心とお腹を満たす

『光の旋律 瞑想と精進カレー』が

開催されました。

 

民族楽器奏者の

奈良裕之(ゆうじ)さんに

瞑想をご指南頂き

瞑想後には

奈良さんお手製の精進カレーを

堪能させて頂きました。

 

奈良さんのお話は

いつも興味深く

聞かせて頂いております。

 

今回も実り多い

光の旋律となりました。

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【9/23秋彼岸中日】お手伝い頂けませんか?

9/23の秋彼岸中日法要で

お手伝い頂ける方を

募集しております。

 

お手伝い内容は

下記の通りとなります。

 

①早朝のお膳上げ

午前7時にお寺に集合して頂き

位牌堂位牌壇のお膳上げを

お手伝い頂きます。

 

早朝おいで頂いた方には

お弁当も用意させて頂きます。

 

②位牌堂の後片付け

午後2時にお寺に集合して頂き

位牌堂の後片付けをして頂いて

終了次第解散という流れになります。

 

終了は遅くとも4時半頃かと思われます。

 

①のみ、②のみでも構いません。

 

①、②いずれもお手伝い頂ける方は

早朝の作業が終了後

午後の後片付けまで時間がありますので

1度お帰り頂いて構いません。

 

お手伝い頂ける方

いらっしゃいましたら

ご連絡下さいますよう

お願い申し上げます。

 

mail fugenin643@gmail.com

 

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三国伝記について③最古の十和田湖伝説のあらすじ

これまで

“最古の十和田湖伝説”とされる

『三国伝記』巻12第12話

「釈難蔵得不生不滅事」を見る

前段階として

『三国伝記』や撰者・玄棟(げんとう)に

伺える長谷信仰や

十一面観音信仰について

かなりザックリではありますが

触れてまいりました。

 

今回は

“最古の十和田湖伝説”の

あらすじを見てまいります。

 

以下、拙僧(副住職)の拙訳にて

大まかなエピソードを

ご紹介いたします。

 


「難蔵が入定するお話」

 

むかし

播州(現在の兵庫)の

書寫山(しょしゃざん)に

釈難蔵(仏弟子の難蔵の意)

という者がいました。

 

難蔵は法華経という

尊いお経を

とても大切にした

法華持経者であり

修行者でした。

 

即身における

弥勒出世値遇を誓い

読誦、回峰、参詣

怠ることなく

心して精進に

励みました。

 

難蔵が熊野にて

三年の山籠(さんろう)にのぞみます。

 

千日となる夜

御殿から翁が現れ

常陸と出羽の境にある

言両(ことわけ)山に

居住すれば

弥勒出生に値遇できると

告げられました。

 

お告げをうけ

言両山(ことわけやま)へ赴くと

その山は錦の如くに花に彩られ

藍の如くの円池があり

老巨木が生い茂り

奇岩や塊石がそびえる

まさに深山幽谷でした。

 

難蔵は

円池の端(はた)に

草庵をこしらえました。

 

草庵に住んで

法華経を読誦する様子は

まるで仙人の如くです。

 

毎日行われる

難蔵の読経を

18、9歳程の美女が

聴いていました。

 

難蔵は

不思議に思いながらも

日々を過ごしました。

 

ある時

その女性は難蔵に

自身が池の主の龍女であることを明かし

自身と夫婦になって欲しいと

告白します。

 

龍女は自身と夫婦となれば

龍の寿命である龍寿を得て

弥勒出世の値遇という

難蔵の願いも達成されると

難蔵に伝えます。

 

難蔵は

あれこれと深く悩みましたが

龍女と夫婦となることを

決意します。

 

ある時

龍女は難蔵に

八頭大蛇(やずだいじゃ)

のことを告げます。

 

龍女がいうには

この言両(ことわけ)山から

西に三里にある

奴可嶽(ぬかのたけ)の池に

八頭大蛇がいて

その八頭大蛇は

龍女を妻として

一月の上旬十五日間は奴可の池

下旬十五日間はこの池に

住むとのことです。

 

そしてもうじき

八頭大蛇がやって来るので

そのことを心得てほしいと

伝えられます。

 

龍女の言葉を聞き

難蔵は恐れる気配もなく

八巻の法華経を頭に戴くと

九頭龍(くずりゅう)になりました。

 

そして

例の八頭龍(大蛇)が

やって来きました。

 

八頭龍(大蛇)と九頭龍は

七日七夜「食い合い」ました。

 

激しい戦い(食い合い)の末

八頭龍は「食い負け」ます。

 

八頭龍(大蛇)は

大きな身を曳いて

円池(大海)に入ろうとすると

大きな松が生え出て

八頭龍の行方は阻まれました。

 

八頭龍(大蛇)は

威勢尽きて小身になり

本の奴可嶽の池に入りました。

 

八頭龍(大蛇)に

「食い勝った」難蔵は

龍女と共に

言両(ことわけ)山(嶽)に

住みました。

 

今でも

その池の辺りでは

激しい波の響きの奥に

かすかに法華経を読誦する声が

聞こえるといいます。(終)


 

以上が

最古の十和田湖伝説の

あらすじです。

 

深めたい箇所が

多々あるのですが

今回は話の重要な舞台である

「言両山」について

少しだけ触れさせて頂きます。

 

「言」と「両」という言葉は

特に密教では

馴染み深いもので

言両(ことわけ)という名称からは

「真言両部(しんごんりょうぶ)」

という言葉が連想されます。

 

ついでながら

奴可嶽の「奴可(ぬか)」は

糠部(ぬかべ・ぬかのべ)という

地域の名称に由来しているというのが

これまでの「定説」ですが

仏教的意味合いが込められていると

仮定するのであれば

「ナラカ」という梵語に由来して

いるとも考えられます。

 

「ナラカ」は

「奈落(ならく)」と

音写される言葉で

要するに「地獄」を意味します。

 

奴可嶽が「地獄」を踏まえて

設定された“お山”と捉えるならば

八頭大蛇についての検討も

より深いものになるように思います。

 

地獄は八熱地獄と八寒地獄

という「熱」「寒」

各々に八大地獄があるとされます。

 

八頭龍(大蛇)が

この八大地獄に通じていると

考えることも出来るでしょうし

日本神話に登場するヤマタノオロチに

仏教的意味が重ねられているとも

考えることが出来るように思います。

 

ヤマタノオロチでいえば

難蔵は書寫山(しょしゃざん)の者

とされますが

この書寫山は「スサノオの杣(そま)」

とも呼ばれます。

 

古事記や日本書紀の

いわゆる日本神話について

かつての僧侶は深く

学んでおりますので

神仏習合の様相が色濃い

“中世における”記紀神話を

踏まえていたとしても

何ら不思議はありません。

 

言両(ことわけ)山の

話に戻りますが「言両」を

「真言両部(しんごんりょうぶ)」の

意味として捉えるならば

中世における神仏習合思想の

根本を支える考え方である

曼荼羅(まんだら)について

触れなければなりません。

 

この曼荼羅の考え方は

神仏習合思想が台頭した時代の

「国土観」を見る上でも

必要不可欠のものです。

 

今回は

最古の十和田湖伝説のあらすじを

紹介させて頂きました。

 

『三国伝記』の撰者は

仏道に深く関わる玄棟であるゆえ

この書物は仏教やその背景に

ある程度通じていないと

意味を汲み取れないように感じます。

 

最古の十和田湖伝説である

「釈難蔵得不生不滅事」の

文面はかなり仏教的です。

 

それゆえに

文字として記されているものに加え

「仏教的前提」となっている部分にも

目配せしながら

次回も最古の十和田湖伝説を

見ていきたいと思います。

 

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かんのんまいり 高山観音②高松寺

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第4番札所

高山(たかやま)観音。

 

高松寺(こうしょうじ)本堂に

高山観音が祀られます。

 

本堂内陣左方には

虚空蔵菩薩が中央に祀られ

その右側に高山観音が

お祀りされます。

 

高松寺は

その起源が平安末期にさかのぼります。

 

古くは

重盛山小松寺(しげもりさん こまつでら)

と呼ばれていたそうです。

 

重盛山という山号は

平清盛公の息子である

平重盛に由来します。

 

小松寺は現在のお寺の場所ではなく

龍興山神社の方にあったそうです。

 

龍興山神社の案内板によれば

重盛が京都とり島守の地に来て

虚空蔵菩薩を浅田山の山頂に

祀ったのが創始とのことです。

 

伝説や歴史に触れ

島守を味わいながら

お参りされてはいかがでしょうか。

 

【高松寺】

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【龍興山神社】

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かんのんまいり 高山観音①高山神社

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第4番札所

高山(たかやま)観音。

 

4番札所のある

島守という場所は

十和田湖伝説に登場する

八の太郎(八郎)と

関わりのある場所です。

 

高山観音の御像は現在

高松寺(こうしょうじ)に

お祀りされておりますが

もとは高山神社の場所にあった

観音堂の本尊です。

 

島守は古くより

霊験あらたかな場所とされた所です。

 

高山神社の本殿を目指し

お山を登る道中は

山岳霊場としての雰囲気が

感じられます。

 

高山神社は

イザナギノミコト

イザナミノミコトが

祭神として祀られます。

 

明治の神仏分離令をうけ

四十八社が相殿として

合祀されたそうです。

 

この「島守四十八社の神々」は

八の太郎(八郎)伝説にも

登場する神々です。

 

その伝説の

あらすじですが

川魚を食べた

八の太郎(八郎)は

喉がひとく渇きます。

 

喉をうるおすべく

沢の水を飲みますが

飲めども飲めども

喉の渇きはおさまらず

気がつけば大蛇の身となっていました。

 

大蛇となった八の太郎(八郎)は

川をせきとめて

島守盆地に水をためて

そこに棲もうとしますが

それを良しとしなかった

島守四十八社の神々が

八の太郎(八郎)を

追い出したという物語です。

 

高山神社境内には

不動明王像

毘沙門天像

弘法大師像

金精様なども祀られます。

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カクレキリシタンの島 生月島

9月3日より6日まで所用のため

長崎県各所に赴かせて頂きました。

 

長崎県は古くより

東西様々な文化が交流する

土地柄でもあり

見所が多いと感じました。

 

カクレキリシタンの島である

生月島(いきつきしま)では

カクレキリシタンの祈りの

足跡に触れることが出来ました。

 

キリシタンが禁止された

禁教(きんきょう)時代の

祈りのあり方には

考えさせられる所が

沢山ありました。

 

禁教下での「キリシタン弾圧」

という印象がありましたが

禁教時代となる以前に

藩によっては

キリシタン大名により

藩内寺院が破壊されるという

出来事もあったようです。

 

生月島での学びは

とても貴重な経験となりました。

 

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長崎をゆく

9月3日より6日の日程で

長崎県各所に赴かせて頂きました。

 

真言宗豊山派

総合研究員

現代教化研究所の

所外調査が主の出張でしたが

長崎の有縁のご寺院さまにも

ご案内頂く機会がありまして

とても充実した学びが得られました。

 

キリシタンに関係する各所では

信仰について考えさせられました。

 

五島列島の福江島は

遣唐使ゆかりの地であり

遣唐使船寄泊地や

弘法大師空海上人が乗った

遣唐使船が唐に向け

出発した地があり

そこから眺められる広大な海を前に

感慨深いものがありました。

 

長崎県は立地的に

東西様々な文化が交流した場所なので

多様性が感じられました。

 

「日本の近代」を今に伝える場所も多く

歴史を感じさせられました。

 

多様でかつ深い文化に満ちた長崎に

多くを学ばせて頂きました。

 

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かつての七崎山徳楽寺 〜普賢院と七崎神社と永福寺と〜

『新撰陸奥国誌』(しんせんむつこくし)

という書物があります。

 

これは明治9(1876)年に

国に提出された

青森県の地誌です。

 

この中に

七崎山徳楽寺(現在の七崎神社)の

かつての様子がうかがえる

記述があります。

 

徳楽寺はかつて当山が

別当寺として管理していたお寺で

七崎観音として親しまれた

聖観音が本尊でした。

 

七崎観音の由緒は古く

様々な伝説に

彩られた観音様です。

 

以前ブログにて

七崎観音の由緒の伝説について

触れたのでよろしければ

のぞいてみて下さい。

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/かんのんまいり-清水観音/

 

徳楽寺は観音堂

あるいは新羅(しんら)堂とも

呼ばれておりました。

 

新羅堂と呼ばれるのは

徳楽寺(観音堂)が

新羅三郎義光公を合祀したゆえです。

 

伝えによると

七崎観音は七崎(現在の豊崎)に

遷座された当初は

当山の南にあたる

現在の七崎神社の位置ではなく

当山の東方

約3〜400メートルの場所に

お祀りされたとされます。

 

当初の場所は

元宮(もとみや)と称します。

 

そこから現在の七崎神社の位置に

遷座されたわけですが

その年代は不明とされます。

 

元宮については

今回紹介する文章でも

触れられております。

 

南の方角は

観音様を象徴する方角でもあり

伽藍やお堂の配置にも

曼荼羅思想を通わせる伝統がある

密教の視点からすれば

そういったことも踏まえて

元宮から現在の七崎神社の地に

七崎観音を遷座して

七崎山徳楽寺(現在の七崎神社)

が整えられていった

と考えることが出来ます。

 

毎年9月7日は

七崎神社の秋の大祭です。

 

豊崎小学校・中学校の生徒による

七崎神社奉納相撲大会が

神社境内にて行われておりましたが

少し前より会場は小学校に変わり

日程も大祭の日ではなくなりました。

 

だからというわけではありませんが

この秋の大祭の日にあわせて

七崎神社の歴史に触れることも

意味のあることかと思います。

 

七崎神社の歴史を見ることは

徳楽寺(現在の七崎神社)と

永福寺と普賢院の

歴史を振り返ることでもあります。

 

ちなみにですが

「普賢院開基」とされる

行海(ぎょうかい)大和尚は

全国行脚をしていて

この地に立ち寄られた際に

現在の七崎神社の地が

霊験あらかたであり

修行にふさわしいとして

北斗七星の形になぞらえて

杉を植えたとされます。

 

北斗七星は仏道では

息災(そくさい・平和の意)の

象徴でもあります。

 

今なお

七崎神社でそびえる

大杉の3本は

7本のうち生き残ったもの

とのいわれがあります。

 

また行海大和尚は

村人を苦しめていた大蛇を

“改心させた”所

村人に大変感謝され

この地にとどまるように懇願され

お寺が建立されたとの伝説があります。

 

これらの伝承を踏まえるに

永福寺の後に

当山を引き継ぐことになる

「普賢院」というお寺は

もともとは現在の七崎神社の方面に

あったようにも思われます。

 

火災により古文書が

焼けてはいるのですが

“元祖普賢院”は永福寺の門前に

あったのかもしれませんし

七崎神社の地に

あったのかもしれませんし

全く別の場所に

あったのかもしれませんし

現在のような伽藍が整ったお寺ではなく

修験者と同じ様に

平屋の建物に「普賢院」を名のって

この地に住まわれたのかもしれませんし

様々に想像は膨らみます。

 

『新撰陸奥国誌』には

七崎村(現在の豊崎町)に

ついての記述があります。

 

少し長いですが

翻刻された資料があるので

引用して紹介させて頂きます。

 

引用中の色分けですが

オレンジは修験者や徳楽寺を含む

当山に関連するもので

グリーンは徳楽寺の行事です。

 

引用にあたって

丸括弧の部分は

引用文献における

注意書きです。

 

角括弧のものは

語句を足した部分と

読み仮名をふった部分と

原文が間違っていると思われる箇所を

訂正した部分です。

 

『新撰陸奥国誌』は

お読み頂ければ分かるように

地域の方への「聞き取り調査」

を交えての地誌です。

 

これまあくまでも

明治初期の地誌なので

汲みきれていない部分もありますが

“当時の感覚”が

垣間見える貴重なものです。

 

徳楽寺時代の七崎神社は

一体どのような所で

いかなる行事があったのかなど

この引用を通して大まかに

感じて頂けるかと思います。

 

細かな内容については追々

説明させて頂きたいと思います。

 


七崎村

【中略】

当社は何の頃の草創にか

究て古代の御正体を祭りたり

旧より正観音と称し

観音堂と呼なして

近郷に陰れなき古刹なり

 

数丈なる杉樹

地疆に森立して空に聳ひ

青苔地に布て如何さま

物ふりたる所なり

 

去は里人の崇仰も大方ならす

 

四時の祭会は元より

南部旧藩尊敬も他の比にあらす

常に参詣も絶えす

廟堂の構界区の装置まて

昔を忍ふ種となる所なり

 

堂は悉皆国知の修営にして

山城守重直

(始三戸に居り后盛岡に移る)

殊に尊信し

五百五石五斗三升三合を寄附し

繁盛弥益し

盛[岡]の永福寺 別当し

当所には普賢院を置き

外に修験 善覚院 大覚院

社人十二人 神子一人

肝煎等の者まて悉く具り

普賢院に十五石

善覚院に五石

大覚院に五石三斗

社人 神子 肝煎 各五石を分与し

 

明治元年以前は

毎月十八日 湯立の祈禱あり

 

正月七日◻丑の刻 護摩祈禱あり

 

三月 鳴鏑(なりかぶら)の祈禱あり

ヤフサメと云う

 

四月七日の◻或は昔出現ありし所なりとて

八太郎(九大区一小区)に旅所ありて

黒森浜に輿を移し

其時 別当 役々残らす扈従し

氏子百五十人余

その他遠近信仰の従相随ひ

八太郎浜は群参千余人

海上には小艇に乗して

囲繞すること夥し

旅所は黒森にありしか

戊辰後これを廃し

 

五月五日は四十八末社御山開と

唱える祈禱あり

(今末社は彊内に十二社を存す

当時は在々の山間等

数所にありと云う)

 

八月六日より十二日まで

荒神祭とて四条諸江郷の祭あり

 

同十三日中の祭と唱て

五月端午の祭と同式あり

 

同十七日 観音堂大法会あり

 

九月五日 御留(おとめ)の祭と云て

五月五日の祭と同じ祭あり

 

十二月十七日 年越しの祈禱あり

 

此の如く厳重の法会を

修行し来りたる

奇代の古刹なりしに

何故に廃除せしにや

 

明治三年 神仏混淆仕分の節は

三戸県管轄にて

県より廃せられたりしにて

元来観音を祭りし所なれは

神の儀に預るへき謂れなく

村民の昔より

崇め信せる観音なれは

旧貫を痛願なしけれとも

 

了に仏像は元宮と云て

壊輿祭器を納め置く所に

安置すへきに定れり

 

元宮は

往古草創せる旧阯にして

永福寺より南に当り一丁

(字を下永福寺と云う)

一間半四方の堂あり

(東に向ふ)

破壊に及ひしかは

修覆中は仮に

旧社人 白石守か家に安す

 

観音堂は元より

神社の結構に異なるを

廟殿の備もなく

仏像を除て其ままに

神を祭れはとて

神豈快く其の斎饌を受へけんや

 

この廃除せる根源は思に

仏子の徒僧衣を褫て復飾せんと

欲するに外ならす

 

左許の古刹を壊て

神の威徳を汚蔑すかの

小児輩土偶人を配置して

戯弄するに異ならす

 

昔は仏子の度牒を受けて

律を壊る者は還俗せらるる

布令なりけれは

一たひ仏子たるもの

還俗するは

罪人と同く

仏子甚厭ひたりしと

◻◻の如く異なれり

 

社人の伝て

観音は正観音なと云伝れとも

形丸く径五寸厚二分の板銅にて

像は高出たるものにして

十一面観音の容に見ゆ

然れとも旧年の古物

形像定かに弁へからす

 

旧数枚ありし由なりしか

正保(1645〜1648)の

頃にや天火に焼し時

多消滅し全体なるもの

僅に一枚を存す

缺損たるものは数枚ありと云う

 

言か如んは則

御正体と称する古代の物にて

神仏共に今世まま存す

社人其何物たるを知らす

神祭豈難からすや

 

然るに里人

又七崎神社由来と

云ことを口実とする

 

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナギノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれり

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

 

其文に

【棟札(当山所蔵)の文言は省略します】

とあれは証とすへし

 

又遙后の物なれとも

封 奉寄附七崎山聖観世音菩薩

右に安永四乙未年(1775)

左に四月七日

別当善行院と■付し灯籠あり

 

旧神官小泉重太夫か祖

初代 泉蔵坊と云るもの

元禄中(1688〜1704)

別当職となり

大学院 正学院 正室院等あり

 

十一代大学院

明治四年正月復飾し神職となり

小泉一学と改め

子 重大夫嗣

同六年免す

 

同 白石守か祖 

初代 明正院 承応中(1652〜1655)

別当となり后

行学院 善正院 善光院 善行院

善覚院 善教院 善道院 善明院等あり

 

十五代の裔

善行院 明治四年正月

神職に転じて白石守と改め

同六年免せらる

 

祠官兼勤五戸村稲荷神社新田登

 

寺院

普賢院(境内四百八坪)

支村永福寺の西端にありて

旧観音堂の別当なり

 

大和国

式上郡長門寺小池坊末寺真言宗

宝照山と号す

 

建仁中(1201〜1203)の

建立の由伝れとも

往年火災に罹て記録を失し

詳悉ならす

寛保元年(1741)辛酉十一月

快伝と云る僧の中興なりと云り

 

本堂

東西六間南北七間

本尊は愛染明王 東向

 

【以下、省略】

 

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〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

(みちのく双書第19集)

pp.22-30。

かんのんまいり 観音林観音

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第31番札所

観音林観音。

 

軽米にある

静かな佇まいの札所です。

 

かつては

千手観音が祀られていたそうですが

現在は聖観音が祀られます。

 

この観音林は

南部八戸藩と南部盛岡藩の

境界でもあったそうです。

 

観音林観音は

長谷七観音のいわれがあります。

 

長谷七観音とは

長慶天皇の弟である

明尊が南北朝時代に

一本の大桂の木から

七体の観音像を造ったという伝えで

その一体が観音林観音であるとされます。

 

明尊は

南部町に長谷寺(恵光院)を

開いたとされる方です。

 

▼長谷七観音について

https://fugenin643.com/blog/長谷七観音の伝承/

 

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かんのんまいり 朝日観音

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第30番札所

朝日観音。

 

二戸の石切所大村の札所です。

 

開基は慈覚大師・円仁と伝えられます。

 

29番の鳥越観音と

30番の朝日観音は

まさに山岳霊場ならではの

山上にある札所です。

 

険しい山道を登っていくと

山上に岩肌むき出しの巨岩が

たちあらわれます。

 

その巨岩の岩窟に

朝日観音の観音堂があります。

 

自然と一体化した神秘性が

感じられる札所です。

 

観音堂からは

眺められる景色も

素晴らしい

まさに聖地です。

 

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