稀代の古刹 七崎観音⑤

当山本堂内の観音堂に

本尊としてお祀りされる聖観音は

七崎観音(ならさきかんのん)として

古くから大切にされてきました。

 

当山は前身である永福寺の時代より

七崎観音の別当をつとめております。

 

現在の七崎観音の仏像は

(盛岡)南部藩第29代藩主・重信公

により奉納されたもので

年に一度だけ御開帳されます。

 

毎年旧暦1月17日にのみ

御開帳され御宝前にて

護摩(ごま)法要が厳修されます。

 

本年は2月21日が御開帳です。

※詳細はコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

当山の開創は

圓鏡(えんきょう)という方です。

 

圓鏡大和尚は

弘仁8年(817)5月15日に

御遷化(ごせんげ、高僧の逝去の意)

されております。

 

七崎観音の由緒も

圓鏡大和尚の時代と

時をほぼ同じくした形で

伝承されております。

 

七崎観音は江戸時代までは

現在の七崎神社の地にあった

観音堂にお祀りされておりました。

 

七崎神社は明治の神仏分離政策の下

郷社(ごうしゃ)という格式高い

神社に改められました。

 

現在の七崎神社の御祭神は

伊奘冉尊(いざなみのみこと)

つまり天照大御神(アマテラス)の

母にあたる神です。

 

明治時代までは七崎観音を祀った

観音堂であったという歴史を

踏まえて伊奘冉尊を

御祭神としたのではないかと

拙僧(副住職)は考えております。

 

七崎神社の地は

七崎山(ならさきやま)

あるいは観音山(かんのんやま)

と呼ばれていたそうです。

 

七崎山は

霊験あらたかな聖地であり

かつては殺生禁断の地と

されてきました。

 

当山を承安元年(1171)に開基した

行海(ぎょうかい)大和尚は

全国を廻国していた際に

当地においでになられ

七崎山に杉を

北斗七星の形に植えたとされます。

 

そのうち残った3本が

市の天然記念物に指定されている

大杉だといわれます。

 

この行海大和尚は

村人を困らせていた大蛇を

改心させた所

地域の方に当地にとどまるよう

懇願されて草庵が結ばれたと伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説ゆかりのお寺です。

 

藤原氏の出自である

南祖坊(なんそのぼう)は

当山(かつての永福寺)に弟子入りをし

全国の霊跡霊場を巡った果てに

十和田湖に入定(にゅうじょう)され

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

という龍神となったというのが

十和田湖伝説の筋書きです。

 

その南祖坊は当山2世の

月法律師(天長8年(831)御遷化)の

弟子といわれますが

当山開基である行海大和尚の

弟子であるとの伝えもあります。

 

※行海大和尚についてはコチラもご参照下さい。

https://fugenin643.com/blog/糠部五郡小史に見る普賢院/

 

当山で所蔵する棟札に

享保18年(1733)のものがあります。

 

棟札表中央には

再建立當寺屋敷共

新今慶建立

當寺長久安全如意

快傅末々之住寺共

萬民愛敬云々…と

記されます。

 

快傅(かいでん)大和尚は

当山を中興(ちゅうこう)開山

された先師です。

 

ここでいう屋敷とは

庫裏(くり)のことを指すようで

棟札裏面には

快傅が当山で初めて

庫裏を建立したと記されております。

 

この時の詳細は不明ですが

棟札に「共」とあるので

快傅大和尚が本堂と庫裏を

建立されたのかもしれません。

 

この棟札によると

當寺屋敷を建立した際に

観音山(七崎山)に

杉を2000本余植えたそうです。

 

さらに現在の当山の地にも

様々な木々を植えたようで

杉のほかにも

松、ヒバ、ツキ、エノミ

クリ、サイガチ、クルミ

ナシ、モモ、カキなどが

植えられたと記されます。

 

七崎山(観音山)には

杉が2000本も植えられたのですから

その前後で旧・観音堂の地(現・七崎神社)

の雰囲気はかなり

変わったことでしょう。

 

どれが該当する杉であるかは不明ですが

樹齢800年以上の大杉とともに

現在から286年も昔に植えられた木々もまた

七崎山にそびえ立ち

霊験あらたかな雰囲気が

現在もなお保たれております。

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稀代の古刹 七崎観音④

現在当山本堂内の

観音堂に祀られる

七崎観音(聖観音)の仏像は

第29代藩主

南部重信公により

貞享4年(1687)4月に

奉納されたものです。

 

重信公がご奉納された

聖観音像は金銅仏(こんどうぶつ)で

当時は七崎観音の御前立(おまえだち)

としてお祀りされていたそうです。

 

かつて七崎観音は

御正体(みしょうたい)が本尊として

お祀りされていたといわれますが

詳細は不明です。

 

この重信公が納められた

聖観音像が金銅仏であることには

当時の当山の本坊である

盛岡永福寺の聖天(しょうてん)

との関わりが考えられ

事相(作法)的な意味・意図が

踏まえられてのものと思われます。

 

重信公は南部藩が

「盛岡藩」と「八戸藩」に

分かれた当時の「盛岡藩」主です。

 

重信公が聖観音像を納められたのは

貞享4年(1687)年4月ですが

同じ年の11月28日に

永福寺41世住職である

宥鏡大和尚は御遷化(ご逝去)

されております。

 

宥鏡大和尚の不調も

観音像を奉納された

一要因である可能性もあります。

 

宥鏡大和尚の晩年

延宝8年(1680)1月に

盛岡永福寺は火災により

伽藍が「焼亡」しております。

 

一説にこの火災は

歓喜天(かんぎてん)という尊格の

天罰であると宥鏡大和尚は

捉えられたと伝えられ

そのため再建にあたっては

本尊壇とは別に

歓喜天の修法壇である

聖天壇(しょうてんだん)を

本堂に構えるなどされたそうです。

 

永福寺の本尊は十一面観音で

現在も内々陣に祀られますが

修法本尊としては

歓喜天が祀られております。

 

延宝8年の火災の後

諸堂の再建が図られ

元禄7年(1694)には

境内三万坪にも及ぶ一大伽藍が

整えられることになりますが

この時の藩主が

29代南部重信公です。

 

この重信公と永福寺42世住職である

清珊(せいさん)大和尚が

元禄4年(1691)年になされた

連歌(れんが)により

盛岡という地名が

定められたといわれます。

 

清珊大和尚は

江戸の知足院(ちそくいん)から

永福寺においでになられた方で

「筑波の僧正」とも呼ばれました。

 

盛岡永福寺は

歓喜天(かんぎてん)

という尊格をとても重要視しました。

 

歓喜天は聖天(しょうて(で)ん)

とも呼ばれます。

 

聖天の本地仏(ほんじぶつ)は

十一面観音とされ

南部藩の祈願所として

鬼門鎮護・領民豊楽の御祈祷では

歓喜天の秘法も

修法されたそうです。

 

歓喜天に関係する経典には

歓喜天の造像の重要性について

触れられており

そこでは具体的な素材も述べられ

その中に金銅も含まれております。

 

懸仏(かけぼとけ)や

小さな金銅仏を

寺社仏閣や霊場に納めることは

よくあることですが

重信公は歓喜天を大切にされた方で

かつ観音像を七崎の観音堂に

奉納した当時の住職である

宥鏡大和尚が晩年殊に

歓喜天を大切にされたことを踏まえると

歓喜天造像の作法になぞらえた形で

聖観音像も造像されたのではないか

と考えられるように思います。

 

また重信公の兄でもある

28代藩主の南部重直公も

七崎観音を篤く大切にされた方で

病気平癒の報賽(ほうさい)もあわせ

落雷により焼失した旧・観音堂を

再建された上に

末社十二宮を建立し

さらには多くの御寄進を

されております。

 

その際に用意された

明暦2年(1656 )の棟札を

当山で所蔵しております。

 

重信公は

貞享4年(1687)4月に聖観音像を

奉納されますが

大正期の神社の資料では

同年の5月20日に

重信公が「本社を再営」した

とあります。

 

貞享4年の棟札は

当山にはありませんが

それが事実であるとして

「本社」が観音堂を意味するとすれば

明暦2年(1656)年の再建から

31年後の再々建ということになるので

何かしらの災禍に

見舞われたのかもしれません。

 

南部氏と七崎観音を考える上で

旧・観音堂が

新羅堂でもあったことは

重要なことかと思います。

 

旧・観音堂は

南部氏代々の御守護として

新羅三郎義光公が合祀された

新羅堂(しんらどう)でもありました。

 

櫃(ひつ)に納められた

甲(かぶと)が祀られていたそうです。

 

さらには元服の御髪も

納められていたようです。

 

七崎観音が大切にされたのは

藩領安穏・領民豊楽などの

諸願成就への祈願に加え

南部氏の祖先崇拝に

深く関わるということも

大きな要因であったと

いえるでしょう。

 

重信公の父は

27代藩主の利直公です。

 

利直公は

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)の

生まれ替わりであるという

言い伝えがある藩主です。

 

南祖坊とは

当山2世の月法律師の

弟子として永福寺にて修行して

全国練行の果てに

十和田湖に入定(にゅうじょう)し

青龍大権現という龍神になったと

伝えられます。

※詳しくはコチラ↓

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑧/

 

現在の七崎観音は

重信公が貞享4年(1687)に

納められた聖観音(秘仏)で

年に1度だけ

旧暦1月17日のみ御開帳され

その御宝前にて護摩法要が

厳修されます。

※護摩法要の詳細はコチラ↓

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

現在の本堂は建替のため

近い将来取り壊される予定なので

現在の本堂での御開帳は

本年が最後になろうかと思います。

 

今回は重信公の観音像を中心に

(話題が何度もそれながら)

七崎観音について見てまいりました。

 

七崎観音の歴史は

実に奥深いものがあります。

 

ここ最近は

七崎観音の行事が近いこともあり

数回に分けて紹介させて頂いておりますが

後世に託すべき尊いものなので

拙僧(副住職)としても

出来る形でバトンを

未来へ繋げていきたいと思います。

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観音様

観音堂

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稀代の古刹 七崎観音③

七崎(ならさき)とは

現・豊崎町のかつての

名称です。

 

七崎という名の由来には

諸説あるようです。

 

一説には入江に突出する

七つの崎の一つであるといいます。

 

七つの崎とは

(資料をそのまま引用すると)

①鮫ノ崎

②舘鼻崎

③太郎ケ崎

④柏崎

⑤八戸ツヅケ岡崎(中舘)

⑥鼻崎

⑦七崎

だそうです。

 

当山は地域の中でも

やや高い場所に位置しますが

見晴らしが良く

海まで見渡すことができます。

 

海に至るまで

七つの岬が見える場所という

ことで七崎となったという

説もあります。

 

また浅水川が蛇行していた頃

七つの岬があるように見えることから

七崎となったとのいわれも

聞いたことがあります。

 

「崎」の意味である

「陸地が海や湖の中に突き出た場所」

ということで七崎と

いわれるようになったようです。

 

昭和4年(1929)の

鉄道工事の際に

豊崎町と接している

尻内の洞(ほら)から

長さ9間(約20メートル)もの

クジラの骨が出てきたそうで

かつてこの辺の地域は

大入江だったともいわれます。

 

地名の由来の他説として

七崎姫(ならさきひめ)という

都から流され当地へ来た

高貴なお姫様を

観音様としてお祀りして

当地を七崎と名付けたという

伝説もあります。

 

七崎姫伝説については

後日改めて

紹介させて頂きます。

 

七崎は

五穀の実入りよく

食料に乏しからず

と『新撰陸奥国誌』に記され

実り豊かな地域だったことが

分かります。

 

当山本堂内の観音堂に

秘仏としてお祀りされる

観音様は七崎観音とよばれ

古くから親しまれてまいりました。

 

七崎観音は

明治時代になるまでは

現在の七崎神社の場所にあった

観音堂に祀られており

当山は永福寺時代より

七崎観音の別当を

担っております。

 

旧・観音堂(現・七崎神社)には

七崎山 徳楽寺(とくらくじ)

という寺号もあり

『新撰陸奥国誌』では

“奇代の古刹”として

紹介されております。

 

明暦2年(1656)の

観音堂の棟札(むなふだ)があります。

 

旧・観音堂が落雷により

焼失したため

再建された際に

用意された棟札だそうです。

 

棟札表中央には

頂上の観音種字「サ」に続いて

奉再建奥州南部三戸郡

七崎正観音堂並末社十二宮

と記されております。

 

その主文右側に「大檀那」である

第28代藩主である南部重直の名があり

主文左側に

本願 当寺十六代法印宥鏡創之

と記されております。

 

先にもチラッと引用した

翻刻されて昭和41年に

県の文化財保護協会から

発行されている

『新撰陸奥国誌』

(原本は明治9年(1876)に完成)

でもこの棟札のことが

取り上げられておりますが

「当寺十二代」と誤記されてます。

 

原本がどうであるかは分かりませんが

翻刻され出版されているものに

ついては誤って記載されております。

 

“郷土史研究あるある”ですが

多くの方が頼らざるを得ないような

史料・資料自体が誤っているケースは

よくあることです。

 

ある文書によれば重直公は

慶安2年(1649)に江戸で

病に罹っていた時

七崎観音に祈願したところ

霊験があったということもあり

観音堂と末社十二宮を再建した上

所領として五百五石五斗三合を寄付し

別当を改めて永福寺と定め

神主1名、祢宜1名、舍人12名、神子1名

に対しても相当の領地を与えたそうです。

 

宥鏡(ゆうきょう)大和尚は

当山先師であり

永福寺41世住職です。

 

宥鏡大和尚は

奈良県の長谷寺から

永福寺住職として

お迎えされた方で

慶安4年(1651)に

三代将軍家光公がご逝去された際

日光東照宮でのご供養のため

召し出されていらっしゃいます。

 

また盛岡城の時鐘の銘文を

仰せ付けられたり

二戸の天台寺の

桂泉観音堂と末社の棟札も

記されていらっしゃいます。

 

宥鏡大和尚の晩年である

延宝8年(1680)に

盛岡永福寺は火災にあっており

その後焼けて損じてしまった

仏像や経典などを

東の岡の地中に納め

歓喜天供養塚を建立し

同所を41世以後の住職はじめ

末寺住職や所化などの境内墓地とし

さらには十和田山青龍権現を

勧請して祀られております。

 

七崎観音の観音堂再建の

棟札に記される

「当寺十六代法印宥鏡」

という部分は旧・観音堂に

徳楽寺という寺号がいつ頃から

用いられたのかを探る

手がかりになろうかと思います。

 

この「当寺」は

徳楽寺を指すものです。

 

七崎観音別当は

永福寺が担うことになり

盛岡へ永福寺(本坊)が

建立された後

旧地である七崎は

永福寺自坊として普賢院が引き継ぎ

別当も担当しております。

 

「十六世」という部分の

数え方の詳細は不明ですが

永福寺住職一代につき一世

として検討してみるならば

永福寺24世住職が

徳楽寺一世となった

可能性が考えられます。

 

あくまでも可能性です。

 

残念ながら

度重なる火災のため

縁起由緒の詳細は

不明なところが多く

24世はどの方が住職であったかは

分かりかねます。

 

しかも「永福寺住職」

(永福寺院家とも記されます)は

様々な条件を満たさなければ

正式な住職とはみなされておらず

場合によっては

住職代理として名代(みょうだい)が

たてられるケースが

江戸期に見られますし

記録が残っていない時期にも

なされていた可能性は大いにあります。

 

そういった方は

「第〜世」とは数え上げられません。

 

当山22世の宥漸大和尚は

応仁元年(1467)8月26日に

御遷化(ご逝去)されており

その後は30世の恵海大和尚

(元和3年(1617)御遷化)まで

先師の記録が不明となっております。

 

24世住職の代に

観音堂に徳楽寺の寺号が

用いられるようになったと

仮定すると

時はまさに戦乱の時代

ということになります。

 

ついでながら

永福寺30世の恵海大和尚は

「盛岡永福寺開祖」ともいわれ

盛岡に永福寺が建立された時の

住職で「聖の御坊」とも

呼ばれたそうです。

 

恵海大和尚は

盛岡の新たな城下町を作るにあたり

(胎蔵)曼荼羅を踏まえた寺院配置を

藩に進言したといわれます。

 

盛岡城を

曼荼羅中央の大日如来と見立て

鬼門である東北に永福寺

生門である南東に妙泉寺

裏鬼門である南西に高水寺

将門である西北に岩手山権現

北方に菩提寺の聖寿寺・東禅寺を

配置するよう進めたとされます。

 

伽藍配置ということでは

当山と旧・観音堂(徳楽寺)との

位置関係も曼荼羅の考え方に

通じる所があります。

 

紐解けば紐解くほど

話題は尽きませんが

七崎の歴史や意味合いは

かなり壮大なスケールの

ものであると感じます。

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▼徳楽寺(旧観音堂)のスケッチ

(『新撰陸奥国誌』所収)

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稀代の古刹 七崎観音②

当山本堂には

内御堂(うちみどう)として

観音堂がございます。

 

観音堂本尊として祀られる

聖観音(普段は秘仏)は

七崎観音(ならさきかんのん)と

称されます。

 

本堂に内御堂として

観音堂が作られたのは

明治19年(1886)です。

 

明治以前の七崎観音は

当山南方の観音堂に

お祀りされていました。

 

その観音堂は

七崎山徳楽寺の寺号もあり

明治以降は七崎神社として

改められました。

 

当山は永福寺時代より

ながきにわたり

七崎観音の別当を

担っております。

 

お寺には大小様々な

法会(ほうえ)や法要が

一年中開催されます。

 

当山でも古くより

数多くの儀式が

執り行われておりますし

旧・観音堂(徳楽寺)でも

多くの行事がありました。

 

現在の七崎観音は

年に一度の御開帳の際に

護摩法要が厳修され

「おこもり」といわれる

行事が開催されておりますが

当山に遷座(せんざ)されるまでは

旧・観音堂(徳楽寺)では

修験者の方や地域の方と共に

多くの祭事が開催されております。

※本年の「おこもり」詳細はコチラ↓

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

かつては藩が施主となり

開催されていた行事が

大部分だったそうで

現在は絶えているものが

多いのですが

主なものを紹介させて頂きます。

 


【旧・観音堂(徳楽寺)祭事】

1月7日(丑の刻)

柴灯(さいとう)護摩

 

初午

鎮火祭

 

3月

物始祭

流鏑馬

初皈(帰)祭・鳥払祭

 

4月7日

御浜出(八太郎旅所へ)

 

5月5日

四十八末社御山開

 

5月15日

十和田神社へ舍人が代拝

※十和田山別当は

代拝者を優遇して

接待した上に

御初穂料二百疋を

七崎へ酬賽するのが

恒例だったそうです。

 

6月24日

害虫払祭

 

二百十日

風神祭

 

8月6〜12日

荒神祭

 

8月13日

中の祭・荒神祭

 

8月17日

観音堂大法会・元宮観音祭

 

9月5日

御留(おとめ)祭

 

9月7日

重陽祭・実収祭

 

12月17日

年越祈祷

 

毎月18日

湯立祈祷

 

神楽は舍人が管理して

隔年毎に村内一般を

巡回して守札を配布


 

旧・観音堂での祭事は

「七崎修験」の方にも

ご出仕頂いてのもので

古い時代の祈りのあり方を

探る上でとても

参考になるものかと思います。

 

参考までにですが

御影供(みえく)という

弘法大師の法要や

正月や彼岸などの

住職はじめ僧侶による

主要な儀式や

重要な儀式は

本堂にて行うのが一般的で

当山の場合も同様です。

 

本堂とは

本尊堂という意味や

根本中堂という意味のある

とても重要な建物で

それ自体が“み教え”とされ

諸伽藍の中でも最重要なものですし

建立にあたって様々な作法が

施されます。

 

伽藍建立の際には

棟札(むなふだ)という

特殊な木札が作られるのですが

当山所蔵のものを見てみると

旧・観音堂の棟札の様式と

本堂の棟札の様式は

明確に異なっております。

 

七崎(現在の豊崎)には

修験に携わっていた方も

多かったようで

ここでは七崎修験と

呼ばせて頂きます。

 

細かにいえば

清僧(出家者)と

修験・(一世)行人などの

区別をしてお話すべきですが

ここでは大雑把な言葉で

述べさせて頂きます。

 

地元に残る文書には

補任状(ぶにんじょう)という

修験の文書があります。

 

その補任状は

本山派修験の総本山である

聖護院(しょうごいん)からの

認可証です。

 

修験と一言で言っても

本山派や当山派

羽黒修験や行人派など

一様ではなく

かつまた横の繋がりも

多く見られるものです。

 

天台系とされる本山派で

修験者の認可を頂く一方

地元では真言寺院に作法等の

伝授を受けているなどということは

珍しいことではありません。

 

こういったことは古い時代の

「宗派性」を考える上でも

欠かせない視点です。

 

専門的かつ日常的に

触れていなければ

分かりにくい部分なのですが

あまり注意が払われず

「真言宗」や「天台宗」や

「修験」という言葉が

安易に使われてしまい

実態が見えにくくなっている

ケースが多いように感じます。

 

先にあげた諸祭事にもあるように

毎年5月15日には

十和田神社へ舍人が代拝し

十和田山別当に優遇して

頂いた上に初穂料を

お納め頂く恒例が

七崎にはありました。

 

これは十和田湖伝説が

七崎と深く関わることに

由来します。

 

十和田湖伝説とは

南祖坊(なんそのぼう)という

僧侶が十和田湖の主である

青龍大権現となるという伝説で

その南祖坊は当山(永福寺)に

弟子入りして修行したと

伝えられております。

 

南祖坊は藤原氏の血筋であり

三戸郡の斗賀で生まれたとも

七崎で生まれたともいわれます。

 

藤原氏の氏神は

春日大明神であり

当山の本山である

奈良県の長谷寺では

本尊十一面観音の脇侍として

難陀竜王(なんだりゅうおう)が

春日大明神の化身として

お祀りされております。

 

十和田への代拝が行われた

15日という日取りに関連して

少し話を深めてみると

三十秘仏という考え方からすると

15日は南祖坊の出自である藤原氏の

氏神である春日大明神の縁日でもあります。

 

また15日は

布薩(ふさつ)といって

戒律を改めて持(たも)ち

精進する日でもあります。

 

話題が尽きない所ですが

この辺で一段落させて頂きます。

 

今回は当山が永福寺時代より

別当としてお仕えした

七崎観音が祀られていた

旧・観音堂(徳楽寺)の祭事を

紹介させて頂きました。

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稀代の古刹 七崎観音①

当山本堂内の

観音堂の本尊である

聖観音は今も昔も

七崎(ならさき)観音

通称されます。

 

当山は古くから

七崎観音の別当を

つとめております。

 

七崎観音は

様々な伝説に彩られ

様々な方により

様々に語られた

由緒ある観音様です。

 

普段は秘仏ですが年に一度

毎年旧暦1月17日にのみ

御開帳され御宝前にて

護摩(ごま)法要が厳修されます。

 

平成31年は

2月21日が御開帳となります。

※詳細はコチラ↓

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

七崎観音はかつて

現在の七崎神社の場所にあった

観音堂にお祀りされておりました。

 

七崎観音は

霊験すこぶるあらたかということで

南部藩に篤く敬われ

各所からの参詣も絶えなかったようで

その観音堂は時代を経る中で

七崎山(なさらきさん)

徳楽寺(とくらくじ)

という寺号を頂いております。

 

現・豊崎町(かつての七崎)の

永福寺地区は

当山の本堂真正面から

真東にズバッと道が伸びており

そこに門前町が形成されるように

町が作られております。

 

さらに当山は

豊崎のほぼ中央に

位置しており

地域を一望出来る場所に

お寺が建立されております。

 

また豊崎の西に位置する

滝谷(たきや)地区へも

道が当山と旧観音堂(現・七崎神社)の

間からのびており

その途中に「南宗坊(なんそのぼう)」

という地名も残っております。

 

南宗(祖)坊は

当山2世の月法律師の弟子として

当山にて修行したとされる

十和田湖伝説の僧侶です。

 

観音堂への参詣道も

当山門前道に垂直に交わるように

南北方向に整えられており

浅水川に架けられた橋は

観音橋(かんのんばし)と

名付けられております。

 

橋は

こちらの岸(此岸(しがん))から

向こうの岸(彼岸(ひがん))に

渡すということで

仏道では深い意味を持ちます。

 

観音橋はいわば

“聖域への入口”

ということになります。

 

当山から浅水川対岸の地域を

下七崎(しもならさき)といいますが

この地区には

七崎観音へ参詣するために

身分の高い方が

留まられる屋敷である

御田屋(おんたや)がありました。

 

御田屋を由緒とした

「おだや」という屋号が

現在も用いられており

歴代には当山の総代を

お勤め頂いた方もいらっしゃり

当山を古くからお支え頂いております。

 

当山の歴史を紐解く上で

「七崎観音別当」という立場は

非常に重要な意味を持ちます。

 

当山は永福寺時代より

現在に至るまで

七崎観音別当を担っております。

 

七崎観音別当であることの

意味はとても大きく

当山の前身である永福寺は

盛岡南部藩の祈願所となり

盛岡五山の筆頭寺院として

隆盛を極めてまいります。

 

別当寺としての

永福寺や普賢院と

七崎観音の由緒が混同されて

しまうことが多いのですが

厳密にいえば

七崎観音と永福寺・普賢院は

ある程度「区別」して

捉えるべきものです。

 

専門性が極めて高い内容や背景が絡み

加えて地域の家々の歴史が

深く関わることでもあるので

しばしば郷土史研究などで

とりあげられる

近世の文書の情報だけでは

どうしても限界がありますし

当山にまつわる諸事を紐解くには

多分野にまたがっての視点が

求められるように思います。

 

当山有縁各家先祖代々の方々の

確かなお歩みや口伝

それらを踏まえ

当山先師諸大徳含め

これまで多くの地元の先人方が

まとめられてきた「もの」に

耳を傾けると

今のなお“いき続けている”

志に触れるような思いになります。

 

そんな志に触れつつ

七崎観音をメインテーマとして

何回かに渡り

紹介させて頂きたいと思います。

観音堂

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七崎から盛岡へ移る永福寺

江戸時代の紀行家である

菅江真澄(すがえますみ)の

文化4年夏の紀行文である

『十曲湖』(とわだのうみ)で

当山の歴史について

触れられております。

 

『十曲湖』には以下のように

記されております。

 


 

森岡の盛岡寶山永福寺ハ

新儀の真言にて

大和の國

初瀬の小池坊の流れにて

むかしハ五戸の七崎よりうつせり

 

いまも永福寺村といひ

そこに観世音の堂あり

 

これを永福寺ともいへり

 


 

菅江真澄は

『十曲湖』の約20年前に

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

という紀行文も著しており

そこでも十和田湖伝説を

紹介しております。

 

両著作を比較すると

『十曲湖』の情報量は格段に多く

広く情報を集めたことが

よく分かります。

 

引用文で盛岡永福寺に

触れておりますが

正確には盛岡永福寺の山号は

宝珠(ほうしゅ)盛岡山です。

 

「新儀」という部分も

正確には「新義」となります。

 

菅江真澄は

盛岡永福寺は

七崎(現在の豊崎)から移したと

伝えておりますが

これは当山で把握している

由緒と同内容となります。

 

つまり

盛岡に永福寺が改められることになり

普賢院が永福寺自坊として

旧地である七崎永福寺を

引き継ぐことになったわけです。

 

永福寺は三戸にも伽藍を構えます。

 

その三戸永福寺は

盛岡永福寺の建立にあたり

嶺松院(れいしょういん)が

永福寺自坊として引き継ぎます。

 

自坊というのは

いまでいう別院と

お考え頂ければ分かりやすいかと思います。

 

ちなみに自坊に対しての

盛岡永福寺は本坊という位置づけです。

 

菅江真澄はさらに続けて

七崎から盛岡へ永福寺が移った後の

今も永福寺村といい

永福寺村には観音堂があって

これを永福寺ともいうと

記しております。

 

現在も当山周辺の地名は

「永福寺」となっており

当山は現在普賢院という寺院名ですが

「永福寺」とも呼ばれております。

 

お寺の呼び名というのは様々で

現在の当山は

永福寺とも呼ばれれば

七崎のお寺さんとも呼ばれますし

七崎観音のお寺

十五番札所のお寺とも

南祖坊のお寺などなど

一様ではありません。

 

そういったことが

かつてもあったようで

観音堂もまた永福寺とも

呼ばれていたと

菅江真澄は伝えております。

 

この観音堂には

現在当山にお祀りされている

七崎観音がお祀りされておりました。

 

観音堂は七崎山 徳楽寺という

寺号を授かる程の

とても立派なものとなり

当山が別当寺をつとめておりました。

 

観音堂は明治になり

七崎神社になります。

 

そこに祀られていた

聖観音は現在

当山本堂内の観音堂に

七崎観音としてお祀りされております。

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▼七崎神社(旧 観音堂・七崎山徳楽寺)

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納めの観音

18日は観音様の縁日です。

 

12月の縁日は

その年の最後の縁日なので

12月18日を

「納めの観音」

といいます。

 

当山観音堂の観音様は

糠部三十三観音霊場

第15番札所の観音様で

七崎観音(ならさきかんのん)

といわれます。

 

もともとは

現在の七崎神社の地にあった

観音堂(七崎山 徳楽寺)に

お祀りされていましたが

明治の神仏分離の際に

当山に遷座されました。

 

七崎観音は

聖(正)観音(しょうかんのん)

という観音様です。

 

七崎(現在の豊崎)は

観音の聖地として

篤く信仰された場所でした。

 

現在当山本堂内の観音堂に

お祀りされる七崎観音

(徳楽寺観音)は秘仏で

年に一度だけ

旧暦1月17日にのみ

御開帳されます。

 

平成31年は2月21日に

御開帳され御宝前にて

護摩法要が厳修されます。

 

この行事は詳らかには

聖観音おこもり護摩法要

といいますが

通称「おこもり」といいます。

 

当山では現在進行形で

本堂建替事業に取り組んでおり

 

近い将来(来年か再来年)

現在の本堂は

取り壊されることになります。

 

そういった事情もあり

現在の本堂で行われる

最後の「おこもり」に

なるかもしれません。

 

諸行無常の理を

強く感じながら

平成最後の「おこもり」に

思いを巡らせる

平成最後の納めの観音の

1日となりました。

 

観音堂

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南祖坊伝説の諸相⑥ 山の神

宝暦年間(1751〜1764)の

『御領分社堂』の

修験持の社堂をまとめた巻に

以下のような記述があります。

 

十和田銀山

一 山神宮 同

往古南蔵坊を

候由申伝候

(いわいそうろうよし

もうしつたえそうろう)

 

ここでの「」は

「お祀りする」「祈りを捧げる」

といった意味合いです。

 

詞(のりと)という単語での

」も同じ意味です。

 

十和田銀山の山神宮は

往古(その昔)に

南祖坊(南蔵坊)がお祀りされ

祈りが捧げられたということが

『御領分社堂』には

記されております。

 

山神の眷属(けんぞく)は

「お犬さま」とも呼ばれ

狼とされます。

 

“狼の神”が

「三峯(みつみね)さま」

とも呼ばれることは

柳田國男の『遠野物語拾遺』でも

とりあげられております。

 

三峯という言葉は

埼玉県秩父の三峯神社に由来します。

 

この三峯神社が

「お犬さま」や「三峯さま」と呼ばれる

眷属の信仰を各地に広めたといわれます。

 

奥州市衣川の三峯神社は

享保元年(1716)に秩父の三峯神社から

勧請(かんじょう)したと伝えられます。

 

県内でも

山の神が祀られ

参道に阿吽の狼が

祀られる所をご存知の方も

多いのではないでしょうか。

 

山神は

山の神

山ノ神

山之神とも表記します。

 

東北では

古い猟法に則り

狩猟を行うマタギが

山の神を篤く信仰したそうです。

 

マタギの伝書に

『山立根本巻』

(やまだちこんぽんのまき)

というものがあります。

 

『山立根本巻』は

マタギが神仏が司る聖地でもある

お山において

狩猟(殺生)を行うことを

山の神が認可したという

マタギの狩猟の由緒が

記されるものです。

 

こういった伝書は

様々あるそうです。

 

マタギに関連する文書には

様々な作法や経文や

真言陀羅尼(だらに)が

多く記されており

神仏への祈りが

大切にされていたことが

伝わってまいります。

 

十和田湖伝説に登場する

八郎(八の太郎、八郎太郎)は

マタギであるとの

いわれもあります。

 

全国的なものかどうかは

存じ上げませんが

山神

山の神などと

刻まれたり

書かれた石碑や石が

東北では

寺社仏閣の境内に建てられたり

納められている所が

多く見られます。

 

当山にも

大きくはありませんが

石が納められております。

 

山が身近な地域でもあるので

山の神はとても

身近だったのだと思います。

 

今回は

『御領分社堂』に記される

十和田銀山の山神宮に触れ

山神として祀られた

南祖坊を伝説の諸相の1つとして

紹介させて頂きました。

 


 

▼山神の碑(花巻市 光勝寺 五大堂裏手)

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▼以下、岩手県立博物館の企画展の写真

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花巻の清水寺

花巻にございます

音羽山 清水寺(おとわさん きよみずでら)。

 

花巻にて研修会があった際に

お参りさせて頂きました。

 

京都、播磨(はりま、現在の兵庫)と

こちらの清水寺を

日本三清水」というそうです。

 

清水寺といえば

坂上田村麻呂将軍です。

 

花巻の清水寺は

大同2年(807年)に

田村将軍により創建されたと

伝えられます。

 

また慈覚大師の伝説も

伝えられる古刹です。

 

境内には

本堂と庫裏(くり)

観音堂

山門

毘沙門堂

薬師堂など

多くのお堂が並びます。

 

とても立派な伽藍の

御寺院様です。

 

本堂の隣にある観音堂には

十一面観音が祀られます。

 

観音堂本尊の

十一面観音は秘仏ですが

お前立ちとして

大きな十一面観音が

お祀りされております。

 

田村将軍は

十一面観音と関わりのある方で

東北各地にその伝説が残っております。

 

当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺の

霊験譚を伝える

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

という古い書物にも

田村将軍のエピソードが

掲載されております。

 

当山の前身である永福寺は

奥州六観音の1つとして

七崎田村の里に

田村将軍が十一面観音を

祀ったことで創建されたと

伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)という僧侶が

修行したとされますが

その伝説の最も古いものとされる

お話が掲載されている

室町期の『三国伝記』という書物は

京都の清水寺にて

インドと中国の日本の三者が

観音への法楽(ほうらく)として

輪番でお話をしていくという

筋書きのものです。

 

花巻には由緒ある

寺社仏閣が多くあります。

 

神仏が連なるものとして

お祀りされていた時代の

祈りの形が垣間見られる所が

多く残されているように思います。

 

当山の観音様(七崎観音)は

本堂内の観音堂に

お祀りされますが

かつては本堂とは別の

観音堂にお祀りされていたものです。

 

その観音堂は

七崎山 徳楽寺として

現在の七崎神社の地に

明治時代まであり

当山が別当をつとめておりました。

 

かつては観音堂であったり

何らかの尊格が祀られるお堂が

明治に神社になったり

統廃合されたりすることが

東北でも多く見られます。

 

当山でも

観音堂(七崎山 徳楽寺)が

七崎神社に改められ

七崎観音(聖観音)は本堂内に

お迎えされることになりました。

 

ですが

こちらの清水寺の伽藍は

古い時代の配置を

とどめている部分が多く

今に伝えるものが

多いように思います。

 

▼花巻 音羽山 清水寺HP

http://kiyomizudera.org

 

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南祖坊伝説の諸相③ 長谷寺と南祖坊 その壱

十和田湖南祖坊伝説の

発信拠点は七崎(ならさき)

つまりは現在の豊崎とされます。

 

七崎には当山の前身として

永福寺というお寺がありました。

 

永福寺にしろ

普賢院にしろ

当山が別当をつとめた

七崎観音堂(現在の七崎神社)にしろ

焼失により詳細な由緒は

不明な所が多いのですが

受け継がれる『先師過去帳』や

語り継がれる所の口伝や伝承があり

それらを元として

縁起は大切に伝えられております。

 

今回からは近世の文書である

菅江真澄の紀行文を手がかりに

当山の本山である長谷寺(はせでら)

との関係を何回かに分けて

とりあげたいと思います。

 

江戸期の紀行家である

菅江真澄(すがえますみ、1754-1829)は

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

『十曲湖(とわだのうみ)』で

南祖坊伝説について

触れております。

 

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』は

天明8年(1788)に北海道を

目指した際の紀行文です。

 

ここでは南祖坊伝説について

室町時代の書物である

『三国伝記(さんごくでんき)』所収の

“最古の十和田湖伝説”について

紹介しております。

 

『十曲湖(とわだのうみ)』は

文化4年(1807)年夏の紀行文で

こちらにおいても

南祖坊伝説に触れております。

 

そこでも同じ筋書きで

伝説を説明しているのですが

その中に南祖坊像の変化を

汲み取れる箇所があり

さらに「別伝」として

幾つかのバージョンが

紹介されております。

 

室町期の『三国伝記(さんごくでんき)』

に記される所の“最古の十和田湖伝説”が

菅江真澄の両紀行文において

伝説の“メインストーリー”として

紹介されているのですが

『十曲湖(とわだのうみ)』では

南祖坊が長谷寺と明確に

関係づけられております。

 

『三国伝記(さんごくでんき)』では

弥勒出生値遇のために

熊野山に山籠して

祈願祈請千日の夜に

白髪老翁が釈難蔵(南祖坊)に

お告げをするという

くだりがあり

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』で

この部分は紹介されております。

 

同部分について

『十曲湖(とわだのうみ)』では

南祖坊が泊瀬寺(長谷寺)に籠もり

ひたすらに法華経を読み

「お告げを頂く」という形で

紹介されております。

 

長谷寺の本尊である

十一面観音は

長谷観音(はせかんのん)と呼ばれ

古くから篤く信仰されました。

 

南祖坊は

「法華経の持経者」として

描かれますが

修行における法華経を

考える上で

「法華滅罪(ほっけめつざい)」

という言葉がキーワードとなります。

 

専門的な話になってしまうので

詳しくはお伝えしませんが

自身を清め(六根(ろっこん)清浄)

功徳を積み善へとつなげることと

お考え頂ければ結構かと思います。

 

長谷寺や長谷観音との関係を

踏まえながら南祖坊伝説と

それに関連する諸要素を見ることは

とても有効であると感じております。

 

“最古の十和田湖伝説”が収められる

『三国伝記』の研究でも

長谷寺との関係が指摘されております。

 

十和田湖伝説の研究でも

しばしばとりあげられる

池上洵一氏の著書

『修験の道 三国伝記の世界』

(以文社、1999年)において

長谷寺との関係が指摘されております。

 

また小林直樹氏は

長谷寺と『三国伝記』について

丁寧な研究をされており

その諸論文がまとめられ

『中世説話集とその基盤』

(和泉書院、2004年)に

「第二部 『三国伝記』とその背景」

として収められております。

 

これらのことは

また改めてお伝えしたいと思います。

 

長谷寺で法華経三昧に入った

南祖坊が「長谷観音のお告げ」により

十和田湖へ向かうこととなった

とも読めるような形となった

南祖坊伝説。

 

“神託”を頂く

伝説の重要な舞台が

熊野から長谷へ変化した

その背景を次回以降

もう少し追いたいと思います。

 

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▲長谷寺内 歓喜院の本尊

(長谷寺本尊と同じ三尊形式)

中央:十一面観音

左:雨宝童子(天照大神の化身)

右:難陀竜王(春日大明神の化身)