ふらりと港町へ仏像調査

調査研究の一環で

八戸市港町にございます

護国山十王院(浄土宗)を

訪ねさせて頂きました。

 

お忙しいにも関わらず

十王院副住職様の

ご丁寧なご案内とご厚意の

おかげもあり

満足のいく調査が出来ました。

 

ちなみにですが

現在拙僧(副住職)は

江戸中期の

津要玄梁(しんようげんりょう)

という僧侶について

調査しております。

 

特にこの方が造られた

仏像について調べておりまして

津要玄梁の御作である

地蔵菩薩像(市指定文化財)を

拝見させて頂くべく

港町まで足を伸ばした次第です。

 

当山には十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)

がお祀りされておりますが

とても特徴ある風貌をしており

独特の「刀痕」が見られます。

 

この御像が

津要玄梁の仏像の作風と

似ているように思われるのです。

 

拙僧(副住職)が

調べた範囲での推測ですが

南祖法師尊像は津要玄梁が

晩年(亡くなる当年〜2年前)に

彫られた可能性があります。

 

津要玄梁は晩年

右手が不自由となり

左手で作業をしていたそうです。

 

津要玄梁御作と推測される

根拠について整理を行いつつ

調査を進めたいと思います。

 

IMG_1500

IMG_1501

IMG_1503

IMG_1507

 

▼南祖法師尊像(普賢院)

IMG_1531

IMG_1538

青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)②

当山観音堂に

奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の

千手観音像が祀られていることが

先日確認されました。

 

ご確認頂いたのは

ごのへ郷土館館長の木村明彦館長と

奇峯学秀の末裔でもある釜渕嘉内氏の

お二人です。

 

2月22日に地元紙の

デーリー東北と東奥日報の各記者と

先のお二人に当山へおいで頂き

取材して頂いた際に

木村館長が奇峯学秀についての

資料を作成して下さいました。

 

奇峯学秀は田子町の

釜渕家出身の高僧で

名久井の法光寺に入門し

後に九戸の長興寺

八戸の大慈寺の住職を

務めた方です。

 

出生年代は不明ですが

元文4年(1739)に名久井の

顧養庵(こようあん)にて

82歳頃で入滅されたそうです。

 

行年が82歳として

没年の1732年から82を引くと

1657となります。

 

1657年は明暦3年です。

 

明暦前後の年号は明暦含め

承応(1652〜1655)

明暦(1655〜1658)

万治(1658〜1661)ですので

この辺りの生まれとなるようです。

 

この時期の

当山の歴史と学秀出生を

重ねてみると

当山では観音堂と末社十二宮が

再興されております。

 

落雷により観音堂が

焼失してしまったため

28代藩主・南部重直公により

御再興頂いております。

 

この観音堂は

現在の七崎神社の地に

建立されていたもので

七崎山 徳楽寺という

寺号が用いられておりましたが

明治になって廃寺となりました。

 

学秀の出生と同時期の

観音堂と末社十二宮の

再興棟札には

承応3年(1654)2月に事始

明暦元年(1655)9月に遷宮畢

と記されております。

 

当山の前身である永福寺は

南部盛岡藩が盛岡に

居城するにあたり

不来方城(盛岡城)の

鬼門の位置に

本坊が構えられます。

 

寛永2年(1625)12月には

27代藩主・南部利直公により

永福寺自坊でもある普賢院は

祈願所とされております。

 

寺院の本末関係や

藩領における統制が

整えられる中で

南部藩の祈願所である

七崎永福寺を“正式な形”で

(自坊という形ではありますが)

普賢院が引き継いだことになります。

 

当山を祈願所と定めた

南部利直公は十和田湖伝説に

登場する南祖坊(なんそのぼう)の

生まれ替わりであるとの

いわれがある藩主です。

 

南祖坊は

当山2世の月法律師に

弟子入りしたとされます。

 

また学秀が住職を務めた

大慈寺は最初

八戸の松館に建立されますが

利直公が開基されたお寺です。

 

この利直公も

学秀と同じく田子の出身です。

 

こういったことも

当山と学秀を結びつける

重要な要素といえるでしょう。

 

高僧・奇峯学秀の生きた時代を

当山の歴史や

仏道的視点を踏まえながら

「青森の円空 奇峯学秀」

と銘打ち何回か投稿したいと思います。

 

なぜ当山に学秀仏がお祀りされたのか

ということをテーマの1つとして

拙僧(副住職)なりの考察を交えつつ

試論として記してみたいと思います。

 

【関連記事】

▼糠部五郡小史に見る普賢院

https://fugenin643.com/blog/糠部五郡小史に見る普賢院/

 

▼稀代の古刹 七崎観音③

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音参/

 

▼稀代の古刹 七崎観音⑦

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音七/

 

▼南祖坊伝説の諸相⑧

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑧/

 

IMG_8709

IMG_8712

おすそわけ

今月も「おそなえ」を

「おさがり」として

「おすそわけ」させて頂きました。

 

おてらおやつクラブの活動として

当山では月に一度

発送作業を行っております。

 

お供物に通わされ捧げられた

お心そのものが巡らされる

尊い活動であると捉えて

活動に取り組んでおります。

IMG_4910

学秀仏の千手観音像が記事で紹介されました

先日“発見”された

奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の

千手観音像について

地元紙である

デーリー東北と東奥日報で

紹介されました。

 

奇峯学秀は田子町の釜渕家出身とされ

八戸大慈寺の住職も務めた高僧です。

 

「東北の円空」

「青森の円空」とも呼ばれます。

 

当山と奇峯学秀の関係を考察すると

様々なことを指摘出来そうです。

 

この点については

少しづつ深めたいと思います。

 

“埋もれていた歴史”が

現在このタイミングで

再び掘り起こされるに至るまでには

様々なご縁の巡り合わせがありました。

 

そういった尊いご縁が

発見へと導いてくれた

学秀仏・千手観音。

 

伝えるべき「物語」が

また1つ当山に加えられたことを

心より光栄に思います。

 

IMG_8712

IMG_8709

IMG_1399

七崎聖観音おこもり護摩法要アーカイブ2019

平成31年2月21日

(旧暦1月17日)午後8時より

厳修された

七崎観音(ならさきかんのん)

おこもり護摩法要。

 

沢山のご縁が交差して

とても尊い時間となりました。

 

本年も拙僧(副住職)が

奈良県の総本山長谷寺での

修行時代を共にした

お三方に遠方より

かけつけて頂きました。

 

愛媛県松山市別府町の

飯岡山浄明院より

森脇宥海(ゆうかい)師。

 

東京都江戸川区小岩の

星住山善養寺より

名取玄喜(げんき)師。

 

東京都足立区江北の

草堂山地福寺より

石井文教(ぶんきょう)師。

 

お三方のおかげで

とても厳かな護摩法要となりました。

 

また本年も方々より

とても多くの方にご参会頂き

盛況に結ばれたことを

心より喜んでおります。

IMG_4090

IMG_4092

IMG_4129

IMG_4121

IMG_4137

IMG_4124

IMG_4146

IMG_4148

IMG_4152

IMG_4165

IMG_4161

IMG_4171

IMG_4167

願いを清め成就を祈る

年に一度の

七崎観音(ならさきかんのん)

おこもり護摩法要が厳修され

本年も多くの方に

おいで頂きました。

 

現在の本堂は

近い将来建替のため

取り壊される予定なので

今回が現在の本堂での

最後の護摩法要となる

可能性が大いにあります。

 

そういった中での

賑やかな護摩法要だったので

色々と感慨深いものがありました。

IMG_4895

IMG_4885

IMG_4893

IMG_4907

年に一度の「観音祭」

当山本堂内の観音堂内殿中央に

祀られる聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)と呼ばれ

平安時代より大切にされてきました。

 

現在は年に一度

旧暦1月17日にのみ

御開帳されます。

 

御開帳当日(本年は2/21)は

御宝前にて

護摩法要(ごまほうよう)が

厳修されます。

 

本堂の設えが厳かな

護摩法要仕様に整いました。

 

本年も無事に

年に一度の“お祭り”を

迎えられそうです。

 

▼護摩法要の詳細はコチラ

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

IMG_8693

怒涛の2日間

2/18は始発の新幹線で上京し

大本山護国寺に隣接する

宗務所での

御詠歌研修会に臨み

同日午後は

現代教化研究所の

所内会に出席し

所内会終了後に

金沢への有志研修ということで

金沢入りして一泊し

翌日は金沢21世紀美術館にて

「DeathLAB:死を民主化せよ」

という展覧会へ赴き

更に鈴木大拙館を見学させて頂き

昼食後に一路八戸を目指し

無事に八戸に戻りました。

 

目まぐるしくも

学びに満ちた2日間でした。

 

▼DeathLAB:死を民主化せよ

https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=17&d=1763

 

IMG_8591

IMG_8674

IMG_8675

IMG_8678

IMG_8679

IMG_8680

IMG_8682

IMG_8681

IMG_8683

稀代の古刹 七崎観音⑩

当山観音堂に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)の

起源は平安初期にまで

さかのぼります。

 

七崎観音は普段は秘仏ですが

年に一度旧暦1月17日にのみ

御開帳され

その御宝前にて

護摩法要が厳修されます。

 

この行事は「おこもり」と

通称され本年は

2月21日に行われます。

※▼詳細はコチラ

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

平安時代より現在に至るまで

戦乱の世があり

幾多の災害があり

あまたの困難がありました。

 

長い歴史があるということは

それらとしっかり向き合い

時代時代において

対応してきたことを

意味するといえます。

 

当山は前身である永福寺時代より

七崎観音の別当をつとめておりますが

歴代先師のご尽力は

切なるものがあります。

 

災害でいうと江戸期はまさに

“災害の時代”でもあります。

 

江戸期に限らず

日本は昔から“災害大国”といえる程

深刻な事態の連続でした。

 

七崎観音は

明治になるまでは

現在の七崎神社の地にあった

旧・観音堂にお祀りされておりました。

 

『寺社記録』という

南部藩史料の

安永年間の記録には

旧・観音堂の災禍について

伺える記述があります。

 

以下に

安永8年(1779)

9月の記録を

少しだけ引用してみます。

 

※カッコは拙僧(副住職)の補足です。


 

(安永8年(1779))

九月十二日

 

一 永福寺

預五戸七崎村観音堂並二王門

共ニ先代住(永福寺52世・宥恕)

宝暦十三年(1763)

委細之申上

萱葺(かやぶき)修繕等仕候所

其後両度大地震ニて

本堂二王門共ニ

屋根以外之他損

猶又取繕仕置候得共

次第内通えも朽入

別て二王門等

夏中大雨之節

屋根一向相潰(あいつぶれ)

両所ともニ最速

其侭(そのまま)に

可致置様無之躰ニ御座候間

当年より来春迄

如何様ニも修復仕度念願御座候

 


 

次に安永9年(1780)

2月の記述を

見てみましょう。

 


 

(安永9年(1780))

二月三日

 

一 永福寺

五戸御代官所

七崎村観音堂並二王門

慶安四年(1651)

山城守様(南部重直)御建立

其の後元禄年中(1688-1704)

当寺先住 清珊(永福寺36世)代

再興修理等仕

宝暦十三年(1763)

先住宥恕(永福寺52世)委細之儀申上

萱葺(かやぶき)修復

末社迄再興仕候処

右本堂並仁王門

明和年中(1764-1772)大地震之節

殊之外まかり出来

屋根共相損

段々取繕候得共

弥増大大破罷(まかる)成

 


 

これらの引用中で

地震に触れられていますが

明和5年(1768)9月8日と

明和6年(1769)7月12日に

八戸は大地震に見舞われております。

 

明和年間には

津軽でも雪の時季に

大地震があり

甚大な被害を被ったそうです。

 

先の引用文は

大地震により

お堂がかなり傷んだことを

伝えております。

 

明治34年の文書で

『興隆講規則』というものが

残されております。

 

興隆講(こうりゅうこう)とは

明治初頭の神仏分離ならびに

廃仏毀釈の風潮の中で

“荒廃”した七崎観音を

復興させるべく

当時の当山住職はじめ

当山総代や旧社人

さらに賛助人として

神社宮司(旧・善行院)が

設立した講(組織)です。

 

当山と

七崎(現在の豊崎)の方々が

手を携えて七崎観音を

復興させようとしたものと

いうことが出来るかと思います。

 

『興隆講規則』には

「七崎山観音祭り日」として

初祭 正月七日

春祭 四月七日、八日

秋祭 八月十七日

御年越 十二月十七日

と記されております。

 

その他にも

六斎日や功徳日

さらに護摩の日程や

会日(講の開催日)についても

記されており

『興隆講規則』自体が

七崎観音の手引きの役割も

担っております。

 

「興隆講規則設置趣意書」

という箇所があるのですが

ここは僧侶が唱える

表白(ひょうびゃく)という

尊い文言の仕様になっており

当山や七崎観音の

由緒について触れながら

興隆講設立への経緯が

恭しく述べられております。

 

以下に趣意書を

引用させて頂きます。

 


 

恭しく按ずるに

我邦人皇三十四代推古天皇

篤く三宝を敬い

其往昔大聖仏世尊輪王の

宝位を脱履し

世間出世間の大医王となり給い

諸の国王の為に

仁王般若仏母明王不空羂索経等を

説き給い

七難を摧破して四時を調和し

国家を守護して

自他を安ずるの大法

ひとつも欠漏あることなし。

 

降て

天長年間(824-834)に至り

当七崎山蘭若においても

金剛頂経大日経等

最上乗甚深の秘法を行えり。

 

爾来

円鏡(当山開創(弘仁初期(810)頃))

月法(当山二世、南祖坊の師)

行法

行海(当山開山(承安元年(1171)))

宥鏡

快傅(当山中興開山(江戸中期))

達円

快翁

宥敞

宥青等

凡そ八拾有ニ世の間

領主の祈願道場たり。

 

殊には南部二十八代

源朝臣重直公

深く正観世音を信仰し

かたじけなくも

御高五百五石五斗三合の

知行を喜捨せられ

加うるに十二社人を置き

毎月神楽を奏し奉りしは

ひろく世人の知る所なり。

 

然るに維新に際し

封建の制を廃せられ

版籍悉く返上の結果

遂に之が保続の資を失い

従って神楽も絶亡すること

ここに三十三年を経ぬ。

 

嗚呼、世の移り行くは

人力の得て止むべからざるもの

とはいいながら

かく伝来の霊位を

寺院の一隅に奉置し

絶えて法楽の道を

欠きしこと畏くも亦憂たてけれ。

 

ここを以て

郷人の愁歎限りなく

涙を止むるに由なし。

 

先師宥浄

しばしばこれを忌歎し

再興を企つといえもの

時機未だ熟せず

わずかに院内に小堂を営み

霊位を安置せしのみにて

遂に去る戊戌(明治31年(1898))

卯月九日を以て遷化す。

 

月を越えて小童

過て重任をこうむり

庚子(明治33年(1900))

臘月に至り若干の法器を整い

檀徒総代と謀りて旧社人を集め

之が再興の方法を議し

講を設けて興隆講と称し

明る辛丑(明治34年(1901))

正月二十八日を初会とし

神楽に替うるに

本尊護摩を修し奉り

宝祚無疆

玉体安穏

十善徳化

四海静謐

風雨順時

五穀豊穣

疫病退散

正法興隆を

精祈せんと欲す。

 

伏してこう

十方善男女諸氏

この機に乗じて

生等の徴志を賛し

三宝を帰依し

入講の栄を賜い

益々本尊の威光を増揚し

一指まちまちなる信仰を列ね

五指堅固にして遮那覚王の

金挙に擬し

以て彼の迷邪を破壊し

正法に導き

貴賤を問わず

男女を論ぜず

同体大悲を旨として

大徹悟入の床に遊び

ともに補陀落の浄刹に至り

一切の功徳を具足し

二世の勝益祈られんことを。

 

明治三十四年(1901)陰暦正月

金剛仏子 隆真

敬白

 


 

僧侶であれば

馴染みのある文言ですが

多くの方には

かなり読みにくいかと思います。

 

ですが何となく

大まかな内容は

捉えられるかと思います。

 

七崎観音の復興を切願して

講が設立されたことが

伝わってまいります。

 

少し話は変わりますが

ここでは当山開創である

円(圓)鏡上人から

数名の先師があげられた後

八拾有ニ世の間」と

書かれております。

 

現在の当山住職は

「第64世」として歴代住職に

列ねられておりますが

現在の数え方は

大正5年に亡くなられた

宥精師が自身を60世として

以後代を重ねるよう

方針を定められたので

それに則り現在は数えております。

 

ですが『興隆講規則』が作られた

明治時代までは

現行のものとは別の数え上げが

なされていることが分かります。

 

明治までの数え上げを

現在に適応して

当山先師の墓誌をなぞると

現住職の泰永僧正は

第91世」になります。

 

現行の数え上げは

当山開山の行海上人からのもので

明治までの数え上げは

当山開創の圓鏡上人からのもの

かもしれません。

 

歴代先師の中には

「第〜世」と数え上げられない方も

いらっしゃるので

その方々を数えるか否かという

ことなのかもしれませんし

行ったり来たりということも

あったようなのでそのことが

関係しているのかもしれません。

 

その真相を判明させる術は

ありませんが

要するに歴代住職の数え上げは

一通りではないということです。

 

時代時代で

様々なことがあったでしょうが

七崎観音は

とても長い間

歴代先師はもちろんのこと

有縁の方の手により

守り伝えられてまいりました。

 

今回取り上げた史料からは

その一端を垣間見ることが

出来たかと思います。

 

今を生きる者として

歴史をしっかりと受け継ぎ

未来へ繋いでいきたいと思います。

IMG_1393

IMG_8319

IMG_8578

IMG_8580

IMG_8579

IMG_3356

忘れないカタチとしての灯火

先日当山で開催された

寺子屋ws『お寺ヨガ』の際

命灯会(みょうとうえ)ロウソク

灯させて頂きました。

 

命灯会ロウソク

気仙沼の工房で作られたもので

震災復興や震災物故者供養への

切なる願いが込められております。

 

命灯会ロウソクの制作を

手がけられていらっしゃる

杉浦恵一さんとは以前

イベントで対談させて

頂いたご縁があり

このロウソクを

送っていただきました。

 

杉浦さんは

「忘れないをカタチにする」ために

命灯会ロウソクを作り

それを灯して頂くことを

呼びかけられていらっしゃいます。

 

その強いおもいに賛同し

当山でも命灯会ロウソクを

使わせて頂き

寺子屋wsにご参加の皆様にも

その趣旨をお話させて頂きました。

 

2月21日に厳修される

護摩法要でもこのロウソクを

使わせて頂きたいと思います。

 

▼関連記事

https://fugenin643.com/blog/7726/

IMG_8519

IMG_8520

IMG_8576

IMG_1425

IMG_1423

IMG_1427