南祖坊伝説の諸相⑧ “南祖坊の生まれ替わり”南宗院殿利直公

伊藤祐清(1663〜1749)の

『祐清私記』という文書に

27代藩主(盛岡2代)

南部利直(1576〜1632)と

南祖坊にまつわる伝説が

記されております。

 

それは

南祖坊が南部利直に

生まれ替わった

という伝説です。

 

利直公は

盛岡での城築という偉業を

達成した藩主です。

 

『祐清私記』の該当箇所を

以下に引用させて頂きます。

 


 

南部利直公

武勇誠に畏敷(おそろしき)

御大将なり

 

扨(さて)利直公

御寝姿を密(ひそ)かに

見奉(みたてまつら)ば

御形蛇体に見えさせ給うと也

 

有時(あるとき)利直公の夢に

南宗(祖)坊 見えさせ玉ふは

我は蛇体にして候か(が)

過ぐる頃

蛇体の苦痛を遁(のが)れ

貴公に生れ替候

と見ると思召

御夢は覺めにけり

 

其の由(よし)を翌日

御次衆に御物語候由

何れも實にもと思ふ人多く之有

 

然るに

寛永九年(1632)之春

御参観にて江府へ御登り

同年八月十八日

江戸にて御逝去

 

急御飛脚下り

同廿(にじゅう)六日夜

福岡へ到着

 

頓て東禅寺大英和尚へ

仰遣られ

御牌名調(ととのえ)けり

南宗院殿と申し奉る

 

其の後

江戸金地院より

御調(おととのえ)成され候

御牌名も南宗院と書けり

 

扨て(さて)

不断御咄成される

南宗(祖)の坊 生替(うまれかわり)

誠に明白也

 

金地院も東禅寺も右之子細は

夢にも知らぬとも

両方百里を隔てし処にて

一ツに書しは不思議なれ

 

軈而(やがて)

九月初に御尊骸下り

三戸にて御葬禮あり

 

傅日(つたえていはく)

利直公御葬禮の時

俄に曇り大雨

稻妻(いなずま)雷電

甚(はなはだ)しければ

御供の人々も

何れの色を失ひけるとそ

 


 

伊藤祐清は利直公没後の人なので

利直公の後世において

どのように神格化されていたかの

一端が垣間見られます。

 

ついでにですが

藩主をはじめ武士が

神格化されることは

この時代において

よく見られることです。

 

『祐清私記』の引用箇所の

要点をまとめてみます

(便宜上①〜⑥の

ナンバリングをしました)。

 

①利直公の寝ている姿を

密かに見てみたところ

その形が蛇体のようだった。

 

②利直公の夢に南祖坊が登場し

蛇体の苦を遁れ

利直公に生まれ替わったと

伝えた。

 

③そのことを翌日

次衆に話たところ

本当のことと捉えた者が

多くいた。

 

④寛永9年(1632)

8月18日に江戸で逝去。

 

⑤東禅寺と金地院

両院とも利直へ

「南宗院」号を

お授けしようとしていた。

 

⑥三戸での葬儀は

いきなり曇って大雨となり

稲妻が走り雷音が轟いた。

 

②の「蛇体の苦」に関連して

龍蛇のことを仏道では

龍畜(りゅうちく)や

龍趣(りゅうしゅ)ともいいます。

 

龍畜・龍趣は

仏道でいう六道(ろくどう)の

畜生(ちくしょう)道の一種とされます。

 

地獄・餓鬼・畜生を

三悪趣(さんあくしゅ)ともいい

“迷いの境界”とされます。

 

「蛇体の苦」として

身の上に熱沙(ねっさ)が雨ふり

鱗の下には身を喰らう虫が集まり

皮膚が何度も消え失せるなど

仏道の経や論書に

様々書かれております。

 

④の利直公の命日ですが

18日は観音様の御縁日でもあります。

 

南祖坊伝説では

観音菩薩という尊格が

いわば本地となっております。

 

利直公の命日が

観音様の御縁日であることは

「南宗院殿利直公伝説」を

ある意味で“後押しした”と

いえるかもしれません。

 

⑤の戒名についての逸話も

僧侶としての見識を踏まえ

少し深めたいと思います。

 

利直公の戒名は

南宗院殿月渓晴公大居士です。

 

いわゆる戒名には

部分部分に意味があるのですが

今回は院殿号を中心に

紐解いてみます。

 

南宗院殿は「院殿号」

(〜院だと「院号」)

月渓は「道号」(どうごう)

晴公は「戒名」

(狭義ではこの部分を戒名といいます)

大居士は「位号」(いごう)

といいます。

 

院号というのは

天皇が譲位の後に移り住んだ

御所の名前に由来するものです。

 

それが公家や武士や高僧の

呼称となり定着します。

 

院殿号は足利尊氏の

「等持院殿」が始めだそうで

それ以後武家や大名の

戒名として使われるように

なったようです。

 

東禅寺と金地院の両院が

「南宗院(殿)」の院(殿)号を

調えたとあります。

 

この点に関連してのことですが

「利直公自身が

自分を南宗坊の

生まれ替わりだと唱えた」

とのお話を聞いたことがありますし

確か十和田湖の方では

このように説明を受けたように

記憶しております。

 

そういったことを伝える

文書があるのかもしれませんが

今回とりあげた

『祐清私記』では

大分ニュアンスが異なっており

利直公没後に菩提所の東禅寺と

江戸の金地院(家康公開基)の

両院が調えたとしております。

 

東禅寺は

南部守行公以来の

菩提所(ご供養を担うお寺)で

臨済宗妙心寺派ですが

『邦内郷村志』には

弘法大師の伝説があり

弘法大師真筆の法華経が

あると記されております。

 

戒名というものは

色々と踏まえて

調えられるものです。

 

南宗院(殿)という院(殿)号は

利直公が南宗(祖)坊を

篤く信仰したことに

由来すると巷では

説明されているようですが

おそらくそれだけに

とどまらないと思います。

 

多くの場合

戒名の各所に

採用される文言は多義的です。

 

利直は盛岡の築城を果たし

南部藩の拠点を

南方に移した方ですし

「宗」という字には

尊いという意味や

教派という意味以外にも

中心という意味もあります。

 

戒名に触れることの多い

一僧侶から見ると

盛岡の築城などの

利直公の偉業に通じるように

思います。

 

また先にも触れましたが

利直公の命日は18日で

これは観音菩薩の御縁日です。

 

南という方角は

観音菩薩を象徴する

方角でもあります。

 

また南は

宝生(ほうしょう)如来という

尊格をはじめとする

宝部(ほうぶ)の方角でもあり

多々なる実績を残したことを

称えているとも考えられるでしょう。

 

他にも述べられそうなことは

沢山ありますが

戒名については

この辺でやめておきます。

 

⑥では葬儀の時

にわかに天候が崩れて

荒れに荒れた様子が

伝えられます。

 

「南祖坊伝説の諸相⑦」では

「南祖坊が来臨・降臨する際は

必ず大風雨となる」とのいわれが

あったことに触れましたが

このいわれに通じる部分かと思います。

 

要するに

利直公の葬儀の大荒天は

南祖坊に由来するものだということを

⑥は暗に示しているのです。

 

このエピソードもまた

利直公が南祖坊の

生まれ替わりであるという伝説を

強く“後押しした”のではないでしょうか。

 

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会計監査が行われました

12/20と12/21に

当山の会計監査と

本堂建設委員会の会計監査が

行われました。

 

1年を振り返りつつ

各事項を丁寧に

ご確認頂きました。

 

その折に

今後のことについて

実りある話し合いもあり

とても良い監査だったと

ありがたく感じております。

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本年最後のおすそわけ

お寺には

ご法事や様々な節目にあたり

お供物がお供えされます。

 

そのお供物を

「おさがり」として

「おすそわけ」する活動である

おてらおやつクラブに

当山も携わらせて頂いております。

 

本年最後の発送作業を行いました。

 

当山有縁の方々が

思いを託して捧げられたお供物が

「おすそわけ」として

届けられるその先にて

お喜び頂ければ幸いです。

 

▼おてらおやつクラブ

https://otera-oyatsu.club

 

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普賢院本尊 愛染明王

当山本堂は文化7年(1810)に

火災に見舞われ

翌文化8年(1811)に

再建されました。

 

当山本尊である

愛染明王(あいぜんみょうおう)

の御仏像は火災にあった後に

当時の当山本坊である

盛岡永福寺 宥瑗(ゆうえん)法印

より寄附されたものです。

 

愛染明王像の光背(こうはい)には

朱書で志趣が以下のように

記されております。

 

寶照山普賢院本尊新造立志趣者奉為

大守公御武運長久国家安穏及護持宥瑗

法運長遠院内繁昌也敬白

文化七歳次庚午九月大祥日教道覺宥代

寶珠盛岡山永福密寺現住法印宥瑗寄附之

 

本尊はいうまでもなく

当山にて最も大切な尊格です。

 

造立されて200年以上になりますが

今もなおそのご威光が

放たれております。

 

本尊愛染明王

南祖坊伝説の諸相⑦ コケ(鱗)のお土産

『永福寺物語』(昭和22年、山岸郷友会)

という冊子によれば

当山の前身である永福寺では

毎年4月(現在の5月?)に

南祖坊護摩供養会

(なんそのぼうごまくようえ)

が行われていたそうです。

 

江戸期に永福寺は盛岡に

拠点を構えることになりますが

以後も十和田湖伝説に登場する

十和田湖の龍神(青龍大権現)

でもある南祖坊は

篤く信仰されたようです。

 

毎年厳修されていたという

南祖坊護摩供養会当日の

護摩の時間になると

不思議なことに必ず

大風雨が起こったと

伝えられます。

 

この大風雨は

南祖坊が永福寺に来たことを

示すものでもあり

護摩の法会が終わると

風雨は止んで晴れたそうです。

 

そして南祖坊はお土産として

大蛇のコケ(鱗)を3枚ずつ

置いていったといわれます。

 

明治時代の廃仏毀釈の嵐が

吹き荒れる中

盛岡永福寺は東坊(普賢院)を残し

廃寺に追い込まれます。

 

様々な困難がありながらも

昭和17年に再興を遂げ

かつての東坊の地に建立されたのが

現在の盛岡にある永福寺です。

 

その再興にご尽力された

当時のご住職である熊谷道安師は

南祖坊大遠忌護摩供養会

(だいおんきごまくようえ)

を執り行いました。

 

当日は絶好の春日和で

快晴だった所

護摩の時間になると

“大風雨”に見舞われましたが

約2時間後には再び晴れたそうです。

 

「約2時間後」というのは

護摩供養会が終わって後

という意味だと思います。

 

実際に護摩の作法は

当山や盛岡永福寺が用いる法流の

次第通りに全てお勤めすると

約2時間かかります。

 

護摩(ごま)というのは

密教ではとても大切なもので

その起源は古代インドに遡ります。

 

護摩は日本でも古くから

ご祈祷の際に厳修されております。

 

余談ですが

現在当山の観音堂内に

お祀りされている

南祖坊の御像である

南祖法師(なんそほっし)尊像は

とても黒いお姿をしております。

 

当山住職によれば

これは護摩が何度もお勤めされた

ためだろうとのことです。

 

おそらくその通りだと思われます。

 

南祖坊にまつわる法要や法会は

他の文書にも見られますが

細かな検討や紹介は

日を改めさせて頂きます。

 

南祖坊の来臨・降臨は

大風雨とともになされる。

 

そして大蛇のコケ(鱗)を

3枚ずつ置いていく。

 

今回はコケ(鱗)のお土産

というエピソードを

南祖坊伝説の諸相の1つとして

紹介させて頂きました。

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▼盛岡永福寺に建つ青龍大権現の碑

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納めの観音

18日は観音様の縁日です。

 

12月の縁日は

その年の最後の縁日なので

12月18日を

「納めの観音」

といいます。

 

当山観音堂の観音様は

糠部三十三観音霊場

第15番札所の観音様で

七崎観音(ならさきかんのん)

といわれます。

 

もともとは

現在の七崎神社の地にあった

観音堂(七崎山 徳楽寺)に

お祀りされていましたが

明治の神仏分離の際に

当山に遷座されました。

 

七崎観音は

聖(正)観音(しょうかんのん)

という観音様です。

 

七崎(現在の豊崎)は

観音の聖地として

篤く信仰された場所でした。

 

現在当山本堂内の観音堂に

お祀りされる七崎観音

(徳楽寺観音)は秘仏で

年に一度だけ

旧暦1月17日にのみ

御開帳されます。

 

平成31年は2月21日に

御開帳され御宝前にて

護摩法要が厳修されます。

 

この行事は詳らかには

聖観音おこもり護摩法要

といいますが

通称「おこもり」といいます。

 

当山では現在進行形で

本堂建替事業に取り組んでおり

 

近い将来(来年か再来年)

現在の本堂は

取り壊されることになります。

 

そういった事情もあり

現在の本堂で行われる

最後の「おこもり」に

なるかもしれません。

 

諸行無常の理を

強く感じながら

平成最後の「おこもり」に

思いを巡らせる

平成最後の納めの観音の

1日となりました。

 

観音堂

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本年の上京納め

拙僧(副住職)が所属する

総合研究院という研究機関の

会議と研修会のため

本年最後の日帰り上京を

してまいりました。

 

研修会では

真言宗豊山派の宗門大学を

本年退官された先生に

「新義真言宗の成立」について

平安時代からの展開を

ご講義頂きました。

 

今でこそ宗派という概念が

一般的になっておりますが

江戸幕府成立以前は

今のような宗団意識よりも

個々のお寺という意識が強く

歴史を紐解く上では

この「宗」の捉え方は

注意を払う必要を再確認しました。

 

歴史的なことなどを

叙述するにあたり

真言宗や天台宗などという

言葉はある意味便利で

使い勝手の良いものですが

その意味する所は

今の感覚とは異なるものです。

 

全ての宗派の歴史を

丁寧に網羅することは

至難の業ですが

自宗については

いくら複雑な経緯があるとはいえ

出来る限り把握したいと思いました。

 

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あれやこれやの年末年始

正月のしめ飾りや

七五三縄(しめなわ)を

買ってきました。

 

最近はどこに行っても

年末の雰囲気が

強く感じられるように

なってまいりました。

 

大掃除に

来年初頭に檀家の皆様に

配布する諸々の書類作成や

お寺の役員の皆様との

会議資料の作成や

年末年始の行事の準備やら

あげれば次々と

浮かんできます。

 

さてさて

どれから手を付ければ

良いのやらという感じですが

心にゆとりをもちつつ

取り組みたいと思います。

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南祖坊伝説の諸相⑥ 山の神

宝暦年間(1751〜1764)の

『御領分社堂』の

修験持の社堂をまとめた巻に

以下のような記述があります。

 

十和田銀山

一 山神宮 同

往古南蔵坊を

候由申伝候

(いわいそうろうよし

もうしつたえそうろう)

 

ここでの「」は

「お祀りする」「祈りを捧げる」

といった意味合いです。

 

詞(のりと)という単語での

」も同じ意味です。

 

十和田銀山の山神宮は

往古(その昔)に

南祖坊(南蔵坊)がお祀りされ

祈りが捧げられたということが

『御領分社堂』には

記されております。

 

山神の眷属(けんぞく)は

「お犬さま」とも呼ばれ

狼とされます。

 

“狼の神”が

「三峯(みつみね)さま」

とも呼ばれることは

柳田國男の『遠野物語拾遺』でも

とりあげられております。

 

三峯という言葉は

埼玉県秩父の三峯神社に由来します。

 

この三峯神社が

「お犬さま」や「三峯さま」と呼ばれる

眷属の信仰を各地に広めたといわれます。

 

奥州市衣川の三峯神社は

享保元年(1716)に秩父の三峯神社から

勧請(かんじょう)したと伝えられます。

 

県内でも

山の神が祀られ

参道に阿吽の狼が

祀られる所をご存知の方も

多いのではないでしょうか。

 

山神は

山の神

山ノ神

山之神とも表記します。

 

東北では

古い猟法に則り

狩猟を行うマタギが

山の神を篤く信仰したそうです。

 

マタギの伝書に

『山立根本巻』

(やまだちこんぽんのまき)

というものがあります。

 

『山立根本巻』は

マタギが神仏が司る聖地でもある

お山において

狩猟(殺生)を行うことを

山の神が認可したという

マタギの狩猟の由緒が

記されるものです。

 

こういった伝書は

様々あるそうです。

 

マタギに関連する文書には

様々な作法や経文や

真言陀羅尼(だらに)が

多く記されており

神仏への祈りが

大切にされていたことが

伝わってまいります。

 

十和田湖伝説に登場する

八郎(八の太郎、八郎太郎)は

マタギであるとの

いわれもあります。

 

全国的なものかどうかは

存じ上げませんが

山神

山の神などと

刻まれたり

書かれた石碑や石が

東北では

寺社仏閣の境内に建てられたり

納められている所が

多く見られます。

 

当山にも

大きくはありませんが

石が納められております。

 

山が身近な地域でもあるので

山の神はとても

身近だったのだと思います。

 

今回は

『御領分社堂』に記される

十和田銀山の山神宮に触れ

山神として祀られた

南祖坊を伝説の諸相の1つとして

紹介させて頂きました。

 


 

▼山神の碑(花巻市 光勝寺 五大堂裏手)

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▼以下、岩手県立博物館の企画展の写真

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広がる銀世界

今年の12月は

よく雪が降ります。

 

昨年の今頃は

大したことがなかったので

本年も楽観視していたのですが

本当によく降ります。

 

今朝も降雪により

壮観な銀世界が

広がっておりました。

 

幻想的でもあった

今朝の風景を

お届けいたします。

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