稀代の古刹 七崎観音⑤

当山本堂内の観音堂に

本尊としてお祀りされる聖観音は

七崎観音(ならさきかんのん)として

古くから大切にされてきました。

 

当山は前身である永福寺の時代より

七崎観音の別当をつとめております。

 

現在の七崎観音の仏像は

(盛岡)南部藩第29代藩主・重信公

により奉納されたもので

年に一度だけ御開帳されます。

 

毎年旧暦1月17日にのみ

御開帳され御宝前にて

護摩(ごま)法要が厳修されます。

 

本年は2月21日が御開帳です。

※詳細はコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

当山の開創は

圓鏡(えんきょう)という方です。

 

圓鏡大和尚は

弘仁8年(817)5月15日に

御遷化(ごせんげ、高僧の逝去の意)

されております。

 

七崎観音の由緒も

圓鏡大和尚の時代と

時をほぼ同じくした形で

伝承されております。

 

七崎観音は江戸時代までは

現在の七崎神社の地にあった

観音堂にお祀りされておりました。

 

七崎神社は明治の神仏分離政策の下

郷社(ごうしゃ)という格式高い

神社に改められました。

 

現在の七崎神社の御祭神は

伊奘冉尊(いざなみのみこと)

つまり天照大御神(アマテラス)の

母にあたる神です。

 

明治時代までは七崎観音を祀った

観音堂であったという歴史を

踏まえて伊奘冉尊を

御祭神としたのではないかと

拙僧(副住職)は考えております。

 

七崎神社の地は

七崎山(ならさきやま)

あるいは観音山(かんのんやま)

と呼ばれていたそうです。

 

七崎山は

霊験あらたかな聖地であり

かつては殺生禁断の地と

されてきました。

 

当山を承安元年(1171)に開基した

行海(ぎょうかい)大和尚は

全国を廻国していた際に

当地においでになられ

七崎山に杉を

北斗七星の形に植えたとされます。

 

そのうち残った3本が

市の天然記念物に指定されている

大杉だといわれます。

 

この行海大和尚は

村人を困らせていた大蛇を

改心させた所

地域の方に当地にとどまるよう

懇願されて草庵が結ばれたと伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説ゆかりのお寺です。

 

藤原氏の出自である

南祖坊(なんそのぼう)は

当山(かつての永福寺)に弟子入りをし

全国の霊跡霊場を巡った果てに

十和田湖に入定(にゅうじょう)され

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

という龍神となったというのが

十和田湖伝説の筋書きです。

 

その南祖坊は当山2世の

月法律師(天長8年(831)御遷化)の

弟子といわれますが

当山開基である行海大和尚の

弟子であるとの伝えもあります。

 

※行海大和尚についてはコチラもご参照下さい。

https://fugenin643.com/blog/糠部五郡小史に見る普賢院/

 

当山で所蔵する棟札に

享保18年(1733)のものがあります。

 

棟札表中央には

再建立當寺屋敷共

新今慶建立

當寺長久安全如意

快傅末々之住寺共

萬民愛敬云々…と

記されます。

 

快傅(かいでん)大和尚は

当山を中興(ちゅうこう)開山

された先師です。

 

ここでいう屋敷とは

庫裏(くり)のことを指すようで

棟札裏面には

快傅が当山で初めて

庫裏を建立したと記されております。

 

この時の詳細は不明ですが

棟札に「共」とあるので

快傅大和尚が本堂と庫裏を

建立されたのかもしれません。

 

この棟札によると

當寺屋敷を建立した際に

観音山(七崎山)に

杉を2000本余植えたそうです。

 

さらに現在の当山の地にも

様々な木々を植えたようで

杉のほかにも

松、ヒバ、ツキ、エノミ

クリ、サイガチ、クルミ

ナシ、モモ、カキなどが

植えられたと記されます。

 

七崎山(観音山)には

杉が2000本も植えられたのですから

その前後で旧・観音堂の地(現・七崎神社)

の雰囲気はかなり

変わったことでしょう。

 

どれが該当する杉であるかは不明ですが

樹齢800年以上の大杉とともに

現在から286年も昔に植えられた木々もまた

七崎山にそびえ立ち

霊験あらたかな雰囲気が

現在もなお保たれております。

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昭和30年頃の記録

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美しい萱葺(かやぶき)屋根時代の

当山本堂の写真です。

 

幼少期の現住職と

その兄弟と思しき

子どもたちも写っております。

 

資料の整理中に出てまいりました。

 

とても貴重な記録です。

 

本堂建替事業の進捗状況ですが

多くの方のご協力のおかげで

順調に進んでおります。

 

本堂裏手の用地取得に伴う

農地転用の手続きを

昨年冒頭より

進めていただいており

もう少しかかりそうとのことです。

 

この手続きが終了後に

いよいよ設計等に取り掛かる

ことになります。

 

本年は歴史的な一年になりそうです。

 

しっかりと推進させて頂きます。

 

多くの有縁の方と共に

成し遂げたいと切願しておりますので

引き続きご協力の程

お願い申し上げます。

 

▼本堂建替事業について

https://fugenin643.com/blog/新たな歴史を紡ぐ/

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拡がる輪

1/25に拙僧(副住職)妻が

西白山台小学校にて

「世界がもし100人の村だったら」

ワークショップを開催しました。

 

今回は親子レクにお招きれ

4年生の生徒の皆さんと

有意義な時間を

過ごすことが出来たようです。

 

拙僧(副住職)妻は

これまでに約30ケ国に赴いた

経験を持ちます。

 

大学院はイギリスの

イースト・アングリア大学で

卒業後は東京にて

アーユス仏教国際協力ネットワークに

職員として勤めておりました。

 

当山で現在取り組んでいる

様々な活動は

国際協力活動と関連を

持たせておりますが

拙僧(副住職)妻の経験に

依る所が大きいです。

 

様々な取り組みを初めて

数年が経ちますが

少しずつ活動の輪が

拡がってきたように思います。

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稀代の古刹 七崎観音④

現在当山本堂内の

観音堂に祀られる

七崎観音(聖観音)の仏像は

第29代藩主

南部重信公により

貞享4年(1687)4月に

奉納されたものです。

 

重信公がご奉納された

聖観音像は金銅仏(こんどうぶつ)で

当時は七崎観音の御前立(おまえだち)

としてお祀りされていたそうです。

 

かつて七崎観音は

御正体(みしょうたい)が本尊として

お祀りされていたといわれますが

詳細は不明です。

 

この重信公が納められた

聖観音像が金銅仏であることには

当時の当山の本坊である

盛岡永福寺の聖天(しょうてん)

との関わりが考えられ

事相(作法)的な意味・意図が

踏まえられてのものと思われます。

 

重信公は南部藩が

「盛岡藩」と「八戸藩」に

分かれた当時の「盛岡藩」主です。

 

重信公が聖観音像を納められたのは

貞享4年(1687)年4月ですが

同じ年の11月28日に

永福寺41世住職である

宥鏡大和尚は御遷化(ご逝去)

されております。

 

宥鏡大和尚の不調も

観音像を奉納された

一要因である可能性もあります。

 

宥鏡大和尚の晩年

延宝8年(1680)1月に

盛岡永福寺は火災により

伽藍が「焼亡」しております。

 

一説にこの火災は

歓喜天(かんぎてん)という尊格の

天罰であると宥鏡大和尚は

捉えられたと伝えられ

そのため再建にあたっては

本尊壇とは別に

歓喜天の修法壇である

聖天壇(しょうてんだん)を

本堂に構えるなどされたそうです。

 

永福寺の本尊は十一面観音で

現在も内々陣に祀られますが

修法本尊としては

歓喜天が祀られております。

 

延宝8年の火災の後

諸堂の再建が図られ

元禄7年(1694)には

境内三万坪にも及ぶ一大伽藍が

整えられることになりますが

この時の藩主が

29代南部重信公です。

 

この重信公と永福寺42世住職である

清珊(せいさん)大和尚が

元禄4年(1691)年になされた

連歌(れんが)により

盛岡という地名が

定められたといわれます。

 

清珊大和尚は

江戸の知足院(ちそくいん)から

永福寺においでになられた方で

「筑波の僧正」とも呼ばれました。

 

盛岡永福寺は

歓喜天(かんぎてん)

という尊格をとても重要視しました。

 

歓喜天は聖天(しょうて(で)ん)

とも呼ばれます。

 

聖天の本地仏(ほんじぶつ)は

十一面観音とされ

南部藩の祈願所として

鬼門鎮護・領民豊楽の御祈祷では

歓喜天の秘法も

修法されたそうです。

 

歓喜天に関係する経典には

歓喜天の造像の重要性について

触れられており

そこでは具体的な素材も述べられ

その中に金銅も含まれております。

 

懸仏(かけぼとけ)や

小さな金銅仏を

寺社仏閣や霊場に納めることは

よくあることですが

重信公は歓喜天を大切にされた方で

かつ観音像を七崎の観音堂に

奉納した当時の住職である

宥鏡大和尚が晩年殊に

歓喜天を大切にされたことを踏まえると

歓喜天造像の作法になぞらえた形で

聖観音像も造像されたのではないか

と考えられるように思います。

 

また重信公の兄でもある

28代藩主の南部重直公も

七崎観音を篤く大切にされた方で

病気平癒の報賽(ほうさい)もあわせ

落雷により焼失した旧・観音堂を

再建された上に

末社十二宮を建立し

さらには多くの御寄進を

されております。

 

その際に用意された

明暦2年(1656 )の棟札を

当山で所蔵しております。

 

重信公は

貞享4年(1687)4月に聖観音像を

奉納されますが

大正期の神社の資料では

同年の5月20日に

重信公が「本社を再営」した

とあります。

 

貞享4年の棟札は

当山にはありませんが

それが事実であるとして

「本社」が観音堂を意味するとすれば

明暦2年(1656)年の再建から

31年後の再々建ということになるので

何かしらの災禍に

見舞われたのかもしれません。

 

南部氏と七崎観音を考える上で

旧・観音堂が

新羅堂でもあったことは

重要なことかと思います。

 

旧・観音堂は

南部氏代々の御守護として

新羅三郎義光公が合祀された

新羅堂(しんらどう)でもありました。

 

櫃(ひつ)に納められた

甲(かぶと)が祀られていたそうです。

 

さらには元服の御髪も

納められていたようです。

 

七崎観音が大切にされたのは

藩領安穏・領民豊楽などの

諸願成就への祈願に加え

南部氏の祖先崇拝に

深く関わるということも

大きな要因であったと

いえるでしょう。

 

重信公の父は

27代藩主の利直公です。

 

利直公は

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)の

生まれ替わりであるという

言い伝えがある藩主です。

 

南祖坊とは

当山2世の月法律師の

弟子として永福寺にて修行して

全国練行の果てに

十和田湖に入定(にゅうじょう)し

青龍大権現という龍神になったと

伝えられます。

※詳しくはコチラ↓

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑧/

 

現在の七崎観音は

重信公が貞享4年(1687)に

納められた聖観音(秘仏)で

年に1度だけ

旧暦1月17日のみ御開帳され

その御宝前にて護摩法要が

厳修されます。

※護摩法要の詳細はコチラ↓

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

現在の本堂は建替のため

近い将来取り壊される予定なので

現在の本堂での御開帳は

本年が最後になろうかと思います。

 

今回は重信公の観音像を中心に

(話題が何度もそれながら)

七崎観音について見てまいりました。

 

七崎観音の歴史は

実に奥深いものがあります。

 

ここ最近は

七崎観音の行事が近いこともあり

数回に分けて紹介させて頂いておりますが

後世に託すべき尊いものなので

拙僧(副住職)としても

出来る形でバトンを

未来へ繋げていきたいと思います。

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観音様

観音堂

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寒暖差

本年最初の東京出張へ

行ってまいりました。

 

極寒の八戸からの上京だったので

非常に暖かく思いました。

 

現在拙僧(副住職)は

ご縁がありまして

総合研究院現代教化研究所

なる所に所属しております。

 

本年も探求(研究)に励ませて頂きます。

 

宗務所がございます護国寺は

節分の準備で舞台の骨組みが

境内に設えられておりました。

 

八戸では「真冬」の印象が強いのですが

春の訪れがもうすぐであることが

感じられた一日となりました。

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新春の写経カフェ

本年最初の写経カフェが

開催されました。

 

厳しい冷え込みで

お足元が悪いにも関わらず

各地よりおいで頂きまして

和やかな年初の写経カフェとなりました。

 

今回は法話の時間が

たっぷりあったので

様々なことを

お伝えさせて頂くことも出来ました。

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おもいが振り廻らされることを願う

当山では

ご法事や位牌堂に

お供えされたお供物の一部を

ひとり親のご家庭や

各施設などに“おすそわけ”する

おてらおやつクラブの活動に

携わらせて頂いております。

 

本年最初の発送作業を行いました。

 

捧げられた尊い“おもい”が

振り廻らされることにより

ぬくもりのあるひとときが

うまれることを願っております。

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意味の大切さを

マンダラエンディングノート

ワークショップが開催されました。

 

ファシリテーターの

ハーモニールイさんの進行の下

昨年10月より開催を重ね

今回が最終回でした。

 

法話を交えながら

マンダラエンディングノートの

ワークを進めるワークショップでしたが

ご参加の方は

多くのテーマに触れながら

多くのことを考えるきっかけに

なったのではないかと思います。

 

今回は「お墓」と「ご供養・法事・仏壇」が

テーマとしてとりあげられました。

 

いずれもが深い意味が託され

我々が生きる上での尊いお諭しとなり

心の拠り所ともなるものですが

その内容があまり踏まえられず

形のみになりがちなのかもしれません。

 

拙僧(副住職)としては

お墓の歴史であったり意味であったり

供養や仏壇の仏道的な意味などを

お伝えさせて頂いたつもりです。

 

4ヶ月にわたっての

マンダラエンディングノート

ワークショップは

改めて根本的に大切なことを

確認させて頂く機会になりました。

 

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キュウリいろいろ

昨日と本日は

センター試験が実施され

多くの方が受験された

ことかと思います。

 

当山有縁の方が

ご親戚の受験生のためにと

当山の七崎観音のお守りを

頂きたいとのご連絡があり

お渡しさせて頂きました。

 

ふと国語を解いてみようと思い

試験を解いてみました。

 

本年のものかと思いきや

2018年の問題でしたが

久しぶりに受験問題を

解いてみました。

 

古文漢文でかなりの失点を重ね

結果は7割ちょっとの得点でして

流石にブランクを感じました。

 

受験生の皆さん

お疲れ様です。

 

国語第二問(小説)の内容は

35年前に息子を亡くし

一年前に夫を亡くした

女性のお話でした。

 

子どもを亡くした後の

夫婦の日常や

夫を亡くした後の

女性の日々の描写が

絶妙な文章だと個人的に思います。

 

出典は

井上荒野(あれの)氏の

『キュウリいろいろ』

という小説とのことです。

 

センター試験の問題中の文章に

亡き子どもと夫の

ご供養のためにお盆の

精霊棚(しょうりょうだな)に

飾るキュウリについて

触れるくだりがあります。

 

小説のタイトルにキュウリと

あることと恐らくは

関係していると思います。

 

問題文しか読んでおりませんが

親しい身内を亡くした方の

心のあり方について

考えさせられるような小説でした。

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年初のワークショップに参加しませんか?

本年も寺子屋ワークショップを

開催してまいります。

 

当山では自利利他(じりりた)を

大切な理念として

様々な催事をしております。

 

当山では寺子屋の催事で

お納め頂く御浄財の一部を

アーユス仏教国際協力ネットワーク

への寄付を通じて

国際協力活動に

役立てさせて頂いております。

 

寺子屋ワークショップに

ご参加頂き精進頂くことが

そのまま国際協力活動にも

重なるという取り組みです。

 

平成30年は

多くの方のご協力のおかげで

188,844円もの寄付を

させて頂くことが出来ました。

 

今月は

1/21マンダラエンディングノートws

1/24写経カフェ

が開催されます。

 

いずれも参加者を

募集しておりますので

ご興味をお持ちの方は

お気軽にご連絡下さいませ。

 

▼エンディングノートws詳細

https://fugenin643.com/blog/参加者募集中お寺エンディングノートws/

 

▼写経カフェ詳細

https://fugenin643.com/blog/写経カフェのお知らせ201901/

寺子屋ロゴ

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