江戸期に
当山はどのような様子であったかを
うかがい知ることが出来る
史料のひとつとして
『御領分社堂』があげられます。
『御領分社堂』は
当時の観音堂(七崎山 徳楽寺)と
様々なお堂(小社)の様子を
伝えております。
ここでいう観音堂は
現在の七崎神社の場所に
明治時代になるまであったお堂でして
七崎山徳楽寺という寺号が
用いられておりました。
明治までは
四間四方のお堂で
護摩堂を兼ねた観音堂であったことが
史料より分かっております。
ここ数年
旧観音堂を「永福寺本堂」と紹介する
文献がいくつか見られましたが
旧観音堂は本堂ではありません。
専門性の高い要素であったり
内部の者にしか分からない事柄が
いくつも絡んでいるため
そのような記述になってしまうのも
無理ないことだと思いますが
地元で伝えられることと
あまりに乖離したものを
生半可な状態で由緒であると
紹介されることは
当山としても好ましくありません。
話を戻しまして
『御領分社堂』という
宝暦13年(1763)の書物は
宝暦9年(1759)の幕府の御触(おふれ)
により開始された
藩領の社堂の調査を
まとめたものです。
なので
同書に掲載されている内容は
宝暦13(1763)以前のものとなります。
というのも当山には
宝暦13年(1763)3月の棟札(むなふだ)
3枚が所蔵されているのですが
その内容が同書『御領分社堂』には
反映されておりません。
少し細かなことかもしれませんが
当山に所蔵される棟札と
関係する部分でもあるので
本稿にてご紹介いたします。
『御領分社堂』では
七崎(豊崎の古称)について
以下のように
記載されております。
※( )、文字色は筆者によります。
寺院持社堂 五戸御代官所七崎
一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)
古来縁起不相知
萬治元年(1658)重直公御再興被遊
貞享四年(1687)重信公御再興被遊候
何(いずれ)も棟札(むなふだ)有
一 大日堂
一 不動堂
一 愛染堂
一 大黒天社
一 毘沙門堂
一 薬師堂
一 虚空蔵堂
一 天神社
一 明神社
一 稲荷社
一 白山社
右十一社堂は観音堂御造営之節
依御立願何も御再興被遊候
小社之事故棟札も無之
只今大破社地斗に罷成候
一 月山堂 壱間四面板ふき
一 観音堂 右ニ同
右両社共に観音堂御造営之節
重直公御再興也
善行院(ぜんぎょういん)
当圓坊(とうえんぼう)
覚圓坊(かくえんぼう)
覚善坊(かくぜんぼう)
右四人之修験は本山派にて
拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候
古来より拙寺(永福寺)拝地之内
三石宛(ずつ)遣置
掃除法楽為致置候
上記では
大日堂、愛染堂、不動堂
の3つのお堂が
小社(小さいお堂の意)ゆえ
棟札(むなふだ)も無いと
掲載されております。
この調査は
先にも触れたように
宝暦9年(1759)のお触れにより
実施されたもので
『御領分社堂』が報告書として
まとめあげられたのが
宝暦13年(1763)なので
七崎(現在の豊崎)の調査が
実施されたのは
宝暦13年(1763)以前だと
いえると思います。
その宝暦13年(1763)三月に
大日堂(天照皇大神宮)、
愛染堂、不動堂が
再建されていることが
当山所蔵の棟札から分かります。
大日如来は天照大神と
本地垂迹の関係で捉えられております。
そのことは
大日如来を象徴する種字(梵字)が
荘厳体で記されたうえで
天照皇大神宮一宇云々と
棟札に書き留められていることからも
うかがわれるかと思います。
愛染堂も不動堂も
同時期に再建されております。
棟札には
大檀那大膳太夫利雄公と
記されており
再建の大檀那(大施主)は
当時の盛岡南部藩藩主である
南部利雄(としかつ)公
であることが分かります。
盛岡南部藩家老の日誌『雑書』
文化7年(1810)7月6日の所に
当山について触れておりまして
ここに江戸中期の本堂の規模が
八間×七間であることが
記されており
またこの時点で
その本堂が「数十年罷成」とあります。
なので
1810年から数十年前に
何らかの大きな“手入れ”が
本堂になされたのだと思われます。
建替えなのか修繕なのかは
分かりませんが
1700年代のどこかで
事業がなされたのでは
ないでしょうか。
1700年代といえば
享保年間(1716〜1736)に
快傳上人により中興されております。
そして
今回紹介した棟札が示すように
宝暦13年(1763)には
大日堂(天照皇大神宮)、
愛染堂、不動堂が再建されました。
参考までにですが
宝暦6年(1756)には
御輿(みこし)が「再修覆」
されております。
本稿でとりあげた棟札は
快傳上人により
中興されて以降の
当山の“歩み”を紐解く上で
とても貴重なものだと感じます。