お守りが仕上がりました

観音様のお守りが

仕上がり手元に届きました。

 

ちょうど

大人の手のひらサイズの

お守りです。

 

当山本堂にお祀りされる観音様は

その由緒も古く

伝説も伝えられる尊格であり

糠部三十三観音霊場第15番札所の

本尊でもあります。

 

ご縁を深めて頂くものとして

当山ではお守りやお札の用意を

しばらくぶりに進めておりまして

まずはお守りが形となりました。

 

また当山の取り組みを踏まえまして

お守りやお札の御浄財の一部は

国際協力活動への寄付に

あてさせて頂きます。

 

お守りは1体800円の御浄財を

お納め願います。

 

入用の方にはお渡しいたしますので

お寺にお声がけ下さい。

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正しい歴史をお伝え願います

当山のある地域は

かつて七崎(ならさき)と呼ばれ

伝説や伝承に彩られた地域です。

 

当山の起源は

1200年以上の昔に

さかのぼることが出来ます。

 

初代住職 圓鏡(えんきょう)上人は

弘仁8年(西暦817年)に

亡くなられております。

 

圓鏡上人が亡くなられたのは

平成30年(西暦2018年)から

さかのぼること1201年前

ということになります。

 

当山第2世住職は

月法律師(がっぽうりっし)

という方ですが

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)は

この月法(月体)和尚の弟子とされ

当山にて修行したと伝えられます。

 

当山はかつて

永福寺というお寺でしたが

後に盛岡に拠点を移すこととなります。

 

盛岡に改められた

永福寺を本坊(ほんぼう)とし

発祥の地であるとともに

十和田湖伝説に連なる七崎のお寺を

自坊(じぼう)普賢院とします。

 

ちなみに永福寺は

三戸にも自坊として

嶺松院(れいしょういん)という

お寺も持っておりました。

 

三戸は盛岡南部氏(三戸南部氏)が

勢力を拡大させる“足掛かり”となった

象徴的場所でもあります。

 

永福寺は南部氏の祈願寺であり

多くの末寺を抱える権威ある大寺院でした。

 

本坊とは「行政等を取り仕切るお寺」

といった意味です。

 

自坊には色々な意味がありますが

ここで意訳すれば

「永福寺が直接管理するお寺」

といった具合でしょうか。

 

話は少し変わりますが

最近は地元でも「歴史ブーム」

のようで新聞や雑誌などで

地域の歴史が紹介されることがあります。

 

ご興味をお持ち頂きまして

記事を通じて歴史や伝説が

多くの方にお伝えされることは

大変尊いことなのですが

残念なことに

歴史的事実が誤っているもの

正直見られます。

 

伝説の内容云々は幾通りもあるので

バラエティーに富んで当然ですが

前提となる寺社の縁起等の

歴史については誤って

伝えられてしまっている

部分が時折見られます。

 

特に永福寺と

七崎神社について

ごちゃごちゃになって

しまっている感があるので

改めてご紹介させて頂きます。

 

当山の地域には

七崎神社(ならさきじんじゃ)

という神社がありますが

こちらは明治まで

七崎山 徳楽寺(ならさきさん とくらくじ)

という寺院でして

当山が別当寺を担っておりました。

 

徳楽寺の本尊は

現在当山の観音堂に祀られる

聖観音(しょうかんのん)で

明治の神仏分離の処置により

当山に移されまして

糠部三十三観音霊場

第15番札所の観音様となっております。

 

ちなみに当山の本尊は現在は

愛染明王(あいぜんみょうおう)ですが

もともとは十一面観音とされます。

 

「七崎神社が永福寺であった」との

記述が各所で相次いで

見られたのですがこれは誤りです。

 

永福寺を七崎神社であると誤解して

南祖坊が七崎神社で修行した

などと紹介されているものも

ありますがこれも誤っております。

 

当山の寺伝(じでん)や

七崎神社誌は

一般資料ではないので

あまり知られていない部分ですが

歴史的事実は大前提の部分なので

情報発信の前にせめて

歴史や伝説の舞台である寺社で

裏付けを行なって頂くことを

お願い申し上げます。

 

▼七崎神社と普賢院

https://fugenin643.com/blog/七崎神社と普賢院/

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長谷牡丹園のお寺 恵光院

南部町の恵光院(けいこういん)は

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第22番札所のお寺です。

 

こちらは当山と同じ

真言宗豊山派のお寺です。

 

恵光院の開基は

長慶天皇の弟である

明尊(みょうそん)とされます。

 

札所の観音様は十一面観音で

その仏像は平安末のものとされます。

 

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御朱印のススメ

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当山は糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第15番札所です。

 

糠部霊場の御朱印はスタンプ式が主流で

当山でも本堂の観音堂前に

御朱印のスタンプを置いております。

 

直筆の御朱印は

入用の方にお声がけ頂いた際に

対応させて頂いておりましたが

御朱印を書いて頂きたいとの

お願いが増えております。

 

拙僧(副住職)が対応出来る時は

筆を取らせて頂きますが

法務中や不在時には

対応が出来ませんでしたので

ハガキサイズの紙札に

御朱印をしたためたものを

用意することにいたしました。

 

糠部霊場の観音様の御朱印と併せ

当山本尊・愛染明王の御朱印と

南祖法師(なんそほっし)の御朱印も

用意いたします。

 

これを機に御朱印の

体裁を見直しまして

書式が定まりました。

 

下の写真が

あらかじめ御朱印をしたためた紙札です。

 

拙僧(副住職)が対応出来ない場合は

これに朱印を押して御朱印といたします。

 

巡礼にて御朱印をいただくことは

尊いご功德をいただくこととされます。

 

お参りの際には

是非お声がけ下さいませ。

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判衣(はんえ)

観音参りの白衣に

字をしたためて頂きたいとの

お願いを頂きまして

白衣に墨を落とさせて頂きました。

 

ご依頼された方は

この白衣を判衣(はんえ)として

札所を巡られるようです。

 

判衣とは

御朱印を頂く白衣のことです。

 

当山も15番札所として名を連ねる

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場の

御朱印はスタンプとなっているので

拙僧(副住職)が記した

「南無大悲観世音菩薩」の文字の

周囲に各札所の御朱印が

押されることとなります。

 

白衣を使われる方が

いつ巡礼されるのかは

存じ上げませんが

ご出発の準備に少しばかり

携わらせて頂いたので

お参りが無事成満されることを

願いながら筆を取らせて頂きました。

 

秋は色づく山々を眺めながらの

巡礼が出来る贅沢な季節です。

 

お時間がありましたら

美しい自然を感じながら

糠部の霊場を巡られることを

おすすめいたします。

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千体仏完成の地 釜淵観音

糠部三十三観音霊場

第27番札所

釜淵(かまぶち)観音

 

札所を1番から番号順に

お参りする事を

「順打ち」といいますが

順打ちする際には

こちらが県内最後の札所です。

 

こちらの札所には

奇峰学秀(きほう がくしゅう)という

田子町出身である

禅僧のエピソードが伝えられます。

 

余談ですが

「奇峰(きほう)」とは有名な言葉で

「夏の入道雲」を意味する言葉です。

 

陶淵明の作とされる「四時歌」という

お茶の掛軸にもよく用いられる漢詩に

「夏雲多奇峰」という一節があります。

 

奇峰学秀は名僧であると同時に

仏師でもありました。

 

学秀禅師は

27番札所であるこの観音堂にて

千体の仏像を彫ったそうです。

 

釜淵観音の入口脇には

千体仏が完成した際の

記念碑が建てられており

その功績が讃えられております。

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かんのんまいり〜悟真寺〜

糠部三十三観音霊場

第25番札所

悟真寺(ごしんじ)

 

三戸町同心町のお寺です。

 

門を入り右手側に

札所の観音様が祀られる

観音堂がございます。

 

こちらのお寺には

会津藩士戊辰殉難者招魂碑が

建立されております。

 

三戸の旧会津藩士の方々が

会津有縁者の慰霊のために

建立したものです。

 

会津藩は再興を許され

北の地に斗南藩を立藩しました。

 

始めは五戸に藩庁が置かれ

後に下北の円通寺に

藩庁が移されます。

 

斗南藩の方々は

見知らぬ北の地に移られ

大変なご苦労を強いられたと

伝えられております。

 

 

悟真寺観音をお参りの際は

招魂碑にもお手を合わせて頂き

激動の時代におもいを

馳せられてみてはいかがでしょうか。

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永福寺ゆかりの札所 早稲田観音②

糠部三十三観音霊場

第23番札所

早稲田観音

 

こちらはかつて

当山前身である永福寺の

堂宇が建立された地です。

 

現在は永福寺の

後身であるお寺は

三戸にはありませんが

嶺松院(れいしょういん)という

永福寺自坊が明治時代までは

存在しておりました。

 

永福寺の起源は

不明な所が多いのですが

永福寺の寺伝によれば

延暦13年(794年)に

坂上田村麿公により

奥州六観音の1つとして

現在の当山の地に

十一面観音を祀る

祈願寺として建立された

とされます。

 

寺伝によれば

永福寺は別院として

別所にも堂宇を

構えたとされます。

 

永福寺と深く関わったことを

今に伝えるものとして

早稲田観音のお堂裏手に

広がる墓地内に

永福寺僧侶の

五輪塔や供養塔がございます。

 

永福寺の先師方に

限ったことではありませんが

かつては供養塔として

墓石を縁故ある各地に

建立するということは

珍しいことではありません。

 

もちろん世間一般的な

ことではありませんが

僧侶でいえば

縁故あるお寺数カ所に

墓石や位牌が祀られることは

よく見られることです。

 

早稲田の地に

永福寺僧侶にまつわるものが

残されていることが

三戸の地が永福寺と

とても縁が深い場所である

ことを物語っております。

 

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永福寺ゆかりの札所 早稲田観音①

糠部三十三観音霊場

第23番札所

早稲田観音

 

三戸郡南部町の

新羅神社のすぐそばに

札所の観音堂があります。

 

こちらの本尊は

十一面観音という観音様です。

 

 

早稲田観音の地は

かつて永福寺の堂宇(どうう)

があった場所でもあります。

 

当山の前身である永福寺は

三戸にも堂宇を構えたと

寺伝は伝えております。

 

永福寺が祈願所として

殊に大切にされたのは

宮中祭祀とも深く関りのあった

真言宗の「法流」を受け継ぐ

お寺であったことが

大きな理由であろうと

考えられます。

 

後七日御修法

という行事をご存知でしょうか?

 

今もなお東寺にて

年頭に行われる国家安泰を

ご祈願する尊い行事ですが

弘法大師の御代より

真言宗が担っているものです。

 

永福寺が

南部家累代の祈願所

とされたのは

由緒ある法流を受け継いでいた

ことが大きな理由であったのだと

思われます。

 

南部実光公が

建久2年(1191年)に

三戸城の鬼門の位置である

早稲田の地に永福寺を

建立したと伝えられますが

鬼門の地に

七崎の地で古い歴史のある

永福寺を早稲田の地にも

わざわざ建立したことから

いかに大切なお寺であったかが

伝わるかと思います。

 

早稲田観音と

永福寺のかかわりについて

次回またお話させて頂きます。

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田園にたたずむ 古町 隅ノ観音

糠部三十三観音霊場

第24番札所

古町 隅ノ観音

 

隅ノ観音の名は

根城にもあることから

区別するために「古町」の

地名が加えられます。

 

こちらにはかつて

「普門山圓福寺」

というお寺があったそうです。

 

こちらの札所は

三戸郡南部町にございます。

 

お参りに訪れた日は

快晴に恵まれ

青空と山々のおりなす

新緑の絶景を

目にする事が出来ました。

 

糠部三十三観音の札所は

階上の寺下観音から始まり

市内各所に連なり

三戸、二戸、一戸にまで及び

33番札所は

二戸の天台寺となっております。

 

当山は15番札所であり

ほぼ“折り返し地点”となります。

 

様々な札所がありますので

お時間のある時に

お出かけ下さいませ。

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