明治9(1876)年に
国に提出された
青森県の地誌である
『新撰陸奥国誌』(しんせんむつこくし)。
明治になり
当地では神仏分離の対応として
当山が別当寺をつとめていた
観音堂(徳楽寺)が廃寺となり
七崎神社に改められました。
当時の史料を調べてみると
明治以降になり
七崎神社としての由緒が
新たに編まれております。
「国家神道」の方針となり
当然のことながら
“仏教的”な「観音堂の縁起」を
七崎神社の由緒として
用いることが出来なかったわけです。
以前も
ブログで触れたことがあるのですが
寺社の縁起(えんぎ)というのは
歴史とは似て非なるものです。
明治以降
神仏分離により
寺院やお堂が神社に改められた際
「由緒・縁起のかきかえ」が
沢山行われております。
『新撰陸奥国誌』(しんせんむつこくし)
の七崎村(現在の豊崎町)の記述には
由緒ある古刹を神社に変更させることに
対する疑義がにじみ出ております。
明治期の神仏分離を
考えるにあたり
とても貴重なものかと思いますので
こちらで紹介させていただきます。
『新撰陸奥国誌』の該当箇所を
以下に引用いたします。
※一部()で補足しています。
※色字は筆者によります。
※一部「※」で注記・補足しています。
七崎村
【中略】
当社は何の頃の草創にか
究て古代の御正体を祭りたり
旧より正観音と称し
観音堂と呼なして
近郷に陰れなき古刹なり
数丈なる杉樹
地疆に森立して空に聳ひ
青苔地に布て如何さま
物ふりたる所なり
去は里人の崇仰も大方ならす
四時の祭会は元より
南部旧藩尊敬も他の比にあらす
常に参詣も絶えす
廟堂の構界区の装置まて
昔を忍ふ種となる所なり
堂は悉皆国知の修営にして
山城守重直
(始三戸に居り后盛岡に移る)
殊に尊信し
五百五石五斗三升三合を寄附し
繁盛弥益し
盛[岡]の永福寺 別当し
当所には普賢院を置き
外に修験 善覚院 大覚院
社人十二人 神子一人
肝煎等の者まて悉く具り
普賢院に十五石
善覚院に五石
大覚院に五石三斗
社人 神子 肝煎 各五石を分与し
明治元年以前は
毎月十八日 湯立の祈禱あり
正月七日◻丑の刻 護摩祈禱あり
三月 鳴鏑(なりかぶら)の祈禱あり
ヤフサメと云う
四月七日の◻或は昔出現ありし所なりとて
八太郎(九大区一小区)に旅所ありて
黒森浜に輿を移し
其時 別当 役々残らす扈従し
氏子百五十人余
その他遠近信仰の従相随ひ
八太郎浜は群参千余人
海上には小艇に乗して
囲繞すること夥し
旅所は黒森にありしか
戊辰後これを廃し
五月五日は四十八末社御山開と
唱える祈禱あり
(今末社は彊内に十二社を存す
当時は在々の山間等
数所にありと云う)
八月六日より十二日まで
荒神祭とて四条諸江郷の祭あり
同十三日中の祭と唱て
五月端午の祭と同式あり
同十七日 観音堂大法会あり
九月五日 御留(おとめ)の祭と云て
五月五日の祭と同じ祭あり
十二月十七日 年越しの祈禱あり
此の如く厳重の法会を
修行し来りたる
奇代の古刹なりしに
何故に廃除せしにや
明治三年 神仏混淆仕分の節は
三戸県管轄にて
県より廃せられたりしにて
元来観音を祭りし所なれは
神の儀に預るへき謂れなく
村民の昔より
崇め信せる観音なれは
旧貫を痛願なしけれとも
了に仏像は元宮と云て
壊輿祭器を納め置く所に
安置すへきに定れり
元宮は
往古草創せる旧阯にして
永福寺より南に当り一丁
(字を下永福寺と云う)
一間半四方の堂あり
(東に向ふ)
破壊に及ひしかは
修覆中は仮に
旧社人 白石守か家に安す
観音堂は元より
神社の結構に異なるを
廟殿の備もなく
仏像を除て其ままに
神を祭れはとて
神豈快く其の斎饌を
受へけんや
この廃除せる根源は思に
仏子の徒(ともがら)
僧衣を褫(とい)て
復飾せんと欲するに外ならす
左許(さばかり)の古刹を壊て
神の威徳を汚蔑すかの
小児輩(ちいさな子どもの意)
土偶人(土で作った人形の意)
を配置して戯弄するに異ならす
昔は仏子の度牒を受けて
律を壊る者は還俗せらるる
布令なりけれは
一たひ仏子たるもの
還俗するは
罪人と同く
仏子甚厭ひたりしと
◻◻の如く異なれり
社人の伝て
観音は正観音なと云伝れとも
形丸く径五寸厚二分の板銅にて
像は高出たるものにして
十一面観音の容に見ゆ
然れとも旧年の古物
形像定かに弁へからす
旧数枚ありし由なりしか
正保(1645〜1648)の
頃にや天火に焼し時
多消滅し全体なるもの
僅に一枚を存す
缺損たるものは数枚ありと云う
言か如んは則
御正体と称する古代の物にて
神仏共に今世まま存す
社人其何物たるを知らす
神祭豈難からすや
然るに里人
又七崎神社由来と
云ことを口実とする
全く後人の偽作なれとも
本条と俚老の口碑を
採抜せるものなるへけれは
風土の考知らん為に左に抄す
七崎神社
祭神
伊弉冉命[イザナギノミコト]
勧請之義は古昔天火に而
焼失仕縁起等
無御座候故
詳に相知不申候
異聞あり
ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして
勧請の由来は天災に焼滅して
縁起を失ひ詳らかなることは
知かたけれとも
四条中納言 藤原諸江卿
勅勘を蒙り◻刑となり
八戸白銀村(九大区 三小区)の
海浜に居住し
時は承和元年正月七日の
神夢に依て浄地を見立の為
深山幽谷を経廻しかとも
宜しき所なし居せしに
同月七日の霄夢に
当村の申酉の方
七ノの崎あり
其の山の林樹の陰に
我を遷すへしと神告に依り
其告の所に尋来るに大沼あり
水色◻蒼
其浅深をしらす
寅卯の方は海上漫々と見渡され
風情清麗にして
いかにも殊絶の勝地なれは
ここに小祠を建立したり
則今の浄地なりと
里老の口碑に残り
右の沼は経年の久き
水涸て遺阯のみ僅に
小泉一学か彊域の裏に残れり
当村を七崎と云るは
七ツの岬あるか故と云う
又諸江卿の霊をは荒神と崇め
年々八月六日より十二日まて
七日の間 祭事を修し来たれりと
(以上 里人の伝る所
社人の上言に依る)
この語を見に初
伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも
縁起記録等なく詳ならされとも
南部重直の再興ありし頃は
正観音を安置せり棟札あり
其文に
【棟札(当山所蔵)の文言は省略します】
(※明暦元年[1655]の観音堂並十二末社再興棟札)
(※明暦元年再興の観音堂は三間四方)
とあれは証とすへし
又遙后の物なれとも
封 奉寄附七崎山聖観世音菩薩
右に安永四乙未年(1775)
左に四月七日
別当善行院と■付し灯籠あり
旧神官小泉重太夫か祖
初代 泉蔵坊と云るもの
元禄中(1688〜1704)
別当職となり
大学院 正学院 正室院等あり
十一代大学院
明治四年正月復飾し神職となり
小泉一学と改め
子 重大夫嗣
同六年免す
同 白石守か祖
初代 明正院 承応中(1652〜1655)
別当となり后
行学院 善正院 善光院 善行院
善覚院 善教院 善道院 善明院等あり
十五代の裔
善行院 明治四年正月
神職に転じて白石守と改め
同六年免せらる
祠官兼勤五戸村稲荷神社新田登
寺院
普賢院
支村永福寺の西端にありて
旧観音堂の別当なり
大和国
式上郡長門寺小池坊末寺真言宗
宝照山と号す
建仁中(1201〜1203)の
建立の由伝れとも
往年火災に罹て記録を失し
詳悉ならす
寛保元年(1741)辛酉十一月
快伝と云る僧の中興なりと云り
※寛保元年十一月は快伝(傳)上人の没年月。
※当山開基は承安元年(1171)。
※建仁中は開基・行海上人の没年かと思われる。
※江戸期の過去帳には行海上人は中興開山とされている。
※当山開創の圓鏡上人は弘仁8年(817)5月15日に示寂。
※火災は文化7年(1811)。
本堂
東西六間南北七間
本尊は愛染明王 東向
※実際は東西六間南北八間(文化8年[1811]建立)
※文化7年(1810)以前は八間×七間
廊下
一間半に一間
本堂に続く
庫裡
東西五間半
南北三間半
本堂北にあり
※享保18年(1733)快傳上人が建立。
※快傳上人は庫裡建立の際、観音山(旧観音堂[現在の七崎神社]のある山)に2000本余り杉を植えたと棟札に記載。
【以下、省略】
〈引用文献〉
青森県文化財保護協会
昭和41(1966)年
『新撰陸奥国誌』第五巻
(みちのく双書第19集)
pp.22-30。
紫色の部分が
『新撰陸奥国誌』七崎村担当者の
思いがにじみ出ている(と思われる)
箇所になります。
殊に
仏子(仏弟子の意)の復飾(還俗)への
強烈な批判が感じられます。
かつて修験者として
観音堂に仕えていた方々は
明治になり還俗(げんぞく)され
中には神職につかれた方も
いらっしゃいます。
『新撰陸奥国誌』で
批判されている仏子は
還俗した修験者を指します。
また
七崎の修験者批判に代表せしめて
当時の世情に対する思いが
述べられているのかもしれません。
さらに同筆記者は
取材した七崎神社の由緒等に対し
「全く後人の偽作」として
筆を進められております。
神仏分離という歴史的大転換が
おしすすめられた明治。
致し方ない部分が
多分にあるわけですが
今回見てきた辛辣な意見を
お持ちの方も
当然多かったと思われます。
筆記者のような
第三者から見ても
違和感のある事態なわけですが
それは地元の者からしても
異様な事態でした。
旧・観音堂(徳楽寺)が廃寺となり
神社として新たなスタートを
切らざるを得なかった明治時代。
その時代の潮流に
強烈に翻弄されながらも
いにしえからの祈りを
今につなげて下さった
当時の住職はじめ
当時の当地の方々。
いつかのブログでも
紹介させていただいておりますが
そのご苦労がよく分かる文書等が
いくつか残されております。
本堂建替という
歴史的大事業の
まっただ中にいる当山ですが
新本堂には内御堂として
観音堂も用意されます。
歴史的節目にあたり
文書等にあらためて
目を通してみると
時をこえて
当時の苦渋の決断であったり
歴史や由緒を守り
後世に何とかつなげたいという
熱烈なおもいが感じられます。
そのようなおもいを
しっかりと受け取り
今向き合わせていただいていることに
全力を尽くしたいと思います。