青森県田子町の
釜渕家出身である高僧
奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)
は生没年代の詳細は不明ですが
1657年頃に生まれ
元文4年(1739)82歳頃に
入寂したとされます。
学秀は千体仏の作仏を
三度成し遂げられており
それらの時期は以下のように
第1期〜3期という形で
表現されているようです。
第1期 地蔵菩薩
(1600年代末〜1700年代初頭)
(学秀 50歳頃)
飢饉物故者供養のため
第2期 観音菩薩
(正徳2年(1712)頃〜)
(学秀 60歳頃〜)
九戸戦争戦没者のため
第3期 観音菩薩
(享保7年(1722)〜元文4年(1739))
(学秀 70歳頃〜入寂)
生まれである釜渕家一族の供養のため
話があちこち飛ぶかと思いますが
仏道における「三千」という数字や
「千」という数字について
触れてみたいと思います。
三世三千仏(さんぜさんぜんぶつ)
という言葉があります。
三世という言葉は
掘り下げられて様々な意味があり
さらには三毒(さんどく)といった
仏道の根本的なキーワードと絡め
説かれることが多いのですが
ここでは基本的な意味として
過去・現在・未来のことと
捉えて頂いて結構です。
三世三千仏とは
それぞれに千仏が
いらっしゃるという
意味だとお考え下さい。
ここでいう千とは
個数の数字ではなく
象徴的意味を帯びた聖数です。
この三千仏に祈りを捧げる法要を
仏名会(ぶつみょうえ)といい
日本では光仁天皇代の
宝亀5年(774)12月に
初めて行われております。
意図してのことか否かを
知るすべはありませんが
結果として
学秀の後半生におけるお歩みは
三世三千仏への尊い祈りを
作仏を以て遂げられたとも
捉えられるかと思います。
学秀は禅僧でもあるので
その観点から考えてみると
禅宗でもよく用いられる
陀羅尼(だらに、梵語のお経のこと)に
大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)
または大悲咒(だいひしゅ)
と通称される“お経”があります。
大悲心陀羅尼あるいは大悲咒は
千手観音の陀羅尼でもあります。
日本最古の観音霊場である
西国(さいごく)三十三観音霊場
のうち千手観音が本尊である
札所は33所のうち
実に15所(十一面千手1ケ寺も含む)
にのぼります。
西国三十三観音霊場の
札所本尊としては
如意輪観音が6ケ寺
十一面観音が6ケ寺
聖観音が3ケ寺
准胝観音が1ケ寺
不空羂索観音が1ケ寺
馬頭観音が1ケ寺です。
開創1300年とされる
西国三十三観音霊場において
千手観音を本尊とする札所が
最も多いことからも
古くから信仰されてきた
観音菩薩であることが
分かるかと思います。
日本最古の三十三観音霊場である
西国霊場の起源は
当山の本山である長谷寺を
開山された徳道(とくどう)上人が
関わっております。
養老2年(718)に
徳道(とくどう)上人が
病床において見られた夢で
閻魔大王より三十三の宝印を授かります。
そして衆生救済のために
観音霊場を作るよう
閻魔大王に告げられたため
宝印を納める三十三所を定められ
西国三十三観音霊場が開創された
と伝えられます。
しかし
徳道上人の時代には
機運が熟さなかったようで
授かった三十三の宝印を
現在の兵庫県にある
中山寺に納めることになります。
中山寺は真言宗中山寺派の本山で
聖徳太子創建とされ
勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の
お姿をうつして造ったと伝えられる
十一面観音を本尊とします。
中山寺は西国第一番札所です。
徳道上人が
中山寺に三十三の宝印を納め
それから約270年経った後に
花山法皇により
西国三十三観音霊場は
復興されたとされます。
花山法皇は
播磨(現在の兵庫県)にある
書寫山(しょしゃざん)の
性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。
書寫山というと
“最古の十和田湖伝説”が収録されている
『三国伝記』(さんごくでんき)では
難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は
書寫山の法華持経者とされます。
南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で
当山にて修行したと伝えられ
全国練行の末に十和田湖に入定し
青龍大権現という龍神として
十和田湖の主になったと伝えられます。
西国三十三観音霊場に続いて
坂東(ばんどう)三十三観音
秩父三十三観音(のち三十四観音)の
霊場が成立しますが
それに続いて成立した地方的札所が
糠部三十三観音だそうです。
糠部三十三観音霊場は
永正9年(1512)9月に
観光上人により創始されました。
観光上人の札番(札所の番号)は
現行のものとは異なりまして
現在の札番は
八戸市の天聖寺(てんしょうじ)第8世
則誉守西(そくよしゅさい)上人が
寛保3年(1743)に定められたものです。
当山の七崎観音は第15番札所で
田子の釜渕観音は第27番札所になります。
この27番札所の釜渕観音堂にて
学秀は出身である釜渕家のご供養のため
最後の千体仏を完成させました。
西国三十三観音霊場のルーツである
当山の本山である奈良県桜井市の
長谷寺の創建は
朱鳥元(686)年に
修行法師の道明上人が
銅板法華説相図(ほっけせっそうず)
を安置して祀られ開創されます。
この法華説草図には
法華経
見宝塔品(けんほうとうぼん)
の場面が描かれております。
平泉の中尊寺金堂は
この見宝塔品に基づいて
建立されたといわれます。
補足になりますが
江戸時代初期までは
中尊寺には真言寺院も構えられており
永福寺住職が中尊寺から
迎えられたこともあります。
見宝塔品について
以下の引用文を参考に
大意を見てみましょう。
釈迦牟尼(しゃかむに)が
霊鷲山(りょうじゅせん)で
大比丘尼衆一万二千
菩薩八万のために
法華経を説かれると
会座(えざ)に地中より
高さ五百由旬
縦横二百由旬の七宝塔が
湧出(ゆうしゅつ)し
空中に住在するところあり
時に宝塔中より
多宝仏(たほうぶつ)が大音声を発し
釈尊説くところの法華経を讃嘆し
それが真実なることを証する。
やがて釈尊
扉をひらいて
二仏宝塔中に
併座されるといふのが
この経文の大旨である。
(安田與重郎、昭和40年
『大和長谷寺』(淡交社)p.11。)
このような象徴的場面が
法華説相図には
施されております。
またこの法華説相図は
金銅千体仏とも
金銅釈迦仏一千体ともいわれ
「千体仏」が施されております。
他にも「千」や「三千」に
関連して述べられることは
沢山あるかと思いますが
様々な意味合いや伝統がある
ということが少しでも
伝えることは出来たでしょうか。
こういった観点から
学秀千体仏に
アプローチすることは
有意義なことと思われます。