南祖坊伝説の諸相③ 長谷寺と南祖坊 その壱

十和田湖南祖坊伝説の

発信拠点は七崎(ならさき)

つまりは現在の豊崎とされます。

 

七崎には当山の前身として

永福寺というお寺がありました。

 

永福寺にしろ

普賢院にしろ

当山が別当をつとめた

七崎観音堂(現在の七崎神社)にしろ

焼失により詳細な由緒は

不明な所が多いのですが

受け継がれる『先師過去帳』や

語り継がれる所の口伝や伝承があり

それらを元として

縁起は大切に伝えられております。

 

今回からは近世の文書である

菅江真澄の紀行文を手がかりに

当山の本山である長谷寺(はせでら)

との関係を何回かに分けて

とりあげたいと思います。

 

江戸期の紀行家である

菅江真澄(すがえますみ、1754-1829)は

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

『十曲湖(とわだのうみ)』で

南祖坊伝説について

触れております。

 

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』は

天明8年(1788)に北海道を

目指した際の紀行文です。

 

ここでは南祖坊伝説について

室町時代の書物である

『三国伝記(さんごくでんき)』所収の

“最古の十和田湖伝説”について

紹介しております。

 

『十曲湖(とわだのうみ)』は

文化4年(1807)年夏の紀行文で

こちらにおいても

南祖坊伝説に触れております。

 

そこでも同じ筋書きで

伝説を説明しているのですが

その中に南祖坊像の変化を

汲み取れる箇所があり

さらに「別伝」として

幾つかのバージョンが

紹介されております。

 

室町期の『三国伝記(さんごくでんき)』

に記される所の“最古の十和田湖伝説”が

菅江真澄の両紀行文において

伝説の“メインストーリー”として

紹介されているのですが

『十曲湖(とわだのうみ)』では

南祖坊が長谷寺と明確に

関係づけられております。

 

『三国伝記(さんごくでんき)』では

弥勒出生値遇のために

熊野山に山籠して

祈願祈請千日の夜に

白髪老翁が釈難蔵(南祖坊)に

お告げをするという

くだりがあり

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』で

この部分は紹介されております。

 

同部分について

『十曲湖(とわだのうみ)』では

南祖坊が泊瀬寺(長谷寺)に籠もり

ひたすらに法華経を読み

「お告げを頂く」という形で

紹介されております。

 

長谷寺の本尊である

十一面観音は

長谷観音(はせかんのん)と呼ばれ

古くから篤く信仰されました。

 

南祖坊は

「法華経の持経者」として

描かれますが

修行における法華経を

考える上で

「法華滅罪(ほっけめつざい)」

という言葉がキーワードとなります。

 

専門的な話になってしまうので

詳しくはお伝えしませんが

自身を清め(六根(ろっこん)清浄)

功徳を積み善へとつなげることと

お考え頂ければ結構かと思います。

 

長谷寺や長谷観音との関係を

踏まえながら南祖坊伝説と

それに関連する諸要素を見ることは

とても有効であると感じております。

 

“最古の十和田湖伝説”が収められる

『三国伝記』の研究でも

長谷寺との関係が指摘されております。

 

十和田湖伝説の研究でも

しばしばとりあげられる

池上洵一氏の著書

『修験の道 三国伝記の世界』

(以文社、1999年)において

長谷寺との関係が指摘されております。

 

また小林直樹氏は

長谷寺と『三国伝記』について

丁寧な研究をされており

その諸論文がまとめられ

『中世説話集とその基盤』

(和泉書院、2004年)に

「第二部 『三国伝記』とその背景」

として収められております。

 

これらのことは

また改めてお伝えしたいと思います。

 

長谷寺で法華経三昧に入った

南祖坊が「長谷観音のお告げ」により

十和田湖へ向かうこととなった

とも読めるような形となった

南祖坊伝説。

 

“神託”を頂く

伝説の重要な舞台が

熊野から長谷へ変化した

その背景を次回以降

もう少し追いたいと思います。

 

IMG_7806

IMG_7741

IMG_7805

IMG_7860

▲長谷寺内 歓喜院の本尊

(長谷寺本尊と同じ三尊形式)

中央:十一面観音

左:雨宝童子(天照大神の化身)

右:難陀竜王(春日大明神の化身)