南祖坊伝説の諸相⑪ 南祖坊はいつ入定したか?

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)は

当山2世の月法律師の

弟子であると伝えられます。

 

全国霊山霊跡を巡った果てに

十和田湖に入定し

青龍大権現となった

というのが伝説の筋書きです。

 

今回は南祖坊が入定した

時期について

考えてみたいと思います。

 

当山は

圓鏡上人により

延暦弘仁年間(8C末〜9C初頭)に

開創されたとされます。

 

この圓鏡上人は

弘仁8年(817)5月15日に

御遷化されております。

 

南祖坊の師とされる月法律師は

天長8年(831)10月16日に

御遷化されております。

 

まずは

このお二人の没年を

手がかりに南祖坊の

十和田湖入定について

考察してみます。

 

南祖坊入定を考えるにあたり

当山に2冊写本が残る

『十和田山神教記』を

踏まえさせて頂きます。

 

同書では

南祖坊は7歳で弟子入りし

68歳で十和田湖入定

とされております。

 

この年齢を条件として検討すると

南祖坊は878年〜892年に入定

という仮説が成立します。

 

また南祖坊は

貞観年間(859〜876)に生まれた

との伝えもあります。

 

この生誕年を踏まえて

先程と同じ手順で検討すると

南祖坊は927年〜944年に入定

という仮説も成立します。

 

さらに

南祖坊は当山開基(開山)の

行海上人の弟子とのいわれもあります。

 

行海上人は

承安元年(1171)年に当山を

開基(開山)した方です。

 

『新撰陸奥国誌』では

普賢院について

建仁中(1201〜1203)の建立の由

伝れとも往年火災に罹て記録を失し

詳悉ならす

寛保元年(1741)辛酉十一月

快傅と云る僧の中興なりと云り

とあります。

 

寛保元年という年は

快傅が中興した年ではなく

御遷化された年です。

 

同年11月2日に

御遷化されております。

 

行海上人については

開基(開山)の年号は分かるのですが

いつ御遷化されたのかは不明です。

 

なので

ここで記される

建仁中という期間は

御遷化された年を

意味している可能性も

あるのではないかと感じております。

 

真相は分かりませんが

承安元年(1171)という年と

建仁年間(1201〜1203)という年を

踏まえて先程と同じような

手順で検討すると

南祖坊は1232年〜1262年頃に入定

という(条件付きではありますが)

仮説が成立します。

 

当山先師と

当山に残る写本から

①878年〜892年に入定

②927年〜944年に入定

③1232年〜1262年に入定

という3つの説を提示出来ます。

 

探究的試論ですが

これらの年代は

どれも深い意味を

汲み取ることが出来るものです。

 

いずれにおいても

諸事を踏まえると意味が

見えてくるように感じます。

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南祖坊伝説の諸相⑩ 南祖坊御成(おなり)の部屋

八戸市図書館所蔵の

文政12年(1829)

『十和田記 全』(十和田山御縁起)

という近世の写本には

南祖坊や八郎の来臨に際して

部屋を用意するという

エピソードが掲載されております。

 

南祖坊の来臨には

「十和田山の御間」

「十和田様の御間」(永福寺にて)

八郎(八郎太郎、八の太郎)の来臨には

「八竜大明神の御間」(潟屋伊左衛門家にて)

の一間(ひとま)が用意され

七五三縄(しめなわ)が

張られたと

『十和田記 全』には記されます。

 

いずれのエピソードでも

「彼岸」の時季に

触れられております。

 

今回は「十和田山の御間」に

言及している同書の

「御縁起見る心得のケ条覚」

という所をとりあげます。

 

この部分はこの写本の書写者が

同書を見る際に心得を

項目立てて

それぞれケ条毎に

説明したもので

今でいう書籍の註釈の

ようなものです。

 

各心得(註釈)を見るに

『十和田記 全』の書写者は

とても誠実な方で

写本を書写するにあたり

地名や関係する事柄について

丁寧に調べていらっしゃいますし

神仏への畏敬の念をもち

謹んで取り組まれたことが

伝わってまいります。

 

写本ついででいうと

当山には

『十和田山神教記』の写本が

2冊ございます。

 

『十和田記 全』と

『十和田山神教記』には

“写本の限界”ともいうべき

点への言及も見られ

注目すべき重要な箇所と考えます。

 

“写本の限界”については

機会を改めて

述べさせて頂こうと思います。

 

では話を戻して

『十和田記 全』にある

「御縁起見る心得のケ条覚」の

「十和田山の御間」が登場する

部分を以下に引用して

その後に大まかな

内容紹介として

「拙訳」を記させて頂きます。

 

※引用にあたり

小舘衷三氏の

『十和田信仰』(昭和63年、北方新社)

に資料として翻刻されている

ものを使用して

適宜書き下しをしました。


 

盛岡永福寺

古き伝え話に云(いわ)く

十和田山青龍大権現

昔の宿縁 有事にや

今も永福寺へ春秋の

彼岸中日の内には

御越(おこし)有よし。

 

よって永福寺に

十和田山の御間とて

一と間(ひとま)あり。

 

真言七五三(しめ)を張

常に人の御入を禁じ

〆切置候よし。

 

人躰にて御越(おこし)の節は

永福寺法印

罷出(まかりで)て

謁し奉る。

 

竜躰にて御越(おこし)の節は

寺中殊の他

慎居候由(つつしみおりそうろうよし)。

 

尤(もっとも)

人躰竜躰にて御越にかかわらず

膳部(ぜんぶ)供は

差上(さしあげ)候よし。

 

但し時々の住僧の

新正(しんせい)行ひによって

御越の有と無とあるよし。

 

爰(ここ)に一つの話あり。

 

中古の事の由

永福寺法印に名僧ありしに

例の通(とおり)十和田様

ある年の彼岸に

御越ありけるに

この法印覚悟の印を結び

十和田様の御間に入

尊躰(そんたい)を拝し奉り

夜(よも)すがら法語を問い奉りしに

 

十和田様仰申(おうせもうす)は

我々今

如斯(かくのごとく)してある事

恋しくうらやましくおもふべし。

 

必々おもふ事なかれ

 

御教文(おきょうもん)の

おもむきをつとめ

よこしまなく

天命を保(たもた)なば

後には神とも仏とも成ぬべし。

 

弥勒(みろく)の出世を待

我々の勤(つとめ)

昼夜幾度といふ勤あり

其苦痛(そのくつう)

中々凡夫の今おもふ心にて

浅くも勤まる事にあらず

 

其時(そのとき)其苦痛を

いとふ時は何百何千年経るとも

破戒(はかい)に落入べし。

 

最早(もはや)

深(ふかくして)更にも及びぬ。

 

我も其身の

勤行(ごんぎょう)にかかる也

おふせられ

法印退かしめ

それぞれに御間を〆させ

透見(すかしみる)等は

◻る御禁(おとど)めあり。

 

しつまり給ふ。

 

法印は我常の眠蔵(めんぞう)に

引取(ひきとり)けれども

通夜をして信心をこらし

禅座をなして

御座(おすわり)なされけるに

十和田様御苦しげなる御声にて

暫(しば)しが程

煩わせ給ふ様子

御かげにて

法印 伺ひ奉るさえ

消入(きえいる)ばかりに

おぼしめしける事にてはなし

御出(おいで)も御帰りも

住持法印の他は知る人

更になき事と云(いえ)り。

 

今も絶ず御出(おいで)のよし。

 

是等の次第も

永福寺の縁起になるべし。

 

此寺の住職に付て

尋ね問ひもとむべき事とぞ。

 

神に祝われ給ふ。

 

御上(おかみ)にさえ

かやうに辛苦の御勤(おつとめ)あり

有難き大悟のおん事ならん。

 

必ず等閑(とうかん)に

聞べからずと也。

 


【大雑把な拙訳】

十和田山青龍大権現は

南祖坊の頃に修行した

宿縁のある永福寺へ

今でも春秋彼岸の中日に

(または中日までの間に)

おいでになられるため

永福寺には

十和田山の御間という

一間(ひとま)がある。

 

その一間には

真言七五三縄を張り

常に人の出入りは禁じられ

しめきられた。

 

人の姿かあるいは

龍の姿でおでましになる。

 

しかも

いらっしゃるか否かは

その時々の僧侶の

正月の「行い」に左右

されるという。

 

大雑把に意訳すれば

そのようなことが記され

次に重ねて

南祖坊来臨のエピソードが

述べられます。

 

ある年の彼岸に

南祖坊が来臨した際に

永福寺の法印が印を結び

十和田山の御間に入り

南祖坊を拝したのち

一晩中法語を問うた。

 

すると南祖坊は

おっしゃった。

 

私たちがこのように

対面して求法に応じるなど

していることは

羨望される所だろうが

そのような心を

抱くことはお止めなさい。

 

み教えの意味意図する所を

しっかりと励み

ひとときひとときを

大切にするならば

いずれ「神」にも「仏」にも

成ることが出来るだろう

(尊い道を成就出来るだろう)。

 

経文に記される所の

釈尊入滅の後

56億7千万年の後に訪れるとされる

弥勒菩薩の出世を待つ

私たちには昼夜に

いくつものお勤めがある。

 

はるかかなた先に

目指す所の時間軸がある

私たちが

そのお勤めを成すことで

おのずと伴う苦労や苦痛は

今現在と主に向き合う

凡夫の心では

勤まるものではない。

 

その苦痛が受け入れられず

嫌悪するならば

何千年たとうが

破戒の境界に深く陥っているので

修行が成就することはない。

 

私も弥勒の出世を待ち

勤行に励む身なのだ

と南祖坊はおっしゃられ

永福寺の法印を

十和田山の御間から

退出させて部屋を閉めさせ

内部を見ることを

禁じさせた。

 

静かになり

法印は寝室へ戻ったが

寝ることなく通夜して

瞑想に励んだ。

 

すると

南祖坊の苦しげな声で

しばらくの間

もだえていらっしゃる様子が

法印にはその影によって

伺われたが

次第に消えていった。

 

ちなみに南祖坊の

御越も御還も法印以外で

知る者はいないという。

 

これらのことは

永福寺の縁起に

まつわるものなので

永福寺住職に

尋ね求めるべきである。

 

神(青龍大権現)の

御利益・加護があるだろう。

 

天皇にも

辛苦を伴うような

お勤めが毎日ある。

 

とても有り難い

大悟の浄行である。

 

いいかげんな

気持ちで聞くべからず。

 


 

入室独参(にっしつどくさん)

という言葉があります。

 

仏教の辞典では

「師家の室にひとりで入り

親しく参問すること」と

説明されますが

今回とりあげた

「十和田山(様)の御間」での

南祖坊と法印のやりとりは

まさに入室独参といえます。

 

南祖坊は

昼夜の幾つもの「勤め」に

言及しており

自身も弥勒出世までの長い間

苦痛を伴いながら「勤め」を

なしている様子が記されます。

 

ここで南祖坊は

永福寺法印に「法」を教授する

先師や阿闍梨(あじゃり)として

描かれているように感じます。

 

彼岸の中日のうちに

南祖坊がおいでになるという

「十和田山(様)の御間」は

結界され〆切られて常時

人の出入りも禁じられたとの

描写についても

灌頂(かんじょう)や大会(だいえ)

といった具体的な儀式の空間や

荘厳(しょうごん)の作法に加え

様々な節目に用いられる

大小の諸作法が

着想となっているように

思われます。

 

今回引用した部分についても

深められる所が多々ありますが

この辺で留めさせて頂き

別の機会にまた

触れさせて頂きます。

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南祖坊伝説の諸相⑨ 来臨する南祖坊

当山は

南祖坊(なんそのぼう)という

僧侶が修行をしたと

伝えられるお寺です。

 

南祖坊とは

十和田山開祖とされ

十和田湖青龍大権現

(せいりゅうだいごんげん)

という十和田湖の龍神となった

とされる伝説の僧侶です。

 

『邦内郷村志』という書物の

十湾湖(十和田湖)の説明に

「又日」(またいわく)として

“南祖坊の来臨”について

紹介されております。

 

原文は漢文なので

意味を取りやすいように

書き下して引用し

それを意訳してみます。

 


【書き下し】

又日(またいわく)

永福寺に於いて

年々三月某日

御影供(みえく)今に至る。

 

南宗青龍神

道場に来格する

其の徴(しるし)

揭(かかげる)焉。

 

此の時に當たり

寺中厳(おごそ)かに

潔斎(けっさい)して

火を更(あらた)め

座を儲(もう)け

屏風(びょうぶ)を以て

其の四方を圍(かこ)み

卓を置き供物品々を備える。

 

香を炷(た)き

音聲(おんじょう)を禁じ

之を俟(ま)つ。

 

其の来去(らいこ)共

必ず風雨暴風發(おこ)る。

 

爰(ここ)を以て

其の時候を知ると云う。


【意訳】

永福寺では

弘法大師(3/21が“命日”)の

ご法事である

御影供(みえく)という法要が

今でも行われている。

 

南祖坊(青龍大権現)は

永福寺道場に来臨する時に

見られる“兆候”を

ここに掲げる。

 

南祖坊来臨に当たって

寺中の者は

精進潔斎を行い

灯明をあらため

座を用意し

その四方に屏風を立て

机に供物をはじめ設えを整える。

 

香を焚いて

音声を禁じて

南祖坊の来臨を待つ。

 

南祖坊が来臨する際も

お還りになる際も共に

必ず暴風雨となる。

 

暴風雨がおこることで

南祖坊が来たことを

承知すると言われる。


 

御影供(みえく)は

とても重要な法要で

弘法大師空海に捧げられます。

 

拙僧(副住職)は

真言宗豊山派の僧侶ですが

真言宗の僧籍を持つ

僧侶のことを

真言行者(しんごんぎょうじゃ)

ともいいます。

 

真言宗の僧侶は

行者ですので

修行ということを

とても重んじます。

 

修行すべきことは

究極的にはあらゆること

ということが出来るのですが

教相(きょうそう)

事相(じそう)という

両輪を深めることを

大切にいたします。

 

教相の修行とは

教学や教理などを

学び深めていくこと。

 

事相の修行とは

作法や法式などを

相承し体得し研鑽していくこと。

 

教相あっての事相であり

事相あっての教相なので

この両者は車の両輪に

喩えられます。

 

つまりはいずれもが

重要であるということです。

 

道場とは

そういった修行の場で

重要な場所なのです。

 

御影供(みえく)をはじめ

重要な儀式は様々ありますが

それらが厳修される場所も

道場といわれます。

 

尊い儀式には

それぞれの荘厳(しょうごん)や

設えが法式として

諸流伝えられておりますが

引用箇所に見られる

設えの簡単な記述についても

そういった作法に

紐づけた上で

具体的に再現出来るように思います。

 

また南祖坊の来去には

風雨暴風が必ず伴うと

記されております。

 

これは前回「伝説の諸相⑧」として

とりあげた南部利直公の伝説にも

見られるまさに諸相の一つです

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑧/)。

 

今回引用した箇所だけでも

深めるべきことが多いのですが

その中でも真言宗における

具体的な儀式や作法との

結びつきが見られるという点は

伝説を考える上で

重要な意味を持つように思います。

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南祖坊伝説の諸相⑧ “南祖坊の生まれ替わり”南宗院殿利直公

伊藤祐清(1663〜1749)の

『祐清私記』という文書に

27代藩主(盛岡2代)

南部利直(1576〜1632)と

南祖坊にまつわる伝説が

記されております。

 

それは

南祖坊が南部利直に

生まれ替わった

という伝説です。

 

利直公は

盛岡での城築という偉業を

達成した藩主です。

 

『祐清私記』の該当箇所を

以下に引用させて頂きます。

 


 

南部利直公

武勇誠に畏敷(おそろしき)

御大将なり

 

扨(さて)利直公

御寝姿を密(ひそ)かに

見奉(みたてまつら)ば

御形蛇体に見えさせ給うと也

 

有時(あるとき)利直公の夢に

南宗(祖)坊 見えさせ玉ふは

我は蛇体にして候か(が)

過ぐる頃

蛇体の苦痛を遁(のが)れ

貴公に生れ替候

と見ると思召

御夢は覺めにけり

 

其の由(よし)を翌日

御次衆に御物語候由

何れも實にもと思ふ人多く之有

 

然るに

寛永九年(1632)之春

御参観にて江府へ御登り

同年八月十八日

江戸にて御逝去

 

急御飛脚下り

同廿(にじゅう)六日夜

福岡へ到着

 

頓て東禅寺大英和尚へ

仰遣られ

御牌名調(ととのえ)けり

南宗院殿と申し奉る

 

其の後

江戸金地院より

御調(おととのえ)成され候

御牌名も南宗院と書けり

 

扨て(さて)

不断御咄成される

南宗(祖)の坊 生替(うまれかわり)

誠に明白也

 

金地院も東禅寺も右之子細は

夢にも知らぬとも

両方百里を隔てし処にて

一ツに書しは不思議なれ

 

軈而(やがて)

九月初に御尊骸下り

三戸にて御葬禮あり

 

傅日(つたえていはく)

利直公御葬禮の時

俄に曇り大雨

稻妻(いなずま)雷電

甚(はなはだ)しければ

御供の人々も

何れの色を失ひけるとそ

 


 

伊藤祐清は利直公没後の人なので

利直公の後世において

どのように神格化されていたかの

一端が垣間見られます。

 

ついでにですが

藩主をはじめ武士が

神格化されることは

この時代において

よく見られることです。

 

『祐清私記』の引用箇所の

要点をまとめてみます

(便宜上①〜⑥の

ナンバリングをしました)。

 

①利直公の寝ている姿を

密かに見てみたところ

その形が蛇体のようだった。

 

②利直公の夢に南祖坊が登場し

蛇体の苦を遁れ

利直公に生まれ替わったと

伝えた。

 

③そのことを翌日

次衆に話たところ

本当のことと捉えた者が

多くいた。

 

④寛永9年(1632)

8月18日に江戸で逝去。

 

⑤東禅寺と金地院

両院とも利直へ

「南宗院」号を

お授けしようとしていた。

 

⑥三戸での葬儀は

いきなり曇って大雨となり

稲妻が走り雷音が轟いた。

 

②の「蛇体の苦」に関連して

龍蛇のことを仏道では

龍畜(りゅうちく)や

龍趣(りゅうしゅ)ともいいます。

 

龍畜・龍趣は

仏道でいう六道(ろくどう)の

畜生(ちくしょう)道の一種とされます。

 

地獄・餓鬼・畜生を

三悪趣(さんあくしゅ)ともいい

“迷いの境界”とされます。

 

「蛇体の苦」として

身の上に熱沙(ねっさ)が雨ふり

鱗の下には身を喰らう虫が集まり

皮膚が何度も消え失せるなど

仏道の経や論書に

様々書かれております。

 

④の利直公の命日ですが

18日は観音様の御縁日でもあります。

 

南祖坊伝説では

観音菩薩という尊格が

いわば本地となっております。

 

利直公の命日が

観音様の御縁日であることは

「南宗院殿利直公伝説」を

ある意味で“後押しした”と

いえるかもしれません。

 

⑤の戒名についての逸話も

僧侶としての見識を踏まえ

少し深めたいと思います。

 

利直公の戒名は

南宗院殿月渓晴公大居士です。

 

いわゆる戒名には

部分部分に意味があるのですが

今回は院殿号を中心に

紐解いてみます。

 

南宗院殿は「院殿号」

(〜院だと「院号」)

月渓は「道号」(どうごう)

晴公は「戒名」

(狭義ではこの部分を戒名といいます)

大居士は「位号」(いごう)

といいます。

 

院号というのは

天皇が譲位の後に移り住んだ

御所の名前に由来するものです。

 

それが公家や武士や高僧の

呼称となり定着します。

 

院殿号は足利尊氏の

「等持院殿」が始めだそうで

それ以後武家や大名の

戒名として使われるように

なったようです。

 

東禅寺と金地院の両院が

「南宗院(殿)」の院(殿)号を

調えたとあります。

 

この点に関連してのことですが

「利直公自身が

自分を南宗坊の

生まれ替わりだと唱えた」

とのお話を聞いたことがありますし

確か十和田湖の方では

このように説明を受けたように

記憶しております。

 

そういったことを伝える

文書があるのかもしれませんが

今回とりあげた

『祐清私記』では

大分ニュアンスが異なっており

利直公没後に菩提所の東禅寺と

江戸の金地院(家康公開基)の

両院が調えたとしております。

 

東禅寺は

南部守行公以来の

菩提所(ご供養を担うお寺)で

臨済宗妙心寺派ですが

『邦内郷村志』には

弘法大師の伝説があり

弘法大師真筆の法華経が

あると記されております。

 

戒名というものは

色々と踏まえて

調えられるものです。

 

南宗院(殿)という院(殿)号は

利直公が南宗(祖)坊を

篤く信仰したことに

由来すると巷では

説明されているようですが

おそらくそれだけに

とどまらないと思います。

 

多くの場合

戒名の各所に

採用される文言は多義的です。

 

利直は盛岡の築城を果たし

南部藩の拠点を

南方に移した方ですし

「宗」という字には

尊いという意味や

教派という意味以外にも

中心という意味もあります。

 

戒名に触れることの多い

一僧侶から見ると

盛岡の築城などの

利直公の偉業に通じるように

思います。

 

また先にも触れましたが

利直公の命日は18日で

これは観音菩薩の御縁日です。

 

南という方角は

観音菩薩を象徴する

方角でもあります。

 

また南は

宝生(ほうしょう)如来という

尊格をはじめとする

宝部(ほうぶ)の方角でもあり

多々なる実績を残したことを

称えているとも考えられるでしょう。

 

他にも述べられそうなことは

沢山ありますが

戒名については

この辺でやめておきます。

 

⑥では葬儀の時

にわかに天候が崩れて

荒れに荒れた様子が

伝えられます。

 

「南祖坊伝説の諸相⑦」では

「南祖坊が来臨・降臨する際は

必ず大風雨となる」とのいわれが

あったことに触れましたが

このいわれに通じる部分かと思います。

 

要するに

利直公の葬儀の大荒天は

南祖坊に由来するものだということを

⑥は暗に示しているのです。

 

このエピソードもまた

利直公が南祖坊の

生まれ替わりであるという伝説を

強く“後押しした”のではないでしょうか。

 

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南祖坊伝説の諸相⑦ コケ(鱗)のお土産

『永福寺物語』(昭和22年、山岸郷友会)

という冊子によれば

当山の前身である永福寺では

毎年4月(現在の5月?)に

南祖坊護摩供養会

(なんそのぼうごまくようえ)

が行われていたそうです。

 

江戸期に永福寺は盛岡に

拠点を構えることになりますが

以後も十和田湖伝説に登場する

十和田湖の龍神(青龍大権現)

でもある南祖坊は

篤く信仰されたようです。

 

毎年厳修されていたという

南祖坊護摩供養会当日の

護摩の時間になると

不思議なことに必ず

大風雨が起こったと

伝えられます。

 

この大風雨は

南祖坊が永福寺に来たことを

示すものでもあり

護摩の法会が終わると

風雨は止んで晴れたそうです。

 

そして南祖坊はお土産として

大蛇のコケ(鱗)を3枚ずつ

置いていったといわれます。

 

明治時代の廃仏毀釈の嵐が

吹き荒れる中

盛岡永福寺は東坊(普賢院)を残し

廃寺に追い込まれます。

 

様々な困難がありながらも

昭和17年に再興を遂げ

かつての東坊の地に建立されたのが

現在の盛岡にある永福寺です。

 

その再興にご尽力された

当時のご住職である熊谷道安師は

南祖坊大遠忌護摩供養会

(だいおんきごまくようえ)

を執り行いました。

 

当日は絶好の春日和で

快晴だった所

護摩の時間になると

“大風雨”に見舞われましたが

約2時間後には再び晴れたそうです。

 

「約2時間後」というのは

護摩供養会が終わって後

という意味だと思います。

 

実際に護摩の作法は

当山や盛岡永福寺が用いる法流の

次第通りに全てお勤めすると

約2時間かかります。

 

護摩(ごま)というのは

密教ではとても大切なもので

その起源は古代インドに遡ります。

 

護摩は日本でも古くから

ご祈祷の際に厳修されております。

 

余談ですが

現在当山の観音堂内に

お祀りされている

南祖坊の御像である

南祖法師(なんそほっし)尊像は

とても黒いお姿をしております。

 

当山住職によれば

これは護摩が何度もお勤めされた

ためだろうとのことです。

 

おそらくその通りだと思われます。

 

南祖坊にまつわる法要や法会は

他の文書にも見られますが

細かな検討や紹介は

日を改めさせて頂きます。

 

南祖坊の来臨・降臨は

大風雨とともになされる。

 

そして大蛇のコケ(鱗)を

3枚ずつ置いていく。

 

今回はコケ(鱗)のお土産

というエピソードを

南祖坊伝説の諸相の1つとして

紹介させて頂きました。

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▼盛岡永福寺に建つ青龍大権現の碑

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南祖坊伝説の諸相⑥ 山の神

宝暦年間(1751〜1764)の

『御領分社堂』の

修験持の社堂をまとめた巻に

以下のような記述があります。

 

十和田銀山

一 山神宮 同

往古南蔵坊を

候由申伝候

(いわいそうろうよし

もうしつたえそうろう)

 

ここでの「」は

「お祀りする」「祈りを捧げる」

といった意味合いです。

 

詞(のりと)という単語での

」も同じ意味です。

 

十和田銀山の山神宮は

往古(その昔)に

南祖坊(南蔵坊)がお祀りされ

祈りが捧げられたということが

『御領分社堂』には

記されております。

 

山神の眷属(けんぞく)は

「お犬さま」とも呼ばれ

狼とされます。

 

“狼の神”が

「三峯(みつみね)さま」

とも呼ばれることは

柳田國男の『遠野物語拾遺』でも

とりあげられております。

 

三峯という言葉は

埼玉県秩父の三峯神社に由来します。

 

この三峯神社が

「お犬さま」や「三峯さま」と呼ばれる

眷属の信仰を各地に広めたといわれます。

 

奥州市衣川の三峯神社は

享保元年(1716)に秩父の三峯神社から

勧請(かんじょう)したと伝えられます。

 

県内でも

山の神が祀られ

参道に阿吽の狼が

祀られる所をご存知の方も

多いのではないでしょうか。

 

山神は

山の神

山ノ神

山之神とも表記します。

 

東北では

古い猟法に則り

狩猟を行うマタギが

山の神を篤く信仰したそうです。

 

マタギの伝書に

『山立根本巻』

(やまだちこんぽんのまき)

というものがあります。

 

『山立根本巻』は

マタギが神仏が司る聖地でもある

お山において

狩猟(殺生)を行うことを

山の神が認可したという

マタギの狩猟の由緒が

記されるものです。

 

こういった伝書は

様々あるそうです。

 

マタギに関連する文書には

様々な作法や経文や

真言陀羅尼(だらに)が

多く記されており

神仏への祈りが

大切にされていたことが

伝わってまいります。

 

十和田湖伝説に登場する

八郎(八の太郎、八郎太郎)は

マタギであるとの

いわれもあります。

 

全国的なものかどうかは

存じ上げませんが

山神

山の神などと

刻まれたり

書かれた石碑や石が

東北では

寺社仏閣の境内に建てられたり

納められている所が

多く見られます。

 

当山にも

大きくはありませんが

石が納められております。

 

山が身近な地域でもあるので

山の神はとても

身近だったのだと思います。

 

今回は

『御領分社堂』に記される

十和田銀山の山神宮に触れ

山神として祀られた

南祖坊を伝説の諸相の1つとして

紹介させて頂きました。

 


 

▼山神の碑(花巻市 光勝寺 五大堂裏手)

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▼以下、岩手県立博物館の企画展の写真

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南祖坊伝説の諸相⑤ 長谷寺と南祖坊 その参

当山には十和田湖

南祖坊(なんそのぼう)伝説が

伝えられます。

 

“最古の十和田湖伝説”とされるのは

室町期の『三国伝記』所収の

「釈難蔵得不生不滅事」の

エピソードです。

 

『三国伝記』という書物は

十一面観音をはじめ

長谷寺の影響が

色濃く見られます。

 

この点につきましては

これまでにもブログで

紹介させて頂いております。

 

南祖坊伝説(十和田湖伝説)は

南部藩領を中心に

広く親しまれ

信仰においても

少なからず影響を与えたことが

様々な文書や

各地に残る石碑や神社などから

うかがい知ることが出来ます。

 

この伝説の発信拠点となったのは

七崎(現在の豊崎町)とされます。

 

当山の前身である永福寺が

殊に深く関わっております。

 

この永福寺は

小池坊(長谷寺)の末寺です。

 

前々回と前回は

江戸期の紀行家である

菅江真澄(すがえますみ)の

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

『十曲湖(とわだのうみ)』

という両著作の記述に触れながら

長谷寺との関係を

見てまいりました。

 

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

は天明8年(1788)に北海道を

目指した際の紀行文で

ここでは先に触れた

『三国伝記』の「釈難蔵得不生不滅事」

を紹介しております。

 

『十曲湖(とわだのうみ)』は

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

から約20年経った後の

文化4年(1807)年夏の紀行文で

こちらでは幾つかの

南祖坊伝説が紹介されます。

 

まず初めに『三国伝記』の

伝説が記述されるのですが

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

での内容とは異なっております。

 

跡形もなく変化している

というわけではありませんが

“重要な舞台”が

熊野ではなく泊瀬(長谷)に

変化しているのです。

 

この変化の意味する所を

永福寺と長谷寺の

本末関係や歴史的背景を踏まえ

紐解こうと試みたのが

前々回と前回の投稿です。

 

長谷寺の本尊は

十一面観音という尊格です。

 

長谷寺の十一面観音は

右手に錫杖(しゃくじょう)

左手に瓶(びょう)を執り

大盤石(ばんじゃく)という

台座に立つ尊容で

長谷式・長谷型といわれます。

 

東国(関東)や東北においても

十一面観音は

古くから信仰されたようです。

 

当山の前身である永福寺も

本尊は十一面観音です。

 

東日本で長谷寺といえば

鎌倉の長谷寺が有名ですが

この鎌倉の長谷寺も

奈良の長谷寺と関わりがあり

この両長谷寺は「姉妹」とも

いわれます。

 

鎌倉の長谷寺の本尊は

奈良の長谷寺と同じ

長谷式の十一面観音です。

 

伝承によれば

奈良の長谷寺の本尊を

造立する際に用いた霊木(楠)と

同じものを海に解き放ち

それが流れ着いた場所に

同じ本尊を建立しようとしたそうです。

 

そして流れ着いた先が

鎌倉であったとされます。

 

また海に流したのは

霊木(楠)ではなく

奈良の長谷寺と同じく彫られた

十一面観音像であったともいわれます。

 

そういった伝承があるがゆえに

奈良と鎌倉の長谷寺は“姉妹”と

いわれるのです。

 

奈良の長谷寺に対して

鎌倉の長谷寺は新長谷寺ともいわれます。

 

東国(関東)において

鎌倉は密教の一大拠点の1つです。

 

鎌倉ついででいえば

鶴岡八幡宮寺

勝長寿院

二階堂永福寺の三学山は

鎌倉の密教を考える上で

重要な寺院となるようです。

 

青森県で最古の仏像は

三戸郡南部町にございます

蓮台山恵光院(けいこういん)の

観音堂にお祀りされる

十一面観音立像で

平安時代のものとされます。

 

恵光院は通称・長谷寺と呼ばれますが

かつては蓮台山長谷寺という

とても古くからある寺院で

盛岡永福寺の末寺として

盛岡に改められることとなり

その旧地を継承したお寺です。

 

かなり古くから

十一面観音や長谷の信仰が

伝わっていたことを

今に伝えているように思います。

 

長谷寺と名のつくお寺の大部分は

鎌倉の長谷寺もそうですが

奈良の長谷寺にその起源があります。

 

長谷寺をキーワードに

話がかなり膨らんできたので

今回はこの辺で

終わりにしたいと思います。

 

江戸期においては

永福寺が小池坊(長谷寺)末寺で

あることが文書に明記されるのですが

それ以前について詳細は分かりません。

 

ただ長谷信仰や十一面観音の信仰が

とても古くから関東にとどまらず

東北にも伝わっていたようなので

伝説や信仰を考える上で

興味深い要素かと思います。

 

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南祖坊伝説の諸相④ 長谷寺と南祖坊 その弐

前回の「南祖坊伝説の諸相③」では

紀行家である菅江真澄(すがえますみ)の

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』(1788年)

『十曲湖(とわだのうみ)』(1807年)

という著作に触れられる

南祖坊伝説の明らかな変化として

南祖坊と長谷寺が

関係づけられていることを見ました。

 

※前回はコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相③/

 

南祖坊と長谷寺が

関係づけられることは

永福寺が小池坊の末寺

つまり奈良県桜井市の

長谷寺の末寺であることと

深く関わるといえるでしょう。

 

伝説や伝承というものは

常に固定的なものではなく

時に見直され

時に教相(教学)や事相(法流や作法)

によって深められ

そして発信され

受容されるものかと思います。

 

江戸時代は

全国のお寺の本末関係が

確立されていく時代であり

その本末関係は全国各地の

人民統制など行政においても

意味を持つものでした。

 

盛岡城の鬼門に

改められた永福寺は

盛岡南部藩筆頭の寺院であり

祈願寺という立場であるのに加え

田舎本寺(いなかほんじ)という

お寺を統括する立場にもあったお寺です。

 

さらには檀林(だんりん)という

僧侶の大学のような場所でもありました。

 

広大な南部藩領における

以上のような

永福寺の様々な役割は

南祖坊伝説のあり方に

影響を与えている部分が

あろうことは容易に想像できます。

 

当山のある豊崎町(かつての七崎)は

永福寺発祥の地ですが

盛岡に永福寺が建立された後も

三戸の嶺松院(れいしょういん)と共に

支配や末寺扱いではなく

「旧地」「自坊」として

区別されて維持されました。

 

これは当山が

南祖坊が修行したとの

伝承があることと

関係があるように思います。

 

話が大分それましたが

長谷寺との関係に

話を戻します。

 

長谷寺は正式には

豊山 神楽院 長谷寺といいます。

 

長谷寺は始め東大寺の末寺で

正暦元年(990年)に

興福寺の末寺となります。

 

興福寺は藤原氏の氏神の

春日大社の別当でもあります。

 

長谷寺の本尊は十一面観音で

その脇士として

本尊に向かって右側に

難陀龍王(なんだりゅうおう)が

お祀りされますが

これは春日大明神の化身とされます。

 

藤原氏の関係でいえば

長谷寺の十一面観音造立には

藤原房前が関係しております。

 

ちなみにですが

南祖坊も藤原氏とされます。

 

長谷寺も荒廃した時期があり

それを再興したのが

根来寺の学頭であった

専誉(せんよ)僧正です。

 

専誉僧正は豊臣秀長に招かれ

天正15年(1587年)に長谷寺に

入られます。

 

専誉僧正の住坊を

小池坊中性院といいます。

 

専誉僧正入山以後

長谷寺は新義真言宗の

根本道場となります。

 

徳川時代には厚い庇護を受け

本堂や大講堂や登廊が

再建されます。

 

また専誉僧正が入山以来

“学山”としての性格が明確化され

“長谷学”の名は一世を風靡したそうです。

 

長谷寺は現在でも

真言宗豊山派の総本山で

当山の本山です。

 

江戸期には長谷寺は

様々な宗派の僧侶が集まり

1000人もの修行僧がいたそうです。

 

新義真言宗の

根本道場であることに加え

学山としても

長谷寺が隆盛したのです。

 

長谷寺は古くから

十一面観音の霊験で

有名なお山です。

 

当山の前身である

七崎永福寺の本尊は

十一面観音とされます。

 

盛岡の永福寺は修法本尊として

歓喜天(聖天)がお祀りされますが

内々陣にはその本地として

十一面観音がお祀りされます。

 

最古の十和田湖伝説が収録される

『三国伝記』という書物は

インドと中国と日本の

三者が観音法楽(かんのんほうらく)

つまり観音菩薩に捧げるべく

1人ずつ持ち回りで

お話をするという設定で

その話の中の一話が

最古の十和田湖伝説とされます。

 

『三国伝記』という書物は

長谷寺の影響が指摘されており

この点はとても重要かと思います。

 

十一面観音と南祖坊伝説との関係は

これまで述べられたことが

なかった視点なので

仏道の視点とあわせて

今後も深めていきたいと思います。

 

以上

関連する事柄を

あまり整理することなしに

記してきました。

 

詳細に記すと

膨大になってしまうので

大雑把に紹介させて頂きました。

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南祖坊伝説の諸相③ 長谷寺と南祖坊 その壱

十和田湖南祖坊伝説の

発信拠点は七崎(ならさき)

つまりは現在の豊崎とされます。

 

七崎には当山の前身として

永福寺というお寺がありました。

 

永福寺にしろ

普賢院にしろ

当山が別当をつとめた

七崎観音堂(現在の七崎神社)にしろ

焼失により詳細な由緒は

不明な所が多いのですが

受け継がれる『先師過去帳』や

語り継がれる所の口伝や伝承があり

それらを元として

縁起は大切に伝えられております。

 

今回からは近世の文書である

菅江真澄の紀行文を手がかりに

当山の本山である長谷寺(はせでら)

との関係を何回かに分けて

とりあげたいと思います。

 

江戸期の紀行家である

菅江真澄(すがえますみ、1754-1829)は

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

『十曲湖(とわだのうみ)』で

南祖坊伝説について

触れております。

 

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』は

天明8年(1788)に北海道を

目指した際の紀行文です。

 

ここでは南祖坊伝説について

室町時代の書物である

『三国伝記(さんごくでんき)』所収の

“最古の十和田湖伝説”について

紹介しております。

 

『十曲湖(とわだのうみ)』は

文化4年(1807)年夏の紀行文で

こちらにおいても

南祖坊伝説に触れております。

 

そこでも同じ筋書きで

伝説を説明しているのですが

その中に南祖坊像の変化を

汲み取れる箇所があり

さらに「別伝」として

幾つかのバージョンが

紹介されております。

 

室町期の『三国伝記(さんごくでんき)』

に記される所の“最古の十和田湖伝説”が

菅江真澄の両紀行文において

伝説の“メインストーリー”として

紹介されているのですが

『十曲湖(とわだのうみ)』では

南祖坊が長谷寺と明確に

関係づけられております。

 

『三国伝記(さんごくでんき)』では

弥勒出生値遇のために

熊野山に山籠して

祈願祈請千日の夜に

白髪老翁が釈難蔵(南祖坊)に

お告げをするという

くだりがあり

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』で

この部分は紹介されております。

 

同部分について

『十曲湖(とわだのうみ)』では

南祖坊が泊瀬寺(長谷寺)に籠もり

ひたすらに法華経を読み

「お告げを頂く」という形で

紹介されております。

 

長谷寺の本尊である

十一面観音は

長谷観音(はせかんのん)と呼ばれ

古くから篤く信仰されました。

 

南祖坊は

「法華経の持経者」として

描かれますが

修行における法華経を

考える上で

「法華滅罪(ほっけめつざい)」

という言葉がキーワードとなります。

 

専門的な話になってしまうので

詳しくはお伝えしませんが

自身を清め(六根(ろっこん)清浄)

功徳を積み善へとつなげることと

お考え頂ければ結構かと思います。

 

長谷寺や長谷観音との関係を

踏まえながら南祖坊伝説と

それに関連する諸要素を見ることは

とても有効であると感じております。

 

“最古の十和田湖伝説”が収められる

『三国伝記』の研究でも

長谷寺との関係が指摘されております。

 

十和田湖伝説の研究でも

しばしばとりあげられる

池上洵一氏の著書

『修験の道 三国伝記の世界』

(以文社、1999年)において

長谷寺との関係が指摘されております。

 

また小林直樹氏は

長谷寺と『三国伝記』について

丁寧な研究をされており

その諸論文がまとめられ

『中世説話集とその基盤』

(和泉書院、2004年)に

「第二部 『三国伝記』とその背景」

として収められております。

 

これらのことは

また改めてお伝えしたいと思います。

 

長谷寺で法華経三昧に入った

南祖坊が「長谷観音のお告げ」により

十和田湖へ向かうこととなった

とも読めるような形となった

南祖坊伝説。

 

“神託”を頂く

伝説の重要な舞台が

熊野から長谷へ変化した

その背景を次回以降

もう少し追いたいと思います。

 

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▲長谷寺内 歓喜院の本尊

(長谷寺本尊と同じ三尊形式)

中央:十一面観音

左:雨宝童子(天照大神の化身)

右:難陀竜王(春日大明神の化身)

南祖坊伝説の諸相② 阿闍梨と化す南祖坊

拙僧(副住職)は昨年秋より

真言宗豊山派の研究機関に

所属することになって以降

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説を

仏教的視点から改めて紐解き整理し

研究を進めております。

 

研究を進めているとはいえ

他にも研究テーマがあるので

南祖坊伝説について

本年は史料の整理や

史料収集や参考資料・文献の収集が

主な作業となりました。

 

研究のための準備といったところです。

 

とはいえ

新たな気づきがあったり

新たな道筋が見えたりと

有意義なことがありました。

 

まとめるにはかなりの時間が

かかると思いますが

丁寧に整理したいと思います。

 

前置きが長くなりましたが

今回は「南祖坊伝説の諸相②」として

史料に記される“南祖坊像”の

一旦が垣間見られる部分を

少しだけピックアップ

したいと思います。

 

『来歴集』(元禄12(1699)年)

という書物に所収の

「十和田沼 亦十和田」に

難蔵坊(南祖坊)は

額田嶽熊野山十瀧寺住職で

幼名を額部麿といい

神通力があったとあります。

 

また「或説」として

南蔵坊(南祖坊)は

糠部三戸永福寺六供坊の

蓮華坊の住侶であり

斗賀の観音堂を建立した

ことが伝えられます。

 

さらに同箇所には

永福寺什物として

南祖坊が自ら画いた

両界曼荼羅があり

裏には康元(1256-1257)の年号が

書いてあったとあります。

 

さらに続けて

その曼荼羅は

延宝年中(1673-1681)の

永福寺が焼失した際に

燃えてしまったと書かれております。

 

これとほぼ同内容のことが

『吾妻むかしものがたり』

で紹介されております。

 

『盛岡砂子』『邦内郷村志』

『奥々風土記』では

南祖坊が自ら書いた

不動尊一軸があり

その不動明王はあたかも

生きているようで

“霊容猛威”でその両目は

拝者を追うかのような

威容であるといったことが

紹介されております。

 

この不動尊一軸ですが

明治になり廃寺となった

盛岡永福寺が再興された記念に

発行された『永福寺物語』によれば

所在不明とのことです。

 

『盛岡砂子』では

永福寺住持(住職)は

「位 権僧正に至る」とあります。

 

多くのことに触れながら

お話すれば良いのですが

かなり専門的になってしまうので

細かな説明は省略してお伝えすると

南祖坊が阿闍梨(あじゃり)という

非常に尊い位の

僧侶として描かれております。

 

さらっと書かれてある部分ですが

仏教的(真言宗的)視点で

紐解くと重要な意味が

含まれているのです。

 

曼荼羅を画くことが許されるのは

阿闍梨(詳しくは伝燈大阿闍梨)です。

 

不動尊一軸を自らが画いたという

部分からも南祖坊が阿闍梨として

描かれていることが伺えます。

 

記しはじめると

止まらなくなりかねないので

ここまでにしたいと思います。

 

今回は

「南祖坊伝説の諸相②」として

阿闍梨として描かれる南祖坊について

紹介させて頂きました。

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