最後のひとつき

9月に入りました。

 

秋の虫の声が響く本堂は

一年の中で最も味わい深いと

拙僧(副住職)は感じます。

 

現在の本堂は

今月でその役目を全うします。

 

掲げられていた多くの額が外され

仏具等も一部搬出されたため

例年以上に音が響く状態です。

 

ご法事での

作法に伴う音や

鳴り物の音や

読経の声が

“深遠に”響いているように思います。

 

本日は

当山に様々な形で

お力添え下さったお宅の

ご法事が営まれました。

 

この本堂が

もうじき解体されるという

実感も相まって

切ない気持ちもまじりつつ

祈りのひとときを

ご一緒させていただきました。

 

この空間での

最後のひとつき。

 

この空間での時間を

これまで以上に

大切に過ごしたいと思います。

 

江戸期の香炉〜歴史を感じながらの引越作業〜

本堂解体に向けた引越作業も

大詰めを迎えています。

 

今春に完成した倉庫には

大分物が収められてきました。

 

引越作業は

歴史と向き合う作業でもあり

歴史的なものを扱うことも

しばしばです。

 

本日も一つ貴重な宝物(ほうもつ)を

扱わせていただいたので

紹介させていただきます。

 

本日紹介させていただくのは

江戸期の香炉(こうろ)で

こちらは江戸時代の当山本坊である

盛岡永福寺住職もつとめた

宥瑗(ゆうえん)上人が奉納したものです。

 

宥瑗(ゆうえん)上人は

当山本尊として祀られる

愛染明王像を文化7年(1810)に

奉納された方でもあります。

 

文化7年に

当山が火災に見舞われたことをうけ

同年にお仏像をご奉納下さいました。

 

現本堂は

文化7年の火災をうけ

文化8年(1811)に再建されたもので

この現本堂は本年10月より

解体が始まり

令和4年秋に新本堂が完成する予定です。

 

今回とりあげた香炉は

前回の本堂建替にまつわるものであり

当山の歴史を今に伝える

貴重な仏具です。

 

足が一部破損しているのですが

何かしらの形で

有縁の方々のお目に触れて

いただけるように

考えたいと思います。

 

 

▼江戸期の香炉[施主・宥瑗(ゆうえん)上人]

光を当てて

最近は

“新しい生活様式”を強く意識した

設備の整備に力を入れております。

 

そのような取り組みの中で

新たに用意した照明器具を

本堂で試運転してみた所

これまでは

暗がりでぼんやりとしか

目に出来なかったものが

鮮明な光で照らし出され

改めて確認することが出来ました。

 

例えば観音堂の天井の

種字曼荼羅(しゅじまんだら)。

 

例えば内陣に掲げられている

獅子と天女の絵画。

 

昼間であっても

これまでは目視することが

難しかった部分に

“初めて”鮮明に

まみえることが出来

感慨深いものがありました。

 

凄みのある「声」

以前当地の「古代」について

当山の縁起にも触れながら

少しばかり書いたことがあります。

 

▼コチラがその記事です

古代の祈りの痕跡とお寺の起源

 

先の投稿記事にも触れていますが

当地には縄文後期の遺跡が

当山の近くで発掘されています。

 

その遺跡は

喉平(のどひら)遺跡と

いわれるものですが

祭祀に用いられたと見られる

土偶も出土しています。

 

縄文時代後期とは

4000年〜3000年前に

該当する時代区分です。

 

中国でいうと

“伝説”ともされる夏(か)

そして殷(商)の時代です。

 

色々なご縁があり

縄文時代について

学ばせていただく

きっかけがありまして

調べを重ねていくと

とても興味深いことが多く

かなり深いものを

感じさせられます。

 

縄文時代には

確かに当地に住人がいた

ということが明らかであることは

よくよく考えると

凄みのあることだと感じます。

 

その時間の連なりに

今があるという視点でもって

「歴史」を捉えてみることで

見えてくるものも

あるように思います。

 

御詠歌は引き続き休会します

今月から御詠歌(ごえいか)を

再開する予定でしたが

色々考えた結果

引き続き休会することにしました。

 

昨今の状況ですと

御詠歌については

これまで通りの開催は

難しいと考えています。

 

3月以降ずっと休会しているので

当面の間はいっそのこと

御詠歌の教典にそった

法話会という形にして

実際のお唱えはCD等で

ご自宅でお聴きいただく

形式にするなどの対応を

検討しております。

 

御詠歌を通じて

「仏道のこころ」に

触れていただくことを

一番に考えた催事でもあるので

その意義にかなうような

新しい形を模索したいと思います。

 

▼準備万端でしたが…

 

▼撤収しました…

確定的未来を考えてみる

数字から見える確定的未来

2040年になると

全国の自治体の半数近くが

「消滅」の危機にさらされる。

 

河合雅司2017『未来の年表』(講談社現代新書)より

 

今回は

現代に生きる者として

向き合わなければならない

地元の確定的未来について

考えてみたいと思います。

 

普賢院のある

八戸市豊崎町。

 

かつては

七崎(ならさき)と呼ばれ

古い歴史が残る

田園が広がる素敵な地域です。

 

現在は八戸ですが

古くは五戸でした。

 

何年も前から

人口減少や少子高齢化が

叫ばれていますが

実際の所の変化や見通しを

統計や推計を用いて

確認してみたいと思います。

 

目次

  1. 豊崎町の人口の変化

  2. 八戸市の人口の変化

  3. 描きたい「未来」へ

 

1.豊崎町の人口の変化

八戸市HPで公表されている

地区別の人口データのうち

豊崎町の各年4月末日時点のものを

経年比較してみます。

 

和暦(西暦)総人口[M(男性):F(女性)]

として以下のようにまとめられます。

 

  • 平成18年(2006)2,054人[M989:F1,065]
  • 平成23年(2011)1,954人[M929:F1,025]
  • 平成28年(2016)1,757人[M836:F921]
  • 令和2年  (2020)1,599人[M764:F835]

 

減少の要因は

転出や死亡など様々ですが

少子高齢化の影響が

大きいことは

言うまでもありません。

 

次に

同じ要領で

八戸市の総人口について

見ていきましょう。

 

2.八戸市の人口の変化

今度は八戸市の総人口は

次のようになります。

 

  • 平成18年(2006)249,559人
  • 平成23年(2011)241,427人
  • 平成28年(2016)234,774人
  • 令和2年  (2020)226,477人

 

「八戸市人口ビジョン」によれば

推計人口は次のようになります。

 

  • 令和12年(2030)197,421人
  • 令和22年(2040)172,744人
  • 令和32年(2050)147,016人
  • 令和42年(2060)122,031人

 

平成18年4月末日〜令和2年4月末日の

14年間で23,082人の人口減少ですが

推計人口では

減少のスピードが加速し

今後10年で約29,000人の

人口減少が見込まれています。

 

3.描きたい「未来」へ

数字で描かれる

確定的未来。

 

真正面から見つめた上で

どのような「未来」を

描いていくかを

私たちそれぞれが

それぞれの分野で

考えなければなりません。

 

すでに

めまぐるしい

大きな変化の中に

いる私たちですが

このような時こそ

(常に大切なことですが)

「意」(心)について

問われているように思います。

 

仏道の

唯識(ゆいしき)という

考え方では

「意」(心)により

あらゆるものが

生み出されるとされます。

 

皆さんは

どのような「未来」を

思い描きたいですか?

 

「このようにしたい」

「このようになりたい」

という思いもまた

時代を作る上で

求められるものです。

 

思い描きたい「未来」を思い描く

「意」(心)そのものを

ととのえながら

“現実”をしっかり踏まえ

思いを「未来」へはせながら

歩みを進めていく。

 

当山としても

出来ることを重ねながら

「未来」に向けても

思いをはせながら

これからを

過ごしていきたいと思います。

 

柔和な出で立ちの十一面観音像

昨年から

制作して頂いている

十一面観音。

 

本山の長谷寺(奈良県桜井市)と

同形式で作仏を

進めて頂いております。

 

制作を担って頂いているのは

弘前市の仏師・小堀寛治さんです。

 

当山は

現在の本尊は愛染明王ですが

もともとは十一面観音だったとの

いわれがあります。

 

一説には

坂上田村麻呂が

十一面観音を祀った

という伝説も残ります。

 

現在作仏を進めて頂いている

十一面観音と

脇侍(わきじ)の

難陀竜王(なんだりゅうおう)と

雨宝童子(うほうどうじ)が

大分出来てきた様子です。

 

柔和な出で立ちに

あふれんばかりの

慈悲を感じました。