昭和期の写真を並べつつ本堂解体の様子をお伝えします

本堂解体の工事は

水道管の処分など

細かな作業を残し

無事に終了したようです。

 

解体工事の様子を

動画でお伝えしてまいりましたが

今回の動画で

区切りとさせていただきます。

 

動画「ただいま本堂解体中」は

今回もあわせると13本

アップさせていただきました。

 

最後となる今回は

昭和期の本堂の写真も並べつつ

用意させていただきましたので

ご覧いただけると幸いです。

 

解体作業も大方終わったようです

本堂解体作業は

細かな作業を残して

大方終わったようです。

 

普賢院の本堂建替事業は

209年ぶりということもあり

この歴史的大事業を

出来る限り記録として残し

そして有縁の方に

状況をお伝えすべく

動画を編集し

アップしてまいりました。

 

解体については

本日と明日の動画で

一応の区切りと

したいと思います。

 

本日も動画を用意出来たので

ご覧頂けると幸いです。

 

ほぼほぼ更地となりました

お寺の歴史に触れながら

本堂解体の様子をお伝えする

ただいま本堂解体中

の⑪をアップしたので

ご覧いただければ幸いです。

 

今回は

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)についても

触れております。

 

南祖坊のお像である

南祖法師(なんそほっし)尊像が

普賢院には

お祀りされておりますが

当山にお運びの際は

お参りいただき

ご縁を深めていただければと思います。

 

現本堂の前の本堂を伝える記事を紹介します

盛岡南部藩の家老の

“事務日記”である『雑書』(ざっしょ)。

 

盛岡藩政期の藩政の様子や

領内の主だった出来事を

うかがい知ることが出来ます。

 

その『雑書』の

文化7年(1810)7月6日と

文化8年(1811)閏2月22日の箇所に

当山についての記述が

見られます。

 

あらためて

確認してみると

現本堂以前の本堂についてのことや

当時の様子についての

一端が垣間見られるので

こちらで紹介させていただきます。

 


※( )と下線は筆者によります。

 

①文化7年(1810)7月6日

 

五戸七崎村普賢院

看主(覚宥)願出候は

本堂八間二七間之処

数十年罷成大破仕

去年九月境内杉願上頂戴仕

尚旦(檀)家共より得助力候得共

少旦(檀)家故行届兼迷惑仕候間

七崎村近村旦(檀)家共申合

講会弐会興行仕

右余分を以

普請入料へ足加申度候間

被 仰付被下度旨

永福寺末書を以申出

其筋為逐吟味

相対を以

講会願之通

寺社御奉行へ申渡之

 


 

②文化8年(1811)閏2月22日

 

五戸七崎村普賢院

此度本堂再建成就仕候二付

為入仏供養導師仕候二付

長谷寺差遣度候間

往来十八日御暇被下度

願之通御暇被下置候ハゝ

来る廿五日

此元出立為仕度旨

永福寺申出

願之通寺社御奉行へ申渡之

 


 

この2つの記事は

貴重な情報や状況を

いくつか伝えております。

 

①の記事で

看主とあるのは

当時の普賢院住職・覚宥師です。

 

覚宥師は現本堂の再建時の方で

他にも鐘楼堂の再建(文化5年[1808])

千手観音堂の再建(文化11年[1814])

も成し遂げられております。

 

現本堂は八間×六間ですが

その前の本堂は八間×七間

であるということが

この記事からは分かります。

 

「数十年罷成」

(数十年経過しての意)

とあることから

文化7年(1810)時点の本堂は

1700年代に再建など何らかの

“手入れ”があったと思われます。

 

享保18年(1733)の

棟札は「再建立當寺屋敷共…」とあり

当山中興(ちゅうこう)の

快傳(かいでん)上人が

大掛かりな事業をされております。

 

中興(ちゅうこう)というのは

本堂などの伽藍を

手がけられた住職に対し

形容される言葉でして

細かなことを言えば

快傳上人以外にも

中興と形容されるかたは

当山先師には多くいらっしゃいます。

 

その中でも殊に快傳上人は

「中興開山」された先師として

位置づけられております。

 

現本堂以前の本堂は

もしかしたら

この快傳上人の時代に

再建などが成されたかもしれません。

 

文化7年の火災については

具体的に触れられておりませんが

①の記事によると

火災に遭う以前より

本堂の傷みがあって

前年(文化6年[1809])9月より

何かしらの準備が進められていたか

検討されていたことが

うかがわれます。

 

また

江戸期は本坊(盛岡永福寺)が

盛岡にあり

当山は自坊として

“飛び地の直轄管理”のような

形だったため

境内の杉を使うにも

お堂に手入れをするにも

本坊を通して

寺社奉行の許可が

必要だったことがうかがえます。

 

文化8年(1811)の

入仏供養(現在でいう落慶式)の

導師についても

本坊や寺社奉行を通して

決定されており

何をするにも

煩雑な手続きが

必要であったことが

伝わってまいります。

 

いつの世も

色々と大変だということを

今回の記事は

伝えているようにも思うのです。

 

 

▼【本堂解体の様子】

仁王門が解体されました。

 

廃材もほとんど運び出され

基礎を残すのみといった状態です。

 

本日も解体の様子を

お寺の歴史に触れながら

お伝えする動画を用意出来ましたので

よろしければご覧下さい。

 

▼動画はコチラ(youtube)

https://www.youtube.com/watch?v=AEPluXR9Wpc

 

八戸は早朝に雪がふりました

八戸で雪を目にしたのは

今年度初めてだと思います。

 

寒暖差のある時季となり

体調を崩される方も

多いのではないでしょうか。

 

本堂解体の進捗状況ですが

業者さんには

廃材を搬出していただいております。

 

プロの技は流石です。

 

きれいに整えながら

次々と廃材が積み出され

山のように積み上げられていた廃材も

ほとんどなくなりました。

 

年末にむけた

デスクワークがたまっている関係で

作業現場に

あまり立ち会うことが

なかなか出来ませんが

進捗状況についての報告は

出来る限り行わせていただきます。

 

本日も動画を1つ用意いたしました。

 

お寺の歴史に触れていただきつつ

どのような様子であるかを

ご覧いただければ幸いです。

 

 

窓のような門

窓の外を眺めると

青空が広がることがあるように

仁王門を階段下から眺めると

青空が広がるようになりました。

 

本堂は土台を残すだけ

といった状態です。

 

宮建築独特の部材が

あちらこちらに見られ

ある意味大変

勉強させていただいております。

 

本日も

解体の様子を短い動画に

編集いたしました。

 

解体中の本堂の棟札の

読み解きも交えながら

編集しましたので

ご覧いただけると幸いです。

 

▼動画(youtube)

https://www.youtube.com/watch?v=mnL1JoiI-p0

 

209年前の息吹を感じて

209年前の本堂再建をてがけた

大工さんが記した文字や

施した細工が

材木の各所に見られます。

 

時を超えた息吹を感じ

感慨深いものがあります。

 

伝えたいことが沢山あるので

本日も短く編集した動画を

用意しました。

 

ご覧頂ければ幸いです。

 

平安期の先師がお一人発見されました

調べ物があり

江戸期の過去帳と

向き合っていたところ

当山先師のお名前が

たまたま発見されました。

 

先師とは

かつての住職という意味です。

 

発見されたのは

日照法師という方で

何と平安時代の先師様です。

 

ご命日は

仁和3年(887)7月23日。

 

当山は

弘仁初期(810頃)開創ですが

火災による文書焼失の影響もあり

多くの先師名が不明です。

 

そのような状況の中

平安期の先師名が

ふと明らかになったことは

とても尊いことだと感じます。

 

まさに大発見です。

 

おそらく

多くの方には

伝わらないと思いますが

とんでもなくすごい発見です。

 

普賢院第2世

月法律師は天長8年(831)が没年であり

この方は

十和田湖伝説に登場する

南祖法師(坊)の師とされる先師様です。

 

日照法師もまた

その法名との関連(月と日)が

師弟関係としてあるのであれば

月法律師の弟子だっかもしれませんし

もしかしたら南祖坊の

モデルとなった方かもしれません。

 

経歴は不明ですが

江戸期にまでその法名が

しっかりと残っているということは

何かしら特筆すべきことが

あったのではないでしょうか。

 

南祖坊は幼少期に

当山に弟子入りしたとされるので

月法(831)・日照(887)両師の

没年の差を踏まえると

違和感はないように感じます。

 

直弟子であったか

どうかは分かりませんが

当山の法脈として

月法律師を

日照法師が継いでいることは

間違いないことであり

その流れは現在に

至っているわけです。

 

悠久の昔から

今に至るまでの

流れというものを

あらためて感じさせられ

気持ちが引き締まった

思い出深い一日となりました。

 

 

▼本日の本堂解体の様子

バックホーが投入されました

本日は早朝からお弔いがあり

湊高台のセレモニーホールへ。

 

西高東低の冬型の

気圧配置ということで

冷たい風が身にしみつつ

生前とてもほがらかであった

故人様をご遺族の皆様とともに

丁重にご供養させていただきました。

 

葬儀と納骨を終えて

午後お寺に戻ると

バックホーが投入されての

解体が進められていました。

 

すごい瞬間に

立ち会わせていただいていると

感じています。

 

解体の様子に限らず

今後は本堂建替事業の模様を

ときおり動画でも

お伝えしたいと思います。

 

動画の編集が出来ましたら

こちらのブログでも

お知らせいたしますので

ぜひご覧下さいませ。

 

▼今朝の本堂

 

▼夕方の様子

畳も撤収されました

ガレキが取り除かれ

畳も撤収され

本堂は大分スッキリしました。

 

現在解体している本堂は

文化7年(1810)の火災をうけ

翌年2月に再建されたものです。

 

2月に再建されたというのは

現本堂再建の棟札に

文化八歳次辛未天閏二月と

あることから分かります。

 

堂内には

ケヤキの柱や梁が

わずかながらあるのですが

よく見ると

かなり虫にくわれております。

 

木材は

十分に乾燥させ

十分に加工しないと

虫がつくんだそうです。

 

早急な再建だったゆえ

木材の加工も

十分に行うことが

出来なかったのでは

推測しております。