稀代の古刹 七崎観音⑥

当山本堂にお祀りされる

聖(正)観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)と

通称され親しまれてきました。

 

当山は前身である永福寺時代より

七崎観音の別当をつとめております。

 

七崎観音は秘仏で一年に一度

旧暦1月17日にのみ

御開帳され御宝前にて

護摩法要(ごまほうよう)が

厳修されます。

 

その行事は「おこもり」と呼ばれ

平成31年は2月21日に行われます。

※詳細はコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

今回は

七崎姫(ならさきひめ)伝説

について紹介いたします。

 

当山の仁王門の裏手に

北沼観音(きたぬまかんのん)

と呼ばれる観音様が

お祀りされております。

 

こちらの観音様は元々

八戸市八太郎(はったろう)の

蓮沼(はすぬま)という所に

お祀りされていたものです。

 

この石殿中央に

埋め込まれている黄色の石が

蓮沼から発見され

現在の様な形に

設えられたそうです。

 

石殿の台座には

以下のように記されます。

 


 

昭和二年八月十一日発見につき建設

発起人

小田 山道留之助

 

七崎

品田長峻 中村巳之松 小泉善太

田中長一 中村甚エ門 嶋森丑松

久保杉卯之 小泉長太 田中弘戒

永田竹松 田村次郎 中村弥吉

坂本徳松 中村金松 夏堀市太郎

夏堀福次郎 田中石松 小泉大八

 

昭和四年末旧八月十七日 建立

 

細工人 小田 仲道千之助

手伝人

日斗 早狩操

小田 川村清次郎 

 


 

品田長峻(ちょうしゅん)は

当山の第61世住職で

南部町の恵光院住職と

山形県の湯殿山大日坊住職も

兼任された方で

拙僧(副住職)の曽祖父にあたります。

 

蓮沼は現在

地名のみが残り

沼は埋められ

八太郎海岸には

工場が建てられております。

 

その工事の際に北沼観音は

当山へ遷座(せんざ)されました。

 

七崎姫伝説によれば

この八太郎の沼には

大蛇が住んでいたと伝えられます。

 

毎年少女を一人

人身御供(ひとみごくう)として

大蛇へ捧げなければならず

ある年に七崎(現・豊崎)の

長者の娘がご指名を受けます。

 

都から七崎に来ていた

公卿の娘である七崎姫は

この話を聞いて

自身が身代わりとなることを決めます。

 

七崎姫は御輿(みこし)に乗り

八太郎の沼へ送られます。

 

七崎姫は法華経を携えており

沼の大蛇が現れると

観音経(かんのんぎょう、法華経の普門品)

を唱えます。

 

すると経文の一文字一文字が

剣となって大蛇に突き刺さります。

 

補足ですが仏道において

剣は智恵(ちえ)の象徴で

こういった“象徴物”を

三昧耶形(さまやぎょう)といいます。

 

観音経(かんのんぎょう)の

功力(くりき)の助けを得て

七崎姫は大蛇を“改心”させます。

 

伝説ですので

諸説ありまして

七崎姫は命を落としたため

村人が七崎姫菩提(ぼだい)のために

七崎観音として祀ったというお話や

七崎姫は七崎観音の加護により

八太郎大蛇を解脱へと

導くことが出来たというお話など

バリエーションは様々です。

 

明治以前は

七崎から八太郎へ

行列を組み御輿を担いで

北沼観音へ赴く“お浜入り”(御浜出)が

行われておりました。

※七崎観音の祭事についての詳細はコチラ▼

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音弐/

 

この祭事は

ある説によると七崎姫が

蓮沼の大蛇が再び悪さをしていないか

確認するためだとのお話が

添えられております。

 

八太郎は十和田湖伝説の

八郎(八郎太郎、八の太郎)伝説が

伝わる地域でもあります。

 

十和田湖伝説とは

十和田湖の主である龍神の物語で

南祖坊(なんそのぼう)という僧侶と

八郎(はちろう)というマタギが

登場します。

 

南祖坊は当山2世の月法律師の

弟子として修行されたとされ

全国を練行した後に

十和田湖に結縁し入定され

青龍大権現という龍神となった

というのが伝説の大筋です。

 

南祖坊が十和田湖にたどり着く以前に

“十和田湖の主”であったのが

八郎であると伝えられます。

 

これも伝説なので

様々なバリエーションがありますが

 

七崎はとても深く関わっております。

 

蓮沼への御輿(みこし)のお浜入りは

明治になって行われなくなりましたが

先にも触れたように

蓮沼で「聖観音の石」が発見され

新たな形で観音祭事が

行われることになりました。

 

拙僧(副住職)の祖父にあたる

当山63世の裕教(ゆうきょう)大和尚が

若かりし頃の

北沼観音祭事の写真が

当山に残っております。

 

「海方面」といえば

当山は八戸市の白銀にも

別当をつとめた観音堂がありました。

 

白銀の清水観音は

当山が別当をつとめた観音様で

七崎観音とのご縁は

とても深いものがあります。

※清水観音についてはコチラ▼

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/かんのんまいり-清水観音/

 

今回は七崎姫の伝説をメインに

七崎観音について見てきましたが

“海ともつながる七崎観音”を

感じて頂けたでしょうか。

 

▼現在の北沼観音(普賢院)

IMG_1279

▼中央に「聖観音」と刻まれております

IMG_1280

 

▼蓮沼(八太郎)時代の様子

IMG_1267

IMG_1268

IMG_1270

IMG_1266

IMG_1269

 

▼現在の蓮沼神社

IMG_1339

IMG_1348

IMG_1347

IMG_1346

IMG_1349

▼蓮沼神社前から見た海岸方面

IMG_1355

 

▼白銀の清水観音堂

IMG_5863

IMG_5864

稀代の古刹 七崎観音②

当山本堂には

内御堂(うちみどう)として

観音堂がございます。

 

観音堂本尊として祀られる

聖観音(普段は秘仏)は

七崎観音(ならさきかんのん)と

称されます。

 

本堂に内御堂として

観音堂が作られたのは

明治19年(1886)です。

 

明治以前の七崎観音は

当山南方の観音堂に

お祀りされていました。

 

その観音堂は

七崎山徳楽寺の寺号もあり

明治以降は七崎神社として

改められました。

 

当山は永福寺時代より

ながきにわたり

七崎観音の別当を

担っております。

 

お寺には大小様々な

法会(ほうえ)や法要が

一年中開催されます。

 

当山でも古くより

数多くの儀式が

執り行われておりますし

旧・観音堂(徳楽寺)でも

多くの行事がありました。

 

現在の七崎観音は

年に一度の御開帳の際に

護摩法要が厳修され

「おこもり」といわれる

行事が開催されておりますが

当山に遷座(せんざ)されるまでは

旧・観音堂(徳楽寺)では

修験者の方や地域の方と共に

多くの祭事が開催されております。

※本年の「おこもり」詳細はコチラ↓

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

かつては藩が施主となり

開催されていた行事が

大部分だったそうで

現在は絶えているものが

多いのですが

主なものを紹介させて頂きます。

 


【旧・観音堂(徳楽寺)祭事】

1月7日(丑の刻)

柴灯(さいとう)護摩

 

初午

鎮火祭

 

3月

物始祭

流鏑馬

初皈(帰)祭・鳥払祭

 

4月7日

御浜出(八太郎旅所へ)

 

5月5日

四十八末社御山開

 

5月15日

十和田神社へ舍人が代拝

※十和田山別当は

代拝者を優遇して

接待した上に

御初穂料二百疋を

七崎へ酬賽するのが

恒例だったそうです。

 

6月24日

害虫払祭

 

二百十日

風神祭

 

8月6〜12日

荒神祭

 

8月13日

中の祭・荒神祭

 

8月17日

観音堂大法会・元宮観音祭

 

9月5日

御留(おとめ)祭

 

9月7日

重陽祭・実収祭

 

12月17日

年越祈祷

 

毎月18日

湯立祈祷

 

神楽は舍人が管理して

隔年毎に村内一般を

巡回して守札を配布


 

旧・観音堂での祭事は

「七崎修験」の方にも

ご出仕頂いてのもので

古い時代の祈りのあり方を

探る上でとても

参考になるものかと思います。

 

参考までにですが

御影供(みえく)という

弘法大師の法要や

正月や彼岸などの

住職はじめ僧侶による

主要な儀式や

重要な儀式は

本堂にて行うのが一般的で

当山の場合も同様です。

 

本堂とは

本尊堂という意味や

根本中堂という意味のある

とても重要な建物で

それ自体が“み教え”とされ

諸伽藍の中でも最重要なものですし

建立にあたって様々な作法が

施されます。

 

伽藍建立の際には

棟札(むなふだ)という

特殊な木札が作られるのですが

当山所蔵のものを見てみると

旧・観音堂の棟札の様式と

本堂の棟札の様式は

明確に異なっております。

 

七崎(現在の豊崎)には

修験に携わっていた方も

多かったようで

ここでは七崎修験と

呼ばせて頂きます。

 

細かにいえば

清僧(出家者)と

修験・(一世)行人などの

区別をしてお話すべきですが

ここでは大雑把な言葉で

述べさせて頂きます。

 

地元に残る文書には

補任状(ぶにんじょう)という

修験の文書があります。

 

その補任状は

本山派修験の総本山である

聖護院(しょうごいん)からの

認可証です。

 

修験と一言で言っても

本山派や当山派

羽黒修験や行人派など

一様ではなく

かつまた横の繋がりも

多く見られるものです。

 

天台系とされる本山派で

修験者の認可を頂く一方

地元では真言寺院に作法等の

伝授を受けているなどということは

珍しいことではありません。

 

こういったことは古い時代の

「宗派性」を考える上でも

欠かせない視点です。

 

専門的かつ日常的に

触れていなければ

分かりにくい部分なのですが

あまり注意が払われず

「真言宗」や「天台宗」や

「修験」という言葉が

安易に使われてしまい

実態が見えにくくなっている

ケースが多いように感じます。

 

先にあげた諸祭事にもあるように

毎年5月15日には

十和田神社へ舍人が代拝し

十和田山別当に優遇して

頂いた上に初穂料を

お納め頂く恒例が

七崎にはありました。

 

これは十和田湖伝説が

七崎と深く関わることに

由来します。

 

十和田湖伝説とは

南祖坊(なんそのぼう)という

僧侶が十和田湖の主である

青龍大権現となるという伝説で

その南祖坊は当山(永福寺)に

弟子入りして修行したと

伝えられております。

 

南祖坊は藤原氏の血筋であり

三戸郡の斗賀で生まれたとも

七崎で生まれたともいわれます。

 

藤原氏の氏神は

春日大明神であり

当山の本山である

奈良県の長谷寺では

本尊十一面観音の脇侍として

難陀竜王(なんだりゅうおう)が

春日大明神の化身として

お祀りされております。

 

十和田への代拝が行われた

15日という日取りに関連して

少し話を深めてみると

三十秘仏という考え方からすると

15日は南祖坊の出自である藤原氏の

氏神である春日大明神の縁日でもあります。

 

また15日は

布薩(ふさつ)といって

戒律を改めて持(たも)ち

精進する日でもあります。

 

話題が尽きない所ですが

この辺で一段落させて頂きます。

 

今回は当山が永福寺時代より

別当としてお仕えした

七崎観音が祀られていた

旧・観音堂(徳楽寺)の祭事を

紹介させて頂きました。

IMG_3333

IMG_0350

IMG_8377

IMG_8379

IMG_8382

IMG_8387

IMG_8393

稀代の古刹 七崎観音①

当山本堂内の

観音堂の本尊である

聖観音は今も昔も

七崎(ならさき)観音

通称されます。

 

当山は古くから

七崎観音の別当を

つとめております。

 

七崎観音は

様々な伝説に彩られ

様々な方により

様々に語られた

由緒ある観音様です。

 

普段は秘仏ですが年に一度

毎年旧暦1月17日にのみ

御開帳され御宝前にて

護摩(ごま)法要が厳修されます。

 

平成31年は

2月21日が御開帳となります。

※詳細はコチラ↓

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

七崎観音はかつて

現在の七崎神社の場所にあった

観音堂にお祀りされておりました。

 

七崎観音は

霊験すこぶるあらたかということで

南部藩に篤く敬われ

各所からの参詣も絶えなかったようで

その観音堂は時代を経る中で

七崎山(なさらきさん)

徳楽寺(とくらくじ)

という寺号を頂いております。

 

現・豊崎町(かつての七崎)の

永福寺地区は

当山の本堂真正面から

真東にズバッと道が伸びており

そこに門前町が形成されるように

町が作られております。

 

さらに当山は

豊崎のほぼ中央に

位置しており

地域を一望出来る場所に

お寺が建立されております。

 

また豊崎の西に位置する

滝谷(たきや)地区へも

道が当山と旧観音堂(現・七崎神社)の

間からのびており

その途中に「南宗坊(なんそのぼう)」

という地名も残っております。

 

南宗(祖)坊は

当山2世の月法律師の弟子として

当山にて修行したとされる

十和田湖伝説の僧侶です。

 

観音堂への参詣道も

当山門前道に垂直に交わるように

南北方向に整えられており

浅水川に架けられた橋は

観音橋(かんのんばし)と

名付けられております。

 

橋は

こちらの岸(此岸(しがん))から

向こうの岸(彼岸(ひがん))に

渡すということで

仏道では深い意味を持ちます。

 

観音橋はいわば

“聖域への入口”

ということになります。

 

当山から浅水川対岸の地域を

下七崎(しもならさき)といいますが

この地区には

七崎観音へ参詣するために

身分の高い方が

留まられる屋敷である

御田屋(おんたや)がありました。

 

御田屋を由緒とした

「おだや」という屋号が

現在も用いられており

歴代には当山の総代を

お勤め頂いた方もいらっしゃり

当山を古くからお支え頂いております。

 

当山の歴史を紐解く上で

「七崎観音別当」という立場は

非常に重要な意味を持ちます。

 

当山は永福寺時代より

現在に至るまで

七崎観音別当を担っております。

 

七崎観音別当であることの

意味はとても大きく

当山の前身である永福寺は

盛岡南部藩の祈願所となり

盛岡五山の筆頭寺院として

隆盛を極めてまいります。

 

別当寺としての

永福寺や普賢院と

七崎観音の由緒が混同されて

しまうことが多いのですが

厳密にいえば

七崎観音と永福寺・普賢院は

ある程度「区別」して

捉えるべきものです。

 

専門性が極めて高い内容や背景が絡み

加えて地域の家々の歴史が

深く関わることでもあるので

しばしば郷土史研究などで

とりあげられる

近世の文書の情報だけでは

どうしても限界がありますし

当山にまつわる諸事を紐解くには

多分野にまたがっての視点が

求められるように思います。

 

当山有縁各家先祖代々の方々の

確かなお歩みや口伝

それらを踏まえ

当山先師諸大徳含め

これまで多くの地元の先人方が

まとめられてきた「もの」に

耳を傾けると

今のなお“いき続けている”

志に触れるような思いになります。

 

そんな志に触れつつ

七崎観音をメインテーマとして

何回かに渡り

紹介させて頂きたいと思います。

観音堂

IMG_1127

IMG_1120

七崎から盛岡へ移る永福寺

江戸時代の紀行家である

菅江真澄(すがえますみ)の

文化4年夏の紀行文である

『十曲湖』(とわだのうみ)で

当山の歴史について

触れられております。

 

『十曲湖』には以下のように

記されております。

 


 

森岡の盛岡寶山永福寺ハ

新儀の真言にて

大和の國

初瀬の小池坊の流れにて

むかしハ五戸の七崎よりうつせり

 

いまも永福寺村といひ

そこに観世音の堂あり

 

これを永福寺ともいへり

 


 

菅江真澄は

『十曲湖』の約20年前に

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

という紀行文も著しており

そこでも十和田湖伝説を

紹介しております。

 

両著作を比較すると

『十曲湖』の情報量は格段に多く

広く情報を集めたことが

よく分かります。

 

引用文で盛岡永福寺に

触れておりますが

正確には盛岡永福寺の山号は

宝珠(ほうしゅ)盛岡山です。

 

「新儀」という部分も

正確には「新義」となります。

 

菅江真澄は

盛岡永福寺は

七崎(現在の豊崎)から移したと

伝えておりますが

これは当山で把握している

由緒と同内容となります。

 

つまり

盛岡に永福寺が改められることになり

普賢院が永福寺自坊として

旧地である七崎永福寺を

引き継ぐことになったわけです。

 

永福寺は三戸にも伽藍を構えます。

 

その三戸永福寺は

盛岡永福寺の建立にあたり

嶺松院(れいしょういん)が

永福寺自坊として引き継ぎます。

 

自坊というのは

いまでいう別院と

お考え頂ければ分かりやすいかと思います。

 

ちなみに自坊に対しての

盛岡永福寺は本坊という位置づけです。

 

菅江真澄はさらに続けて

七崎から盛岡へ永福寺が移った後の

今も永福寺村といい

永福寺村には観音堂があって

これを永福寺ともいうと

記しております。

 

現在も当山周辺の地名は

「永福寺」となっており

当山は現在普賢院という寺院名ですが

「永福寺」とも呼ばれております。

 

お寺の呼び名というのは様々で

現在の当山は

永福寺とも呼ばれれば

七崎のお寺さんとも呼ばれますし

七崎観音のお寺

十五番札所のお寺とも

南祖坊のお寺などなど

一様ではありません。

 

そういったことが

かつてもあったようで

観音堂もまた永福寺とも

呼ばれていたと

菅江真澄は伝えております。

 

この観音堂には

現在当山にお祀りされている

七崎観音がお祀りされておりました。

 

観音堂は七崎山 徳楽寺という

寺号を授かる程の

とても立派なものとなり

当山が別当寺をつとめておりました。

 

観音堂は明治になり

七崎神社になります。

 

そこに祀られていた

聖観音は現在

当山本堂内の観音堂に

七崎観音としてお祀りされております。

IMG_8314

IMG_0349

▼七崎神社(旧 観音堂・七崎山徳楽寺)

IMG_8327

IMG_8331

大掃除の功徳

本堂の大掃除を行いました。

 

御仏像のすす払いをして

内陣と観音堂に

納められている

机や香炉や燭台などを運び出し

掃き掃除をして

拭き掃除をして

運び出したものを拭いて

香炉の灰おろしをして

窓を拭いて

原状回復をしてと

みっちりと大掃除を

することが出来ました。

 

わざわざ駆けつけて下さった方も

いらっしゃり

おかげさまで

年越しの準備が大分進みました。

 

お手伝い下さった方々に

心より御礼申し上げます。

 

来年の秋以降に

本堂の本体工事に取り掛かる

可能性があるとのことでしたので

今回は入念に掃除をしようと思い

観音堂の内部も丁寧に

手入れをしておりましたら

祭壇内の大きな観音像の裏側に祀られる

十一面観音像に気が付きました。

 

観音堂の祭壇には

観音堂本尊である

七崎(ならさき)観音(聖観音)の他にも

様々お祀りされておりますが

十一面観音もお祀りされていることを

拙僧(副住職)は知りませんでした。

 

この十一面観音は

当山の本山である奈良県の長谷寺と

同型の観音像で

平成9年に奉納されたものだそうです。

 

実は最近

長谷寺式の十一面観音像を

何らかの記念事業として

造立して観音堂にお祀りして

当山有縁の皆様に

本山の本尊である十一面観音と

ご縁を結んで頂けるようにしたいと

強く願っていたのです。

 

観音堂の大掃除の「功徳」と

感じております。

 

現在観音堂にお祀りされている

南祖法師(南祖坊)尊像も

観音堂の仏像のすす払いをしている際に

“発見”したものなので

今回の十一面観音の件につきましても

不思議なご縁を感じます。

 

せっかくのご縁ということで

観音堂祭壇の御前立(おまえだち)として

改めてお祀りさせて頂きましたので

当山へお参りの際は

ご縁をお結び頂ければと思います。

IMG_0340

IMG_0343

IMG_0342

IMG_0351

 

▼長谷寺式 十一面観音

IMG_0348

IMG_0350

納めの観音

18日は観音様の縁日です。

 

12月の縁日は

その年の最後の縁日なので

12月18日を

「納めの観音」

といいます。

 

当山観音堂の観音様は

糠部三十三観音霊場

第15番札所の観音様で

七崎観音(ならさきかんのん)

といわれます。

 

もともとは

現在の七崎神社の地にあった

観音堂(七崎山 徳楽寺)に

お祀りされていましたが

明治の神仏分離の際に

当山に遷座されました。

 

七崎観音は

聖(正)観音(しょうかんのん)

という観音様です。

 

七崎(現在の豊崎)は

観音の聖地として

篤く信仰された場所でした。

 

現在当山本堂内の観音堂に

お祀りされる七崎観音

(徳楽寺観音)は秘仏で

年に一度だけ

旧暦1月17日にのみ

御開帳されます。

 

平成31年は2月21日に

御開帳され御宝前にて

護摩法要が厳修されます。

 

この行事は詳らかには

聖観音おこもり護摩法要

といいますが

通称「おこもり」といいます。

 

当山では現在進行形で

本堂建替事業に取り組んでおり

 

近い将来(来年か再来年)

現在の本堂は

取り壊されることになります。

 

そういった事情もあり

現在の本堂で行われる

最後の「おこもり」に

なるかもしれません。

 

諸行無常の理を

強く感じながら

平成最後の「おこもり」に

思いを巡らせる

平成最後の納めの観音の

1日となりました。

 

観音堂

IMG_1125

かんのんまいり 糠塚大慈寺観音

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第9番札所

大慈寺観音。

 

大慈寺は松館が発祥の地で

江戸時代に糠塚にも

お寺が建立されたそうです。

 

とても立派で美しい山門が

印象的なお寺です。

 

山門1階には仁王像が祀られ

2階には十六羅漢が祀られるそうです。

 

境内には

三十三観音と阿弥陀様が祀られるお堂があり

本堂には

聖観音が本尊として祀られます。

 

またこちらのお寺は

十和田湖の南祖院(なんそいん)を

兼務されていらっしゃいます。

 

南祖院の名は十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)に由来します。

 

十和田湖畔の方が発起人となり

建立された新しいお寺です。

IMG_6053

IMG_6054

IMG_6055

IMG_6057

IMG_6060

IMG_6059

IMG_6062

IMG_6065

かんのんまいり 南宗寺横枕観音

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第11番札所

南宗寺横枕観音。

 

南宗寺は

八戸南部藩の菩提寺です。

 

月渓山南宗寺という名は

南部利直公と関わりがあります。

 

南部利直公は

自身を南祖坊(なんそのぼう)の

「生まれ変わり」であるとした方で

戒名は南宗院殿月渓晴公大居士です。

 

南宗坊は十和田湖の主である

青龍大権現となったとされる

伝説の僧侶で

当山にて修行したとされる方です。

 

南部利直公の戒名が

月渓南宗寺という

お寺の名の起源となっております。

IMG_6067

IMG_6069

IMG_6070

IMG_6071

IMG_6077

IMG_6078

IMG_6080

IMG_6081

IMG_6082

IMG_6084

かんのんまいり 岡田観音

糠部(ぬかべ)三十三観音

第3番札所

籠田(かごた)岡田観音。

 

松館にある札所です。

 

一年に一度

12月17日のみに

御開帳されるそうです。

 

岡田観音は

御開帳される時以外に

そのお姿を見てしまうと

目がつぶれてしまうといわれます。

 

かつては天台寺(てんだいじ)と

呼ばれていたそうです。

 

岡田観音のある山を

鶴林山(かくりんざん)といいます。

 

鶴林山はかつて

修験道場のお山でした。

 

岡田観音のある

松館地区には

月山神社

松館大慈寺もあります。

 

松館大慈寺は

とても由緒ある寺院で

開基は南部利直公です。

 

ちなみにですが

南部利直公は自身を

十和田湖伝説に登場する

南祖坊の「生まれ変わり」

であるとした方です。

 

色々な歴史や伝承に

触れることが出来る

松館地区の岡田観音。

 

お参りされる際は

周辺の諸堂にも

お運びになられると

より一層深い

巡礼になるかと思います。

IMG_6048

IMG_6047

IMG_6050

IMG_6051

 

【月山神社】

IMG_6029

IMG_6028

IMG_6030

IMG_6032

 

【松館大慈寺】

IMG_6034

IMG_6035

IMG_6036

IMG_6038