論語の時間

本日は月に一度

有志で行っている

論語勉強会でした。

 

論語を手がかりに

自身をふりかえる時間として

とても有意義なものだと

感じています。

 

このつどいも

かれこれ数年にわたり

開催されています。

 

論語を処世訓として

捉えている方も

いらっしゃると思いますが

拙僧が最も関心を寄せているのは

やはり儒家的な死生観です。

 

儒教において重んじられる「生」は

仁の実践を通じて

“道”を大成させる過程であり

現世における功績や栄誉は

自身の身が朽ちて後も

残るものであるから

現世において努力することが

進められており

それは家のためにもなり

祖先のためにもなる

という一面があると

まとめられると思います。

 

あくまでも

一面についてです。

 

身体的な限界はあるものの

現世における功績は

その限界を超えるという

有限な命と

生存中の功績との関係性を

読み取ることが可能だといえます。

 

くりかえしますが

あくまでも一面的な意味においてです。

 

その功績というのは

仁の実践によるものである必要があり

実践者は君子(理想の人)であることが

望まれているので

その実現は相当にハイレベルな内容です。

 

儒家や道家や仏家など

諸子の立場における

死生観の違いは

諸子が目指すものについての

理解を端的に把握しうる

視点ではないかと

ここ最近は感じています。