今月締切の原稿が
何とか仕上がりまして
久しぶりに
心の底から喜んでおります。
さて
明日は1年に1度の
尊い法要の日です。
気合を入れて
急ピッチで準備を
進めております。
考えてみると
仮本堂でのご開帳は
本年と来年だけの
希少価値ある機会となります。
それだけに
入念に準備を整え
お勤めさせていただきたいと思います。
今月締切の原稿が
何とか仕上がりまして
久しぶりに
心の底から喜んでおります。
さて
明日は1年に1度の
尊い法要の日です。
気合を入れて
急ピッチで準備を
進めております。
考えてみると
仮本堂でのご開帳は
本年と来年だけの
希少価値ある機会となります。
それだけに
入念に準備を整え
お勤めさせていただきたいと思います。
28日に秘仏・七崎観音を
ご開帳して行われる行事に向け
本日は仮観音堂より主なお仏像を
仮本堂にお遷ししました。
準備をしていると
いつもお世話になっている
小泉電気店の小泉智英さんが
照明を持ってきて下さいました。
実際に照明を使ってテストすると
とても素晴らしい雰囲気となりました。
おかげさまで
幻想的な空間にて
法要を行うことが出来そうです。
▼28日の詳細はコチラをご参照下さい▼
昨日紹介した寺史資料に
江戸以前についても
情報を追記してみました。
江戸以前については
詳細な記述がないため
当山の過去帳を典拠にして
開創以降の先師について
追記しました。
長い歴史の中で
お名前が分からない先師様が
多くいらっしゃいますが
わずかであっても
お名前が現代に留められていることは
とても凄いことだと感じます。
また
弘法大師空海
興教大師覚鑁(かくばん)を
両祖大師(りょうそだいし)に関する
行事についても
一部追記しました。
両祖大師に関係する行事にあわせ
記念事業を行う傾向もあるので
様々な考察に有意義なためです。
分かっていることや
所蔵しているものを
文字に起こしてみると
案外情報量が多いことに
気づかされます。
歴史や伝承は
唯一無二のものゆえ
大切にしたいと思います。
※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])を典拠にしたものについては青字で記します。(※一部追記アリ。)
※伝説・伝承含め当山に関連する記述の見られる主な史料の年代等を緑字で記します。前回のものに追記したものがあります。
※弘法大師空海や興教大師覚鑁の両祖大師に関すること、寛永11年[1634]以降の御遠忌(ごおんき)を紫字で記します。
※近世以前(ここでは寛政12年[1625]以前)については、当山の過去帳を主な典拠として橙色で記します。(※一部追記アリ)
年代の判明している
近世以降の
仏像・仏具であったり
所蔵している棟札などを
ザックリと時系列に
箇条書きで並べたものを
以前こちらのブログで
紹介させていただきました。
今回はさらに主な史料と
当派で大切にされる
両祖大師の御遠忌(ごおんき)の
年次を加えてみます。
両祖大師とは
弘法大師・空海上人と
興教大師・覚鑁(かくばん)上人
のお二人を指します。
御遠忌を迎えるに当たり
記念事業を行うことが多いため
御遠忌の年次について
記載することにしました。
定期的に迎えられる
御遠忌という節目を
時間軸に落としていくことは
当山の歴史を紐解くうえで
とても有意義なことです。
当ブログは
研究メモとしても
活用しております。
今後お寺の寺史などを
作成するにあたっての
基礎資料作りでもあると捉え
取り組んでおります。
地道な作業な必要なことゆえ
一気に仕上げることは
難しいですが
コツコツ取り組みたいと思います。
それでは
以下に“研究メモ”を記して
本日は終えたいと思います。
※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])に掲載される神社所蔵の棟札については青字で記します。
※伝説・伝承含め当山に関連する記述の見られる主な史料(近世以降)の年代等を緑字で記します。
※弘法大師や興教大師の御遠忌(ごおんき)を紫字で記します。
当山では本堂建替事業の
第5年目を迎え
本年より新本堂の建設が始まり
来年秋頃に完成する予定です。
この機会に
普賢院の寺史を
作成したいと考えています。
新本堂が完成すると
棟札や古い文書は
再び丁重にしまうことになるので
このタイミングでしか
行うことが出来ないので
当ブログの投稿も活かしつつ
まとめていこうと思います。
次第をはじめ文書については
除きますが
当山所蔵の棟札ほか
年代が判明している(一部推定)
江戸期以降の
主な仏像や灯籠などを
あげると以下のようになります。
※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])に掲載される神社所蔵の棟札については青字で記します。
先に少しだけ触れている
大正15年(1926)の
『郷社七崎神社誌』は
当時の社司・小泉幸雄氏が
編纂したもので
結びとして書かれた自序に
次のように記されてあります。
神社誌の編纂に志すこと多年。即ち明治37年より大正6年3月に至る14年を以て、漸く完成を見るに至れり。此間資料蒐集に務め、特に盛岡藩南部伯爵家及遠野南部男爵家の古文書の拝見を許され、之れに力を得て多大の成果を収めたり。御両家に対し甚深なる敬意と感謝の誠意を表するものなり。
本誌編纂に当り参考資料は、盛藩旧事記、南部男爵家の御邦内郷村誌、東北太平記、七崎観世音伝話記、其他棟札、不肖幸雄保存せる南部五世伝、南部地雷復、霊験縁起、小泉家系図、言ひ伝並に明治維新に至るまでの事績等の参酌に依るものなるを以て、地方の史実に関するものあるべきも、多少とも本社に関係あるものは或は重複の嫌あるも之を記載せり。
大正6年以降現在までの事績にして、将来記録すべきは之れを記載し且つ新事実の発見する毎に訂正したり。
本年は皇輝ある紀元2600年を迎え奉祝記念として、本誌を印刷に附し広く有志に分ち永久に伝え、以て御神徳発揚の資に供せんとす。
当山近くの七崎神社は
明治になるまでは
当山が管理していた
旧観音堂(寺号・徳楽寺)でした。
小泉家は
明治まで修験家でもあり
旧観音堂に深く関わりがありました。
参考資料にある
七崎観世音伝話記は
幸雄氏の曽祖父にあたる
大学院泰道などが
「古老の伝説」を文政年中に
編纂したものと説明されおり
参詣人の案内役をすることもあった
修験の方々が
一種の手引のような形で
七崎観音にまつわるお話を
まとめられていたことがうかがえます。
引用した自序をみると分かるように
神社誌は参考文献をもとにしつつ
神社所蔵の棟札や
当地での言い伝えを踏まえて編集された
力作といえます。
当時の状況を考えると
大変なご労力があったと思うのです。
この神社誌で
挙げられている棟札と
当山が所蔵する棟札や
一部仏像や仏具などについて
寛永2年(1625)以降のものを
先に列挙してみました。
青字で示したのが神社誌で
触れられているものですが
全体からすると
ごく一部のものですし
お寺の歴史を紐解くうえで
ある意味最も尊い古文書たる
過去帳にも触れられていないので
明治以前のことを述べるには
やはり限界があるように感じます。
当地の大先輩であり
旧観音堂に仕えていただいた
修験の流れを組むお家の
小泉幸雄氏の労作にて
語られるお寺の歴史を
さらに厚みのあるものに
したいと考えております。
また本山の長谷寺や仁和寺や
当時の本坊・盛岡永福寺や
その他多くの関係寺院との
関わりであったり
宗派における節目の行事などを
踏まえると
意義が浮かび上がるものもあるので
そういったことも押さえながら
後世に託すべく『寺史』を
作成したいと思います。
ここでようやく
棟札の本題に入らせていただきます。
ここに至るまでで
かなりの分量をさいたので
今回の棟札の紹介は
少しだけにします。
本堂建替事業まっただ中なので
旧本堂の棟札について見ています。
次の画像資料の通り
この棟札は結構大きく
形は剣形(けんがた)で
表裏に文言が見られます。
幅についてですが
底が21cmで
上に向かって多少
幅が広がっていまして
一番広い所が22cmです。
文言については次回以降
紐解いてまいります。
少しづつ
懐かしさが増してきた旧本堂。
本年から
いよいよ新本堂の建設です。
今回は一昨年から
ピタッと更新が止まっていた
「棟札に耳を傾ける」の
第3稿をアップいたします。
▼以前のものはコチラ
当山は
開創以来1200年もの
歴史が積み上げられた古刹で
これまでも様々な節目にあたり
縁起や由緒が
改めて有縁の方や
ご参詣の方に説かれてきました。
平成令和の本堂建替においても
所蔵される文書や棟札を踏まえ
近世の史料の記述や
最近の諸資料を見直して
普賢院の寺史を
作成したいと思います。
現在発行されている書籍含め
近世の史料がもとになり
当山が紹介されているのですが
近世の史料は
寺史を紐解く上で重要になる
当山の過去帳に触れられていません。
過去帳は他見厳禁ゆえ
公開するようなものではありませんが
住職をつとめられた
先師の御名が記された
尊い古文書でもあります。
近世の史料に目を通してみると
お寺の創建について
諸開山上人の没年齢が
創建年代や中興年代になっていたり
記載される棟札の文言に
誤植が見られるなど
注意を払うべき所が多くあります。
それらをのみ
典拠としてしまうと
当然のことながら
不十分な説明にならざるをえません。
専門性が高く
いわゆる郷土史という
枠組みだけでは
紐解けない部分もあるので
個々の課題を明らかにしつつ
出来る形で
整えていきたいと考えております。
これまでも
当山について
様々なことを紹介して
まいりましたが
最近は資料を添付しつつ
投稿を重ねております。
特に棟札については
文字ばかりよりも
添付した図のような形の方が
断然分かりやすいと思うので
資料を示しつつ
お話を進めていきたいと思います。
ここしばらくは
文化8年(1811)の旧本堂棟札について
お寺の歴史に触れながら
見ていきたいと思います。
資料が現時点で
13枚あるので
投稿を重ねる中で
説明を補足する形式で
「棟札に耳を傾ける」シリーズを
進めていきたいと思います。
▼旧本堂(令和元年お盆の様子)
▼以下、資料画像になります。
以上が、現時点で
用意した画像になります。
まだ未完ですが
とりあえずアップいたします。
ブログの文章よりも
ビジュアル的なので
ストーリーが分かりやすい
のではないでしょうか。
これらの資料をたたき台に
棟札について紐解きつつ
お寺の歴史や伝説についても
紹介させていただきたいと思います。
当山に
七崎観音(ならさきかんのん)として
お祀りされる観音様は秘仏で
旧暦1月17日にのみご開帳されます。
本年は2月28日が
ご開帳にあたり
ご宝前にて
午後8時より法要が行われます。
ということもあり
今月は当山の観音様に関連した
投稿が多めになっております。
これまでも何度か
とりあげてきましたが
現在、七崎観音として祀られる
聖観音像はもともと
御前立(おまえだち)であり
本来秘仏として祀られていたのは
別の聖観音像であるということが
最近になって判明しました。
御前立と秘仏が入れ替わったのは
明治になってからの
神仏分離における諸対応であったり
明治から昭和にかけての
諸住職が交代されるときに
十分な申し渡しがなされなかったり
戦争期に一時住職が不在となったり
様々な要因が重なって
引き起こされたと思われます。
ある意味
歴史に翻弄された結果と
いえるのではないでしょうか。
もともとの形と
現状との違いは
“激動の歴史”を背景としているので
この部分も
語り継いでいくべき
エピソードだと感じています。
今後は江戸期までの秘仏を
本七崎観音(もとならさきかんのん)
と呼ばせていただきます。
さて
本日はこの本七崎観音と
三戸沖田面の早稲田観音について
とりあげたいと思います。
今回も
画像資料を用意したので
そちらをご覧いただきながら
お読みいただければと思います。
画像資料は要点を
まとめているので
かえって分かりやすい
かもしれません。
七崎観音と早稲田観音は
歴史的に深く関わっており
いずれの別当も
「永福寺自坊」でした。
当地には
永福寺の地名が残りますが
これはかつて当山が
永福寺と呼ばれていたためです。
当山は
延暦弘仁年間(8C末〜9C初頭)に
圓鏡上人により開創され
承安元年(1171)に
行海上人により
開基(過去帳には中興とある)
されたお寺です。
また鎌倉〜江戸時代初期には
永福寺の寺号が用いられました。
永福寺(えいふくじ)は
鎌倉二階堂の永福寺(ようふくじ)の
僧侶である宥玄を開祖として
建久2年(1191)に三戸に
建立されたとされます。
この建立には経緯があり
そのことについては
以前も何度か紹介しておりますので
そちらをご参照下さい。
要するに
三戸に建立された永福寺が
当山も管理することとなり
次第に当山も
永福寺と呼ばれるように
なっていったとされるわけです。
三戸の永福寺と
七崎の永福寺は
元和3年(1617)盛岡に
永福寺が建立されるに伴い
自坊と位置づけられました。
盛岡を本坊とし
旧地である三戸と七崎の永福寺は
自坊・嶺松院(れいしょういん、三戸永福寺)
自坊・普賢院(ふげんいん、七崎永福寺)
という関係になります。
前置きがとても長くなりましたが
早稲田観音は嶺松院が別当寺で
七崎観音は普賢院が別当寺なので
両観音は関わりがとても深いのです。
本堂建替という
歴史的節目ということもあり
ここ数年
これまでにも増して
本格的に様々な調査を
進めてまいりましたが
早稲田観音の観音像と
本七崎観音の観音像について
次のような可能性が
浮上いたしました。
歴史的背景と
棟札などの史料を踏まえると
この2つの観音像は
かなり高い可能性で
同じ時期に同じ仏師あるいは仏所で
作仏されたものと思われます。
いずれも
南部重直公の奉納で
宥鏡上人が本坊住職の時期です。
宥鏡上人は
本山の長谷寺(奈良県桜井市)から
おいでになり
本坊住職となられた方です。
長谷寺の本尊は
十一面観音であり
また長谷寺は西国三十三観音霊場の
草創に深く関わるお寺で
“観音信仰の拠点”ともいうべき所です。
長谷寺からいらした宥鏡上人は
観音様とご縁の深い方であり
自坊(普賢院と嶺松院)観音堂の
再興にご尽力されていたことは
後世に伝えたい事績といえます。
仏像の造形においても
とても多くの共通点を
見い出すことが出来ます。
本七崎観音は
所々かなり傷んでいたため
本堂建替事業のなかで
修繕することにし
現在修繕に取り掛かっております。
修繕を決めた当初は
まだ由緒も判明していませんでしたが
不思議なもので
最近になって点と点が一気につながり
色々と浮かび上がってきました。
これまで本七崎観音は
旧本堂の観音堂の内殿に
安置されており
内殿の観音扉が開かれるのは
年に1回のみだったので
そもそも調査する機会が
ありませんでした。
本堂建替という大きな取り組みが
本七崎観音の由緒を
明らかにしてくれたように
感じています。
普賢院は
糠部三十三観音霊場
第十五番札所でもあります。
札所の観音様である
七崎観音(ならさきかんのん)は
旧暦1月17日にのみ
ご開帳されます。
本年は2月28日が
ご開帳にあたり
ご宝前にて法要が行われます。
本年は仮本堂で行う
はじめてのご開帳でして
次の写真のように
主な仏像を仮観音堂から
お遷しいたします。
現在、七崎観音として祀られている
聖観音像は貞享4年(1687)に
当時の藩主・南部重信公により
奉納されたもので
これは御前立(おまえだち)として
納められております。
七崎観音として祀られていたのは
明暦元年(1655)に
南部重直公ご奉納の
「金色の聖観音」(本七崎観音)ですが
江戸から明治に変わる際の
神仏分離への対応に追われた
“ゴタゴタ”の中で
もともとの秘仏(本七崎観音)と
御前立が入れ替わったと思われます。
本七崎観音については
史料的根拠の確認が出来たため
先日その由緒が判明しました。
本七崎観音は
現在修繕中でして
お戻りは来年の予定です。
本年のご開帳の際
現・七崎観音のほかに
仮本堂にお祀りする観音像のひとつは
千手観音坐像です。
この千手観音坐像は
田子町出身の高僧である
奇峯学秀(きほうがくしゅう)が
作仏されたもので
諸事踏まえるに
当山の中興期である
享保年間(1716〜1736)に請来され
千手観音堂に祀られたと思われます。
「青森の円空」といわれる
学秀和尚の仏像は
学秀仏(がくしゅうぶつ)と
いわれています。
本堂建替事業が開始される
少し前より着手していた
仏像・仏具・文書の調査を契機として
千手観音坐像が学秀仏であると
平成31年2月に確認されました。
凶作や飢饉が立て続いた
難しい時代において
切実な祈りが込められ
納められたものと思われます。
独特の雰囲気の
千手観音坐像がまとう
穏やかな雰囲気は
世の穏やかなることへの
願いが重ねられていると感じます。
普賢院に祀られる
七崎観音(ならさきかんのん)は
毎年旧暦1月17日にのみ
ご開帳されます。
本年は2月28日が
ご開帳の日にあたり
当日は午後8時よりご宝前にて
法要を執り行います。
例年は護摩(ごま)を
行うのですが
仮本堂では護摩が出来ないため
本年は別形式で
ご祈祷の法要を厳修いたします。
この行事は「おこもり」といわれます。
おこもりの時季は
七崎観音や当山とのご縁を
お深めいただきたいとの
思いもあり
歴史や伝承について
ブログで取り上げております。
その一環として
「稀代の古刹」と銘打ち
気まぐれに投稿を
重ねてきましたが
今回は久しぶりの更新です。
今回は
先日お伝えした
南部重直公ご奉納の
聖観音(もとの七崎観音)について
史料に触れながら
見たいと思います。
明治9(1876)年に
国に提出された
青森県の地誌である
『新撰陸奥国誌』(しんせんむつこくし)。
江戸末〜明治初期の
当地について探ることが出来る
貴重な史料で
当ブログでも
しばしば触れております。
旧本堂では
観音堂は本堂内の内御堂で
内陣隣に設けられていましたが
もとは本堂とは別に
建立されていたお堂で
明治までは
現在の七崎神社の場所にあり
徳楽寺という寺号を持っていました。
明治になり
当地では神仏分離の対応として
当山が別当寺をつとめていた
観音堂(徳楽寺)が廃寺となり
七崎神社に改められます。
ここでは
『新撰陸奥国誌』の
当地の記述について
「発見」されたことを踏まえつつ
見てみたいと思います。
では
『新撰陸奥国誌』の
当地についての箇所を
以下に引用いたします。
※一部()で補足しています。
※色字は筆者によります。
※一部「※」で注記・補足しています。
※長いですが、研究メモの兼ねているのでご容赦下さい。
七崎村
【中略】
当社は何の頃の草創にか
究て古代の御正体を祭りたり
旧より正観音と称し
観音堂と呼なして
近郷に陰れなき古刹なり
数丈なる杉樹
地疆に森立して空に聳ひ
青苔地に布て如何さま
物ふりたる所なり
去は里人の崇仰も大方ならす
四時の祭会は元より
南部旧藩尊敬も他の比にあらす
常に参詣も絶えす
廟堂の構界区の装置まて
昔を忍ふ種となる所なり
堂は悉皆国知の修営にして
山城守重直
(始三戸に居り后盛岡に移る)
殊に尊信し
五百五石五斗三升三合を寄附し
繁盛弥益し
盛[岡]の永福寺 別当し
当所には普賢院を置き
外に修験 善覚院 大覚院
社人十二人 神子一人
肝煎等の者まて悉く具り
普賢院に十五石
善覚院に五石
大覚院に五石三斗
社人 神子 肝煎 各五石を分与し
明治元年以前は
毎月十八日 湯立の祈禱あり
正月七日◻丑の刻 護摩祈禱あり
三月 鳴鏑(なりかぶら)の祈禱あり
ヤフサメと云う
四月七日の◻或は昔出現ありし所なりとて
八太郎(九大区一小区)に旅所ありて
黒森浜に輿を移し
其時 別当 役々残らす扈従し
氏子百五十人余
その他遠近信仰の従相随ひ
八太郎浜は群参千余人
海上には小艇に乗して
囲繞すること夥し
旅所は黒森にありしか
戊辰後これを廃し
五月五日は四十八末社御山開と
唱える祈禱あり
(今末社は彊内に十二社を存す
当時は在々の山間等
数所にありと云う)
八月六日より十二日まで
荒神祭とて四条諸江郷の祭あり
同十三日中の祭と唱て
五月端午の祭と同式あり
同十七日 観音堂大法会あり
九月五日 御留(おとめ)の祭と云て
五月五日の祭と同じ祭あり
十二月十七日 年越しの祈禱あり
此の如く厳重の法会を
修行し来りたる
奇代の古刹なりしに
何故に廃除せしにや
明治三年 神仏混淆仕分の節は
三戸県管轄にて
県より廃せられたりしにて
元来観音を祭りし所なれは
神の儀に預るへき謂れなく
村民の昔より
崇め信せる観音なれは
旧貫を痛願なしけれとも
了に仏像は元宮と云て
壊輿祭器を納め置く所に
安置すへきに定れり
元宮は
往古草創せる旧阯にして
永福寺より南に当り一丁
(字を下永福寺と云う)
一間半四方の堂あり
(東に向ふ)
破壊に及ひしかは
修覆中は仮に
旧社人 白石守か家に安す
観音堂は元より
神社の結構に異なるを
廟殿の備もなく
仏像を除て其ままに
神を祭れはとて
神豈快く其の斎饌を
受へけんや
この廃除せる根源は思に
仏子の徒(ともがら)
僧衣を褫(とい)て
復飾せんと欲するに外ならす
左許(さばかり)の古刹を壊て
神の威徳を汚蔑すかの
小児輩(ちいさな子どもの意)
土偶人(土で作った人形の意)
を配置して戯弄するに異ならす
昔は仏子の度牒を受けて
律を壊る者は還俗せらるる
布令なりけれは
一たひ仏子たるもの
還俗するは
罪人と同く
仏子甚厭ひたりしと
◻◻の如く異なれり
社人の伝て
観音は正観音なと云伝れとも
形丸く径五寸厚二分の板銅にて
像は高出たるものにして
十一面観音の容に見ゆ
然れとも旧年の古物
形像定かに弁へからす
旧数枚ありし由なりしか
正保(1645〜1648)の
頃にや天火に焼し時
多消滅し全体なるもの
僅に一枚を存す
缺損たるものは数枚ありと云う
言か如んは則
御正体と称する古代の物にて
神仏共に今世まま存す
社人其何物たるを知らす
神祭豈難からすや
然るに里人
又七崎神社由来と
云ことを口実とする
全く後人の偽作なれとも
本条と俚老の口碑を
採抜せるものなるへけれは
風土の考知らん為に左に抄す
七崎神社
祭神
伊弉冉命[イザナギノミコト]
勧請之義は古昔天火に而
焼失仕縁起等
無御座候故
詳に相知不申候
異聞あり
ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして
勧請の由来は天災に焼滅して
縁起を失ひ詳らかなることは
知かたけれとも
四条中納言 藤原諸江卿
勅勘を蒙り◻刑となり
八戸白銀村(九大区 三小区)の
海浜に居住し
時は承和元年正月七日の
神夢に依て浄地を見立の為
深山幽谷を経廻しかとも
宜しき所なし居せしに
同月七日の霄夢に
当村の申酉の方
七ノの崎あり
其の山の林樹の陰に
我を遷すへしと神告に依り
其告の所に尋来るに大沼あり
水色◻蒼
其浅深をしらす
寅卯の方は海上漫々と見渡され
風情清麗にして
いかにも殊絶の勝地なれは
ここに小祠を建立したり
則今の浄地なりと
里老の口碑に残り
右の沼は経年の久き
水涸て遺阯のみ僅に
小泉一学か彊域の裏に残れり
当村を七崎と云るは
七ツの岬あるか故と云う
又諸江卿の霊をは荒神と崇め
年々八月六日より十二日まて
七日の間 祭事を修し来たれりと
(以上 里人の伝る所
社人の上言に依る)
この語を見に初
伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも
縁起記録等なく詳ならされとも
南部重直の再興ありし頃は
正観音を安置せり棟札あり
(※聖観音安置の記述は七崎神社所蔵の貞享4年[1687]の棟札)
其文に
【棟札(当山所蔵)の文言は省略します】
(※明暦元年[1655]の観音堂並十二末社再興棟札)
(※明暦元年再興の観音堂は三間四方)
とあれは証とすへし
又遙后の物なれとも
封 奉寄附七崎山聖観世音菩薩
右に安永四乙未年(1775)
左に四月七日
別当善行院と■付し灯籠あり
旧神官小泉重太夫か祖
初代 泉蔵坊と云るもの
元禄中(1688〜1704)
別当職となり
大学院 正学院 正室院等あり
十一代大学院
明治四年正月復飾し神職となり
小泉一学と改め
子 重大夫嗣
同六年免す
同 白石守か祖
初代 明正院 承応中(1652〜1655)
別当となり后
行学院 善正院 善光院 善行院
善覚院 善教院 善道院 善明院等あり
十五代の裔
善行院 明治四年正月
神職に転じて白石守と改め
同六年免せらる
祠官兼勤五戸村稲荷神社新田登
寺院
普賢院
支村永福寺の西端にありて
旧観音堂の別当なり
大和国
式上郡長門寺小池坊末寺真言宗
宝照山と号す
建仁中(1201〜1203)の
建立の由伝れとも
往年火災に罹て記録を失し
詳悉ならす
寛保元年(1741)辛酉十一月
快伝と云る僧の中興なりと云り
※寛保元年十一月は快伝(傳)上人の没年月。
※普賢院開基は承安元年(1171)。
※ここでいう「開基」は再興や復興の意味。
※建仁中は開基・行海上人の没年と思われる。
※江戸期の過去帳には行海上人は中興開山とされている。
※当山開創の圓鏡上人は弘仁8年(817)5月15日に示寂。
※火災は文化7年(1811)。
本堂
東西六間南北七間
本尊は愛染明王 東向
※実際は東西六間南北八間(文化8年[1811]建立)
※文化7年(1810)以前は八間×七間
廊下
一間半に一間
本堂に続く
庫裡
東西五間半
南北三間半
本堂北にあり
※享保18年(1733)快傳上人が建立。
※快傳上人は庫裡建立の際、観音山(旧観音堂[現在の七崎神社]のある山)に2000本余り杉を植えたと棟札に記載。
【以下、省略】
※上の俯瞰図をもとにした再現イメージ
〈引用文献〉
青森県文化財保護協会
昭和41(1966)年
『新撰陸奥国誌』第五巻
(みちのく双書第19集)
pp.22-30。
引用した箇所の色字部分を
いま一度見ながら
補足していきたいと思います。
堂は悉皆国知の修営にして
山城守重直
(始三戸に居り后盛岡に移る)
殊に尊信し
五百五石五斗三升三合を寄附
全てのお堂は
全て藩の修営であり
特に南部重直公の信仰篤く
五百五石五斗三升三合を寄附した
と記されており
重直公について触れられています。
次の箇所では
慶安2年(1649)の
落雷による観音堂焼失以前について
紐解く手がかりとなる
情報が見られます。
観音は正観音なと云伝れとも
形丸く径五寸厚二分の板銅にて
像は高出たるものにして
十一面観音の容に見ゆ
然れとも旧年の古物
形像定かに弁へからす
旧数枚ありし由なりしか
正保(1645〜1648)の
頃にや天火に焼し時
多消滅し全体なるもの
僅に一枚を存す
缺損たるものは数枚ありと云う
ここには
焼失時まで七崎観音として
祀られていた御正体(みしょうたい)
について触れられています。
かつては七崎観音として
懸仏(かけぼとけ)が
祀られていたとされますが
そのことについて
述べられています。
それによると
御正体である懸仏は
銅造のもので
半径5寸(約15cm)
厚さ2分(約6mm)
観音像が取り付けられて
いたようですが
古い時代のことゆえ
細かなことは分からないようです。
懸仏は
いくつかあったそうですが
火災のため1枚を残して
ダメになってしまったようです。
火災について
「正保(1645〜1648)の頃」と
ありますが
慶安2年(1649)に落雷があり
火災が発生し
観音堂が焼失しております。
南部重直の再興ありし頃は
正観音を安置せり棟札あり
となっていますが
ここで記される棟札とは
現在七崎神社が所蔵している
貞享4年(1687)の棟札です。
この貞享4年(1687)というのは
南部重信公が
御前立(おまえだち)として
現・七崎観音の聖観音像を
奉納された年であり
棟札というのはその際の
ものと思われます。
その棟札に重直公が
明暦元年(1655)に
3間四方の観音堂を建立して
金色の聖観音像を安置したとあり
その聖観音像というのが
これまで由緒が分からなかった
古い観音像だったというわけです。
重直公が観音堂ほか末社を
再興された際の棟札は
当山が所蔵しております。
今回
見てきたことをまとめると
かつての観音堂には
懸仏が祀られていたが
落雷による火災により
観音堂は焼失したうえ
懸仏も多くが失われ
その後
重直公により再興され
聖観音像が安置された
ということになります。
長らく忘れられていた
観音像の由緒が
本堂建替という
とても大きな節目にあたり
再び掘り起こすことが出来
深いご縁を感じています。
昨年、由緒が明らかになった
古い観音像(現在修繕中です)。
本堂建替に伴い取り掛かっている
仏像・仏具や文書の整理の
甲斐ありここ何年か
歴史的発見が続いていますが
観音像の素性が判明したことも
とても大きなことでした。
▼関連記事はコチラ
普賢院の観音堂本尊である
七崎観音(ならさきかんのん)の
大切な行事「おこもり」が
本年は2月28日(旧暦1月17日)に
行われます。
そういった時季でもあるので
昨年新たに判明したことの
整理を行い
なるべく分かりやすい形で
紹介したいと思います。
ダイジェストを
次の画像にまとめたので
まずはそちらをご覧下さい。
昨年新たに判明したのは
図でいうと青で示された箇所の
聖観音像についてです。
こちらの観音像は
とても古いもので
昭和期までは
大きな厨子に
納められていました。
大きな厨子は
傷みが顕著だったため
すでに処分されています。
その由緒については
長らく不明だったのですが
これまで積み重ねてきた
“探求”が功を奏しまして
明暦元年(1655)に
南部重直公により奉納された
ということが判明しました。
旧観音堂は
慶安2年(1649)に落雷により
焼失しています。
その後
重直公を施主として
承應3年(1654)〜明暦2年(1656)に
観音堂ほか末社十二社が
再興されおり
その棟札が残っております。
『寺社記録』によると
落雷による観音堂焼失後の
慶安4年(1651)にも
再興されたと記述が見られます。
この時期
重直公は病を患っており
藩内の多くの寺社仏閣に
病気平癒のご祈祷をするよう
藩令が下されていました。
病状が一時回復した重直公は
“ご祈祷の御礼”もかね
各所の寺社仏閣の
修繕事業の施主となられています。
七崎観音堂についても
その時期とちょうど重なります。
重直公は
寛文4年(1664)年秋にご逝去され
同年冬に次代藩主となられたのが
重信公で
現・七崎観音の聖観音像を
ご奉納された藩主です。
重信公は「御前立(おまえだち)」
として聖観音像を
納められています。
「御前立」とは
本尊などの主要な仏像の前に
ご安置される仏像です。
これまで触れてきたことを
踏まえるに
明暦元年(1655)以降は
重直公がご奉納された
聖観音像が七崎観音として
祀られていたと考えられます。
重直公ご奉納の聖観音が
七崎観音として祀られ
その御前立として
重信公ご奉納の
現・七崎観音が
祀られていたと思われます。
ではなぜ現在の形に
なったのかについてですが
思い当たる所が
いくつかありまして
この点については
後々記させていただきます。
▼『新撰陸奥国詩』掲載の俯瞰図をもとに
近世の当地の再現イラスト。
▼近世における主なお堂の
建立年代と規模。