七崎(ならさき)とは
現在の八戸市豊崎町の古称です。
当山は現在でも
「七崎のお寺さん」と
呼ばれることが多くありますし
「永福寺さん」とも呼ばれます。
この七崎の地には
かつて永福寺(当山の前身)があり
多くのお堂を管理する
別当でもありました。
当山本堂内の観音堂に
祀られる聖観音は七崎観音と呼ばれ
古くから多くの方に
ご参詣頂いた観音様で
明治以前は現在の七崎神社の地にあった
観音堂(以下、旧・観音堂)に
お祀りされていたものです。
この観音堂をはじめ
多くのお堂の別当寺を
当山が永福寺時代より担ったようです。
現在の八戸市白銀にある
清水観音堂(糠部第6番札所)は
当山が別当寺をつとめたお堂であり
古くから海の方面とも
関わりがあったことが分かります。
海に関連する御祈祷の一例として
「舩(船)祈祷」というものがあります。
時代が違えども
海に限らず船は
とても重要なものです。
当山には舩祈祷の
次第(聖教(しょうぎょう))や
それに関係する文書が幾つか
所蔵されております。
船祈祷の聖教(古文書)には
「慶長20年(1615)授与」と
記されたものもあれば
安永5年(1776)の浄写されたものを
寛政6年(1794)に書写されたと
奥書されたものもありますし
実際に用いられた
船祈祷の祈祷札の文言を写した
宝暦13(1763)と寛政4年(1792)との
年代が記された文書も所蔵しております。
文政10年の聖教(古文書)もあり
これら船祈祷のものは
いずれも当山61世である
長峻(ちょうしゅん)大和尚が
新潟よりお持ちになられたものです。
長峻大和尚は新潟県出身で
ご縁があって当山61世となり
さらには南部町の恵光院(長谷寺)を
第29世(99世ともされます)として兼任され
晩年は山形県鶴岡の湯殿山大日坊も
第88世住職 慈念海上人 忍光道人として
兼任された方です。
恵光院の由緒はとても古く
平安期の十一面観音像が祀られ
これは青森県最古のもので
糠部観音第22番札所です。
山形県鶴岡の
湯殿山 大日坊(ゆどのさん だいにちぼう)
には即身仏(そくしんぶつ)の
真如海上人(しんにょかいしょうにん)が
お祀りされます。
即身仏とは
平たくいえば“僧侶のミイラ”です。
拙僧(副住職)の法名は
泰峻(たいしゅん)といいますが
現住職の「泰」の字と
長峻大和尚の「峻」の字を
頂いております。
長峻大和尚は
船祈祷の聖教のみならず
非常に多くのものを
当山に請来されております。
ほぼ全てが江戸期のものですが
御祈祷はもちろんのこと
どのような作法や次第が
継承され施されていたのかが
垣間見られる貴重なものだと感じます。
先に南部町の古刹である恵光院
についても少し触れましたが
恵光院も当山も
糠部(ぬかべ)三十三観音霊場の札所です。
糠部は
「ぬかのぶ、ぬかのべ、ぬかぶ」とも
読みますがここでは
「ぬかべ」として読ませて頂きます。
糠部三十三観音霊場
第15番札所は七崎観音です。
三十三は「無限」を意味し
尽きることがない
無量の慈悲を表しております。
全国各地に「三十三観音」と名のつく
霊場は沢山あるかと思いますが
最古の霊場は西国三十三観音で
その起源は当山の本山である
奈良県桜井市の長谷寺にあります。
養老2年(718)に
長谷寺の徳道(とくどう)上人が
病床にみた夢で
閻魔大王より三十三の宝印を授かり
衆生救済のため観音霊場を作るよう
告げられたとの開創伝説が伝えられます。
徳道上人は三十三所を定めたものの
機運が熟さなかったため
宝印を中山寺に納め
それから約270年経った後に
花山法皇により復興されたとされます。
花山法皇は
播磨(現在の兵庫県)にある
書寫山(しょしゃざん)の
性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。
書寫山ついででいうと
“最古の十和田湖伝説”が収録されている
『三国伝記』(さんごくでんき)では
難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は
書寫山の法華持経者とされます。
南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で
当山にて修行したと伝えられ
全国練行の末に十和田湖に入定し
青龍大権現という龍神として
十和田湖の主になったと伝えられます。
西国三十三観音霊場に続いて
坂東(ばんどう)三十三観音
秩父三十三観音(のち三十四観音)の
霊場が成立します。
それに続いて成立した地方的札所が
糠部三十三観音だそうです
(山崎武雄1980
「糠部三十三所観音巡礼(一)」
『天台寺研究』pp.60-117。)。
永正9年(1512)9月
観光上人によって成立した霊場です。
観光上人御選定の札所番数は
現行の番数とは異なっており
その詳細は一部しか
分からないようですが
1番札所が天台寺(現在は33番)で
33番札所が恵光院(現在は22番)です。
観光上人の「観光」という
言葉についても
少し触れさせて頂きます。
観光といえば各所に赴く
旅行や行楽といったニュアンスがある
言葉として定着しておりますが
一説によると
「観音の光を頂きに行くこと」
の意味で観光という言葉が
使われたそうです。
糠部霊場の創始に携わるとされる
観光上人について
詳細は不明とのことですが
一観音霊場創始者の法名が
観音菩薩と縁深きものである点は
深秘であると思いますし
その当時の時代背景を踏まえながら
全国的にも古い霊場である
糠部三十三所の魅力を後世に伝える意味で
新たな“草創譚”を編むことが
出来るようにも感じます。
観音霊場の札所ともなった七崎観音は
観光巡礼が流行した時代を迎え
それまで以上の多くの方が
参詣されたことと思います。
▼船祈祷の聖教
▼長峻大和尚
▼恵光院(南部町)