当地はかつて
七崎(ならさき)と
呼ばれておりました。
この七崎には
かつて当山の前身である
永福寺がありました。
当山は永福寺時代より
七崎観音の別当でもあります。
「永福寺」と一言でいっても
その実態は中々複雑かつ複合的でして
現在の当山ような形態とは異なります。
昭和期の永福寺住職である
熊谷精海(せいかい)師は
永福寺は江戸時代になり
本坊が盛岡に構えられ
42世住職・清珊(せいさん)の代に
七崎永福寺は普賢院になった
とお話されていたそうで
その伝を当山では踏まえております。
今回は
「永福寺」というお寺の名前である
寺号(じごう)について
見ていきたいと思います。
当地の住所にも残る
「永福寺」という寺号は
甲州南部郷より遷座され
三戸沖田面に建立された
新羅堂の供養を
鎌倉の二階堂永福寺の僧侶
宥玄(ゆうげん)が勤めたことに
由来するとされます。
鎌倉では
永福寺を「ようふくじ」と
読んでおります。
鎌倉時代の歴史書(とされる)
『吾妻鑑』(あずまかがみ)
宝治2年(1248)2月5日条には
文治5年(1189)12月9日
永福寺事始あり
とあります。
鎌倉といえば長谷寺を
連想される方が多いと思いますし
東北においてですと
長谷寺と聞くと
鎌倉を連想される方は
とても多いかと思います。
奈良と鎌倉の長谷寺は
“姉妹”と言わることがある程
切っても切れぬ
深いご縁で結ばれたお寺です。
鎌倉の永福寺に触れる前に
長谷寺について
触れさせて頂きます。
奈良の長谷寺は正式には
豊山 神楽院 長谷寺といい
朱鳥元(686)年に
修行法師である道明上人が
銅板法華説相図(ほっけせっそうず)
を安置して祀られ
開創されました。
その後約40年後に
徳道上人が主導されて
十一面観音像が
神亀6年(729)に完成し
行基(ぎょうき)を導師として
天平5年(733)に開眼されます。
この徳道上人が
長谷寺を開山されました。
さて
鎌倉との関係ですが
この十一面観音が
2つの長谷寺をつなぐ
キーポイントになります。
奈良の長谷寺の十一面観音像を
彫ったものと同じクスノキ
(十一面観音像との説もあります)
を海に解き放ち
流れついた地に
衆生済度の願いを託して
十一面観音を本尊としたお寺を
造立しようとしたそうです。
海に解き放たれた
クスノキ(あるいは十一面観音像)が
流れ着いた先が鎌倉で
そこに長谷寺が建立され
行基により開眼された
というのが奈良と鎌倉の
2つの長谷寺をつなぐ伝説です。
鎌倉に話を移しまして
鎌倉の永福寺は源頼朝が
奥州での戦没者供養も兼ね
平泉の大長寿院(二階大堂)を模して
建立されたとされますが
現在は廃寺となっております。
『たけたからくり』(文政6年(1823))
によると鎌倉の永福寺の僧侶である
宥玄が新羅堂供養を勤めた
「供養料」として
沖田面村に一宇お堂が建立され
宥玄をそのお堂の住職として
永福寺と号したそうです。
また宥玄は
三戸沖田面村と
五戸七崎村を賜ったと
記されております。
同史料では
七崎(ならさき)には
往古より観音堂があり
宗旨も不定で寺号もなく
こちらの「住職」ともなった
宥玄が永福寺の
僧侶であったことから
「時の人挙げて」永福寺と
呼ぶようになったとも
記されております。
この『たけたからくり』は
江戸後期(文政6年(1823))の
史料なので
その当時において
永福寺縁起がどのように
整えられ編まれていたのかが
よく伺えるように思います。
史料の伝える時期を踏まえると
この二階堂永福寺・宥玄の時期は
行海上人開基の少し後となります。
郷土史研究などでは永福寺は
「七崎から三戸に移った」と
よく説明されますが
『たけたからくり』や
当山の過去帳を踏まえると
「移った」という表現は
当てはまらないように思います。
また
同史料でいうところの
観音堂はおそらく七崎観音の
ことを指していると思いますが
永福寺縁起が七崎観音と
強く結び付けられていることも
伺えるかと思います。
それだけ
七崎観音は重要な
尊格であったということを
意味するといえます。
今見てきたように永福寺は
「永福寺」という寺号が
用いられる以前に遡及して
その由緒や縁起が
編まれていくことになります。
「永福寺縁起」として
総本山長谷寺とゆかりのある
坂上田村麻呂将軍が
十一面観音を本尊として
七崎にお寺を建立したという
縁起も伝えられております。
この縁起は
『長谷寺験記』(はせでらげんき)
(建保7年(1219)頃までに成立)
という鎌倉期の霊験記の
上巻第5話として収録される
田村将軍が奥州一国に
十一面観音を本尊として
6ケ所にお寺を建立した話が
根拠となっていると考えられます。
永福寺の縁起や創建伝説は
なかなか豊富でして
七崎観音は
実際には聖観音(しょうかんのん)
という観音様なのですが
「七崎観音は田村将軍の十一面観音」
との縁起もあったりします。
念のために触れると
縁起といわれるものは
歴史とは似て非なるもので
様々な意味合いがあることを
しっかりと踏まえて
紐解くべきものです。
当山開基の行海上人は廻国僧で
当地の大蛇を改心させたことで
地域の住民から当地に留まるよう
懇願されたため草庵が結ばれ
普賢院を開基したと伝えられます。
行海上人は
現在の七崎神社の地に
七つ星(北斗七星)になぞらえ
杉を植えた上人でもあります。
十和田湖伝説の
南祖坊(なんそのぼう)は
行海上人の弟子であるとも
伝えられております。
当山開基の時代を
さらにさかのぼり
弘仁初期頃(810頃)
圓鏡上人により
当山は開創されたとされます。
「弘仁初期頃」というのは
『先師過去帳』に
当山開創 圓鏡上人が
弘仁7年(817)5月15日に御遷化
されていることに由来します。
こういった
“永福寺以前”の由緒も
永福寺の由緒として編入され
七崎は永福寺発祥の地となり
とても重要な意味を帯びたわけです。
永福寺は江戸時代前期に
平泉の中尊寺から住職が
おいでになられたことがあります。
中尊寺は今でこそ天台宗ですが
昔は真言寺院も多くあり
今とは異なる“宗派感覚”や
“宗派交流”があったのです。
そういったことも踏まえると
これまで以上にスケールの大きな
歴史が七崎の地を起点としながら
お伝えできるように感じます。
当地や周辺の遺跡からも
この地域には縄文時代から
集落があったことや
何かしらの儀礼に用いられたであろう
9世紀〜10世紀頃の古い
祭具(錫杖(しゃくじょう)状鉄製品)が
発掘されております。
平泉や鎌倉とも絡めることが出来ますし
古い信仰の歴史を持つ諸観音
地域の諸伝承
十和田湖南祖坊伝説
さらには大日坊との関係や
会津斗南藩(となみはん)のこと
などなど後世に伝えるべきことは
とても多いように感じております。
それらの探求を続けることや
後世に託すために形にすることに
情熱を以て取り組みたいとの思いを
常々持っております。
稀代の古刹と銘打ち
七崎観音を主役として
当山の歴史について
これまで触れてまいりました。
当ブログは拙僧(副住職)の
「研究メモ」も兼ねて
投稿することがあるので
読みにくい部分が多かったかと思いますが
少しでもお伝え出来たものが
あったのであれば幸いです。
【観音堂内陣内殿】
手前の大きな浄鏡の右側の
観音菩薩立像は
とても古い仏像です。
反対側の端正なお姿をした観音菩薩立像は
地元の篤信者である中村元吉氏より
ご奉納頂いたものです。
中央奥の厨子(ずし)は
三重になっており
七崎観音(聖観音)が
お祀りされております。
【七崎観音(聖観音)】
第29代藩主
南部重信公により
貞享4年(1687)4月に
奉納されたものです。
身の丈約20センチの
金銅仏(こんどうぶつ)で
とても美しいお姿の御仏像です。
ご奉納された当時は
御前立(おまえだち)
としてお祀りされていたそうです。