『御領分社堂』という
宝暦13年(1763)の書物は
宝暦9年(1759)の幕府の御触(おふれ)
により開始された
藩領の社堂の調査を
まとめたものです。
七崎(豊崎の古称)について
同書に以下のように
記載されております。
寺院持社堂 五戸御代官所七崎
一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)
古来縁起不相知
萬治元年(1658)重直公御再興被遊
貞享四年(1687)重信公御再興被遊候
何(いずれ)も棟札(むなふだ)有
一 大日堂
一 不動堂
一 愛染堂
一 大黒天社
一 毘沙門堂
一 薬師堂
一 虚空蔵堂
一 天神社
一 明神社
一 稲荷社
一 白山社
右十一社堂は観音堂御造営之節
依御立願何も御再興被遊候
小社之事故棟札も無之
只今大破社地斗に罷成候
一 月山堂 壱間四面板ふき
一 観音堂 右ニ同
右両社共に観音堂御造営之節
重直公御再興也
善行院(ぜんぎょういん)
当圓坊(とうえんぼう)
覚圓坊(かくえんぼう)
覚善坊(かくぜんぼう)
右四人之修験は本山派にて
拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候
古来より拙寺(永福寺)拝地之内
三石宛(ずつ)遣置
掃除法楽為致置候
現・田子町出身の奇峯学秀
(きほうがくしゅう、以下「学秀」)
御作の千手観音が
当山観音堂にお祀りされていることが
つい先日判明いたしました。
学秀は
出生年代は不明ですが
元文4年(1739)に82歳頃に
入滅したとされます。
ですので
『御領分社堂』が伝えるのは
学秀が入滅して約20年後の
主なお堂の様子であるといえます。
先の引用箇所で
赤字にした箇所が
学秀と関わると思われます。
当山で所蔵する棟札の
内容を踏まえると
この「観音堂」は
千手千眼(せんじゅせんげん)観音堂
(以下、千手観音堂)です。
現在の本堂を文化8年(1811)に
再建した当時の
当山先師である覚宥師の名が記される
千手観音堂再建の
棟札があることから
千手観音堂が以前から
あったことが分かるのです。
また当山には
散逸してはおりますが
千手観音の作法の次第である
千手観音法(せんじゅかんのんぼう)
が残されております。
先の引用文では
冒頭にもう1つ観音堂が
記されておりますが
これは現在の七崎神社の地にあった
寺号を七崎山徳楽寺とする観音堂で
現在の当山本堂にある
観音堂内殿中央に祀られる
七崎観音(聖観音)を
本尊としておりました。
観音堂ついででいえば
現在の八戸市白銀にある
清水観音(糠部第6番札所)も
当山が別当をつとめておりました。
さて千手観音堂に
話を戻しますが
重直公が観音堂を再興した際に
千手観音堂も再興されている
ということは
千手観音堂はさらに以前から
建立されていたことを意味します。
このお堂に学秀仏の
千手観音も請来されて
もとから祀られていた
千手観音と合祀された可能性は
大いにあると思います。
ここでもうお一方
当山と学秀を紐解く上で
キーパーソンとなる(と思われる)
当山先師・快傅(かいでん)上人
について触れたいと思います。
当山は
開創が圓鏡上人
(弘仁8年(817)5月15日入滅)
開山(開基)が行海上人
(承安元年(1171)5月に開山)
そして中興開山が快傅上人です。
快傅上人は
主に享保年間(1716〜1736)に
当山を中興された先師で
寛保元年(1741)11月2日に
御遷化されております。
過去帳によると
快傅上人は遠野の
ご出身だそうです。
脱線になりますが
遠野といえば
根城南部氏が移った地ですが
それに伴って祈願所である
師建山 東善寺(しけんざん とうぜんじ)
が八戸市根城から
本坊が寛永4年(1627)に
移された地でもあります。
東禅寺の山号である
師建山(しけんざん)は
南部師行公に由来し
「師行公が建立された」
ことを意味します。
東善寺という寺号もまた
南部氏の「東氏」に由来するそうです。
遠野に本坊が移った後も
八戸根城の旧地は
八戸東禅寺として存続し
延宝年間(1673〜1681)に
自在山 豊山寺(じざいさん ぶざんじ)
として再興されます。
八戸東善寺が自在山豊山寺に
改称されたのは
延宝3年(1675)です。
豊山寺は延宝8年(1680)に
八戸城(現在の三八城公園)へ
移されました。
現在は廃寺となりましたが
この東禅寺(豊山寺)も
永福寺の傘下寺院でした。
豊山寺は八戸藩の内五ケ寺に
列ねられており
末寺には
是川の八鳩山 福善寺
田面木の延命山 善照院
楊柳山 永久寺(現在は廃寺)
豊山寺支配として
小田山 徳城寺(現・小田八幡宮)
霊現山 新源寺(現・斗賀霊(涼)現堂)
という本末関係がありました。
これら関係寺院についても
当山と学秀との関係を
考察する上で
重要な意味を持つと思われます。
快傅上人の出身地が遠野であることから
脱線として関連事項を
長々と記してしまいましたが
後々触れるべきことなので
これで良しとさせて頂きます。
快傅上人の当山中興と
学秀仏が当山に祀られたことは
深く関わっているのではないかと
拙僧(副住職)は推測しております。
このことについて
次回述べさせて頂きます。
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