普賢院の古代史をふりかえる

古代におけるお寺を

①中央寺院(大寺)

②地方寺院

③村の小堂

に分けて捉え考える

研究手法があります。

 

あまり専門的なことを

ここで記す余裕はありませんが

古代仏教の全体像を

「国家仏教」と捉えてきた

“従来の”見解を批判し

信仰形態の解明を試みながら

古代社会で仏教がどのように

受容されていたのかを

模索するアプローチだと

お考えいただければ十分かと思います。

 

地方寺院についていえば

7世紀後半から8世紀にかけて

各地に多数のお寺が

急速な勢いで創建されて

いったそうです。

 

考古学的調査が進むことで

「古代寺院」が

多く存在していたことが

明らかにされており

地方寺院の多くは

地域の有力者がリーダーとなったり

支援者となったりして

建立されたと考えられています。

 

東北地方でいうと

平泉の奥州藤原氏以前の

安倍氏や清原氏などは

仏教に対する理解が深く

早い時期から

仏教が受容されていたと

考えられるそうです。

 

当山の開創開山は

延暦弘仁年間(8C下旬〜9C上旬)に

圓鏡(えんきょう)上人によります。

 

よく用いられる時代区分上は

古代の創建となります。

 

当山の本尊は

もともと十一面観音とされますが

十一面観音はかなり古い時代から

信仰されていた尊格です。

 

圓鏡上人の次代が

月法律師(がっぽうりっし)です。

 

月法律師は

十和田湖伝説の南祖坊の師と

される方です。

 

当山の鎌倉以前の先師様で

お名前が残っているのは

先のお二人の他

鏡宥(きょうゆう)上人

日照(にっしょう)上人

さらに

鎌倉末期〜平安初期の先師様では

宥海(ゆうかい)上人

行海(ぎょうかい)上人が

今にその名を伝えています。

 

行海上人は

承安元年(1171)に

当山を開基開山された方で

過去帳には中興開山とも

記されています。

 

令和3年は

開基開山から850年という

メモリアルイヤーにあたります。

 

行海上人は

観音山や七崎山と呼ばれていた

旧観音堂(七崎山徳楽寺)の地に

7つ星になぞらえて

杉を植えたと伝えられます。

 

旧観音堂は明治になり廃寺となり

跡地には七崎神社が建立され

現在に至っております。

 

当地には

「祈りの痕跡」を伝える遺跡も存在します。

▼参考記事(2019/3/16)はコチラ

【以前の記事】古代の祈りの痕跡とお寺の起源

 

1200年前の開創開山から

850年前の開基開山までの

約350年は不明なことも

多いのですが

その中でも先師様のお名前や

伝承や伝説が今に伝えられていることは

とても尊いことだと感じています。

 

ありがたいことに

ここ数年は様々な研究に

触れさせていただく機会が多く

新たな視座を得たり

新たな発見や気づきが多く

当山の歴史や伝承などの

整理や研究も

アップデートを

重ねさせていただいております。

 

先にも記しましたが

本年は開基開山から850年という

メモリアルイヤーなので

「普賢院古代史」について

これまで以上に

背景を踏まえて

探ってみたいと思います。