糠部五郡小史に見る普賢院

明治36年に出版された

『糠部五郡小史』という書物があり

今に多くの歴史を伝えております。

 

明治期は国家をあげての

一大変革期であり

それは「宗教」においても

同様でした。

 

この時期には

寺社仏閣の「歴史」の「見直し」

あるいは「再編成」が行われました。

 

明治・大正に編纂された

地誌や歴史書は多く

今では翻刻されているものも増えました。

 

寺社仏閣の縁起や由緒は

きっちりとした文書として

現在にいたるまで

代々継承されているケースは

とても稀といえます。

 

当山もしかりで

火災により古文書の類は焼失しており

永福寺にしろ

普賢院にしろ

徳楽寺(現在の七崎神社)にしろ

明確な“史実として”の由緒は不明です。

 

ついでながら大切なことなので

触れさせて頂きますが

“史実として”ということ以上に

寺社縁起では

神仏や権現・権者に仮託されて

編まれることが多いです。

 

例えば

東北地方における

寺社縁起では

坂上田村麻呂将軍伝説

慈覚大師伝説

聖徳太子伝説などが

各所で見られますが

これを史実か否かという視点だけで

紐解こうとすると

本来的な意味合いや

そこに託されたおもいを

汲み取ることは難しくなります。

 

現在でもそうですが

寺社縁起の類は

口伝として伝えられる所が多く

明治・大正期の書物からは

江戸末期頃までに

どのような縁起・由緒として

捉えられていたかを

垣間見ることが出来ます。

 

『糠部五郡小史』に見られる

普賢院の由緒について

紹介いたします。

 

諸説伝えられる所の一説です。

 

以下、引用です。

※西暦は引用者です。


 

寶照山普賢院は

豊崎村大字七崎字永福寺にあり

眞言宗大和國式上郡

初瀬村長谷寺末にして

開基は承安元(1171)年十一月

行海法師の開山なり

 

本尊は愛染明王

脇立左右 不動明王

傍ら七崎観音を祀る

 

寛永二(1625 )年十二月

二十七代南部利直公

祈願處とせられたり

 

本堂 八間に六間

庫裡 五間半に三間半

 

鐘楼は壹間半四面

梵鐘 壹釣

 

寶物 鏡一面 日の丸形

藤原光長の作にして

径四寸九分 量五十九匁

 

扁額 一丈三尺六寸 巾一尺五寸

東都 三井親孝の書とあり

文化十三(1816)年

菊池武群寄附

掛物一軸は狩野休伯の書

傳来詳らかならず

 

境内六百五坪なり

 

略縁起

抑 当山の由来を尋るに

承安元(1171)年十二月

行海法師 本村に回歴す

 

其時に際し

七崎神社境外に三つの沼あり

大蛇之に住み

屢々村人を害し

法師之を聞き

心窃に其惨状を恤み

同社に詣でて身を以て

犠牲となし

釈法秘術を行ひ

精魂を盡す祈念する事三週日

大蛇終に退滅す

 

法師袖を拂て去らんとす

 

村民愛慕

之を止る事切なり

 

法師去るに忍びずして

茲に草庵を営み住す

 

当山の開始是なり

 

后二十有余年

村中の追福を祈り

九十九歳にして歿せり

 

故に一旦衰頽に帰したるに

寛保元(1741)年十一月

名僧 快傳法師

回歴し来り其の偉蹟を

滅せんことを憂ひ

留住して再興を計れり云々


 

行海法師は

現在の七崎神社の地に

杉を北斗七星の形に植えたと

伝えられます。

 

そして7本のうち残った3本が

七崎神社の大杉であるとされます。

 

ある伝えでは

十和田湖伝説の南祖坊(なんそのぼう)は

行海の弟子であるともされます。

 

またもう一人名前が登場する

快傳(かいでん)という方は

当山を中興(ちゅうこう)した

偉大な方です。

 

今回見てきたような縁起・由緒は

仏教的意味のあるものとして

捉えることが出来るものですし

お寺としては

意味のあるものとして

お伝えすべきものだと

感じております。

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