当山には十和田湖
南祖坊(なんそのぼう)伝説が
伝えられます。
“最古の十和田湖伝説”とされるのは
室町期の『三国伝記』所収の
「釈難蔵得不生不滅事」の
エピソードです。
『三国伝記』という書物は
十一面観音をはじめ
長谷寺の影響が
色濃く見られます。
この点につきましては
これまでにもブログで
紹介させて頂いております。
南祖坊伝説(十和田湖伝説)は
南部藩領を中心に
広く親しまれ
信仰においても
少なからず影響を与えたことが
様々な文書や
各地に残る石碑や神社などから
うかがい知ることが出来ます。
この伝説の発信拠点となったのは
七崎(現在の豊崎町)とされます。
当山の前身である永福寺が
殊に深く関わっております。
この永福寺は
小池坊(長谷寺)の末寺です。
前々回と前回は
江戸期の紀行家である
菅江真澄(すがえますみ)の
『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』
『十曲湖(とわだのうみ)』
という両著作の記述に触れながら
長谷寺との関係を
見てまいりました。
『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』
は天明8年(1788)に北海道を
目指した際の紀行文で
ここでは先に触れた
『三国伝記』の「釈難蔵得不生不滅事」
を紹介しております。
『十曲湖(とわだのうみ)』は
『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』
から約20年経った後の
文化4年(1807)年夏の紀行文で
こちらでは幾つかの
南祖坊伝説が紹介されます。
まず初めに『三国伝記』の
伝説が記述されるのですが
『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』
での内容とは異なっております。
跡形もなく変化している
というわけではありませんが
“重要な舞台”が
熊野ではなく泊瀬(長谷)に
変化しているのです。
この変化の意味する所を
永福寺と長谷寺の
本末関係や歴史的背景を踏まえ
紐解こうと試みたのが
前々回と前回の投稿です。
長谷寺の本尊は
十一面観音という尊格です。
長谷寺の十一面観音は
右手に錫杖(しゃくじょう)
左手に瓶(びょう)を執り
大盤石(ばんじゃく)という
台座に立つ尊容で
長谷式・長谷型といわれます。
東国(関東)や東北においても
十一面観音は
古くから信仰されたようです。
当山の前身である永福寺も
本尊は十一面観音です。
東日本で長谷寺といえば
鎌倉の長谷寺が有名ですが
この鎌倉の長谷寺も
奈良の長谷寺と関わりがあり
この両長谷寺は「姉妹」とも
いわれます。
鎌倉の長谷寺の本尊は
奈良の長谷寺と同じ
長谷式の十一面観音です。
伝承によれば
奈良の長谷寺の本尊を
造立する際に用いた霊木(楠)と
同じものを海に解き放ち
それが流れ着いた場所に
同じ本尊を建立しようとしたそうです。
そして流れ着いた先が
鎌倉であったとされます。
また海に流したのは
霊木(楠)ではなく
奈良の長谷寺と同じく彫られた
十一面観音像であったともいわれます。
そういった伝承があるがゆえに
奈良と鎌倉の長谷寺は“姉妹”と
いわれるのです。
奈良の長谷寺に対して
鎌倉の長谷寺は新長谷寺ともいわれます。
東国(関東)において
鎌倉は密教の一大拠点の1つです。
鎌倉ついででいえば
鶴岡八幡宮寺
勝長寿院
二階堂永福寺の三学山は
鎌倉の密教を考える上で
重要な寺院となるようです。
青森県で最古の仏像は
三戸郡南部町にございます
蓮台山恵光院(けいこういん)の
観音堂にお祀りされる
十一面観音立像で
平安時代のものとされます。
恵光院は通称・長谷寺と呼ばれますが
かつては蓮台山長谷寺という
とても古くからある寺院で
盛岡永福寺の末寺として
盛岡に改められることとなり
その旧地を継承したお寺です。
かなり古くから
十一面観音や長谷の信仰が
伝わっていたことを
今に伝えているように思います。
長谷寺と名のつくお寺の大部分は
鎌倉の長谷寺もそうですが
奈良の長谷寺にその起源があります。
長谷寺をキーワードに
話がかなり膨らんできたので
今回はこの辺で
終わりにしたいと思います。
江戸期においては
永福寺が小池坊(長谷寺)末寺で
あることが文書に明記されるのですが
それ以前について詳細は分かりません。
ただ長谷信仰や十一面観音の信仰が
とても古くから関東にとどまらず
東北にも伝わっていたようなので
伝説や信仰を考える上で
興味深い要素かと思います。