稀代の古刹 七崎観音④

現在当山本堂内の

観音堂に祀られる

七崎観音(聖観音)の仏像は

第29代藩主

南部重信公により

貞享4年(1687)4月に

奉納されたものです。

 

重信公がご奉納された

聖観音像は金銅仏(こんどうぶつ)で

当時は七崎観音の御前立(おまえだち)

としてお祀りされていたそうです。

 

かつて七崎観音は

御正体(みしょうたい)が本尊として

お祀りされていたといわれますが

詳細は不明です。

 

この重信公が納められた

聖観音像が金銅仏であることには

当時の当山の本坊である

盛岡永福寺の聖天(しょうてん)

との関わりが考えられ

事相(作法)的な意味・意図が

踏まえられてのものと思われます。

 

重信公は南部藩が

「盛岡藩」と「八戸藩」に

分かれた当時の「盛岡藩」主です。

 

重信公が聖観音像を納められたのは

貞享4年(1687)年4月ですが

同じ年の11月28日に

永福寺41世住職である

宥鏡大和尚は御遷化(ご逝去)

されております。

 

宥鏡大和尚の不調も

観音像を奉納された

一要因である可能性もあります。

 

宥鏡大和尚の晩年

延宝8年(1680)1月に

盛岡永福寺は火災により

伽藍が「焼亡」しております。

 

一説にこの火災は

歓喜天(かんぎてん)という尊格の

天罰であると宥鏡大和尚は

捉えられたと伝えられ

そのため再建にあたっては

本尊壇とは別に

歓喜天の修法壇である

聖天壇(しょうてんだん)を

本堂に構えるなどされたそうです。

 

永福寺の本尊は十一面観音で

現在も内々陣に祀られますが

修法本尊としては

歓喜天が祀られております。

 

延宝8年の火災の後

諸堂の再建が図られ

元禄7年(1694)には

境内三万坪にも及ぶ一大伽藍が

整えられることになりますが

この時の藩主が

29代南部重信公です。

 

この重信公と永福寺42世住職である

清珊(せいさん)大和尚が

元禄4年(1691)年になされた

連歌(れんが)により

盛岡という地名が

定められたといわれます。

 

清珊大和尚は

江戸の知足院(ちそくいん)から

永福寺においでになられた方で

「筑波の僧正」とも呼ばれました。

 

盛岡永福寺は

歓喜天(かんぎてん)

という尊格をとても重要視しました。

 

歓喜天は聖天(しょうて(で)ん)

とも呼ばれます。

 

聖天の本地仏(ほんじぶつ)は

十一面観音とされ

南部藩の祈願所として

鬼門鎮護・領民豊楽の御祈祷では

歓喜天の秘法も

修法されたそうです。

 

歓喜天に関係する経典には

歓喜天の造像の重要性について

触れられており

そこでは具体的な素材も述べられ

その中に金銅も含まれております。

 

懸仏(かけぼとけ)や

小さな金銅仏を

寺社仏閣や霊場に納めることは

よくあることですが

重信公は歓喜天を大切にされた方で

かつ観音像を七崎の観音堂に

奉納した当時の住職である

宥鏡大和尚が晩年殊に

歓喜天を大切にされたことを踏まえると

歓喜天造像の作法になぞらえた形で

聖観音像も造像されたのではないか

と考えられるように思います。

 

また重信公の兄でもある

28代藩主の南部重直公も

七崎観音を篤く大切にされた方で

病気平癒の報賽(ほうさい)もあわせ

落雷により焼失した旧・観音堂を

再建された上に

末社十二宮を建立し

さらには多くの御寄進を

されております。

 

その際に用意された

明暦2年(1656 )の棟札を

当山で所蔵しております。

 

重信公は

貞享4年(1687)4月に聖観音像を

奉納されますが

大正期の神社の資料では

同年の5月20日に

重信公が「本社を再営」した

とあります。

 

貞享4年の棟札は

当山にはありませんが

それが事実であるとして

「本社」が観音堂を意味するとすれば

明暦2年(1656)年の再建から

31年後の再々建ということになるので

何かしらの災禍に

見舞われたのかもしれません。

 

南部氏と七崎観音を考える上で

旧・観音堂が

新羅堂でもあったことは

重要なことかと思います。

 

旧・観音堂は

南部氏代々の御守護として

新羅三郎義光公が合祀された

新羅堂(しんらどう)でもありました。

 

櫃(ひつ)に納められた

甲(かぶと)が祀られていたそうです。

 

さらには元服の御髪も

納められていたようです。

 

七崎観音が大切にされたのは

藩領安穏・領民豊楽などの

諸願成就への祈願に加え

南部氏の祖先崇拝に

深く関わるということも

大きな要因であったと

いえるでしょう。

 

重信公の父は

27代藩主の利直公です。

 

利直公は

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)の

生まれ替わりであるという

言い伝えがある藩主です。

 

南祖坊とは

当山2世の月法律師の

弟子として永福寺にて修行して

全国練行の果てに

十和田湖に入定(にゅうじょう)し

青龍大権現という龍神になったと

伝えられます。

※詳しくはコチラ↓

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑧/

 

現在の七崎観音は

重信公が貞享4年(1687)に

納められた聖観音(秘仏)で

年に1度だけ

旧暦1月17日のみ御開帳され

その御宝前にて護摩法要が

厳修されます。

※護摩法要の詳細はコチラ↓

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

現在の本堂は建替のため

近い将来取り壊される予定なので

現在の本堂での御開帳は

本年が最後になろうかと思います。

 

今回は重信公の観音像を中心に

(話題が何度もそれながら)

七崎観音について見てまいりました。

 

七崎観音の歴史は

実に奥深いものがあります。

 

ここ最近は

七崎観音の行事が近いこともあり

数回に分けて紹介させて頂いておりますが

後世に託すべき尊いものなので

拙僧(副住職)としても

出来る形でバトンを

未来へ繋げていきたいと思います。

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観音様

観音堂

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稀代の古刹 七崎観音③

七崎(ならさき)とは

現・豊崎町のかつての

名称です。

 

七崎という名の由来には

諸説あるようです。

 

一説には入江に突出する

七つの崎の一つであるといいます。

 

七つの崎とは

(資料をそのまま引用すると)

①鮫ノ崎

②舘鼻崎

③太郎ケ崎

④柏崎

⑤八戸ツヅケ岡崎(中舘)

⑥鼻崎

⑦七崎

だそうです。

 

当山は地域の中でも

やや高い場所に位置しますが

見晴らしが良く

海まで見渡すことができます。

 

海に至るまで

七つの岬が見える場所という

ことで七崎となったという

説もあります。

 

また浅水川が蛇行していた頃

七つの岬があるように見えることから

七崎となったとのいわれも

聞いたことがあります。

 

「崎」の意味である

「陸地が海や湖の中に突き出た場所」

ということで七崎と

いわれるようになったようです。

 

昭和4年(1929)の

鉄道工事の際に

豊崎町と接している

尻内の洞(ほら)から

長さ9間(約20メートル)もの

クジラの骨が出てきたそうで

かつてこの辺の地域は

大入江だったともいわれます。

 

地名の由来の他説として

七崎姫(ならさきひめ)という

都から流され当地へ来た

高貴なお姫様を

観音様としてお祀りして

当地を七崎と名付けたという

伝説もあります。

 

七崎姫伝説については

後日改めて

紹介させて頂きます。

 

七崎は

五穀の実入りよく

食料に乏しからず

と『新撰陸奥国誌』に記され

実り豊かな地域だったことが

分かります。

 

当山本堂内の観音堂に

秘仏としてお祀りされる

観音様は七崎観音とよばれ

古くから親しまれてまいりました。

 

七崎観音は

明治時代になるまでは

現在の七崎神社の場所にあった

観音堂に祀られており

当山は永福寺時代より

七崎観音の別当を

担っております。

 

旧・観音堂(現・七崎神社)には

七崎山 徳楽寺(とくらくじ)

という寺号もあり

『新撰陸奥国誌』では

“奇代の古刹”として

紹介されております。

 

明暦2年(1656)の

観音堂の棟札(むなふだ)があります。

 

旧・観音堂が落雷により

焼失したため

再建された際に

用意された棟札だそうです。

 

棟札表中央には

頂上の観音種字「サ」に続いて

奉再建奥州南部三戸郡

七崎正観音堂並末社十二宮

と記されております。

 

その主文右側に「大檀那」である

第28代藩主である南部重直の名があり

主文左側に

本願 当寺十六代法印宥鏡創之

と記されております。

 

先にもチラッと引用した

翻刻されて昭和41年に

県の文化財保護協会から

発行されている

『新撰陸奥国誌』

(原本は明治9年(1876)に完成)

でもこの棟札のことが

取り上げられておりますが

「当寺十二代」と誤記されてます。

 

原本がどうであるかは分かりませんが

翻刻され出版されているものに

ついては誤って記載されております。

 

“郷土史研究あるある”ですが

多くの方が頼らざるを得ないような

史料・資料自体が誤っているケースは

よくあることです。

 

ある文書によれば重直公は

慶安2年(1649)に江戸で

病に罹っていた時

七崎観音に祈願したところ

霊験があったということもあり

観音堂と末社十二宮を再建した上

所領として五百五石五斗三合を寄付し

別当を改めて永福寺と定め

神主1名、祢宜1名、舍人12名、神子1名

に対しても相当の領地を与えたそうです。

 

宥鏡(ゆうきょう)大和尚は

当山先師であり

永福寺41世住職です。

 

宥鏡大和尚は

奈良県の長谷寺から

永福寺住職として

お迎えされた方で

慶安4年(1651)に

三代将軍家光公がご逝去された際

日光東照宮でのご供養のため

召し出されていらっしゃいます。

 

また盛岡城の時鐘の銘文を

仰せ付けられたり

二戸の天台寺の

桂泉観音堂と末社の棟札も

記されていらっしゃいます。

 

宥鏡大和尚の晩年である

延宝8年(1680)に

盛岡永福寺は火災にあっており

その後焼けて損じてしまった

仏像や経典などを

東の岡の地中に納め

歓喜天供養塚を建立し

同所を41世以後の住職はじめ

末寺住職や所化などの境内墓地とし

さらには十和田山青龍権現を

勧請して祀られております。

 

七崎観音の観音堂再建の

棟札に記される

「当寺十六代法印宥鏡」

という部分は旧・観音堂に

徳楽寺という寺号がいつ頃から

用いられたのかを探る

手がかりになろうかと思います。

 

この「当寺」は

徳楽寺を指すものです。

 

七崎観音別当は

永福寺が担うことになり

盛岡へ永福寺(本坊)が

建立された後

旧地である七崎は

永福寺自坊として普賢院が引き継ぎ

別当も担当しております。

 

「十六世」という部分の

数え方の詳細は不明ですが

永福寺住職一代につき一世

として検討してみるならば

永福寺24世住職が

徳楽寺一世となった

可能性が考えられます。

 

あくまでも可能性です。

 

残念ながら

度重なる火災のため

縁起由緒の詳細は

不明なところが多く

24世はどの方が住職であったかは

分かりかねます。

 

しかも「永福寺住職」

(永福寺院家とも記されます)は

様々な条件を満たさなければ

正式な住職とはみなされておらず

場合によっては

住職代理として名代(みょうだい)が

たてられるケースが

江戸期に見られますし

記録が残っていない時期にも

なされていた可能性は大いにあります。

 

そういった方は

「第〜世」とは数え上げられません。

 

当山22世の宥漸大和尚は

応仁元年(1467)8月26日に

御遷化(ご逝去)されており

その後は30世の恵海大和尚

(元和3年(1617)御遷化)まで

先師の記録が不明となっております。

 

24世住職の代に

観音堂に徳楽寺の寺号が

用いられるようになったと

仮定すると

時はまさに戦乱の時代

ということになります。

 

ついでながら

永福寺30世の恵海大和尚は

「盛岡永福寺開祖」ともいわれ

盛岡に永福寺が建立された時の

住職で「聖の御坊」とも

呼ばれたそうです。

 

恵海大和尚は

盛岡の新たな城下町を作るにあたり

(胎蔵)曼荼羅を踏まえた寺院配置を

藩に進言したといわれます。

 

盛岡城を

曼荼羅中央の大日如来と見立て

鬼門である東北に永福寺

生門である南東に妙泉寺

裏鬼門である南西に高水寺

将門である西北に岩手山権現

北方に菩提寺の聖寿寺・東禅寺を

配置するよう進めたとされます。

 

伽藍配置ということでは

当山と旧・観音堂(徳楽寺)との

位置関係も曼荼羅の考え方に

通じる所があります。

 

紐解けば紐解くほど

話題は尽きませんが

七崎の歴史や意味合いは

かなり壮大なスケールの

ものであると感じます。

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▼徳楽寺(旧観音堂)のスケッチ

(『新撰陸奥国誌』所収)

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稀代の古刹 七崎観音②

当山本堂には

内御堂(うちみどう)として

観音堂がございます。

 

観音堂本尊として祀られる

聖観音(普段は秘仏)は

七崎観音(ならさきかんのん)と

称されます。

 

本堂に内御堂として

観音堂が作られたのは

明治19年(1886)です。

 

明治以前の七崎観音は

当山南方の観音堂に

お祀りされていました。

 

その観音堂は

七崎山徳楽寺の寺号もあり

明治以降は七崎神社として

改められました。

 

当山は永福寺時代より

ながきにわたり

七崎観音の別当を

担っております。

 

お寺には大小様々な

法会(ほうえ)や法要が

一年中開催されます。

 

当山でも古くより

数多くの儀式が

執り行われておりますし

旧・観音堂(徳楽寺)でも

多くの行事がありました。

 

現在の七崎観音は

年に一度の御開帳の際に

護摩法要が厳修され

「おこもり」といわれる

行事が開催されておりますが

当山に遷座(せんざ)されるまでは

旧・観音堂(徳楽寺)では

修験者の方や地域の方と共に

多くの祭事が開催されております。

※本年の「おこもり」詳細はコチラ↓

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かつては藩が施主となり

開催されていた行事が

大部分だったそうで

現在は絶えているものが

多いのですが

主なものを紹介させて頂きます。

 


【旧・観音堂(徳楽寺)祭事】

1月7日(丑の刻)

柴灯(さいとう)護摩

 

初午

鎮火祭

 

3月

物始祭

流鏑馬

初皈(帰)祭・鳥払祭

 

4月7日

御浜出(八太郎旅所へ)

 

5月5日

四十八末社御山開

 

5月15日

十和田神社へ舍人が代拝

※十和田山別当は

代拝者を優遇して

接待した上に

御初穂料二百疋を

七崎へ酬賽するのが

恒例だったそうです。

 

6月24日

害虫払祭

 

二百十日

風神祭

 

8月6〜12日

荒神祭

 

8月13日

中の祭・荒神祭

 

8月17日

観音堂大法会・元宮観音祭

 

9月5日

御留(おとめ)祭

 

9月7日

重陽祭・実収祭

 

12月17日

年越祈祷

 

毎月18日

湯立祈祷

 

神楽は舍人が管理して

隔年毎に村内一般を

巡回して守札を配布


 

旧・観音堂での祭事は

「七崎修験」の方にも

ご出仕頂いてのもので

古い時代の祈りのあり方を

探る上でとても

参考になるものかと思います。

 

参考までにですが

御影供(みえく)という

弘法大師の法要や

正月や彼岸などの

住職はじめ僧侶による

主要な儀式や

重要な儀式は

本堂にて行うのが一般的で

当山の場合も同様です。

 

本堂とは

本尊堂という意味や

根本中堂という意味のある

とても重要な建物で

それ自体が“み教え”とされ

諸伽藍の中でも最重要なものですし

建立にあたって様々な作法が

施されます。

 

伽藍建立の際には

棟札(むなふだ)という

特殊な木札が作られるのですが

当山所蔵のものを見てみると

旧・観音堂の棟札の様式と

本堂の棟札の様式は

明確に異なっております。

 

七崎(現在の豊崎)には

修験に携わっていた方も

多かったようで

ここでは七崎修験と

呼ばせて頂きます。

 

細かにいえば

清僧(出家者)と

修験・(一世)行人などの

区別をしてお話すべきですが

ここでは大雑把な言葉で

述べさせて頂きます。

 

地元に残る文書には

補任状(ぶにんじょう)という

修験の文書があります。

 

その補任状は

本山派修験の総本山である

聖護院(しょうごいん)からの

認可証です。

 

修験と一言で言っても

本山派や当山派

羽黒修験や行人派など

一様ではなく

かつまた横の繋がりも

多く見られるものです。

 

天台系とされる本山派で

修験者の認可を頂く一方

地元では真言寺院に作法等の

伝授を受けているなどということは

珍しいことではありません。

 

こういったことは古い時代の

「宗派性」を考える上でも

欠かせない視点です。

 

専門的かつ日常的に

触れていなければ

分かりにくい部分なのですが

あまり注意が払われず

「真言宗」や「天台宗」や

「修験」という言葉が

安易に使われてしまい

実態が見えにくくなっている

ケースが多いように感じます。

 

先にあげた諸祭事にもあるように

毎年5月15日には

十和田神社へ舍人が代拝し

十和田山別当に優遇して

頂いた上に初穂料を

お納め頂く恒例が

七崎にはありました。

 

これは十和田湖伝説が

七崎と深く関わることに

由来します。

 

十和田湖伝説とは

南祖坊(なんそのぼう)という

僧侶が十和田湖の主である

青龍大権現となるという伝説で

その南祖坊は当山(永福寺)に

弟子入りして修行したと

伝えられております。

 

南祖坊は藤原氏の血筋であり

三戸郡の斗賀で生まれたとも

七崎で生まれたともいわれます。

 

藤原氏の氏神は

春日大明神であり

当山の本山である

奈良県の長谷寺では

本尊十一面観音の脇侍として

難陀竜王(なんだりゅうおう)が

春日大明神の化身として

お祀りされております。

 

十和田への代拝が行われた

15日という日取りに関連して

少し話を深めてみると

三十秘仏という考え方からすると

15日は南祖坊の出自である藤原氏の

氏神である春日大明神の縁日でもあります。

 

また15日は

布薩(ふさつ)といって

戒律を改めて持(たも)ち

精進する日でもあります。

 

話題が尽きない所ですが

この辺で一段落させて頂きます。

 

今回は当山が永福寺時代より

別当としてお仕えした

七崎観音が祀られていた

旧・観音堂(徳楽寺)の祭事を

紹介させて頂きました。

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稀代の古刹 七崎観音①

当山本堂内の

観音堂の本尊である

聖観音は今も昔も

七崎(ならさき)観音

通称されます。

 

当山は古くから

七崎観音の別当を

つとめております。

 

七崎観音は

様々な伝説に彩られ

様々な方により

様々に語られた

由緒ある観音様です。

 

普段は秘仏ですが年に一度

毎年旧暦1月17日にのみ

御開帳され御宝前にて

護摩(ごま)法要が厳修されます。

 

平成31年は

2月21日が御開帳となります。

※詳細はコチラ↓

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

七崎観音はかつて

現在の七崎神社の場所にあった

観音堂にお祀りされておりました。

 

七崎観音は

霊験すこぶるあらたかということで

南部藩に篤く敬われ

各所からの参詣も絶えなかったようで

その観音堂は時代を経る中で

七崎山(なさらきさん)

徳楽寺(とくらくじ)

という寺号を頂いております。

 

現・豊崎町(かつての七崎)の

永福寺地区は

当山の本堂真正面から

真東にズバッと道が伸びており

そこに門前町が形成されるように

町が作られております。

 

さらに当山は

豊崎のほぼ中央に

位置しており

地域を一望出来る場所に

お寺が建立されております。

 

また豊崎の西に位置する

滝谷(たきや)地区へも

道が当山と旧観音堂(現・七崎神社)の

間からのびており

その途中に「南宗坊(なんそのぼう)」

という地名も残っております。

 

南宗(祖)坊は

当山2世の月法律師の弟子として

当山にて修行したとされる

十和田湖伝説の僧侶です。

 

観音堂への参詣道も

当山門前道に垂直に交わるように

南北方向に整えられており

浅水川に架けられた橋は

観音橋(かんのんばし)と

名付けられております。

 

橋は

こちらの岸(此岸(しがん))から

向こうの岸(彼岸(ひがん))に

渡すということで

仏道では深い意味を持ちます。

 

観音橋はいわば

“聖域への入口”

ということになります。

 

当山から浅水川対岸の地域を

下七崎(しもならさき)といいますが

この地区には

七崎観音へ参詣するために

身分の高い方が

留まられる屋敷である

御田屋(おんたや)がありました。

 

御田屋を由緒とした

「おだや」という屋号が

現在も用いられており

歴代には当山の総代を

お勤め頂いた方もいらっしゃり

当山を古くからお支え頂いております。

 

当山の歴史を紐解く上で

「七崎観音別当」という立場は

非常に重要な意味を持ちます。

 

当山は永福寺時代より

現在に至るまで

七崎観音別当を担っております。

 

七崎観音別当であることの

意味はとても大きく

当山の前身である永福寺は

盛岡南部藩の祈願所となり

盛岡五山の筆頭寺院として

隆盛を極めてまいります。

 

別当寺としての

永福寺や普賢院と

七崎観音の由緒が混同されて

しまうことが多いのですが

厳密にいえば

七崎観音と永福寺・普賢院は

ある程度「区別」して

捉えるべきものです。

 

専門性が極めて高い内容や背景が絡み

加えて地域の家々の歴史が

深く関わることでもあるので

しばしば郷土史研究などで

とりあげられる

近世の文書の情報だけでは

どうしても限界がありますし

当山にまつわる諸事を紐解くには

多分野にまたがっての視点が

求められるように思います。

 

当山有縁各家先祖代々の方々の

確かなお歩みや口伝

それらを踏まえ

当山先師諸大徳含め

これまで多くの地元の先人方が

まとめられてきた「もの」に

耳を傾けると

今のなお“いき続けている”

志に触れるような思いになります。

 

そんな志に触れつつ

七崎観音をメインテーマとして

何回かに渡り

紹介させて頂きたいと思います。

観音堂

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