かんのんまいり 実相寺観音

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第32番札所

実相寺(じっそうじ)観音。

 

一戸の街中にある札所です。

 

実相寺本尊の

阿弥陀如来像は

恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)作

と伝えらるそうです。

 

この源信という方は

平安時代中期の方で

日本仏教史においても

とても重要な方です。

 

著書『往生要集』(おうじょうようしゅう)

の名を聞いたことのある方は

多いのではないでしょうか。

 

恵心僧都・源信は

比叡山の天台座主(ざす)である

慈恵(じえ)大師(諡号)

元三(がんさん)大師(通称)

こと良源(りょうげん)の弟子で

“浄土教の祖”とされる方です。

 

札所の観音様は

境内の観音堂にお祀りされます。

 

端正な聖観音立像が

お祀りされております。

 

実相寺には

全国でも非常に珍しい

イチョウがあります。

 

話によると

ここでしか見られないそうです。

 

とても希少なイチョウに

由緒ある本尊に

札所の観音様と

色々な味わいのある

第32番札所です。

 

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かんのんまいり 野瀬観音

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第21番札所

野瀬(のせ)観音。

 

名久井岳の中腹に位置します。

 

本当にこの先にお堂があるのかと

不安をいだきながらも

山の砂利道を車で進むと

道中とても見晴らしの良い場所があり

いかに標高が高いかを

感じさせられます。

 

しばらく進むと

山中に構えられた観音堂に

行き着きます。

 

かつては金花山 満福寺

というお寺だったそうです。

 

山中の秘境とも

いえるような札所です。

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七崎観音の歴史を探る

大正十一年に発行された

『三戸名所旧蹟考』附録に

「七崎神社の事 并び圖」として

七崎神社について記述があります。

 

概要の最後に

社司 白石守

社掌 小泉幸雄

と記されております。

 

白石家も小泉家も

明治以前までは

修験を担っていた

とても由緒ある家柄です。

 

小泉幸雄氏は

『郷社七崎神社誌』を

編集した方でもあります。

 

七崎神社は明治まで

七崎山徳楽寺という寺院で

当山観音堂に祀られる

七崎観音(聖(正)観音)を

本尊としておりました。

 

七崎観音は

白銀に祀られますが

夢告を受けた諸江卿が

七崎(現在の豊崎)に遷座したと

伝えられます。

 

七崎に祀られることとなった

七崎観音は当初

現在の七崎神社の地ではなく

当山から東方

約3〜400メートルの場所に

お祀りされたと伝えられます。

 

その場所は

元宮(もとみや)と称して

現在の七崎神社の地に

遷座した後も

旧阯としてお祭りが開催され

神聖な地とされたようです。

 

事細かな記述ではありませんが

今回は七崎神社の概要が記される

『三戸名所旧蹟考』附録

「七崎神社の事 并び圖」

を以下に引用させて頂きます。

 


 

七崎神社の事 并びに圖

一 靑森県陸奥國三戸郡

豊崎村大字七崎字上永福寺

七崎山に鎮座郷社七崎神社といふ

 

祭神

伊耶那美神

 

相殿

大國主神、事代主神、少彦名神

天照皇大神、宇迦之御魂神

熊野神、菅原道真大小二神

 

備考

天照皇大神より四柱は

維新の際谷支村より

合祭せるものなり

 

一 創立の由緒

南部四條中納言藤原諸江卿

勅勘流刑を蒙り漂泊の身となり

階上郡(三戸郡九戸両郡の)

侍濱に着き給ひしに

天長元(824)年二月下旬の頃より

海上一面金色を呈し

夜間海底の鳴動を聞く事

數十日に至る

 

同年四月七日

海上稍穏やかに

浪風静かなれば

卿漁装を整ひ小舟に棹し

沖中に出でて佇み小網を張りて

海鱗を漁獲せんとしに怪なる哉

網重くして容易に揚ることを得ず

 

卿心密かに之を訝り

益々気を皷し勇を撫し辛ふじて

引揚るを得

之れを見給ふに

豈圖らんや異相の霊體にてありき

依て一の小社を新築し

御神體を安置し後ち

承和元(834)年正月七日に至り

霊夢に依り當七崎山に遷幸し奉り

諸江卿 供奉斎仕せり

 

諸江卿の墓所は荒神と奉称し

本社を距る三町餘の場所に祭り

毎年八月十三日に祭典執行せしが

維新の際 廃社となり當社境内に移遷す

 

一 本社庭前に大沼ありて

大蛇住て村民を害する事ありしが

承安年中行海法師當社に来り

丹誠を抽て密法を執行し

遂に之を除去せしかば

沼の水いつとなく絶て

今小泉家の畑地となり

即ち水源に一宇を建立して

水上大明神と祭りたり

 

其の岳蹟を顕存せんが為め

境内に七星の形を取り

七本の杉を植て奉納せしが

其の内三本成長して

現今三丈五尺の周圍あり

又其時一宇の草創を立てたりしが

則 寶照山普賢院と號し

行海法師の開山にして今尚不存せり

 

以上 傳話記に詳かなり

 

因にいふ

十和田山に祭りし

南祖坊(南宗ともいふ)は

この行海法師弟子となり

學びたること十和田記に詳かなり

往古より當社奉仕の別當

毎歳五月十五日交番に参詣せり

十和田山別當より

當社え神饌料として

二百文の靑銅を送附せり云々

 

一 承和元(834)年白銀より

遷宮の當時は長苗代村は

大洋に接し大なる港にして

今の三戸郡下長苗代村小字内港は

大小の船舶泊せしとなり

而して此の七崎山は

七の崎の一つにして

遂に本村の名となりしといふ

 

一 寛永二(1625)年十二月

南部二十七代信濃守源朝臣利直公

神門御造営あり

 

次に二十八代山城守重直公

(七戸隼人といへり)

城主と被為成給ひし時

霊験なりしといふ

明暦元(1655)年九月七日

五石五斗三合の社領御寄附あり

 

次に二十九代重信公

貞享四(1687)年五月廿日

本社御再営あり

 

次に三十二代大膳大夫利幹公

正徳二(1712)年四月

七崎山四ヶ所に古例を以て

殺生禁札建てられたり

 

一 維新前は南部家に於て

維新保護せりと雖も

現今氏子において負擔

大小祭典の費用を救ふのみ

 

一 毎歳舊四月七日は神霊

天長年間海中より出現の古例により

太郎浦邊の黒森と云へる處に

神輿渡御し(黒森の傍らに小沼あり

往古より今に水絶えず)奉り

神楽を奏して祈禱ありしが

當時別當二人

社人十二人ありて

五石宛の免租地を有せしを以て

祭費の支途に苦まざるも

維新以還は變り

氏子の負擔に係るを以て其制を略し

村内字瀧谷迄渡御祭典を執行せり

 

一 當社は地方の古社たるを以て

維新の際 西越村 手倉橋村 浅水村

扇田村 豊間内村の

各村郷社に列せられたり

氏子は扇田豊間内七崎の

二ヶ村とは尤も

祭典費の負擔は

七崎村一ヶ村のみなり

 

一 建物

本社 四間四面 茅葺 壹棟

貞享四(1687)年五月

重信公御再営

 

假殿 二間四面 同 同

天保十四(1843)年

津嶋氏の修覆

 

神殿 二間三間 同 同

寛永二(1625 )年十二月

利直公造営なり

 

神楽殿 二間三間 茅葺 壹棟

天保七(1836)年二月再建

 

荒神社 一間に半間 板葺 同

年代詳からず

 

薬師社 一間に半間 同 同

明治十五(1882)年四月

村中にて再営

 

一 地勢

本社境内の地勢は本村月山と称る

山村の東北裾野に位し

東北は稍低しと雖ども

之を四段に経営し

本社其の最高位に坐し

堂宇の方向も亦低方に

向へるを以て却て風致を

添るが如し

 

一 寶物 社地千三百九十坪

一 神鏡 経一尺に八寸 二面

一 福神の像木造 二體

彫刻無銘年代詳かならず

一 鎗 一筋

無銘古来より傳来

 

以上

 

社司 白石守

社掌 小泉幸雄

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多くの情報が

散りばめられておりますが

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説

についても触れられており

ここでは普賢院開山である

行海(ぎょうかい)大和尚の

弟子であると記されます。

 

様々なバリエーションを持つ

十和田湖南祖坊伝説ですが

行海と南祖坊という

“華々しい”伝説をもつ二人が

師弟として語られる

このストーリーには

ある種のロマンを感じます。

かんのんまいり 岩谷観音

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第28番札所

二戸福岡の岩谷(いわや)観音。

 

岩窟にある観音堂です。

 

どうやら崩落があった様子で

観音堂へ渡る橋の手前に

遥拝所が設けられておりました。

 

こちらには

観音様と阿弥陀様が

お祀りされており

100年に一度の御開帳だそうです。

 

院派(いんぱ)という流派の仏師により

南北朝時代に作られたとされます。

 

こちらの観音堂の修復にあたっての

棟札に永福寺の住職である

清珊(せいさん)が祈祷したと

記されるものがあるそうです。

 

岩谷観音の本尊は

十一面観音とされますが

その御尊容は一面二臂です。

 

観音像頭部に小さな穴があり

それが化仏(けぶつ)を差し込む跡だと

いわれるそうです。

 

一方で岩谷観音は

正観音(聖観音)としても

信仰されていたようです。

 

その観音様が

十一面観音か聖観音かということよりも

阿弥陀如来と共にお祀りしている点に

深みを感じます。

 

阿弥陀如来は

観音菩薩が頭部に戴く化仏でもあり

こららの尊格は

古くよりとても深い関わりがあるのです。

 

 

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かんのんまいり 矢立観音

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第20番札所

矢立(やだて)観音。

 

義経(よしつね)伝説が伝えられる

南部町鳥谷(とや)の札所です。

 

現在の観音堂は

集落に鎮座しますが

もともとは山中にあったそうです。

 

山林浴をしながら

義経伝説にも触れながら

ご縁を結べる札所となっております。

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かんのんまいり 外手洗観音

糠部(ぬかべ)三十三観音

第18番札所

作和(さくわ)外手洗(そであらい)観音。

 

こちらの観音様は

明治の廃仏毀釈の難を逃れるため

名久井の法光寺に移され

昭和になってこの地に

再びお祀りされたそうです。

 

外手洗観音の鳥居の前には

そば畑が広がっており

とても美しい景観となっております。

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かんのんまいり 高山観音②高松寺

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第4番札所

高山(たかやま)観音。

 

高松寺(こうしょうじ)本堂に

高山観音が祀られます。

 

本堂内陣左方には

虚空蔵菩薩が中央に祀られ

その右側に高山観音が

お祀りされます。

 

高松寺は

その起源が平安末期にさかのぼります。

 

古くは

重盛山小松寺(しげもりさん こまつでら)

と呼ばれていたそうです。

 

重盛山という山号は

平清盛公の息子である

平重盛に由来します。

 

小松寺は現在のお寺の場所ではなく

龍興山神社の方にあったそうです。

 

龍興山神社の案内板によれば

重盛が京都とり島守の地に来て

虚空蔵菩薩を浅田山の山頂に

祀ったのが創始とのことです。

 

伝説や歴史に触れ

島守を味わいながら

お参りされてはいかがでしょうか。

 

【高松寺】

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【龍興山神社】

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かんのんまいり 高山観音①高山神社

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第4番札所

高山(たかやま)観音。

 

4番札所のある

島守という場所は

十和田湖伝説に登場する

八の太郎(八郎)と

関わりのある場所です。

 

高山観音の御像は現在

高松寺(こうしょうじ)に

お祀りされておりますが

もとは高山神社の場所にあった

観音堂の本尊です。

 

島守は古くより

霊験あらたかな場所とされた所です。

 

高山神社の本殿を目指し

お山を登る道中は

山岳霊場としての雰囲気が

感じられます。

 

高山神社は

イザナギノミコト

イザナミノミコトが

祭神として祀られます。

 

明治の神仏分離令をうけ

四十八社が相殿として

合祀されたそうです。

 

この「島守四十八社の神々」は

八の太郎(八郎)伝説にも

登場する神々です。

 

その伝説の

あらすじですが

川魚を食べた

八の太郎(八郎)は

喉がひとく渇きます。

 

喉をうるおすべく

沢の水を飲みますが

飲めども飲めども

喉の渇きはおさまらず

気がつけば大蛇の身となっていました。

 

大蛇となった八の太郎(八郎)は

川をせきとめて

島守盆地に水をためて

そこに棲もうとしますが

それを良しとしなかった

島守四十八社の神々が

八の太郎(八郎)を

追い出したという物語です。

 

高山神社境内には

不動明王像

毘沙門天像

弘法大師像

金精様なども祀られます。

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かんのんまいり 観音林観音

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第31番札所

観音林観音。

 

軽米にある

静かな佇まいの札所です。

 

かつては

千手観音が祀られていたそうですが

現在は聖観音が祀られます。

 

この観音林は

南部八戸藩と南部盛岡藩の

境界でもあったそうです。

 

観音林観音は

長谷七観音のいわれがあります。

 

長谷七観音とは

長慶天皇の弟である

明尊が南北朝時代に

一本の大桂の木から

七体の観音像を造ったという伝えで

その一体が観音林観音であるとされます。

 

明尊は

南部町に長谷寺(恵光院)を

開いたとされる方です。

 

▼長谷七観音について

https://fugenin643.com/blog/長谷七観音の伝承/

 

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