南祖坊伝説の諸相② 阿闍梨と化す南祖坊

拙僧(副住職)は昨年秋より

真言宗豊山派の研究機関に

所属することになって以降

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説を

仏教的視点から改めて紐解き整理し

研究を進めております。

 

研究を進めているとはいえ

他にも研究テーマがあるので

南祖坊伝説について

本年は史料の整理や

史料収集や参考資料・文献の収集が

主な作業となりました。

 

研究のための準備といったところです。

 

とはいえ

新たな気づきがあったり

新たな道筋が見えたりと

有意義なことがありました。

 

まとめるにはかなりの時間が

かかると思いますが

丁寧に整理したいと思います。

 

前置きが長くなりましたが

今回は「南祖坊伝説の諸相②」として

史料に記される“南祖坊像”の

一旦が垣間見られる部分を

少しだけピックアップ

したいと思います。

 

『来歴集』(元禄12(1699)年)

という書物に所収の

「十和田沼 亦十和田」に

難蔵坊(南祖坊)は

額田嶽熊野山十瀧寺住職で

幼名を額部麿といい

神通力があったとあります。

 

また「或説」として

南蔵坊(南祖坊)は

糠部三戸永福寺六供坊の

蓮華坊の住侶であり

斗賀の観音堂を建立した

ことが伝えられます。

 

さらに同箇所には

永福寺什物として

南祖坊が自ら画いた

両界曼荼羅があり

裏には康元(1256-1257)の年号が

書いてあったとあります。

 

さらに続けて

その曼荼羅は

延宝年中(1673-1681)の

永福寺が焼失した際に

燃えてしまったと書かれております。

 

これとほぼ同内容のことが

『吾妻むかしものがたり』

で紹介されております。

 

『盛岡砂子』『邦内郷村志』

『奥々風土記』では

南祖坊が自ら書いた

不動尊一軸があり

その不動明王はあたかも

生きているようで

“霊容猛威”でその両目は

拝者を追うかのような

威容であるといったことが

紹介されております。

 

この不動尊一軸ですが

明治になり廃寺となった

盛岡永福寺が再興された記念に

発行された『永福寺物語』によれば

所在不明とのことです。

 

『盛岡砂子』では

永福寺住持(住職)は

「位 権僧正に至る」とあります。

 

多くのことに触れながら

お話すれば良いのですが

かなり専門的になってしまうので

細かな説明は省略してお伝えすると

南祖坊が阿闍梨(あじゃり)という

非常に尊い位の

僧侶として描かれております。

 

さらっと書かれてある部分ですが

仏教的(真言宗的)視点で

紐解くと重要な意味が

含まれているのです。

 

曼荼羅を画くことが許されるのは

阿闍梨(詳しくは伝燈大阿闍梨)です。

 

不動尊一軸を自らが画いたという

部分からも南祖坊が阿闍梨として

描かれていることが伺えます。

 

記しはじめると

止まらなくなりかねないので

ここまでにしたいと思います。

 

今回は

「南祖坊伝説の諸相②」として

阿闍梨として描かれる南祖坊について

紹介させて頂きました。

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南祖坊伝説の諸相① 中尊寺姥杉

『平泉雜記』という書物に

南祖坊(なんそのぼう)が

植えたという伝えのある

姥杉(うばすぎ)について

記されております。

 

「中尊寺姥杉」の伝説として

以下のように記されております。

 


姥杉は中尊寺鎮守白山宮の傍にあり

此樹四丈八尺ありしが

今は幹も枯朽うつぼ木となれり

枝條少し残て

猶緑葉を存す

 

郷説に

昔本州南部

南宗房と云し僧

手自植しと云

 

近世此杉

根を香となし香會に用ひ

雅玩と為とかや

 

中條吉村公道奥と

名を命じ玉ひしとかや

未だ其の實否を不知

 

南宗は本州南部の産にして

康元年中(1256〜1257)の人と云り

 

慈氏菩薩の下生を待とて

鹿角郡十和田沼に入りて蛇と變じ

今に水底に居て

種々奇異の事多しろ

南部の故人語れり

 

南宗か事

予所聞を書して

別に一小冊と為す


 

ここで南祖坊は

鎌倉時代にあたる

康元年中(1256〜1257)の人であり

中尊寺鎮守である白山神社のそばに

杉を手植えし

それが約15メートルもの

大きさになったとされております。

 

白山神社の由緒によれば

慈覚大師円仁が

白山を鎮守として勧請し

自ら十一面観音を作り

それを白山権現と号したとされます。

 

この十一面観音の信仰は

奈良時代頃から盛んだったようで

“最古の十和田湖伝説”が収録される

室町時代の仏教書である

『三国伝記(さんごくでんき)』自体に

十一面観音信仰との関係が見られます。

 

白山は

石川県と岐阜県にまたがる山で

白山を開山した

行者の泰澄(たいちょう)が

越前・越知山(おちさん)での修行中

霊夢により白山へ登ることを決めます。

 

そして山麓の林泉(りんせん)で

妙理権現(白山神)と逢い

その導きにより頂上に登り

十一面観音を感得したと

伝えられます。

 

当山は永福寺発祥の地ですが

その永福寺は十一面観音を本尊とし

奥州六観音の一つとして

田村将軍によって創建されたとの

伝えがあります。

 

諸要素を仏教的視点を踏まえて

細かに見てみると

十一面観音との関係が

驚くほど多く見られます。

 

少し専門的な話になりますが

近世までにおいて

修験者や山伏をはじめとした語り手により

伝説として語られる過程で

南祖坊と青龍権現が

七崎観音(正観音)との関係の中で

本地と垂迹として

捉えられて行った

一方で

修験者や山伏ではない

僧籍を持つ僧侶が担い厳修された

法会や祈禱会などの

行法・修法においては

深秘に仕立てられた

次第に則って藩の祈願寺としての

役割を果たす中で

十一面観音立てや

不動明王、愛染明王立ての

ものを使用していたようです。

 

それは永福寺住職で

事相(じそう)の大家とされた

ご住職が残されたものを始めとした

多くの次第の目録から

推察されることです。

 

さらに拙僧(副住職)が

個人的に注目したいのは

康元という年号です。

 

康元は

1256年10月5日から

1257年3月14日までで

当時流行した天然痘を

断ち切るために

災異改元(さいいかいげん)が

なされた鎌倉中期の年号です。

 

『吾妻むかし物語』によれば

永福寺の什物には

難蔵(南祖坊)が書いた

両界曼荼羅があり

裏に難蔵(南祖坊)の名と

康元の年号月日が

記されており

それは惜しいことに

延宝年中(1673〜1681年)に

焼失したとされます。

 

ここでも

康元の年号が見られます。

 

天然痘が大流行した

康元という年号と

南祖坊が関係させられている点は

様々に検討する余地が

あろうかと思います。

 

永福寺が藩の祈祷寺と

位置づけられていたことを

踏まえて考えれば

鎮護国家

藩領安全

物故者供養など

様々な祈りが託されたがゆえの

ことなのかもしれません。

 

伊達藩の重要な寺院である

中尊寺の鎮守に

枯れて朽ちつつある杉が

南部藩の重要な寺院である

永福寺有縁の南祖坊手植えと

伝えられる杉のエピソード。

 

広く十和田湖南祖坊伝説が

知られていたことを

『平泉雜記』から

伺うことができます。

 

中尊寺はかつて

真言寺院も多くあったそうで

江戸初期には中尊寺から

永福寺に住職が

おいでになられたこともあります。

 

そういったことも

深く関わっていると思われます。

 

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七崎観音の歴史を探る

大正十一年に発行された

『三戸名所旧蹟考』附録に

「七崎神社の事 并び圖」として

七崎神社について記述があります。

 

概要の最後に

社司 白石守

社掌 小泉幸雄

と記されております。

 

白石家も小泉家も

明治以前までは

修験を担っていた

とても由緒ある家柄です。

 

小泉幸雄氏は

『郷社七崎神社誌』を

編集した方でもあります。

 

七崎神社は明治まで

七崎山徳楽寺という寺院で

当山観音堂に祀られる

七崎観音(聖(正)観音)を

本尊としておりました。

 

七崎観音は

白銀に祀られますが

夢告を受けた諸江卿が

七崎(現在の豊崎)に遷座したと

伝えられます。

 

七崎に祀られることとなった

七崎観音は当初

現在の七崎神社の地ではなく

当山から東方

約3〜400メートルの場所に

お祀りされたと伝えられます。

 

その場所は

元宮(もとみや)と称して

現在の七崎神社の地に

遷座した後も

旧阯としてお祭りが開催され

神聖な地とされたようです。

 

事細かな記述ではありませんが

今回は七崎神社の概要が記される

『三戸名所旧蹟考』附録

「七崎神社の事 并び圖」

を以下に引用させて頂きます。

 


 

七崎神社の事 并びに圖

一 靑森県陸奥國三戸郡

豊崎村大字七崎字上永福寺

七崎山に鎮座郷社七崎神社といふ

 

祭神

伊耶那美神

 

相殿

大國主神、事代主神、少彦名神

天照皇大神、宇迦之御魂神

熊野神、菅原道真大小二神

 

備考

天照皇大神より四柱は

維新の際谷支村より

合祭せるものなり

 

一 創立の由緒

南部四條中納言藤原諸江卿

勅勘流刑を蒙り漂泊の身となり

階上郡(三戸郡九戸両郡の)

侍濱に着き給ひしに

天長元(824)年二月下旬の頃より

海上一面金色を呈し

夜間海底の鳴動を聞く事

數十日に至る

 

同年四月七日

海上稍穏やかに

浪風静かなれば

卿漁装を整ひ小舟に棹し

沖中に出でて佇み小網を張りて

海鱗を漁獲せんとしに怪なる哉

網重くして容易に揚ることを得ず

 

卿心密かに之を訝り

益々気を皷し勇を撫し辛ふじて

引揚るを得

之れを見給ふに

豈圖らんや異相の霊體にてありき

依て一の小社を新築し

御神體を安置し後ち

承和元(834)年正月七日に至り

霊夢に依り當七崎山に遷幸し奉り

諸江卿 供奉斎仕せり

 

諸江卿の墓所は荒神と奉称し

本社を距る三町餘の場所に祭り

毎年八月十三日に祭典執行せしが

維新の際 廃社となり當社境内に移遷す

 

一 本社庭前に大沼ありて

大蛇住て村民を害する事ありしが

承安年中行海法師當社に来り

丹誠を抽て密法を執行し

遂に之を除去せしかば

沼の水いつとなく絶て

今小泉家の畑地となり

即ち水源に一宇を建立して

水上大明神と祭りたり

 

其の岳蹟を顕存せんが為め

境内に七星の形を取り

七本の杉を植て奉納せしが

其の内三本成長して

現今三丈五尺の周圍あり

又其時一宇の草創を立てたりしが

則 寶照山普賢院と號し

行海法師の開山にして今尚不存せり

 

以上 傳話記に詳かなり

 

因にいふ

十和田山に祭りし

南祖坊(南宗ともいふ)は

この行海法師弟子となり

學びたること十和田記に詳かなり

往古より當社奉仕の別當

毎歳五月十五日交番に参詣せり

十和田山別當より

當社え神饌料として

二百文の靑銅を送附せり云々

 

一 承和元(834)年白銀より

遷宮の當時は長苗代村は

大洋に接し大なる港にして

今の三戸郡下長苗代村小字内港は

大小の船舶泊せしとなり

而して此の七崎山は

七の崎の一つにして

遂に本村の名となりしといふ

 

一 寛永二(1625)年十二月

南部二十七代信濃守源朝臣利直公

神門御造営あり

 

次に二十八代山城守重直公

(七戸隼人といへり)

城主と被為成給ひし時

霊験なりしといふ

明暦元(1655)年九月七日

五石五斗三合の社領御寄附あり

 

次に二十九代重信公

貞享四(1687)年五月廿日

本社御再営あり

 

次に三十二代大膳大夫利幹公

正徳二(1712)年四月

七崎山四ヶ所に古例を以て

殺生禁札建てられたり

 

一 維新前は南部家に於て

維新保護せりと雖も

現今氏子において負擔

大小祭典の費用を救ふのみ

 

一 毎歳舊四月七日は神霊

天長年間海中より出現の古例により

太郎浦邊の黒森と云へる處に

神輿渡御し(黒森の傍らに小沼あり

往古より今に水絶えず)奉り

神楽を奏して祈禱ありしが

當時別當二人

社人十二人ありて

五石宛の免租地を有せしを以て

祭費の支途に苦まざるも

維新以還は變り

氏子の負擔に係るを以て其制を略し

村内字瀧谷迄渡御祭典を執行せり

 

一 當社は地方の古社たるを以て

維新の際 西越村 手倉橋村 浅水村

扇田村 豊間内村の

各村郷社に列せられたり

氏子は扇田豊間内七崎の

二ヶ村とは尤も

祭典費の負擔は

七崎村一ヶ村のみなり

 

一 建物

本社 四間四面 茅葺 壹棟

貞享四(1687)年五月

重信公御再営

 

假殿 二間四面 同 同

天保十四(1843)年

津嶋氏の修覆

 

神殿 二間三間 同 同

寛永二(1625 )年十二月

利直公造営なり

 

神楽殿 二間三間 茅葺 壹棟

天保七(1836)年二月再建

 

荒神社 一間に半間 板葺 同

年代詳からず

 

薬師社 一間に半間 同 同

明治十五(1882)年四月

村中にて再営

 

一 地勢

本社境内の地勢は本村月山と称る

山村の東北裾野に位し

東北は稍低しと雖ども

之を四段に経営し

本社其の最高位に坐し

堂宇の方向も亦低方に

向へるを以て却て風致を

添るが如し

 

一 寶物 社地千三百九十坪

一 神鏡 経一尺に八寸 二面

一 福神の像木造 二體

彫刻無銘年代詳かならず

一 鎗 一筋

無銘古来より傳来

 

以上

 

社司 白石守

社掌 小泉幸雄

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多くの情報が

散りばめられておりますが

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説

についても触れられており

ここでは普賢院開山である

行海(ぎょうかい)大和尚の

弟子であると記されます。

 

様々なバリエーションを持つ

十和田湖南祖坊伝説ですが

行海と南祖坊という

“華々しい”伝説をもつ二人が

師弟として語られる

このストーリーには

ある種のロマンを感じます。

かつての七崎山徳楽寺 〜普賢院と七崎神社と永福寺と〜

『新撰陸奥国誌』(しんせんむつこくし)

という書物があります。

 

これは明治9(1876)年に

国に提出された

青森県の地誌です。

 

この中に

七崎山徳楽寺(現在の七崎神社)の

かつての様子がうかがえる

記述があります。

 

徳楽寺はかつて当山が

別当寺として管理していたお寺で

七崎観音として親しまれた

聖観音が本尊でした。

 

七崎観音の由緒は古く

様々な伝説に

彩られた観音様です。

 

以前ブログにて

七崎観音の由緒の伝説について

触れたのでよろしければ

のぞいてみて下さい。

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/かんのんまいり-清水観音/

 

徳楽寺は観音堂

あるいは新羅(しんら)堂とも

呼ばれておりました。

 

新羅堂と呼ばれるのは

徳楽寺(観音堂)が

新羅三郎義光公を合祀したゆえです。

 

伝えによると

七崎観音は七崎(現在の豊崎)に

遷座された当初は

当山の南にあたる

現在の七崎神社の位置ではなく

当山の東方

約3〜400メートルの場所に

お祀りされたとされます。

 

当初の場所は

元宮(もとみや)と称します。

 

そこから現在の七崎神社の位置に

遷座されたわけですが

その年代は不明とされます。

 

元宮については

今回紹介する文章でも

触れられております。

 

南の方角は

観音様を象徴する方角でもあり

伽藍やお堂の配置にも

曼荼羅思想を通わせる伝統がある

密教の視点からすれば

そういったことも踏まえて

元宮から現在の七崎神社の地に

七崎観音を遷座して

七崎山徳楽寺(現在の七崎神社)

が整えられていった

と考えることが出来ます。

 

毎年9月7日は

七崎神社の秋の大祭です。

 

豊崎小学校・中学校の生徒による

七崎神社奉納相撲大会が

神社境内にて行われておりましたが

少し前より会場は小学校に変わり

日程も大祭の日ではなくなりました。

 

だからというわけではありませんが

この秋の大祭の日にあわせて

七崎神社の歴史に触れることも

意味のあることかと思います。

 

七崎神社の歴史を見ることは

徳楽寺(現在の七崎神社)と

永福寺と普賢院の

歴史を振り返ることでもあります。

 

ちなみにですが

「普賢院開基」とされる

行海(ぎょうかい)大和尚は

全国行脚をしていて

この地に立ち寄られた際に

現在の七崎神社の地が

霊験あらかたであり

修行にふさわしいとして

北斗七星の形になぞらえて

杉を植えたとされます。

 

北斗七星は仏道では

息災(そくさい・平和の意)の

象徴でもあります。

 

今なお

七崎神社でそびえる

大杉の3本は

7本のうち生き残ったもの

とのいわれがあります。

 

また行海大和尚は

村人を苦しめていた大蛇を

“改心させた”所

村人に大変感謝され

この地にとどまるように懇願され

お寺が建立されたとの伝説があります。

 

これらの伝承を踏まえるに

永福寺の後に

当山を引き継ぐことになる

「普賢院」というお寺は

もともとは現在の七崎神社の方面に

あったようにも思われます。

 

火災により古文書が

焼けてはいるのですが

“元祖普賢院”は永福寺の門前に

あったのかもしれませんし

七崎神社の地に

あったのかもしれませんし

全く別の場所に

あったのかもしれませんし

現在のような伽藍が整ったお寺ではなく

修験者と同じ様に

平屋の建物に「普賢院」を名のって

この地に住まわれたのかもしれませんし

様々に想像は膨らみます。

 

『新撰陸奥国誌』には

七崎村(現在の豊崎町)に

ついての記述があります。

 

少し長いですが

翻刻された資料があるので

引用して紹介させて頂きます。

 

引用中の色分けですが

オレンジは修験者や徳楽寺を含む

当山に関連するもので

グリーンは徳楽寺の行事です。

 

引用にあたって

丸括弧の部分は

引用文献における

注意書きです。

 

角括弧のものは

語句を足した部分と

読み仮名をふった部分と

原文が間違っていると思われる箇所を

訂正した部分です。

 

『新撰陸奥国誌』は

お読み頂ければ分かるように

地域の方への「聞き取り調査」

を交えての地誌です。

 

これまあくまでも

明治初期の地誌なので

汲みきれていない部分もありますが

“当時の感覚”が

垣間見える貴重なものです。

 

徳楽寺時代の七崎神社は

一体どのような所で

いかなる行事があったのかなど

この引用を通して大まかに

感じて頂けるかと思います。

 

細かな内容については追々

説明させて頂きたいと思います。

 


七崎村

【中略】

当社は何の頃の草創にか

究て古代の御正体を祭りたり

旧より正観音と称し

観音堂と呼なして

近郷に陰れなき古刹なり

 

数丈なる杉樹

地疆に森立して空に聳ひ

青苔地に布て如何さま

物ふりたる所なり

 

去は里人の崇仰も大方ならす

 

四時の祭会は元より

南部旧藩尊敬も他の比にあらす

常に参詣も絶えす

廟堂の構界区の装置まて

昔を忍ふ種となる所なり

 

堂は悉皆国知の修営にして

山城守重直

(始三戸に居り后盛岡に移る)

殊に尊信し

五百五石五斗三升三合を寄附し

繁盛弥益し

盛[岡]の永福寺 別当し

当所には普賢院を置き

外に修験 善覚院 大覚院

社人十二人 神子一人

肝煎等の者まて悉く具り

普賢院に十五石

善覚院に五石

大覚院に五石三斗

社人 神子 肝煎 各五石を分与し

 

明治元年以前は

毎月十八日 湯立の祈禱あり

 

正月七日◻丑の刻 護摩祈禱あり

 

三月 鳴鏑(なりかぶら)の祈禱あり

ヤフサメと云う

 

四月七日の◻或は昔出現ありし所なりとて

八太郎(九大区一小区)に旅所ありて

黒森浜に輿を移し

其時 別当 役々残らす扈従し

氏子百五十人余

その他遠近信仰の従相随ひ

八太郎浜は群参千余人

海上には小艇に乗して

囲繞すること夥し

旅所は黒森にありしか

戊辰後これを廃し

 

五月五日は四十八末社御山開と

唱える祈禱あり

(今末社は彊内に十二社を存す

当時は在々の山間等

数所にありと云う)

 

八月六日より十二日まで

荒神祭とて四条諸江郷の祭あり

 

同十三日中の祭と唱て

五月端午の祭と同式あり

 

同十七日 観音堂大法会あり

 

九月五日 御留(おとめ)の祭と云て

五月五日の祭と同じ祭あり

 

十二月十七日 年越しの祈禱あり

 

此の如く厳重の法会を

修行し来りたる

奇代の古刹なりしに

何故に廃除せしにや

 

明治三年 神仏混淆仕分の節は

三戸県管轄にて

県より廃せられたりしにて

元来観音を祭りし所なれは

神の儀に預るへき謂れなく

村民の昔より

崇め信せる観音なれは

旧貫を痛願なしけれとも

 

了に仏像は元宮と云て

壊輿祭器を納め置く所に

安置すへきに定れり

 

元宮は

往古草創せる旧阯にして

永福寺より南に当り一丁

(字を下永福寺と云う)

一間半四方の堂あり

(東に向ふ)

破壊に及ひしかは

修覆中は仮に

旧社人 白石守か家に安す

 

観音堂は元より

神社の結構に異なるを

廟殿の備もなく

仏像を除て其ままに

神を祭れはとて

神豈快く其の斎饌を受へけんや

 

この廃除せる根源は思に

仏子の徒僧衣を褫て復飾せんと

欲するに外ならす

 

左許の古刹を壊て

神の威徳を汚蔑すかの

小児輩土偶人を配置して

戯弄するに異ならす

 

昔は仏子の度牒を受けて

律を壊る者は還俗せらるる

布令なりけれは

一たひ仏子たるもの

還俗するは

罪人と同く

仏子甚厭ひたりしと

◻◻の如く異なれり

 

社人の伝て

観音は正観音なと云伝れとも

形丸く径五寸厚二分の板銅にて

像は高出たるものにして

十一面観音の容に見ゆ

然れとも旧年の古物

形像定かに弁へからす

 

旧数枚ありし由なりしか

正保(1645〜1648)の

頃にや天火に焼し時

多消滅し全体なるもの

僅に一枚を存す

缺損たるものは数枚ありと云う

 

言か如んは則

御正体と称する古代の物にて

神仏共に今世まま存す

社人其何物たるを知らす

神祭豈難からすや

 

然るに里人

又七崎神社由来と

云ことを口実とする

 

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナギノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれり

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

 

其文に

【棟札(当山所蔵)の文言は省略します】

とあれは証とすへし

 

又遙后の物なれとも

封 奉寄附七崎山聖観世音菩薩

右に安永四乙未年(1775)

左に四月七日

別当善行院と■付し灯籠あり

 

旧神官小泉重太夫か祖

初代 泉蔵坊と云るもの

元禄中(1688〜1704)

別当職となり

大学院 正学院 正室院等あり

 

十一代大学院

明治四年正月復飾し神職となり

小泉一学と改め

子 重大夫嗣

同六年免す

 

同 白石守か祖 

初代 明正院 承応中(1652〜1655)

別当となり后

行学院 善正院 善光院 善行院

善覚院 善教院 善道院 善明院等あり

 

十五代の裔

善行院 明治四年正月

神職に転じて白石守と改め

同六年免せらる

 

祠官兼勤五戸村稲荷神社新田登

 

寺院

普賢院(境内四百八坪)

支村永福寺の西端にありて

旧観音堂の別当なり

 

大和国

式上郡長門寺小池坊末寺真言宗

宝照山と号す

 

建仁中(1201〜1203)の

建立の由伝れとも

往年火災に罹て記録を失し

詳悉ならす

寛保元年(1741)辛酉十一月

快伝と云る僧の中興なりと云り

 

本堂

東西六間南北七間

本尊は愛染明王 東向

 

【以下、省略】

 

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〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

(みちのく双書第19集)

pp.22-30。

糠部五郡小史に見る普賢院

明治36年に出版された

『糠部五郡小史』という書物があり

今に多くの歴史を伝えております。

 

明治期は国家をあげての

一大変革期であり

それは「宗教」においても

同様でした。

 

この時期には

寺社仏閣の「歴史」の「見直し」

あるいは「再編成」が行われました。

 

明治・大正に編纂された

地誌や歴史書は多く

今では翻刻されているものも増えました。

 

寺社仏閣の縁起や由緒は

きっちりとした文書として

現在にいたるまで

代々継承されているケースは

とても稀といえます。

 

当山もしかりで

火災により古文書の類は焼失しており

永福寺にしろ

普賢院にしろ

徳楽寺(現在の七崎神社)にしろ

明確な“史実として”の由緒は不明です。

 

ついでながら大切なことなので

触れさせて頂きますが

“史実として”ということ以上に

寺社縁起では

神仏や権現・権者に仮託されて

編まれることが多いです。

 

例えば

東北地方における

寺社縁起では

坂上田村麻呂将軍伝説

慈覚大師伝説

聖徳太子伝説などが

各所で見られますが

これを史実か否かという視点だけで

紐解こうとすると

本来的な意味合いや

そこに託されたおもいを

汲み取ることは難しくなります。

 

現在でもそうですが

寺社縁起の類は

口伝として伝えられる所が多く

明治・大正期の書物からは

江戸末期頃までに

どのような縁起・由緒として

捉えられていたかを

垣間見ることが出来ます。

 

『糠部五郡小史』に見られる

普賢院の由緒について

紹介いたします。

 

諸説伝えられる所の一説です。

 

以下、引用です。

※西暦は引用者です。


 

寶照山普賢院は

豊崎村大字七崎字永福寺にあり

眞言宗大和國式上郡

初瀬村長谷寺末にして

開基は承安元(1171)年十一月

行海法師の開山なり

 

本尊は愛染明王

脇立左右 不動明王

傍ら七崎観音を祀る

 

寛永二(1625 )年十二月

二十七代南部利直公

祈願處とせられたり

 

本堂 八間に六間

庫裡 五間半に三間半

 

鐘楼は壹間半四面

梵鐘 壹釣

 

寶物 鏡一面 日の丸形

藤原光長の作にして

径四寸九分 量五十九匁

 

扁額 一丈三尺六寸 巾一尺五寸

東都 三井親孝の書とあり

文化十三(1816)年

菊池武群寄附

掛物一軸は狩野休伯の書

傳来詳らかならず

 

境内六百五坪なり

 

略縁起

抑 当山の由来を尋るに

承安元(1171)年十二月

行海法師 本村に回歴す

 

其時に際し

七崎神社境外に三つの沼あり

大蛇之に住み

屢々村人を害し

法師之を聞き

心窃に其惨状を恤み

同社に詣でて身を以て

犠牲となし

釈法秘術を行ひ

精魂を盡す祈念する事三週日

大蛇終に退滅す

 

法師袖を拂て去らんとす

 

村民愛慕

之を止る事切なり

 

法師去るに忍びずして

茲に草庵を営み住す

 

当山の開始是なり

 

后二十有余年

村中の追福を祈り

九十九歳にして歿せり

 

故に一旦衰頽に帰したるに

寛保元(1741)年十一月

名僧 快傳法師

回歴し来り其の偉蹟を

滅せんことを憂ひ

留住して再興を計れり云々


 

行海法師は

現在の七崎神社の地に

杉を北斗七星の形に植えたと

伝えられます。

 

そして7本のうち残った3本が

七崎神社の大杉であるとされます。

 

ある伝えでは

十和田湖伝説の南祖坊(なんそのぼう)は

行海の弟子であるともされます。

 

またもう一人名前が登場する

快傳(かいでん)という方は

当山を中興(ちゅうこう)した

偉大な方です。

 

今回見てきたような縁起・由緒は

仏教的意味のあるものとして

捉えることが出来るものですし

お寺としては

意味のあるものとして

お伝えすべきものだと

感じております。

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かんのんまいり 清水観音

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第6番札所

清水(しみず)観音。

 

こちらは当山と

ご縁の深い札所です。

 

清水観音はかつて

当山の前身である永福寺が

別当寺をつとめた観音堂です。

 

こちらの観音様は

かつては十一面観音だったそうですが

現在は聖観音が祀られます。

 

清水観音と当山の七崎観音の

ご縁について伝えられる所を

紹介させて頂きます。

 

伝説によると

南部氏が篤く帰依した

七崎観音のルーツは白銀にあります。

 

全く関係ないことですが

拙僧(副住職)妻は

清水観音のある白銀出身です。

 

これも観音様の

ご利益でしょうか(笑)

 

ルーツの話に戻りますが

白銀にまつわるものとして

2つの七崎観音伝説があります。

 

それは

①坂上田村麻呂伝説

②藤原諸江伝説

の2つの伝説です。

 

坂上田村麻呂伝説とは

坂上田村麻呂将軍が

白銀の清水川上段に

正(聖)観音を祀り

天長年中に七崎に

移したというものです。

 

伝えによると当初は

現在の神社の場所ではなく

現在の当山から東方に

約3〜400メートルの場所に祀られ

その後年代不祥ですが

現在の地に遷座したそうです。

 

藤原諸江伝説とは

流刑となった諸江卿が

白銀で漁師となり

漁をしていたところ

天長元(824)年四月に

観音様を引き上げたので

小さな社を建立してお祀りしますが

承和(834)年正月7日に

夢のお告げを受けて

七崎に遷座したというものです。

 

藤原諸江が逝去した後は

諸江卿を荒神(こうじん)として

お祀りしたと伝えられます。

 

以上の話は

大正6年に編纂された

『郷社七崎神社誌』でも

紹介されており

文政三庚辰年如月

七崎山徳楽寺正観世音伝話記ヨリ

抜抄シテ明治十二年書上ケタリ

と記されております。

 

“海の”白銀と“山の”七崎。

 

意外とも思える深いつながりが

古い時代から

白銀と七崎(現在の豊崎)に

あったことを

清水観音は今に伝えます。

 

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少しずつ少しずつ

昨年9月末に

ご縁がありまして

当山が所属いたします

真言宗豊山派(ぶざんは)の

総合研究院 現代教化研究所なる

研究機関に籍を置かせて頂いて以来

「日々の研究も修行なり」との思いで

これまでにも増して

“探究活動”に励ませて

頂いております。

 

“探求分野”は幾つかありますが

その中の一つとして

当山が関係する

十和田湖伝説についても

これまで手薄であったと思われる

仏教的視点(正確には密教的視点)

を踏まえて調べを進めております。

 

ちなみにですが

十和田湖伝説については

当山との関係も含めて

大きな“発見”がありましたし

“最古の十和田湖伝説”とされる

説話が収録される『三国伝記』

という室町時代の書物と

当山の総本山である長谷寺に

大きな関わりが指摘されており

現代教化研究所の一員として

今後様々な方向で

テーマを設定出来ることが

個人的に確信を持てたことなどの

成果を得ることが出来ました。

 

時間はかかると思いますが

少しずつ形にしていきたいと

考えております。

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田舎本寺の永福寺

最近は当山にまつわる

歴史や伝説について

ご興味をお持ちの方が多いようです。

 

これまであまり

専門的にお伝えしたことは

ありませんでしたが

永福寺の歴史について

少しだけ専門的な見地から

ご紹介いたします。

 

当山の前身である永福寺は

江戸期には盛岡南部領において

田舎本寺(いなかほんじ)

触頭(ふれがしら)

という立場のお寺でした。

 

田舎本寺(いなかほんじ)とは

「地方の中核寺院」の意で

僧侶が修行・勉学を行う

談林(だんりん)という

大学のような養成機関も

兼ねておりました。

 

盛岡にて火災にあった後

「所化寮(しょけりょう)を再建した」

という記述が見られます。

 

所化(しょけ)とは

ご指南頂く者

修行する者

学生などの意味です。

 

要するに永福寺には

修行僧寮・学生寮があったことを

意味します。

 

触頭(ふれがしら)とは

幕府よりのお触れや法令を

伝達する役所を意味し

合議制で役割を遂行します。

 

かつての寺格や本末関係が

記された文書を見ると

永福寺は盛岡五山という

“盛岡藩首都”における

主要な5つのお寺の筆頭であり

永福寺の末寺などの

関係寺院として多くのお寺が

列記されております。

 

永福寺とは別に

真言宗七箇寺として

朝日山 法明院

南池山 大荘厳院

蓮(台)山 長谷寺

走湯山 高水寺

池峰山 新山寺

高野山 中台院

宝幡山 覚善院

という7つのお寺が列記されますが

これらのお寺より

七崎(現在の普賢院)へ

おいでになられた和尚様も

いらっしゃいます。

 

永福寺の住職は

相応の方が選抜されたようで

関東からいらっしゃったり

京都からいらっしゃったりと

いったことがありました。

 

これまでは「定説」として

永福寺は七崎から三戸に移り

三戸から盛岡に移った

という説明をしてきましたが

最近はこの言い回しは

適切でないように感じております。

 

この推移は南部氏の築城に

ともなった歴史からの言い回しであり

現地の視点ではないゆえです。

 

事実として

七崎と三戸には

盛岡永福寺が新築された後も

「永福寺」が存続し

盛岡永福寺の住職が

「七崎永福寺」(普賢院)の

住職も兼ねていることが

当山の過去帳に記されております。

 

「三戸永福寺」(嶺松院)の

過去帳はないのですが

その跡地には

盛岡永福寺の住職の墓石が

あることから

当山と同じ状況である

可能性が高いと思われます。

 

当山は

七崎山 徳楽寺(ならさきさん とくらくじ)

という現在の七崎神社(ならさきじんじゃ)

の別当寺でもありました。

 

寺伝によると当山の住職である

行海(ぎょうかい)大和尚が

徳楽寺(七崎神社)の地が

修行の霊地として適した

聖地であるとして

北斗七星の形になぞらえ

杉を植えたとされます。

 

高くそびえ

町のシンボルツリーでもある

天然記念物の大杉3本が

その杉であると言われます。

 

樹齢が800〜1000年とされますが

行海大和尚は平安末期の方なので

伝説に真実味を感じます。

 

この徳楽寺は

当山から南方に位置しますが

南方は観音様を象徴する方角です。

 

様々な尊格(そんかく)には

象徴する方角やみ教えがありますが

これらを諸堂配置に応用することで

伽藍(がらん)そのものを以て

曼荼羅(まんだら)を

表していると考えられます。

 

徳楽寺(七崎神社)周辺には

修験者(しゅげんしゃ)が

各坊を構えており

一般参詣者の案内役である

先達(せんだつ)という役や

世話係などを担って

いらっしゃいました。

 

当山は徳楽寺の別当ではありますが

七崎修験(ならさきしゅげん)を

統括してはおりません。

 

七崎修験を統括していたのは

記録によると戸来(へらい)の

多聞院(たもんいん)とされます。

 

この多聞院は

聖護院門跡の奉書を拝受し

五戸 正年行事(しょうねんぎょうじ)

という修験の大役を担っており

その管轄地区はかなり広く

「支配末院六十八人有」と

修験本末の記録に記されます。

 

これらお寺や修験の本末関係は

殊に江戸時代に厳格となり

「社会体制」に組み込まれました。

 

盛岡永福寺には

1万坪もの土地があったそうですが

江戸時代が終わり

明治時代が始まって間もなく

盛岡永福寺は東坊と墓地のみ残し

没収されることとなります。

 

ある資料によると

この東坊は普賢院とされております。

 

永福寺六供坊(ろっくぼう)の

一寺院として当山も

盛岡にお堂が用意され

出仕していたのかもしれません。

 

まだまだご紹介したいことが

あるのですが

またの機会とさせて頂きます。

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静かに留めるかつての景観

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上のスケッチは明治期の

『新撰陸奥国誌(しんせんむつこくし)』

という書物に掲載されている

現在の七崎神社(ならさきじんじゃ)

その周辺のものです。

 

七崎神社は明治まで

七崎山 徳楽寺(ならさきさん とくらくじ)

というお寺で

現在当山にお祀りされる

糠部三十三観音第15番札所の

観音様が本尊でした。

 

当山はその徳楽寺の別当です。

 

『新撰陸奥国誌』記載の

スケッチに描かれる様子と

現在の様子を実際に比べてみます。

 

スケッチには

天然記念物となっている大杉は

描かれておらず

境内全貌や周辺のお堂が

際立つようなタッチになっております。

 

現在もスケッチ当時の風景が

静かに留められております。

 

七崎神社の境内の

諸堂配置を見ても

スケッチ当時そのままです。

 

ちなみにですが

当山には徳楽寺のものも含め

棟札(むなふだ)が

約30点も残っており

古い歴史を今に伝える

とても貴重なものです。

 

近い将来

当山では本堂を建替える予定なので

今一度歴史について

整理したいと考えております。

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豊崎郷土かるたを頂きました

豊崎小学校創立140周年に向け

小学校の皆さんが

3年もの月日をかけ

調査、製作に取り組まれた

豊崎郷土かるた

有難くも頂戴いたしました。

 

以前、お寺の歴史や伝説について

小学校でお話したご縁もあり

豊崎郷土かるたの完成は

嬉しく思いますとともに

取り組みを全うされた

小学校の皆さんを

心より誇りに思います。

 

地域の伝承、自然、文化などを

五十音それぞれを初音として

七五調でしたためられた

文字札の一枚一枚からは

一生懸命に地域について

調べられた熱意が

伝わってまいります。

 

文字札に対応した絵札に

描かれる水彩画は

生徒の皆さんが

描かれたもので

言葉以上に“雄弁”で

かつ温かさを感じます。

 

これは「地域の宝」です。

 

豊崎郷土かるたを通じ

地域のことが

後世にも温かく

継承されていくことでしょう。

 

文字札、絵札を

一覧にまとめた資料を

頂きましたので

堂内各所に掲示させて頂きます。

 

当山にお立ち寄りの際は

素敵なかるたを

是非ともご覧下さいませ。

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▼当山に関連するものをご紹介いたします。

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