)の大家とされた

ご住職が残されたものを始めとした

多くの次第の目録から

推察されることです。

 

さらに拙僧(副住職)が

個人的に注目したいのは

康元という年号です。

 

康元は

1256年10月5日から

1257年3月14日までで

当時流行した天然痘を

断ち切るために

災異改元(さいいかいげん)が

なされた鎌倉中期の年号です。

 

『吾妻むかし物語』によれば

永福寺の什物には

難蔵(南祖坊)が書いた

両界曼荼羅があり

裏に難蔵(南祖坊)の名と

康元の年号月日が

記されており

それは惜しいことに

延宝年中(1673〜1681年)に

焼失したとされます。

 

ここでも

康元の年号が見られます。

 

天然痘が大流行した

康元という年号と

南祖坊が関係させられている点は

様々に検討する余地が

あろうかと思います。

 

永福寺が藩の祈祷寺と

位置づけられていたことを

踏まえて考えれば

鎮護国家

藩領安全

物故者供養など

様々な祈りが託されたがゆえの

ことなのかもしれません。

 

伊達藩の重要な寺院である

中尊寺の鎮守に

枯れて朽ちつつある杉が

南部藩の重要な寺院である

永福寺有縁の南祖坊手植えと

伝えられる杉のエピソード。

 

広く十和田湖南祖坊伝説が

知られていたことを

『平泉雜記』から

伺うことができます。

 

中尊寺はかつて

真言寺院も多くあったそうで

江戸初期には中尊寺から

永福寺に住職が

おいでになられたこともあります。

 

そういったことも

深く関わっていると思われます。

 

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三国伝記について④“最古の十和田湖伝説”と両部曼荼羅

『三国伝記』(さんごくでんき)

巻12第12話の

「釈難蔵得不生不滅事」

(しゃくなんぞうふしょうふめつをうること)

が“最古の十和田湖伝説”とされます。

 

そのことは紀行家であり

多くの文書を残している

菅江真澄(すがえますみ)も

記しておりますし

南部藩関係の文書においても

この話が十和田湖伝説であると

記されております。

 

釈難蔵とは

「仏弟子である難蔵(なんぞう)」の意で

これが南祖坊です。

 

「南祖坊」は表記が様々で

南蔵、難蔵、南祖之坊など

書物によって異なりますが

『三国伝記』では難蔵となっています。

 

「南祖坊」の表記の違いは

音写による訛伝

とも考えられますし

字義において意味が

秘されているとも

捉えられるかと思います。

 

「不生不滅を得る」とは

話の内容を踏まえて説明するならば

「入定(にゅうじょう)」することで

専門的には

「禅定(ぜんじょう)の境地に入る」

ことを意味します。

 

難蔵は播磨(現在の兵庫県)の

書寫山(しょしゃざん)の

法華持者(ほっけじしゃ)と

設定されております。

 

書寫山は

霊峰(れいほう)として

由緒ある修行の聖地であり

多くの伝承に彩られたお山です。

 

書寫山の圓教寺(えんぎょうじ)

というお寺は

西国三十三観音霊場

第27番札所です。

 

当山の本山である長谷寺は

西国三十三観音霊場

第8番札所になります。

 

前回も触れましたが

言両山(ことわけやま)

という山が登場します。

 

十和田湖伝説関係の

研究をみると

言両を「ことわけ」と読み

神聖なるものであるという意味で

捉えられてきたようです。

 

「言両」の二文字は

密教的に深める余地が大いに

あるように思います。

 

言両を「真言両部」(しんごんりょうぶ)

の意味で捉えるならば

一層仏教的(密教的)要素が

色濃くなってまいります。

 

参考までにですが

日本屈指の霊山である

大峯、熊野、金峰山について

大峯は真言両部の峯であり

熊野山は胎蔵曼荼羅

金峰山は金剛界曼荼羅であると

捉えられておりました。

 

両部(りょうぶ)とは

両部曼荼羅のことで

金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)と

胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)を指します。

 

これらは不二(ふに)なるものです。

 

曼荼羅(まんだら)と

名のつくものは数多くありますが

日本における曼荼羅は

弘法大師空海の影響が大きく

弘法大師が唐より

持ち帰られた曼荼羅を特に

現図曼荼羅(げんずまんだら)といいます。

 

曼荼羅そのものと見立てられたり

曼荼羅の思想がほどこされている山は

日本にはかなり多くあります。

 

『三国伝記』が世に出た時代の

世界観を探ることは

伝説を考える上で

非常に大切なことかと思います。

 

日本の中世は

非常に多くの“神話”が

語られた時代であり

新たな解釈で捉え直されたり

新たに創造された時代です。

 

日本書紀や古事記の

神代の物語も

仏教(密教)的要素を帯び

新たな物語が編み出されます。

 

記紀(古事記と日本書紀)において

あまり触れられていな神に

熱い視線が注がれ

本地仏の関係が見出されたり

インドや中国の神仏との

関係が見出されたり

記紀神話に登場しない神が

鮮やかに登場したりしますが

これらは神仏習合の考えを支える

曼荼羅思想を背景とします。

 

曼荼羅には

大(だい)曼荼羅

三昧耶(さまや)曼荼羅

法(ほう)曼荼羅

羯磨(かつま)曼荼羅

の四種の描き方があります。

 

仏像のような

お姿での描き方

(大曼荼羅)

 

それぞれの尊格が

宿されるみ教えを象徴した

法具などの「物」での描き方

(三昧耶曼荼羅)

 

それぞれの尊格と

根本的な尊格が

宿されるみ教えを象徴した

梵字での描き方

(法曼荼羅)

 

それぞれの尊格が

宿されるみ教えを象徴した

印(いん)での描き方

(羯磨曼荼羅)

 

これらは四種それぞれが

別々のものということではなく

別々の見方をもって

同じものを描いたものです。

 

当山に伝わる

七崎姫伝説や

十和田湖伝説にしばしば見られる

経文の一文字一文字が

剣や矢となり

対峙していたものへ

突き刺さるというストーリーの

背景にもこの曼荼羅の考え方があります。

 

剣や矢は智慧の象徴で

このように

尊格を象徴する「物」を

三昧耶形(さまやぎょう)といいます。

 

このような描写は

後世の大衆化に伴い

「仏教に無知な者」が

創作したという見方があるようですが

仏教的視点からすれば

踏まえるべきことは

きちんと踏まえての描写といえます。

 

三昧耶形としての剣や矢が

煩悩や迷いの状態を象徴する

八頭大蛇(八郎)に突き刺さると

捉えるのであれば

一見“残酷”に見えるこの場面も

み教えを宿した場面となります。

 

近世に創作された物語には

それを創作した方がいらっしゃいますし

そもそも日本の伝統芸能には

多かれ少なかれ仏教が

関係しておりますので

現在語られる所の物語の

諸要素の由来となっている

諸物語の創作者に対して

「仏教に無知」との評価は

失礼にあたるように感じます。

 

仏教に対して

どことなく美徳や善のイメージが

強いのかもしれませんが

現在の一般的な感覚からすれば

残酷と捉えられるようなものが

多々あるのです。

 

少し話を戻しまして

“新たな神話”が編み出されることに

ついても少しだけ触れたいと思います。

 

古事記や日本書紀では

登場してすぐにお隠れになった神や

名前だけが記述される神が

何柱も登場します。

 

中世にはそれらの神々に

記紀では語らていない物語が

神祇にお仕えする方により

語られるようになります。

 

現在に比してとてもシンプルな

『三国伝記』の十和田湖伝説と

多くのキャストと場面で語られる

現在の十和田湖伝説の間にも

同じプロセスが見られます。

 

伝説のみならず

お寺の世界においても

同じ次第書や論書なのですが

古い時代のものより

後世のものの方が

はるかに分量が多かったりします。

 

十和田湖伝説で

「古い時代のもの」といえば

今取り上げている

『三国伝記』のものとなりますが

現在の十和田湖伝説の

核となる部分がそこには

描かれております。

 

それを紐解くにあたり

今回は曼荼羅思想を手がかりに

“最古の十和田湖伝説”を見てみましたが

仏教的切り口は

非常に沢山あります。

 

本文について

いくつかの言葉について

触れただけにとどまりましたが

機会があれば

また紹介させて頂きます。

 

これまで4回にわたり

『三国伝記』について

少しばかり

紹介させて頂きました。

 

仏教的視点を踏まえて

十和田湖伝説を紐解くことで

とても壮大なスケールの

物語がそこにたちあらわれます。

 

今後もちょくちょく

紹介させて頂きたいと思いますので

ご興味をお持ちの方は

ご笑覧頂ければ幸いです。

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七崎観音の歴史を探る

大正十一年に発行された

『三戸名所旧蹟考』附録に

「七崎神社の事 并び圖」として

七崎神社について記述があります。

 

概要の最後に

社司 白石守

社掌 小泉幸雄

と記されております。

 

白石家も小泉家も

明治以前までは

修験を担っていた

とても由緒ある家柄です。

 

小泉幸雄氏は

『郷社七崎神社誌』を

編集した方でもあります。

 

七崎神社は明治まで

七崎山徳楽寺という寺院で

当山観音堂に祀られる

七崎観音(聖(正)観音)を

本尊としておりました。

 

七崎観音は

白銀に祀られますが

夢告を受けた諸江卿が

七崎(現在の豊崎)に遷座したと

伝えられます。

 

七崎に祀られることとなった

七崎観音は当初

現在の七崎神社の地ではなく

当山から東方

約3〜400メートルの場所に

お祀りされたと伝えられます。

 

その場所は

元宮(もとみや)と称して

現在の七崎神社の地に

遷座した後も

旧阯としてお祭りが開催され

神聖な地とされたようです。

 

事細かな記述ではありませんが

今回は七崎神社の概要が記される

『三戸名所旧蹟考』附録

「七崎神社の事 并び圖」

を以下に引用させて頂きます。

 


 

七崎神社の事 并びに圖

一 靑森県陸奥國三戸郡

豊崎村大字七崎字上永福寺

七崎山に鎮座郷社七崎神社といふ

 

祭神

伊耶那美神

 

相殿

大國主神、事代主神、少彦名神

天照皇大神、宇迦之御魂神

熊野神、菅原道真大小二神

 

備考

天照皇大神より四柱は

維新の際谷支村より

合祭せるものなり

 

一 創立の由緒

南部四條中納言藤原諸江卿

勅勘流刑を蒙り漂泊の身となり

階上郡(三戸郡九戸両郡の)

侍濱に着き給ひしに

天長元(824)年二月下旬の頃より

海上一面金色を呈し

夜間海底の鳴動を聞く事

數十日に至る

 

同年四月七日

海上稍穏やかに

浪風静かなれば

卿漁装を整ひ小舟に棹し

沖中に出でて佇み小網を張りて

海鱗を漁獲せんとしに怪なる哉

網重くして容易に揚ることを得ず

 

卿心密かに之を訝り

益々気を皷し勇を撫し辛ふじて

引揚るを得

之れを見給ふに

豈圖らんや異相の霊體にてありき

依て一の小社を新築し

御神體を安置し後ち

承和元(834)年正月七日に至り

霊夢に依り當七崎山に遷幸し奉り

諸江卿 供奉斎仕せり

 

諸江卿の墓所は荒神と奉称し

本社を距る三町餘の場所に祭り

毎年八月十三日に祭典執行せしが

維新の際 廃社となり當社境内に移遷す

 

一 本社庭前に大沼ありて

大蛇住て村民を害する事ありしが

承安年中行海法師當社に来り

丹誠を抽て密法を執行し

遂に之を除去せしかば

沼の水いつとなく絶て

今小泉家の畑地となり

即ち水源に一宇を建立して

水上大明神と祭りたり

 

其の岳蹟を顕存せんが為め

境内に七星の形を取り

七本の杉を植て奉納せしが

其の内三本成長して

現今三丈五尺の周圍あり

又其時一宇の草創を立てたりしが

則 寶照山普賢院と號し

行海法師の開山にして今尚不存せり

 

以上 傳話記に詳かなり

 

因にいふ

十和田山に祭りし

南祖坊(南宗ともいふ)は

この行海法師弟子となり

學びたること十和田記に詳かなり

往古より當社奉仕の別當

毎歳五月十五日交番に参詣せり

十和田山別當より

當社え神饌料として

二百文の靑銅を送附せり云々

 

一 承和元(834)年白銀より

遷宮の當時は長苗代村は

大洋に接し大なる港にして

今の三戸郡下長苗代村小字内港は

大小の船舶泊せしとなり

而して此の七崎山は

七の崎の一つにして

遂に本村の名となりしといふ

 

一 寛永二(1625)年十二月

南部二十七代信濃守源朝臣利直公

神門御造営あり

 

次に二十八代山城守重直公

(七戸隼人といへり)

城主と被為成給ひし時

霊験なりしといふ

明暦元(1655)年九月七日

五石五斗三合の社領御寄附あり

 

次に二十九代重信公

貞享四(1687)年五月廿日

本社御再営あり

 

次に三十二代大膳大夫利幹公

正徳二(1712)年四月

七崎山四ヶ所に古例を以て

殺生禁札建てられたり

 

一 維新前は南部家に於て

維新保護せりと雖も

現今氏子において負擔

大小祭典の費用を救ふのみ

 

一 毎歳舊四月七日は神霊

天長年間海中より出現の古例により

太郎浦邊の黒森と云へる處に

神輿渡御し(黒森の傍らに小沼あり

往古より今に水絶えず)奉り

神楽を奏して祈禱ありしが

當時別當二人

社人十二人ありて

五石宛の免租地を有せしを以て

祭費の支途に苦まざるも

維新以還は變り

氏子の負擔に係るを以て其制を略し

村内字瀧谷迄渡御祭典を執行せり

 

一 當社は地方の古社たるを以て

維新の際 西越村 手倉橋村 浅水村

扇田村 豊間内村の

各村郷社に列せられたり

氏子は扇田豊間内七崎の

二ヶ村とは尤も

祭典費の負擔は

七崎村一ヶ村のみなり

 

一 建物

本社 四間四面 茅葺 壹棟

貞享四(1687)年五月

重信公御再営

 

假殿 二間四面 同 同

天保十四(1843)年

津嶋氏の修覆

 

神殿 二間三間 同 同

寛永二(1625 )年十二月

利直公造営なり

 

神楽殿 二間三間 茅葺 壹棟

天保七(1836)年二月再建

 

荒神社 一間に半間 板葺 同

年代詳からず

 

薬師社 一間に半間 同 同

明治十五(1882)年四月

村中にて再営

 

一 地勢

本社境内の地勢は本村月山と称る

山村の東北裾野に位し

東北は稍低しと雖ども

之を四段に経営し

本社其の最高位に坐し

堂宇の方向も亦低方に

向へるを以て却て風致を

添るが如し

 

一 寶物 社地千三百九十坪

一 神鏡 経一尺に八寸 二面

一 福神の像木造 二體

彫刻無銘年代詳かならず

一 鎗 一筋

無銘古来より傳来

 

以上

 

社司 白石守

社掌 小泉幸雄

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多くの情報が

散りばめられておりますが

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説

についても触れられており

ここでは普賢院開山である

行海(ぎょうかい)大和尚の

弟子であると記されます。

 

様々なバリエーションを持つ

十和田湖南祖坊伝説ですが

行海と南祖坊という

“華々しい”伝説をもつ二人が

師弟として語られる

このストーリーには

ある種のロマンを感じます。