「物語」とすることの意味や意義をふりかえる

当山の催事で

お話することの関係や

有縁の皆様にお渡しする

諸資料を用意する関係で

調べ物をしているのですが

ふと大きな気づきがあったり

新たな着眼点を得ることがあります。

 

こういったことも

尊い功徳だと捉え

ありがたいことと感じています。

 

以前もアナウンスしましたが

十和田湖南祖坊伝説の絵本を作る

クラウドファンディングのプロジェクトを

今月中にスタートする予定ですが

それにあたり

「物語」を残す意味を

改めて振り返っています。

 

例えば日本でいうと

古事記が良い例かと思いますが

その序には

歴史を伝え

「物語」を伝えることの

意味や意義を考えるにあたって

大変参考になるものがあります。

 

もちろん物語との向き合い方は

十人十色で良いと思うのですが

多種多様な向き合い方のひとつとして

為政者が託した意味や狙いを

踏まえることは

大切なことだと心得ています。

 

今回はたまたま古事記の

話題に触れていますので

このまま続けさせていただくと

古事記が編纂された時代は

まさに激動の時代で

その制作の勅令を発したのは

天武天皇です。

 

7世紀半ばより

おおがかりな改新が行われ

7世紀後半には

古代史最大の内乱があって

という流れの中で

即位されたのが天武天皇です。

 

天武天皇がご逝去されたため

古事記編纂事業は一時ストップしますが

元明天皇の時代に再開され

和銅5年(712)に完成したとされます。

 

政治史を見ても

大変な時代であることが分かりますが

この時代は疫病蔓延や災害もあり

人心に暗い影が落とされることの多い

世の中だったといえるでしょう。

 

これ以上論を進めると

ますます専門的なものに

なっていってしまうので

この辺にしておきますが

娯楽としてだけではなく

願いやおもいを込めた形で

物語を後世に託したいとの思いを

以前から抱いています。

 

さて

絵本制作の件ですが

現在プロジェクトの申請中でして

近日中に審査が終わると思います。

 

審査が終わりましたら

改めてお知らせさせていただきます。

 

南祖法師生立の地でもある霊現堂

糠部三十三観音第16番札所

斗賀霊現堂は

当山と関わりの深い

札所の一つです。

 

十和田湖伝説に登場する

南祖法師(坊)の

生誕の地とも伝えられます。

 

伝説を伝える江戸末の

『十和田山神教記』は

斗賀で著されたとされます。

 

伝説が残されているとともに

貴重な歴史を伝える

宝物(ほうもつ)も所蔵される

尊い札所といえるでしょう。

 

5月にお参りした際の

様子を短い動画にしたので

ご覧いただけると幸いです。

 

「お寺の歴史と伝説探訪with豊崎小4年生の皆さん」の動画をUPしました

本年6月22日に

お寺の歴史や伝説を探るべく

豊崎小学校4年生の皆さんが

普賢院に来て下さいました。

 

その際の様子を編集した動画を

アップいたしました。

 

お寺にまつわる

歴史の基礎的な部分であったり

伝説についてのお話した部分を

中心に編集しているので

ご覧いただいて

当山とのご縁を

深めていただければ幸いです。

 

絵本制作のためクラウドファンディングを行います

昨年末にアップした

えほん動画「龍になったおしょうさま」

の絵本制作をするため

クラウドファンディングに挑戦します。

 

▼えほん動画はコチラ▼

https://www.youtube.com/watch?v=-utlyWdwxHk&t=29s

 

詳細は7月末頃に

ご案内いたします。

 

昨年末時点では

本年春にはご案内する

予定だったのですが

諸事立て込んだため

スケジュールがズレ込んでしまいました。

 

ご協力いただいた方への

リターン(返礼品)の

写真撮影を

かたり部メンバーで

先日行ったのですが

とても良い具合に

整ったように感じています。

 

準備が整いましたら

ご案内ページをアップするので

よろしければご支援の程

お願い申し上げます。

 

早稲田観音〜三戸永福寺と七崎永福寺(普賢院)〜

普賢院の住所は

「永福寺(えいふくじ)」

となっていますが

これはかつての寺院名が

永福寺であったことを

今に伝えています。

 

当山は鎌倉〜江戸時代初期に

永福寺という寺号(お寺の名前)が

主に用いられていました。

 

寺号ついでにいえば

本堂建替に伴う

所蔵物の整理・調査の中で

古い聖観音御影版木の山号寺号が

「七崎山普賢院」となっている

ものを発見しました。

 

これまで

「七崎山」という山号は

当山が長く別当を担っていた

旧観音堂の寺号「徳楽寺」

と“セット”のものとして

当然のように捉えられてきました。

 

「七崎山普賢院」と

刻される版木の発見は

その“定説”を再考する余地が

大いにあることを示すといえます。

 

確認ですが

旧観音堂は明治まで

現在の七崎神社の地にありましたが

明治になって廃寺となり

跡地は七崎神社に改められました。

 

棟札等を踏まえるに

徳楽寺という寺号は

15世紀半ば頃〜後半に

用いられ始めたと推定しています。

 

江戸時代になり

檀家制度が成立し

お寺の本末関係も

“行政的に”明確にすることが

幕府により企図されます。

 

本末関係が確認され

本寺が最も権威があると

されたものの

史料を見る限り

本寺に「絶対的権力」が

あったわけではないようで

末寺の方が経済的に

豊かになっていった

というケースは

珍しくありません。

 

東北地方は

飢饉が頻発した歴史があり

いくら藩の手厚い支援を

受けていたからといって

本寺が盤石な体制を敷いていた

わけではないようです。

 

話が大分脇道にそれましたが

「お寺の運営・経営」という側面が

歴史に大いに関わっている

ということをお伝えしたいのです。

 

普賢院が鎌倉〜江戸初期に

用いていた永福寺という寺号は

鎌倉二階堂にあった永福寺(ようふくじ)

という大寺院に由来します。

 

鎌倉の永福寺(ようふくじ)は

源頼朝が奥州戦乱の戦没者供養のため

平泉の大長寿院二階大堂を模して

鎌倉に建立した大寺院です。

 

その鎌倉永福寺の僧・宥玄が

南部氏より恩賞として

三戸沖田面(現南部町)に

永福寺が建立されます。

 

それに加え

七崎も与えられ

当山も所管することに

なったとされます。

 

永福寺の僧侶が入ったことから

当山も次第に永福寺と

呼ばれるようになったと

伝えられます。

 

永福寺は

江戸初期になると

本坊が盛岡に建てられ

七崎永福寺(普賢院)と

三戸永福寺(嶺松院)は

自坊と位置づけられます。

 

これまで

指摘されてきませんでしたが

この点については

永福寺の“運営・経営的側面”も

大きく関係していると思われます。

 

お寺とひとことでいっても

菩提所と祈願所という

違いをはじめとして

細かな違いがあるのですが

それらを踏まえてみると

いろいろなことが

浮かび上がってまいります。

 

これ以上記すと

ボリュームが凄いことになるので

この辺にしておきます。

 

七崎永福寺(普賢院)

三戸永福寺(嶺松院)

盛岡永福寺

という3つの永福寺。

 

七崎永福寺を残し

明治になり

他の永福寺は廃寺となりました。

 

盛岡永福寺については

昭和17年(1942)3月に

再興許可がおり

新たなスタートが切られました。

 

糠部三十三観音第23番札所の

早稲田観音は

今はなき三戸永福寺(嶺松院)の

歴史をとどめる札所といえます。

 

早稲田観音について

動画で紹介していますので

ご覧いただき

当山とのご縁も

深めていただければ幸いです。

 

南祖法師和讃を作らせていただきました

普賢院は十和田湖伝説の

南祖法師(なんそほっし)が

修行したとされるお寺です。

 

南祖法師は

南祖坊(なんそのぼう)と通称され

広く親しまれてきた伝説の僧侶で

当山第2世・月法律師(がっぽうりっし)

の弟子であり

十和田湖の龍神・青龍権現に

なったとされます。

 

令和3年は

廻国僧の行海上人により

承安元年(1171に当山が

開基中興されて850年という

節目でもあります。

 

昨日もお伝えしたように

開基中興850年記念として

普賢院和讃と

南祖法師和讃を

作らせていただきました。

 

拙僧(副住職)は

豊山流(ぶざんりゅう)御詠歌の

詠秀(えいしゅう)という

公職につく身でもあり

御詠歌をとても大切にしております。

 

自身が出来ることの一つとして

御詠歌(和讃)を

この歴史的節目に

記念事業として納めようと

数年前に発願しまして

何とか形にすることが出来ました。

 

お寺の歴史や

お寺の伝承・伝説を

後世に託す一助になればと思います。

 

▼南祖法師和讃

 

▼普賢院和讃はコチラ

念願だったお寺のご詠歌(和讃)が出来ました

令和3年は

当山が開基中興され850年という

歴史的な節目にあたります。

 

この機会に

かねてより念願していた

当山のご詠歌(和讃)を

納めさせていただきました。

 

この度

当山に納めさせていただいたのは

普賢院和讃と南祖法師和讃です。

 

普賢院和讃の奉詠動画を

用意したので

聞いていただけると幸いです。

 

合葬墓と斗南藩縁故者供養碑と十和田湖青龍権現碑と

一生に一度であろう

本堂地鎮式を終え

ホッとしたのもつかの間で

本日が締め切り日の原稿を

一気に仕上げたり

葬儀の準備をしたりと

バタバタした一日でした。

 

本堂建替についていうと

次の大きな儀式は

上棟式となります。

 

上棟式は本年末〜来年頭に

行われる見込みです。

 

上棟式では

新しい棟札(むなふだ)を設えて

法要と式典が行われます。

 

時季的に

あまり準備に時間を

さくことが出来ないと思うので

今のうちから

準備を整えておきたいと思います。

 

本堂建替事業では

境内整備も行われます。

 

その一環として

墓地の整備も行います。

 

墓地の整備は具体的に

①合葬墓(永代供養墓)の建立

②会津斗南藩縁故者墓石の移設、供養碑を建立

③十和田湖青龍権現碑の建立

の3点が主な項目となります。

 

そのことについて

動画で紹介しておりますので

ご覧いただき

ご確認いただければと思います。

 

地鎮式を無事に終えることが出来ました

本堂建替に向け

地鎮式を執り行いました。

 

法式に則り

地鎮式に先立ち

早朝4時より仮本堂にて

修法(しゅほう)を行い

午前11時より

当山役員の皆様と

関係業者の方に

ご臨席いただき

謹んで地鎮式を

お勤めいたしました。

 

ここまで来ることが出来たのは

有縁の皆様のお支えのおかげと

心より感謝しております。