心無い一言としないために

親しい仲だとしても

たまたまだとしても

意図せず人を傷つける言葉や

言われたくない言葉や

言ってはならない言葉など

人それぞれにあるかと思います。

 

十人十色の

環境があり

事情があり

そういった中で

私達一人一人は暮らしています。

 

その人の立場に立つことを

仏道では同事(どうじ)

といいます。

 

個々の事情や背景は

当事者しか分からないことですし

分からないとしても

個々には様々な背景があることを

大前提として

人と向き合うことが

不特定多数の方と接する

僧侶には必要だと

拙僧(副住職)は

以前より感じております。

 

時間の経過の中で

環境が大きく変わり

環境が変われば人も変わり

そうすれば心の持ちようが変わり

おのずと周囲との接し方が

変わったりするものなので

例えば何年も前の

ある場所での「気になる行い」を以て

その行為者の性格や習慣と

して捉えることは出来ません。

 

当山においても

この3〜4年前と現在では環境も

携わる者の状況も“心持ち”も

全く異っております。

 

そもそも人は

良くも悪くも「気になる行い」が

記憶に留められやすいものなので

実際に直接的な会話や交流を

通じなければ分からないことが

多々あります。

 

何年か前の

「気になる行い」に対し

言われる所の「常識」であったり

「常識とされるもの」等の

スケールで以て

強く叱咤することは

時として当事者を深く傷つけ

あまり思い出したくない

当時のことを思い起こさせ

怒りの心を生じさせます。

 

叱咤自体は

悪いことでは無いですし

ありがたいことでもあり

とても必要なことですが

「言い方」次第では

「心無い発言」として

捉えられてしまうものです。

 

心無くうかつな発言に対し

どうしても看過できず「憤り」を感じ

その「憤り」を伝えたとしても

「じゃあ前もって伝えて欲しかった」

といった感じで

日常的な付き合いが薄いにも関わらず

個々のプライベートの深い部分まで

伝えなかった本人の

“説明不足”が悪いとも

取れるような発言をされたり

独特で理屈的な話をされたりした

経験はないでしょうか?

 

「昔からこういうものだ」

「こうあるべきだ」という

価値観のようなもので

それに沿った行いでなければ

「非常識」とみなされるような

状況に出くわしたことは

ないでしょうか?

 

冠婚葬祭の場面でいうと

こういった“すれ違い”は

よくあることなんだそうです。

 

案外こういった部分は

僧侶であっても

深く考えられないことがあり

「お寺から心無い一言を言われた」

といった相談もしばしばです。

 

「心無い一言」の実態は

単なる流れで生じたもの

無自覚的なもの以外に

親切心であることや

ある種の「責任感」だったり

することがあると思いますが

「言い方」や「配慮の不足」により

意図せずとも

ある意味“暴力性”を帯びたものに

なってしまいます。

 

個々千差万別の

お歩みをされてきた

不特定多数の人と

日常的にも

お弔いなどの大切な場面においても

向き合わせて頂く僧侶にとって

心無い一言としない心がけは

大切なことだと思います。

 

このことは

先にも触れた

同事(どうじ)という

仏道において大切な姿勢や心がけに

通じることだと感じますし

変化の激しい現代や

これからの時代において

重要性が増すように感じております。