南祖坊伝説の諸相① 中尊寺姥杉

『平泉雜記』という書物に

南祖坊(なんそのぼう)が

植えたという伝えのある

姥杉(うばすぎ)について

記されております。

 

「中尊寺姥杉」の伝説として

以下のように記されております。

 


姥杉は中尊寺鎮守白山宮の傍にあり

此樹四丈八尺ありしが

今は幹も枯朽うつぼ木となれり

枝條少し残て

猶緑葉を存す

 

郷説に

昔本州南部

南宗房と云し僧

手自植しと云

 

近世此杉

根を香となし香會に用ひ

雅玩と為とかや

 

中條吉村公道奥と

名を命じ玉ひしとかや

未だ其の實否を不知

 

南宗は本州南部の産にして

康元年中(1256〜1257)の人と云り

 

慈氏菩薩の下生を待とて

鹿角郡十和田沼に入りて蛇と變じ

今に水底に居て

種々奇異の事多しろ

南部の故人語れり

 

南宗か事

予所聞を書して

別に一小冊と為す


 

ここで南祖坊は

鎌倉時代にあたる

康元年中(1256〜1257)の人であり

中尊寺鎮守である白山神社のそばに

杉を手植えし

それが約15メートルもの

大きさになったとされております。

 

白山神社の由緒によれば

慈覚大師円仁が

白山を鎮守として勧請し

自ら十一面観音を作り

それを白山権現と号したとされます。

 

この十一面観音の信仰は

奈良時代頃から盛んだったようで

“最古の十和田湖伝説”が収録される

室町時代の仏教書である

『三国伝記(さんごくでんき)』自体に

十一面観音信仰との関係が見られます。

 

白山は

石川県と岐阜県にまたがる山で

白山を開山した

行者の泰澄(たいちょう)が

越前・越知山(おちさん)での修行中

霊夢により白山へ登ることを決めます。

 

そして山麓の林泉(りんせん)で

妙理権現(白山神)と逢い

その導きにより頂上に登り

十一面観音を感得したと

伝えられます。

 

当山は永福寺発祥の地ですが

その永福寺は十一面観音を本尊とし

奥州六観音の一つとして

田村将軍によって創建されたとの

伝えがあります。

 

諸要素を仏教的視点を踏まえて

細かに見てみると

十一面観音との関係が

驚くほど多く見られます。

 

少し専門的な話になりますが

近世までにおいて

修験者や山伏をはじめとした語り手により

伝説として語られる過程で

南祖坊と青龍権現が

七崎観音(正観音)との関係の中で

本地と垂迹として

捉えられて行った

一方で

修験者や山伏ではない

僧籍を持つ僧侶が担い厳修された

法会や祈禱会などの

行法・修法においては

深秘に仕立てられた

次第に則って藩の祈願寺としての

役割を果たす中で

十一面観音立てや

不動明王、愛染明王立ての

ものを使用していたようです。

 

それは永福寺住職で

事相(じそう)の大家とされた

ご住職が残されたものを始めとした

多くの次第の目録から

推察されることです。

 

さらに拙僧(副住職)が

個人的に注目したいのは

康元という年号です。

 

康元は

1256年10月5日から

1257年3月14日までで

当時流行した天然痘を

断ち切るために

災異改元(さいいかいげん)が

なされた鎌倉中期の年号です。

 

『吾妻むかし物語』によれば

永福寺の什物には

難蔵(南祖坊)が書いた

両界曼荼羅があり

裏に難蔵(南祖坊)の名と

康元の年号月日が

記されており

それは惜しいことに

延宝年中(1673〜1681年)に

焼失したとされます。

 

ここでも

康元の年号が見られます。

 

天然痘が大流行した

康元という年号と

南祖坊が関係させられている点は

様々に検討する余地が

あろうかと思います。

 

永福寺が藩の祈祷寺と

位置づけられていたことを

踏まえて考えれば

鎮護国家

藩領安全

物故者供養など

様々な祈りが託されたがゆえの

ことなのかもしれません。

 

伊達藩の重要な寺院である

中尊寺の鎮守に

枯れて朽ちつつある杉が

南部藩の重要な寺院である

永福寺有縁の南祖坊手植えと

伝えられる杉のエピソード。

 

広く十和田湖南祖坊伝説が

知られていたことを

『平泉雜記』から

伺うことができます。

 

中尊寺はかつて

真言寺院も多くあったそうで

江戸初期には中尊寺から

永福寺に住職が

おいでになられたこともあります。

 

そういったことも

深く関わっていると思われます。

 

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三国伝記について④“最古の十和田湖伝説”と両部曼荼羅

『三国伝記』(さんごくでんき)

巻12第12話の

「釈難蔵得不生不滅事」

(しゃくなんぞうふしょうふめつをうること)

が“最古の十和田湖伝説”とされます。

 

そのことは紀行家であり

多くの文書を残している

菅江真澄(すがえますみ)も

記しておりますし

南部藩関係の文書においても

この話が十和田湖伝説であると

記されております。

 

釈難蔵とは

「仏弟子である難蔵(なんぞう)」の意で

これが南祖坊です。

 

「南祖坊」は表記が様々で

南蔵、難蔵、南祖之坊など

書物によって異なりますが

『三国伝記』では難蔵となっています。

 

「南祖坊」の表記の違いは

音写による訛伝

とも考えられますし

字義において意味が

秘されているとも

捉えられるかと思います。

 

「不生不滅を得る」とは

話の内容を踏まえて説明するならば

「入定(にゅうじょう)」することで

専門的には

「禅定(ぜんじょう)の境地に入る」

ことを意味します。

 

難蔵は播磨(現在の兵庫県)の

書寫山(しょしゃざん)の

法華持者(ほっけじしゃ)と

設定されております。

 

書寫山は

霊峰(れいほう)として

由緒ある修行の聖地であり

多くの伝承に彩られたお山です。

 

書寫山の圓教寺(えんぎょうじ)

というお寺は

西国三十三観音霊場

第27番札所です。

 

当山の本山である長谷寺は

西国三十三観音霊場

第8番札所になります。

 

前回も触れましたが

言両山(ことわけやま)

という山が登場します。

 

十和田湖伝説関係の

研究をみると

言両を「ことわけ」と読み

神聖なるものであるという意味で

捉えられてきたようです。

 

「言両」の二文字は

密教的に深める余地が大いに

あるように思います。

 

言両を「真言両部」(しんごんりょうぶ)

の意味で捉えるならば

一層仏教的(密教的)要素が

色濃くなってまいります。

 

参考までにですが

日本屈指の霊山である

大峯、熊野、金峰山について

大峯は真言両部の峯であり

熊野山は胎蔵曼荼羅

金峰山は金剛界曼荼羅であると

捉えられておりました。

 

両部(りょうぶ)とは

両部曼荼羅のことで

金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)と

胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)を指します。

 

これらは不二(ふに)なるものです。

 

曼荼羅(まんだら)と

名のつくものは数多くありますが

日本における曼荼羅は

弘法大師空海の影響が大きく

弘法大師が唐より

持ち帰られた曼荼羅を特に

現図曼荼羅(げんずまんだら)といいます。

 

曼荼羅そのものと見立てられたり

曼荼羅の思想がほどこされている山は

日本にはかなり多くあります。

 

『三国伝記』が世に出た時代の

世界観を探ることは

伝説を考える上で

非常に大切なことかと思います。

 

日本の中世は

非常に多くの“神話”が

語られた時代であり

新たな解釈で捉え直されたり

新たに創造された時代です。

 

日本書紀や古事記の

神代の物語も

仏教(密教)的要素を帯び

新たな物語が編み出されます。

 

記紀(古事記と日本書紀)において

あまり触れられていな神に

熱い視線が注がれ

本地仏の関係が見出されたり

インドや中国の神仏との

関係が見出されたり

記紀神話に登場しない神が

鮮やかに登場したりしますが

これらは神仏習合の考えを支える

曼荼羅思想を背景とします。

 

曼荼羅には

大(だい)曼荼羅

三昧耶(さまや)曼荼羅

法(ほう)曼荼羅

羯磨(かつま)曼荼羅

の四種の描き方があります。

 

仏像のような

お姿での描き方

(大曼荼羅)

 

それぞれの尊格が

宿されるみ教えを象徴した

法具などの「物」での描き方

(三昧耶曼荼羅)

 

それぞれの尊格と

根本的な尊格が

宿されるみ教えを象徴した

梵字での描き方

(法曼荼羅)

 

それぞれの尊格が

宿されるみ教えを象徴した

印(いん)での描き方

(羯磨曼荼羅)

 

これらは四種それぞれが

別々のものということではなく

別々の見方をもって

同じものを描いたものです。

 

当山に伝わる

七崎姫伝説や

十和田湖伝説にしばしば見られる

経文の一文字一文字が

剣や矢となり

対峙していたものへ

突き刺さるというストーリーの

背景にもこの曼荼羅の考え方があります。

 

剣や矢は智慧の象徴で

このように

尊格を象徴する「物」を

三昧耶形(さまやぎょう)といいます。

 

このような描写は

後世の大衆化に伴い

「仏教に無知な者」が

創作したという見方があるようですが

仏教的視点からすれば

踏まえるべきことは

きちんと踏まえての描写といえます。

 

三昧耶形としての剣や矢が

煩悩や迷いの状態を象徴する

八頭大蛇(八郎)に突き刺さると

捉えるのであれば

一見“残酷”に見えるこの場面も

み教えを宿した場面となります。

 

近世に創作された物語には

それを創作した方がいらっしゃいますし

そもそも日本の伝統芸能には

多かれ少なかれ仏教が

関係しておりますので

現在語られる所の物語の

諸要素の由来となっている

諸物語の創作者に対して

「仏教に無知」との評価は

失礼にあたるように感じます。

 

仏教に対して

どことなく美徳や善のイメージが

強いのかもしれませんが

現在の一般的な感覚からすれば

残酷と捉えられるようなものが

多々あるのです。

 

少し話を戻しまして

“新たな神話”が編み出されることに

ついても少しだけ触れたいと思います。

 

古事記や日本書紀では

登場してすぐにお隠れになった神や

名前だけが記述される神が

何柱も登場します。

 

中世にはそれらの神々に

記紀では語らていない物語が

神祇にお仕えする方により

語られるようになります。

 

現在に比してとてもシンプルな

『三国伝記』の十和田湖伝説と

多くのキャストと場面で語られる

現在の十和田湖伝説の間にも

同じプロセスが見られます。

 

伝説のみならず

お寺の世界においても

同じ次第書や論書なのですが

古い時代のものより

後世のものの方が

はるかに分量が多かったりします。

 

十和田湖伝説で

「古い時代のもの」といえば

今取り上げている

『三国伝記』のものとなりますが

現在の十和田湖伝説の

核となる部分がそこには

描かれております。

 

それを紐解くにあたり

今回は曼荼羅思想を手がかりに

“最古の十和田湖伝説”を見てみましたが

仏教的切り口は

非常に沢山あります。

 

本文について

いくつかの言葉について

触れただけにとどまりましたが

機会があれば

また紹介させて頂きます。

 

これまで4回にわたり

『三国伝記』について

少しばかり

紹介させて頂きました。

 

仏教的視点を踏まえて

十和田湖伝説を紐解くことで

とても壮大なスケールの

物語がそこにたちあらわれます。

 

今後もちょくちょく

紹介させて頂きたいと思いますので

ご興味をお持ちの方は

ご笑覧頂ければ幸いです。

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七崎観音の歴史を探る

大正十一年に発行された

『三戸名所旧蹟考』附録に

「七崎神社の事 并び圖」として

七崎神社について記述があります。

 

概要の最後に

社司 白石守

社掌 小泉幸雄

と記されております。

 

白石家も小泉家も

明治以前までは

修験を担っていた

とても由緒ある家柄です。

 

小泉幸雄氏は

『郷社七崎神社誌』を

編集した方でもあります。

 

七崎神社は明治まで

七崎山徳楽寺という寺院で

当山観音堂に祀られる

七崎観音(聖(正)観音)を

本尊としておりました。

 

七崎観音は

白銀に祀られますが

夢告を受けた諸江卿が

七崎(現在の豊崎)に遷座したと

伝えられます。

 

七崎に祀られることとなった

七崎観音は当初

現在の七崎神社の地ではなく

当山から東方

約3〜400メートルの場所に

お祀りされたと伝えられます。

 

その場所は

元宮(もとみや)と称して

現在の七崎神社の地に

遷座した後も

旧阯としてお祭りが開催され

神聖な地とされたようです。

 

事細かな記述ではありませんが

今回は七崎神社の概要が記される

『三戸名所旧蹟考』附録

「七崎神社の事 并び圖」

を以下に引用させて頂きます。

 


 

七崎神社の事 并びに圖

一 靑森県陸奥國三戸郡

豊崎村大字七崎字上永福寺

七崎山に鎮座郷社七崎神社といふ

 

祭神

伊耶那美神

 

相殿

大國主神、事代主神、少彦名神

天照皇大神、宇迦之御魂神

熊野神、菅原道真大小二神

 

備考

天照皇大神より四柱は

維新の際谷支村より

合祭せるものなり

 

一 創立の由緒

南部四條中納言藤原諸江卿

勅勘流刑を蒙り漂泊の身となり

階上郡(三戸郡九戸両郡の)

侍濱に着き給ひしに

天長元(824)年二月下旬の頃より

海上一面金色を呈し

夜間海底の鳴動を聞く事

數十日に至る

 

同年四月七日

海上稍穏やかに

浪風静かなれば

卿漁装を整ひ小舟に棹し

沖中に出でて佇み小網を張りて

海鱗を漁獲せんとしに怪なる哉

網重くして容易に揚ることを得ず

 

卿心密かに之を訝り

益々気を皷し勇を撫し辛ふじて

引揚るを得

之れを見給ふに

豈圖らんや異相の霊體にてありき

依て一の小社を新築し

御神體を安置し後ち

承和元(834)年正月七日に至り

霊夢に依り當七崎山に遷幸し奉り

諸江卿 供奉斎仕せり

 

諸江卿の墓所は荒神と奉称し

本社を距る三町餘の場所に祭り

毎年八月十三日に祭典執行せしが

維新の際 廃社となり當社境内に移遷す

 

一 本社庭前に大沼ありて

大蛇住て村民を害する事ありしが

承安年中行海法師當社に来り

丹誠を抽て密法を執行し

遂に之を除去せしかば

沼の水いつとなく絶て

今小泉家の畑地となり

即ち水源に一宇を建立して

水上大明神と祭りたり

 

其の岳蹟を顕存せんが為め

境内に七星の形を取り

七本の杉を植て奉納せしが

其の内三本成長して

現今三丈五尺の周圍あり

又其時一宇の草創を立てたりしが

則 寶照山普賢院と號し

行海法師の開山にして今尚不存せり

 

以上 傳話記に詳かなり

 

因にいふ

十和田山に祭りし

南祖坊(南宗ともいふ)は

この行海法師弟子となり

學びたること十和田記に詳かなり

往古より當社奉仕の別當

毎歳五月十五日交番に参詣せり

十和田山別當より

當社え神饌料として

二百文の靑銅を送附せり云々

 

一 承和元(834)年白銀より

遷宮の當時は長苗代村は

大洋に接し大なる港にして

今の三戸郡下長苗代村小字内港は

大小の船舶泊せしとなり

而して此の七崎山は

七の崎の一つにして

遂に本村の名となりしといふ

 

一 寛永二(1625)年十二月

南部二十七代信濃守源朝臣利直公

神門御造営あり

 

次に二十八代山城守重直公

(七戸隼人といへり)

城主と被為成給ひし時

霊験なりしといふ

明暦元(1655)年九月七日

五石五斗三合の社領御寄附あり

 

次に二十九代重信公

貞享四(1687)年五月廿日

本社御再営あり

 

次に三十二代大膳大夫利幹公

正徳二(1712)年四月

七崎山四ヶ所に古例を以て

殺生禁札建てられたり

 

一 維新前は南部家に於て

維新保護せりと雖も

現今氏子において負擔

大小祭典の費用を救ふのみ

 

一 毎歳舊四月七日は神霊

天長年間海中より出現の古例により

太郎浦邊の黒森と云へる處に

神輿渡御し(黒森の傍らに小沼あり

往古より今に水絶えず)奉り

神楽を奏して祈禱ありしが

當時別當二人

社人十二人ありて

五石宛の免租地を有せしを以て

祭費の支途に苦まざるも

維新以還は變り

氏子の負擔に係るを以て其制を略し

村内字瀧谷迄渡御祭典を執行せり

 

一 當社は地方の古社たるを以て

維新の際 西越村 手倉橋村 浅水村

扇田村 豊間内村の

各村郷社に列せられたり

氏子は扇田豊間内七崎の

二ヶ村とは尤も

祭典費の負擔は

七崎村一ヶ村のみなり

 

一 建物

本社 四間四面 茅葺 壹棟

貞享四(1687)年五月

重信公御再営

 

假殿 二間四面 同 同

天保十四(1843)年

津嶋氏の修覆

 

神殿 二間三間 同 同

寛永二(1625 )年十二月

利直公造営なり

 

神楽殿 二間三間 茅葺 壹棟

天保七(1836)年二月再建

 

荒神社 一間に半間 板葺 同

年代詳からず

 

薬師社 一間に半間 同 同

明治十五(1882)年四月

村中にて再営

 

一 地勢

本社境内の地勢は本村月山と称る

山村の東北裾野に位し

東北は稍低しと雖ども

之を四段に経営し

本社其の最高位に坐し

堂宇の方向も亦低方に

向へるを以て却て風致を

添るが如し

 

一 寶物 社地千三百九十坪

一 神鏡 経一尺に八寸 二面

一 福神の像木造 二體

彫刻無銘年代詳かならず

一 鎗 一筋

無銘古来より傳来

 

以上

 

社司 白石守

社掌 小泉幸雄

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多くの情報が

散りばめられておりますが

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説

についても触れられており

ここでは普賢院開山である

行海(ぎょうかい)大和尚の

弟子であると記されます。

 

様々なバリエーションを持つ

十和田湖南祖坊伝説ですが

行海と南祖坊という

“華々しい”伝説をもつ二人が

師弟として語られる

このストーリーには

ある種のロマンを感じます。

三国伝記について③最古の十和田湖伝説のあらすじ

これまで

“最古の十和田湖伝説”とされる

『三国伝記』巻12第12話

「釈難蔵得不生不滅事」を見る

前段階として

『三国伝記』や撰者・玄棟(げんとう)に

伺える長谷信仰や

十一面観音信仰について

かなりザックリではありますが

触れてまいりました。

 

今回は

“最古の十和田湖伝説”の

あらすじを見てまいります。

 

以下、拙僧(副住職)の拙訳にて

大まかなエピソードを

ご紹介いたします。

 


「難蔵が入定するお話」

 

むかし

播州(現在の兵庫)の

書寫山(しょしゃざん)に

釈難蔵(仏弟子の難蔵の意)

という者がいました。

 

難蔵は法華経という

尊いお経を

とても大切にした

法華持経者であり

修行者でした。

 

即身における

弥勒出世値遇を誓い

読誦、回峰、参詣

怠ることなく

心して精進に

励みました。

 

難蔵が熊野にて

三年の山籠(さんろう)にのぞみます。

 

千日となる夜

御殿から翁が現れ

常陸と出羽の境にある

言両(ことわけ)山に

居住すれば

弥勒出生に値遇できると

告げられました。

 

お告げをうけ

言両山(ことわけやま)へ赴くと

その山は錦の如くに花に彩られ

藍の如くの円池があり

老巨木が生い茂り

奇岩や塊石がそびえる

まさに深山幽谷でした。

 

難蔵は

円池の端(はた)に

草庵をこしらえました。

 

草庵に住んで

法華経を読誦する様子は

まるで仙人の如くです。

 

毎日行われる

難蔵の読経を

18、9歳程の美女が

聴いていました。

 

難蔵は

不思議に思いながらも

日々を過ごしました。

 

ある時

その女性は難蔵に

自身が池の主の龍女であることを明かし

自身と夫婦になって欲しいと

告白します。

 

龍女は自身と夫婦となれば

龍の寿命である龍寿を得て

弥勒出世の値遇という

難蔵の願いも達成されると

難蔵に伝えます。

 

難蔵は

あれこれと深く悩みましたが

龍女と夫婦となることを

決意します。

 

ある時

龍女は難蔵に

八頭大蛇(やずだいじゃ)

のことを告げます。

 

龍女がいうには

この言両(ことわけ)山から

西に三里にある

奴可嶽(ぬかのたけ)の池に

八頭大蛇がいて

その八頭大蛇は

龍女を妻として

一月の上旬十五日間は奴可の池

下旬十五日間はこの池に

住むとのことです。

 

そしてもうじき

八頭大蛇がやって来るので

そのことを心得てほしいと

伝えられます。

 

龍女の言葉を聞き

難蔵は恐れる気配もなく

八巻の法華経を頭に戴くと

九頭龍(くずりゅう)になりました。

 

そして

例の八頭龍(大蛇)が

やって来きました。

 

八頭龍(大蛇)と九頭龍は

七日七夜「食い合い」ました。

 

激しい戦い(食い合い)の末

八頭龍は「食い負け」ます。

 

八頭龍(大蛇)は

大きな身を曳いて

円池(大海)に入ろうとすると

大きな松が生え出て

八頭龍の行方は阻まれました。

 

八頭龍(大蛇)は

威勢尽きて小身になり

本の奴可嶽の池に入りました。

 

八頭龍(大蛇)に

「食い勝った」難蔵は

龍女と共に

言両(ことわけ)山(嶽)に

住みました。

 

今でも

その池の辺りでは

激しい波の響きの奥に

かすかに法華経を読誦する声が

聞こえるといいます。(終)


 

以上が

最古の十和田湖伝説の

あらすじです。

 

深めたい箇所が

多々あるのですが

今回は話の重要な舞台である

「言両山」について

少しだけ触れさせて頂きます。

 

「言」と「両」という言葉は

特に密教では

馴染み深いもので

言両(ことわけ)という名称からは

「真言両部(しんごんりょうぶ)」

という言葉が連想されます。

 

ついでながら

奴可嶽の「奴可(ぬか)」は

糠部(ぬかべ・ぬかのべ)という

地域の名称に由来しているというのが

これまでの「定説」ですが

仏教的意味合いが込められていると

仮定するのであれば

「ナラカ」という梵語に由来して

いるとも考えられます。

 

「ナラカ」は

「奈落(ならく)」と

音写される言葉で

要するに「地獄」を意味します。

 

奴可嶽が「地獄」を踏まえて

設定された“お山”と捉えるならば

八頭大蛇についての検討も

より深いものになるように思います。

 

地獄は八熱地獄と八寒地獄

という「熱」「寒」

各々に八大地獄があるとされます。

 

八頭龍(大蛇)が

この八大地獄に通じていると

考えることも出来るでしょうし

日本神話に登場するヤマタノオロチに

仏教的意味が重ねられているとも

考えることが出来るように思います。

 

ヤマタノオロチでいえば

難蔵は書寫山(しょしゃざん)の者

とされますが

この書寫山は「スサノオの杣(そま)」

とも呼ばれます。

 

古事記や日本書紀の

いわゆる日本神話について

かつての僧侶は深く

学んでおりますので

神仏習合の様相が色濃い

“中世における”記紀神話を

踏まえていたとしても

何ら不思議はありません。

 

言両(ことわけ)山の

話に戻りますが「言両」を

「真言両部(しんごんりょうぶ)」の

意味として捉えるならば

中世における神仏習合思想の

根本を支える考え方である

曼荼羅(まんだら)について

触れなければなりません。

 

この曼荼羅の考え方は

神仏習合思想が台頭した時代の

「国土観」を見る上でも

必要不可欠のものです。

 

今回は

最古の十和田湖伝説のあらすじを

紹介させて頂きました。

 

『三国伝記』の撰者は

仏道に深く関わる玄棟であるゆえ

この書物は仏教やその背景に

ある程度通じていないと

意味を汲み取れないように感じます。

 

最古の十和田湖伝説である

「釈難蔵得不生不滅事」の

文面はかなり仏教的です。

 

それゆえに

文字として記されているものに加え

「仏教的前提」となっている部分にも

目配せしながら

次回も最古の十和田湖伝説を

見ていきたいと思います。

 

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三国伝記について②長谷信仰・十一面観音信仰と三国伝記

『三国伝記』(さんごくでんき)は

“最古の十和田湖伝説”が収録されます。

 

『三国伝記』は

室町時代のもので

全12巻からなり

360話が収録されます。

 

撰者は玄棟(げんとう)という

沙弥(しゃみ:修行者)で

インド、中国、日本の三国

それぞれ120話で合計360話の

物語を様々な書物からの引用を

行いつつまとめております。

 

日本についての120話のうち

当山の本山

長谷寺の霊験譚である

『長谷寺験記』(はせでらげんき)関係の

説話は12話にも及びます。

 

『三国伝記』において

一寺院の説話として

日本にまつわる話全体の1割もの

引用がされるのは長谷寺だけです。

 

長谷寺のある地は

泊瀬(はつせ)ともいわれ

古事記にもその名が登場します。

 

長谷寺の本尊である

十一面観音は長谷寺式(はせでらしき)

といわれるお姿の十一面観音で

盤石(ばんじゃく)という石に立ち

右手に錫杖(しゃくじょう)を持ちます。

 

盤石は不動明王の徳をあらわし

錫杖は地蔵菩薩の徳をあらわします。

 

長谷の十一面観音は

古くから篤く信仰された尊格で

十一面観音信仰は奈良時代には

盛んであったそうです。

 

また『三国伝記』撰者である

玄棟(げんとう)は

近江の善勝寺(ぜんしょうじ)に

ご縁のある方です。

 

『三国伝記』に収録される

近江の善勝寺の縁起によると

お寺を開いたのは

聖徳太子の血縁である良正上人で

この善勝寺本尊は

弥勒菩薩(みろくぼさつ)と

聖徳太子作の十一面観音とされます。

 

玄棟自身が十一面観音と

縁深い方であったと思われます。

 

さらに近江という場所自体が

長谷寺と深く関わる地であり

長谷寺本尊の十一面観音像は

琵琶湖にあった

巨大な霊木(楠)を彫ったものです。

 

日本最古の観音霊場である

西国三十三観音霊場の

発祥の地は長谷寺です。

 

長谷寺と名のつくお寺は

全国に多くありますが

その「総元締め」が

奈良の長谷寺です。

 

十一面観音の信仰は

東北においても古くから

伝わっていたようで

三戸の南部町にある

恵光院(長谷寺)の十一面観音は

平安時代の仏像で

青森県内では最古のものです。

 

三戸でいえば

三戸永福寺を引き継いだ

永福寺自坊の嶺松院(れいしょういん)が

あった場所に現在ある

早稲田観音も十一面観音です。

 

当山は永福寺発祥の地であり

現在は地名のみが残っておりますが

その創建に関する説話が

『長谷寺験記』にあり

それも十一面観音のお話です。

 

それは坂上田村麻呂将軍が

奥州に十一面観音を祀るお寺を

6ケ寺建立したとの説話であり

永福寺の寺伝によればそのうち

田村の里・七崎(現在の豊崎)の

お寺が永福寺であるとされます。

 

この類の話は県内他所にも見られ

例えば深浦町の古刹である

円覚寺(真言宗醍醐派)も

坂上田村麻呂将軍が

聖徳太子作の十一面観音を安置し

観音堂を建立したとの

いわれがございます。

 

円覚寺を開基された

円覚という方は

大和(奈良)の方です。

 

『三国伝記』には

十一面観音についてのみならず

瀧蔵権現(りゅうぞうごんげん)

天満天神(てんまんてんじん)など

長谷寺にまつわる神祇(じんぎ:神さま)の

話も収録されており

長谷信仰の影響が感じられます。

 

『三国伝記』は

インドの梵語坊

中国の漢字郎

日本の遁世者の3名が

京都の清水寺にて

応永14(1407)年の

8月17日(観音縁日の前夜・逮夜)に

観音さまに捧げる法楽(ほうらく)として

一人ずつ話をしていくという

場面設定となっております。

 

京都の清水寺は

観音様のお寺であり

本尊は十一面千手千眼観音で

観音様をとても篤く信仰した

坂上田村麻呂将軍ゆかりのお寺です。

 

あちこちに話題が飛びましたが

『三国伝記』において

長谷信仰・十一面観音信仰の関わりが

見られるということを見てきました。

 

話題を

十和田湖伝説に移したいと思います。

 

『三国伝記』巻12第12話の

「釈難蔵得不生不滅事」という説話が

“最古の十和田湖伝説”とされます。

 

次回はこの「釈難蔵得不生不滅事」を

見ていくことにします。

 

▼『三国伝記』について①

https://fugenin643.com/blog/三国伝記について①/

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三国伝記について①伝説の“最古の語り手”

当山は

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説と

ゆかりのあるお寺です。

 

南祖坊という僧侶が

「十和田湖の主」となるというのが

伝説の大きな筋書きです。

 

そして南祖坊は

当山前身の永福寺にて

修行したと伝えられます。

 

この伝説は様々に

語られたり記されたりしまして

主に伊達藩を中心になされていた

東北独特の芸能である

奥浄瑠璃(おくじょうるり)という

語り物の題材にもなっております。

 

ただこの奥浄瑠璃という用語については

使われる方により意味合いが様々で

明らかな語り物としての

奥浄瑠璃ではない

縁起物(えんぎもの)や

霊験譚(れいげんたん)

といった類も含んでいたり

場合によっては「聖職者」が

語ったとされるものまでも含んで

用いられている感があります。

 

十和田湖南祖坊伝説は

山伏やマタギのような

修験と関わりのある者のみならず

“広い層”の方が語り手となり

伝え手となり

それぞれの地域的特色を

帯びていきながら

広く親しまれたようです。

 

この伝説に関わる写本等は

各地にありまして当山にも

『十和田山神教記』

(とわださんじんきょうき)

の写本が残されております。

 

伝説は語られる地域

それを伝える写本によって

実にバリエーションが豊かです。

 

その伝説を伝える最古の書物が

『三国伝記』(さんごくでんき)です。

 

この『三国伝記』を手がかりとして

あらためて伝説と向き合うと

様々なことが浮かび上がります。

 

この『三国伝記』自体は

現在の滋賀県辺りで

玄棟(げんとう)という方により

まとめられたものですが

撰者にまつわる背景や

書物の収録内容を紐解くに

当山の本山である

奈良県の長谷寺に関係する

長谷信仰(はせしんこう)や

十一面観音信仰が

色濃く伺えるものです。

 

撰者の玄棟という方は

善勝寺(ぜんしょうじ)という寺院と

ゆかりのある方とされますが

この善勝寺も十一面観音と

とても関わりのある寺院ですし

『三国伝記』は

長谷寺の霊験記である

『長谷験記』(はせげんき)から

多く引用されております。

 

そういったことに触れながら

この『三国伝記』について

3、4回に分けて

お伝えさせて頂きます。

 

「三国伝記について②」は

9月初頭にアップいたします。

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十和田山青龍大権現とは何者ぞ

当山は

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説と

ゆかりのあるお寺です。

 

その伝説とは

南祖坊という僧侶が

十和田山青龍大権現

(とわださんせいりゅうだいごんげん)

という龍神になる物語です。

 

南祖坊は

当山にて修行されたとされます。

 

当山では観音堂に

南祖坊の御像である

南祖法師(なんそほっし)尊像が

お祀りされております。

 

一昨年に南祖法師尊像が

「発見」されたことを契機として

当山では“本腰を入れ”て

整理を進めております。

 

「仏教的な見地から」整理を進める中で

興味深いことが浮かび上がってきたり

つながりが見えてきました。

 

一気に全部をここに

記すことは出来ませんが

覚書も兼ねて

十和田山青龍大権現の

ルーツについて

仏教的な見地から

ご紹介させて頂きます。

 

大権現という言い回しは

尊称なので

以下「青龍権現」とさせて頂きます。

 

永福寺の伝えでは

永福寺5世の月躰(がったい)法印の

弟子であった南祖坊が

神護寺(じんごじ)の

清瀧(せいりょう・せいりゅう)権現

十和田湖畔の休屋(やすみや)に

勧請(かんじょう)したのが

青龍権現だとしております。

 

「永福寺5世の月躰法印」は

当山では「月法律師」とされており

当山二世の住職となっております。

 

この清瀧権現は

弘法大師空海と

深く関わる龍神です。

 

さらには空海以後の

恵運(えうん)

宗叡(しゅえい)

聖宝(しょうぼう)といった

真言宗における諸大徳(だいとく)にも

まつわる権現で

それはそれは深い意味を持ちます。

 

十和田湖南祖坊伝説では

南祖坊が入定して青龍権現になる

というストーリーですが

永福寺の伝えでは

南祖坊が清瀧権現を勧請して

祀ったのが青龍権現であるとしており

この違いはとても重要なポイントです。

 

青森県内では十和田湖の神様は

女性であるとする地域がありますが

南祖坊が勧請したとされる清瀧権現は

“女性の龍神”なので

それを踏まえると諸説に通じる部分が

増えるかと思います。

 

清瀧権現は

善如(女)龍王(ぜんにょりゅうおう)

ともいいます。

 

弘法大師空海の師で

かつての唐の皇帝に

篤く信頼されていた恵果(けいか)という

阿闍梨(あじゃり)がいらっしゃいます。

 

恵果阿闍梨は長安の

青龍寺の方ですが

この青龍寺の名は

青龍権現(清瀧権現)に由来します。

 

「清瀧権現」は当初「青龍権現」であり

「氵」(さんずい)はついておりません。

 

恵果阿闍梨は

青龍を勧請して鎮守としたことに由来し

お寺の名が青龍寺になったとされます。

 

青龍に「氵」がつくのは

弘法大師空海が唐に渡って

日本に戻って以後の話です。

 

細かなエピソードを紹介すると

相当なボリュームになるので

割愛しますが

海波をしのいで日本へ来たことを顕して

青龍に「氵」をつけ清瀧と改めたとされます。

 

弘法大師空海は

天長年間に請雨法(しょううぼう)という

“雨乞い”の修法(しゅほう)を行い

その際に善如龍王(清瀧権現)が現れたとの

伝承があります。

 

その場所が

神泉苑(しんせんえん・しんぜんえん)です。

 

神泉苑の名は

現在も十和田湖の聖地の呼び名として

使われております。

 

以前から感じていたのですが

十和田湖にはそれ以外にも

仏教(殊に密教系)に由来する

名称が見られます。

 

余談ですが

当山の本尊である

愛染明王(あいぜんみょうおう)は

清瀧権現との関係で見るならば

修法において深く関わっております。

 

当山は

宝暦13年(1763年)に愛染明王堂を

再建したと棟札に書かれております。

 

その後文化7年(1810年)に火災に遭います。

 

その年に

盛岡永福寺より現在の本尊である

愛染明王像が贈られており

翌年に本堂が再建されております。

 

江戸時代文化期の南部藩の財政は

低迷期であり

当山本堂の再建にあたっては

富籤(とみくじ)発行が許可され

資金の一部にあてられております。

 

火災の翌年に本堂が建立され

しかも愛染明王像が

贈られているという歴史からは

いかに七崎が大切であるかということと

愛染明王を祀ることの重要性を

読み取ることが出来るように思います。

 

愛染明王という尊格は

最極深秘(さいごくじんぴ)の仏とされ

愛染明王が説かれるお経である

金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経

(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)

という経典は

高野山の金剛峯寺の寺名の基です。

 

真言宗の読誦経典として最も重要な

『般若理趣経』(はんにゃりしゅきょう)

というお経がありますが

この教主は愛染明王とされます。

 

当山において

愛染明王堂が再建されたり

愛染明王像が当山に贈られたりした

少し前の永福寺住職がしたためた

多くの次第の中に

愛染明王関連の次第が幾つか見られます。

 

その内容にまで

踏み込んで説明するには

相当な時間がかかるので

これも割愛しますが

愛染明王を“龍の本地”とする

修法の次第が見られます。

 

これには

両部大日如来

不動明王

如意輪観音

准胝観音

如意宝珠(にょいほうしゅ)など

多くの要素をからめての説明が

必要となりますが

「秘説」「口伝」として

師資相承されてきた修法を

紐解くことで

十和田山青龍権現を

これまで以上に躍動的でかつ

壮大なスケールで

捉えることが出来るかと思います。

 

これまでの諸要素を踏まえて

当山の歴史をかえりみますと

十和田山青龍権現の

“本地(ほんじ)”として

愛染明王を当山に祀った

という可能性が出てまいります。

 

そしてその可能性は

かなり高いと思われます。

 

青龍権現のルーツであるとお伝えした

清瀧権現の本地は「通常」であれば

如意輪観音と准胝観音ですが

修法においては本地仏として

様々な尊格が立てられることは

珍しいことではありません。

 

祈祷寺において修法というのは

とても重要なもので

“高位”な阿闍梨でなければ

修法することが許されなかったものは

数多く存在しており

その中には愛染明王関係のものが

多く含まれまれております。

 

話があちらこちらに

飛んできたので

根本的な所を整理すると

十和田山青龍権現のルーツは

清瀧権現であり

南祖坊により

勧請され祀られたものだと

永福寺では伝えております。

 

修法や作法といった分野のことを

事相(じそう)といいます。

 

いわゆる密教と呼ばれる

真言宗や天台宗において

事相は極めて重要なもので

非常に多くの伝えがあります。

 

今回は主に事相を踏まえて

青龍権現を紐解いてみましたが

とても面白い指摘を

出来るように思います。

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南祖坊伝説が生きるふるさと

当山のございます豊崎町は

歴史が古い地域で

様々な伝承に彩られております。

 

豊崎町は古くは

七崎(ならさき)といいますが

現在の豊崎町よりも

かなり広い地域だったようです。

 

様々な伝承のうち

有名なものとしては

南祖坊(なんそのぼう)伝説が

挙げられます。

 

南祖坊は当山の前身である

永福寺の弟子となり

諸国修行の果てに

十和田湖の龍神となったと

語られる方です。

 

この伝説発信の拠点は

七崎だったそうです。

 

当山より西側の方に

滝谷(たきや)という地域があり

当山と滝谷の間には

「南宗坊」という地名があります。

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ちなみにですが

南祖坊には様々な表記があり

南蔵、難蔵、南宗坊など

何種類かございます。

 

当山の過去帳によると

先に触れた滝谷という地域も

かなり古い地域です。

 

滝谷には天満宮があり

こちらもかつては永福寺が

管理していたそうです。

 

この天満宮は

七崎より十和田方面へ

修行に向かう者が

立ち寄った場所と伝えられます。

 

南祖坊も立ち寄ったとの

伝承もあるそうです。

 

当山と滝谷の間には

南祖法師(なんそほっし)像が

お祀りされている所があります。

 

南祖法師(なんそほっし)とは

出家した南祖坊の尊称です。

 

この像は地元の篤信の方が

昭和9年に建立されたものだそうです。

 

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伝承や伝説は

“文献学的な歴史”とは

似て非なるものです。

 

活き活きと語り伝えられてきた

伝説はその時代時代に

受け入れられ

今に至っております。

 

この地域に今も残る

伝承や伝説を“活き活き”と

後世に託していきたいと願います。

“威光倍増”南祖法師(なんそほっし)

南祖法師(なんそほっし)尊像の

須弥壇(しゅみだん)を

ご奉納頂きました。

 

須弥壇(しゅみだん)とは

仏像などを安置する際に

お足下に設えられる

壇のことです。

 

(有)五戸木工の

中野久男(なかの ひさお)様に

とても素晴らしいものを

作っていただきました。

 

おかげさまをもちまして

南祖法師尊像が

より厳かに

お祀りされました。

 

中野久男様

誠にありがとうございました。

 

南祖法師(なんそほっし)とは

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)のことです。

 

法師とは

仏道にたけた方への尊称です。

 

南祖法師尊像への

“祈りの空間”が

徐々に整えられて

参りました。

 

南祖坊の伝説や

お寺の歴史は

後世に伝えるべき

地域の財産です。

 

本年8月に“発見”されるまで

長らくの間

南祖法師尊像は

お地蔵様であるとされ

お祀りされておりました。

 

平成28年8月に

しばらくの時を経て

“再び”お祀りされた

南祖法師尊像は

今の世に

そして後の世に

歴史と伝説を伝える

尊い御像です。

 

お寺にお運びの際は

是非お参り頂き

ご縁をお結び頂ければ

と思います。

 

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南祖法師(なんそほっし)尊像

南祖法師(なんそほっし)とは

南祖坊(なんそのぼう)のことです。

 

法師とは

仏道に長けた方への尊称です。

 

南祖坊(なんそのぼう)は

十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したとされます。

 

その南祖坊の御尊像が

当山にてお祀りされていた

ということが

本年8月初旬に“発見”されました。

 

これまで数十年間

お地蔵様と“勘違い”され

観音堂脇の八体仏(はったいぶつ)と

共に安置されておりました。

 

副住職が仏像の

御身拭い(おみぬぐい)がてら

尊容(そんよう)を観察した際

お地蔵様ではないことが判明したのです。

 

頭に頭襟(ときん)を戴くなど

修験者(しゅげんしゃ)の

装束(しょうぞく)を

まとったお姿の御像です。

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当山の歴史を踏まえ検証した結果

これは南祖坊であるという

結論に至りました。

 

いつの時代に作られたものかは

定かではありませんが

中々の古さであろうと思われます。

 

また

ご縁がありまして

(株)山村総本店の

社長であられる

山村雅雄様ご夫妻に

厨子(ずし)を御奉納頂きました。

 

山村ご夫妻には

衷心より感謝申し上げます。

 

この御像は

「南祖法師(なんそほっし)尊像」として

改めて当山観音堂にて

お祀りされております。

 

当山にお越しの際は

どうぞお参り下さいませ。

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