当山観音堂に
奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の
千手観音像が祀られていることが
先日確認されました。
ご確認頂いたのは
ごのへ郷土館館長の木村明彦館長と
奇峯学秀の末裔でもある釜渕嘉内氏の
お二人です。
2月22日に地元紙の
デーリー東北と東奥日報の各記者と
先のお二人に当山へおいで頂き
取材して頂いた際に
木村館長が奇峯学秀についての
資料を作成して下さいました。
奇峯学秀は田子町の
釜渕家出身の高僧で
名久井の法光寺に入門し
後に九戸の長興寺
八戸の大慈寺の住職を
務めた方です。
出生年代は不明ですが
元文4年(1739)に名久井の
顧養庵(こようあん)にて
82歳頃で入滅されたそうです。
行年が82歳として
没年の1732年から82を引くと
1657となります。
1657年は明暦3年です。
明暦前後の年号は明暦含め
承応(1652〜1655)
明暦(1655〜1658)
万治(1658〜1661)ですので
この辺りの生まれとなるようです。
この時期の
当山の歴史と学秀出生を
重ねてみると
当山では観音堂と末社十二宮が
再興されております。
落雷により観音堂が
焼失してしまったため
28代藩主・南部重直公により
御再興頂いております。
この観音堂は
現在の七崎神社の地に
建立されていたもので
七崎山 徳楽寺という
寺号が用いられておりましたが
明治になって廃寺となりました。
学秀の出生と同時期の
観音堂と末社十二宮の
再興棟札には
承応3年(1654)2月に事始
明暦元年(1655)9月に遷宮畢
と記されております。
当山の前身である永福寺は
南部盛岡藩が盛岡に
居城するにあたり
不来方城(盛岡城)の
鬼門の位置に
本坊が構えられます。
寛永2年(1625)12月には
27代藩主・南部利直公により
永福寺自坊でもある普賢院は
祈願所とされております。
寺院の本末関係や
藩領における統制が
整えられる中で
南部藩の祈願所である
七崎永福寺を“正式な形”で
(自坊という形ではありますが)
普賢院が引き継いだことになります。
当山を祈願所と定めた
南部利直公は十和田湖伝説に
登場する南祖坊(なんそのぼう)の
生まれ替わりであるとの
いわれがある藩主です。
南祖坊は
当山2世の月法律師に
弟子入りしたとされます。
また学秀が住職を務めた
大慈寺は最初
八戸の松館に建立されますが
利直公が開基されたお寺です。
この利直公も
学秀と同じく田子の出身です。
こういったことも
当山と学秀を結びつける
重要な要素といえるでしょう。
高僧・奇峯学秀の生きた時代を
当山の歴史や
仏道的視点を踏まえながら
「青森の円空 奇峯学秀」
と銘打ち何回か投稿したいと思います。
なぜ当山に学秀仏がお祀りされたのか
ということをテーマの1つとして
拙僧(副住職)なりの考察を交えつつ
試論として記してみたいと思います。
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