稀代の古刹 七崎観音③

七崎(ならさき)とは

現・豊崎町のかつての

名称です。

 

七崎という名の由来には

諸説あるようです。

 

一説には入江に突出する

七つの崎の一つであるといいます。

 

七つの崎とは

(資料をそのまま引用すると)

①鮫ノ崎

②舘鼻崎

③太郎ケ崎

④柏崎

⑤八戸ツヅケ岡崎(中舘)

⑥鼻崎

⑦七崎

だそうです。

 

当山は地域の中でも

やや高い場所に位置しますが

見晴らしが良く

海まで見渡すことができます。

 

海に至るまで

七つの岬が見える場所という

ことで七崎となったという

説もあります。

 

また浅水川が蛇行していた頃

七つの岬があるように見えることから

七崎となったとのいわれも

聞いたことがあります。

 

「崎」の意味である

「陸地が海や湖の中に突き出た場所」

ということで七崎と

いわれるようになったようです。

 

昭和4年(1929)の

鉄道工事の際に

豊崎町と接している

尻内の洞(ほら)から

長さ9間(約20メートル)もの

クジラの骨が出てきたそうで

かつてこの辺の地域は

大入江だったともいわれます。

 

地名の由来の他説として

七崎姫(ならさきひめ)という

都から流され当地へ来た

高貴なお姫様を

観音様としてお祀りして

当地を七崎と名付けたという

伝説もあります。

 

七崎姫伝説については

後日改めて

紹介させて頂きます。

 

七崎は

五穀の実入りよく

食料に乏しからず

と『新撰陸奥国誌』に記され

実り豊かな地域だったことが

分かります。

 

当山本堂内の観音堂に

秘仏としてお祀りされる

観音様は七崎観音とよばれ

古くから親しまれてまいりました。

 

七崎観音は

明治時代になるまでは

現在の七崎神社の場所にあった

観音堂に祀られており

当山は永福寺時代より

七崎観音の別当を

担っております。

 

旧・観音堂(現・七崎神社)には

七崎山 徳楽寺(とくらくじ)

という寺号もあり

『新撰陸奥国誌』では

“奇代の古刹”として

紹介されております。

 

明暦2年(1656)の

観音堂の棟札(むなふだ)があります。

 

旧・観音堂が落雷により

焼失したため

再建された際に

用意された棟札だそうです。

 

棟札表中央には

頂上の観音種字「サ」に続いて

奉再建奥州南部三戸郡

七崎正観音堂並末社十二宮

と記されております。

 

その主文右側に「大檀那」である

第28代藩主である南部重直の名があり

主文左側に

本願 当寺十六代法印宥鏡創之

と記されております。

 

先にもチラッと引用した

翻刻されて昭和41年に

県の文化財保護協会から

発行されている

『新撰陸奥国誌』

(原本は明治9年(1876)に完成)

でもこの棟札のことが

取り上げられておりますが

「当寺十二代」と誤記されてます。

 

原本がどうであるかは分かりませんが

翻刻され出版されているものに

ついては誤って記載されております。

 

“郷土史研究あるある”ですが

多くの方が頼らざるを得ないような

史料・資料自体が誤っているケースは

よくあることです。

 

ある文書によれば重直公は

慶安2年(1649)に江戸で

病に罹っていた時

七崎観音に祈願したところ

霊験があったということもあり

観音堂と末社十二宮を再建した上

所領として五百五石五斗三合を寄付し

別当を改めて永福寺と定め

神主1名、祢宜1名、舍人12名、神子1名

に対しても相当の領地を与えたそうです。

 

宥鏡(ゆうきょう)大和尚は

当山先師であり

永福寺41世住職です。

 

宥鏡大和尚は

奈良県の長谷寺から

永福寺住職として

お迎えされた方で

慶安4年(1651)に

三代将軍家光公がご逝去された際

日光東照宮でのご供養のため

召し出されていらっしゃいます。

 

また盛岡城の時鐘の銘文を

仰せ付けられたり

二戸の天台寺の

桂泉観音堂と末社の棟札も

記されていらっしゃいます。

 

宥鏡大和尚の晩年である

延宝8年(1680)に

盛岡永福寺は火災にあっており

その後焼けて損じてしまった

仏像や経典などを

東の岡の地中に納め

歓喜天供養塚を建立し

同所を41世以後の住職はじめ

末寺住職や所化などの境内墓地とし

さらには十和田山青龍権現を

勧請して祀られております。

 

七崎観音の観音堂再建の

棟札に記される

「当寺十六代法印宥鏡」

という部分は旧・観音堂に

徳楽寺という寺号がいつ頃から

用いられたのかを探る

手がかりになろうかと思います。

 

この「当寺」は

徳楽寺を指すものです。

 

七崎観音別当は

永福寺が担うことになり

盛岡へ永福寺(本坊)が

建立された後

旧地である七崎は

永福寺自坊として普賢院が引き継ぎ

別当も担当しております。

 

「十六世」という部分の

数え方の詳細は不明ですが

永福寺住職一代につき一世

として検討してみるならば

永福寺24世住職が

徳楽寺一世となった

可能性が考えられます。

 

あくまでも可能性です。

 

残念ながら

度重なる火災のため

縁起由緒の詳細は

不明なところが多く

24世はどの方が住職であったかは

分かりかねます。

 

しかも「永福寺住職」

(永福寺院家とも記されます)は

様々な条件を満たさなければ

正式な住職とはみなされておらず

場合によっては

住職代理として名代(みょうだい)が

たてられるケースが

江戸期に見られますし

記録が残っていない時期にも

なされていた可能性は大いにあります。

 

そういった方は

「第〜世」とは数え上げられません。

 

当山22世の宥漸大和尚は

応仁元年(1467)8月26日に

御遷化(ご逝去)されており

その後は30世の恵海大和尚

(元和3年(1617)御遷化)まで

先師の記録が不明となっております。

 

24世住職の代に

観音堂に徳楽寺の寺号が

用いられるようになったと

仮定すると

時はまさに戦乱の時代

ということになります。

 

ついでながら

永福寺30世の恵海大和尚は

「盛岡永福寺開祖」ともいわれ

盛岡に永福寺が建立された時の

住職で「聖の御坊」とも

呼ばれたそうです。

 

恵海大和尚は

盛岡の新たな城下町を作るにあたり

(胎蔵)曼荼羅を踏まえた寺院配置を

藩に進言したといわれます。

 

盛岡城を

曼荼羅中央の大日如来と見立て

鬼門である東北に永福寺

生門である南東に妙泉寺

裏鬼門である南西に高水寺

将門である西北に岩手山権現

北方に菩提寺の聖寿寺・東禅寺を

配置するよう進めたとされます。

 

伽藍配置ということでは

当山と旧・観音堂(徳楽寺)との

位置関係も曼荼羅の考え方に

通じる所があります。

 

紐解けば紐解くほど

話題は尽きませんが

七崎の歴史や意味合いは

かなり壮大なスケールの

ものであると感じます。

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▼徳楽寺(旧観音堂)のスケッチ

(『新撰陸奥国誌』所収)

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