昭和の最困難期

普賢院61世である

長峻和尚は

現在の住職の曽祖父にあたります。

 

近現代の“巨星”ともいえる

長峻和尚の住職在位20年は

当山はもちろんのこと

携わった関係寺院の

興隆期となりました。

 

長峻和尚は行年60で

ご遷化されるのですが

その当時

次代となる晃雄和尚は

また14歳でした。

 

そのため

晃雄和尚が晋山されるまでの間は

代務住職により

法務がなされています。

 

晃雄和尚の晋山式は

昭和19年(1944)に行われました。

 

この晋山式は

晃雄和尚の出征にあたる

送別のひとときでもありました。

 

晋山式を終えて程なくして

晃雄和尚は出征し入隊されます。

 

晃雄和尚の弟である高明氏もまた

同年6月15日に出征しました。

 

住職と弟が不在となった普賢院。

 

晃雄和尚と高明氏の

姉と妹が

法務(葬儀や法事など)も担い

お寺を守ることになります。

 

拙僧泰峻からみると

大叔母と祖母にあたります。

 

63世となる

裕教和尚を迎えるまでの約4年間。

 

大変な苦労があったのは

いうまでもありません。

 

当時東京の親戚にあてた手紙によると

泥棒に入られたこともあるそうです。

 

昔を知る総代さんのお話ですと

馬鹿にされたこともあったそうです。

 

そういったことを乗り越えて

今があるということは

忘れてはならないと

心にとめております。

 

 

 

 

 

  • 大正5年(1916)10月 普賢院61世長峻和尚 住職就任
  • 大正7年(1918)8月8日 長女 道子誕生
  • 大正10年(1921)8月10日 長男 晃雄誕生
  • 大正12年(1923)6月5日 次男 高明誕生
  • 大正14年(1925)8月18日 次女 誕生
  • 昭和2年(1927)八太郎の蓮沼で「聖観音」と刻された石が発見される
  • 昭和4年(1929)旧8月17日に蓮沼に「北沼観音」のお社を建立
  • 昭和6年(1931)観音堂(内御堂)と仁王門を改築
  • 昭和6年(1931)子安地蔵堂建立
  • 昭和9年(1934)本堂と庫裏を修繕(当時、累年の凶作で経済的に大変な時代)
  • 昭和9年(1934)8月 弘法大師1100年御遠忌を厳修
  • 昭和10年(1935)5月 長峻和尚 山形県湯殿山の大日坊88世住職兼任(大日坊での住職名は慈念海上人忍光上人)
  • 昭和11年(1936)3月3日(旧2月10日)長峻和尚ご遷化(行年60)
  • 昭和17年(1942)3月28日 晃雄和尚四度加行成満(阿闍梨 神林隆淨僧正/慈光山道場にて)
  • 昭和17年(1942)10月12日 晃雄和尚灌頂(東京の護国寺にて)
  • 昭和18年(1943)晃雄和尚の割切袈裟一領(年月と晃雄と墨書きあり)
  • 昭和19年(1944)晃雄和尚晋山・出征(2月28日頃出発、3月1日弘前野砲隊へ入隊)
  • 昭和19年(1944)6月5日 長峻和尚後妻ツネ逝去(行年61/明治17年(1884)9月15日生まれ/出身地は現在の岩手県沼宮内の柴田家/60世宥精師[大正5年(1916)5月24日 行年35でご遷化]の妻で、長峻師とは再婚)
  • 昭和19年(1944)6月15日 高明氏出征(前日に送別会が行われ、その時の写真が残っている)
  • 昭和20年(1945)4月8日 高明氏戦死(フィリピンルソン島マウテル州バキオ付近にて/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和20年(1945)7月30日 晃雄和尚戦死(フィリピンルソン島ダラカン州にて戦死/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和22年(1947)本堂屋根葺替の木札に当時の様子が記述され、その中に「晃雄住職の生死不明」とある。