地鎮式に向けて〜お世話になった方々〜

今月行われる地鎮式。

 

儀式に必要な

お水と仏具を整えるにあたり

大変お世話になった方々が

いらっしゃいます。

 

その方々との

アーカイブ動画を作成しました。

 

本堂建替を

無魔成満させていただくことは

お世話になった皆様への

恩返しにも重なるものと思います。

 

感謝を胸に

地鎮式に臨ませていただきます。

 

日昇と日没

毎月1回有志の皆様と

当山を会場にして

論語の勉強会をしています。

 

1時間少々の時間ですが

とても有意義な時間であると

いつも感謝しております。

 

論語と向き合うご縁をいただいて

早いもので3年が経ちます。

 

八戸市知内の洗心美術館を

管理されている

小坂技研会長の小坂明さんが

お声がけ下さり

始まった論語教室は

とても魅力的であると感じています。

 

洗心美術館には

縄文土器も多く展示されています。

 

小坂会長より

縄文時代についての書籍を

いただいたことがありますが

その中に

太陽の運行規則について

縄文の方々は

熟知されていたということが

述べられていました。

 

夏至と冬至

春分と秋分のことを

二至二分(にしにぶん)といいますが

この4日は太陽の運行において

特別な日でもあります。

 

夏至には日出・日没が最も北側により

冬至には日出・日没が最も南側によります。

 

春分と秋分は

日出が真東で日没が真西となります。

 

これまでブログでも

何度も紹介しておりますが

当山は真東を向けて建てられており

お寺から真東に伸びるように

道がのびております。

 

春分と秋分には

真東にのびる道のちょうど先から

太陽が昇るように

位置されています。

 

夏至の日出となると

春分の時(真東)に比べかなり

北側によった位置からの日昇で

冬至の日出も

秋分の時(真東)に比べかなり

南側によった位置からの日昇です。

 

当山では境内の立木伐採が

3月に行われたことにより

日没する西側方面の視界が

開けました。

 

これまでは

木々に覆われていたため

日没を明瞭に確認することが

出来なかったのですが

最近はクリアーに

見渡すことが出来ます。

 

そこで感じたのは

当山から見える

年間を通しての日没エリアが

思った以上に広いということです。

 

当山は

十和田湖伝説のお寺でもありますが

日没の方角は

十和田湖の方角でもあります。

 

日昇に加え

日没についても

あらためてじっくり

観察してみたいと思います。

 

 

▼縄文にお詳しい小坂会長より

縄文ラーメンをいただきました。

作法からうかがえる本堂の尊さ

本日は新本堂建設の

施工部会が行われました。

 

新本堂が完成する来年10月までの

行程確認であったり

今後についての確認を重ね

有意義な会議だったと思います。

 

本堂建替に伴う主な儀式として

地鎮式(じちんしき)

上棟式(じょうとうしき)

落慶式(らっけいしき)

の3つがあげられます。

 

来月は地鎮式を行います。

 

真言宗における地鎮式は

大地を司るとされる

堅牢地神(けんろうちじん)を

本尊とした地鎮法という

修法を行ったうえで

式典が行われます。

 

真言宗には多くの

法流(ほうりゅう)

というものがあります。

 

法流というのは

宗派とはまた異なるもので

「作法の流派」といった

側面があるものです。

 

伝法院流

中性院流

中院流

三宝院流

西院流など

大まかなものだけで12流あり

さらに細分化すると

ものすごく沢山の

法流が伝えられます。

 

法流が複数にまたがることは

珍しくはなく

多くの法流の伝授を

受けられている

事相家の方もいらっしゃいます。

 

話が少し専門的に

なってしまいましたが

その法流により

地鎮式の作法も異なります。

 

当山にて主に用いられる法流では

本堂を建立する際は

地鎮法という作法を

行いますが

その他の

お堂や庫裏などの建物を

建立する際は

土公供(どこうぐ)という

作法が行われることとなっています。

 

一般的な感覚ですと

本堂やその他の建物は

あまり違いがないように

思われると思いますが

作法上は

意味合いが全く異なります。

 

この点は

専門性がかなり高いことですが

僧侶の立場からすれば

とても重要な点であると同時に

普賢院の歴史を

紐解く上でも踏まえるべき

ことだと感じます。

 

地鎮法の

次第を掘り下げてみると

本堂という建物が

とても尊いものだと

いうことがよく分かります。

 

北条時頼公のご縁

鎌倉の建長寺の調査員の方が

研究調査で当山に

お立ち寄り下さいました。

 

調査員の方は

数年後に控える

建長寺の遠忌に向け

北条時頼伝説ゆかりの地を

調べていらっしゃるとの

ことでした。

 

北条時頼が

奥州を行脚された際に

当地に宿泊されたと

言い伝えられております。

 

さらに

鎌倉というと

とてもご縁の深い場所でして

永福寺(えいふくじ)という

寺号(じごう、お寺の名前)の由来は

鎌倉の永福寺(ようふくじ)

とされます。

 

鎌倉の永福寺は源頼朝公が

平泉の二階大堂(大長寿院)を

モデルにして建立したとされます。

 

また鎌倉というと

長谷寺が有名ですが

この長谷寺は奈良の長谷寺と

深く関わりがあります。

 

様々なお話を

お伺いさせていただくことも出来

とても尊いご縁を

頂戴したと感謝しております。

 

旧本堂再建前後の年表

2016年にこのHPが

立ち上げられ

翌2017年からブログを

毎日更新しております。

 

本日時点で

ブログの原稿数は1736。

 

ブログの内容は様々でして

日記もあれば

研究メモや覚書もあります。

 

ブログを始めた当初

思い描いていた予定として

色々と書き溜めて

後々に見直して

改めて整理していくつもりで

日々更新してまいりました。

 

その一環として

ここ最近は空き時間を使い

資料作りをしています。

 

明日はオンラインで

研究所での発表があるというのに

むしろ資料作りの方に

力を注いでしまいましたが

とても充実した時間となりました。

 

ブログの内容等から

拙僧(副住職)は

お寺の歴史を含む地域の歴史や

地域の伝承・伝説について

研究していると

お捉えの方も

いらっしゃるようですが

研究のメインテーマは

「マインドフルネス」です。

 

昨年度はアメリカの

歴史(19世紀以降)や

関連するキーパーソンや団体の

展開について

調べておりました。

 

その内容については

ブログでお伝えする機会は

あまり無いと思います。

 

話題を戻しまして

旧本堂が再建される前後の

享和・文化年間について

年代の分かる主な項目を

年表に記してみました。

 

まとめると

とても分かりやすいなと

つくづく感じます。

 

こういった形で

少しづつでも画像資料を

用意したいと思います。

 

南祖坊伝説の諸相⑫ 月と太陽

当山は十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)が

修行したとされるお寺で

南祖坊の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)が

お祀りされております。

 

一昨年に

十和田湖伝説を伝える

江戸末期の写本

『十和田山神教記』を

手がかりに

当山史と照らし合わたうえ

伝説が想定している

年代について仮説を

試論してみました。

 

▼コチラがその拙稿です。

南祖坊伝説の諸相⑪南祖坊はいつ入定したか?

 

▼コチラは『十和田山神教記』の絵本動画です。

えほん動画『龍になったおしょうさま』

 

度重なる火災で

大量の文書が焼失していることもあり

古代や中世について不明期がある中

過去帳を丹念に調べていたところ

平安期の先師様のお名前を

発見いたしました。

 

▼その時のブログはコチラです。

平安期の先師がお一人発見されました

 

仁和3年(887)7月23日がご命日の

「日照法師 當山」との

過去帳の記載が目に止まったときは

何とも不思議な感覚だったのを

覚えております。

 

その発見も反映して

入定仮説について

次のように

年表にまとまてみました。

 

 

南祖坊は

当山2世・月法律師(がっぽうりっし)の

弟子と伝えられます。

 

昨年発見された日照法師の

没年から考えるに

日照法師も月法律師の

直弟子であった可能性もあります。

 

さらに日照法師の没年は

南祖坊の入定仮説①(878〜892)と

奇しくも重なっています。

 

「月」に対して太陽(日)という

師弟の法名についても

何かしら因縁めいたものが

感じられます。

 

もしかしたら

日照法師は南祖坊の

モデルとなった先師様

なのかもしれません。

 

さらに十和田湖関連でいうと

月日山という霊跡があり

日月神社が鎮座します。

 

月と太陽は

日月輪(にちがちりん)ともいい

仏道において深い意味を持つので

十和田信仰を紐解く上で

教相(きょうそう)的かつ

事相(じそう)的に捉えてみると

新たな意味合いが

浮かび上がってくると思います。

 

参考までに

月輪を光背とする尊格は

とても多いのですが

当山本尊である愛染明王は

日輪を背負った尊格です。

 

本堂建替という

歴史的な節目ということもあり

所蔵される仏像仏具や古文書などを

大掛かりに整理したおかげで

新たな発見や気づきが沢山ありました。

 

それらを踏まえて

十和田湖伝説を改めて

紐解いていきたいと思います。

 

開創から江戸期までの年表

分かっていること

伝えられていること

分からないこと

新たに分かったことなど

資料として整理してみると

それにより当たらたな着想を

得られることがよくあります。

 

普賢院の歴史は

なかなか複雑な部分があり

色々と専門的なものを

踏まえる必要があります。

 

お寺の法務や宗派の宗務に

励ませていただく傍ら

本格的に調査しつつ

寺史作成に向け

調査等に本格的に

取り組んでまいりました。

 

以前ブログで

年代が分かっている関連事項を

時系列にズラッと並べてみたのですが

これがまたとても良い資料となり

歴史的な流れを

これまで以上に把握しやすく

なったように感じました。

 

ただ

掲載項目が多すぎるのと

若干見にくいようにも感じたので

草創〜江戸初期までについて

当山の項目のみピックアップして

年表にしてみました。

 

草創期から江戸時代にいたる

約800年のうち約550年間は

不明期にあたります。

 

大量の文書が

度重なる火災で焼失したことが

一因とされています。

 

火災により

長期間の歴史が

葬り去られてしまった中でも

開創開山の頃や開基開山の頃の

ご住職方の名が

今に伝えられていることは

奇跡的なことだといえるでしょう。

 

 

▼以下は、以前作った資料です。

着々と資料が増えてきました。

 

普賢院の古代史をふりかえる

古代におけるお寺を

①中央寺院(大寺)

②地方寺院

③村の小堂

に分けて捉え考える

研究手法があります。

 

あまり専門的なことを

ここで記す余裕はありませんが

古代仏教の全体像を

「国家仏教」と捉えてきた

“従来の”見解を批判し

信仰形態の解明を試みながら

古代社会で仏教がどのように

受容されていたのかを

模索するアプローチだと

お考えいただければ十分かと思います。

 

地方寺院についていえば

7世紀後半から8世紀にかけて

各地に多数のお寺が

急速な勢いで創建されて

いったそうです。

 

考古学的調査が進むことで

「古代寺院」が

多く存在していたことが

明らかにされており

地方寺院の多くは

地域の有力者がリーダーとなったり

支援者となったりして

建立されたと考えられています。

 

東北地方でいうと

平泉の奥州藤原氏以前の

安倍氏や清原氏などは

仏教に対する理解が深く

早い時期から

仏教が受容されていたと

考えられるそうです。

 

当山の開創開山は

延暦弘仁年間(8C下旬〜9C上旬)に

圓鏡(えんきょう)上人によります。

 

よく用いられる時代区分上は

古代の創建となります。

 

当山の本尊は

もともと十一面観音とされますが

十一面観音はかなり古い時代から

信仰されていた尊格です。

 

圓鏡上人の次代が

月法律師(がっぽうりっし)です。

 

月法律師は

十和田湖伝説の南祖坊の師と

される方です。

 

当山の鎌倉以前の先師様で

お名前が残っているのは

先のお二人の他

鏡宥(きょうゆう)上人

日照(にっしょう)上人

さらに

鎌倉末期〜平安初期の先師様では

宥海(ゆうかい)上人

行海(ぎょうかい)上人が

今にその名を伝えています。

 

行海上人は

承安元年(1171)に

当山を開基開山された方で

過去帳には中興開山とも

記されています。

 

令和3年は

開基開山から850年という

メモリアルイヤーにあたります。

 

行海上人は

観音山や七崎山と呼ばれていた

旧観音堂(七崎山徳楽寺)の地に

7つ星になぞらえて

杉を植えたと伝えられます。

 

旧観音堂は明治になり廃寺となり

跡地には七崎神社が建立され

現在に至っております。

 

当地には

「祈りの痕跡」を伝える遺跡も存在します。

▼参考記事(2019/3/16)はコチラ

【以前の記事】古代の祈りの痕跡とお寺の起源

 

1200年前の開創開山から

850年前の開基開山までの

約350年は不明なことも

多いのですが

その中でも先師様のお名前や

伝承や伝説が今に伝えられていることは

とても尊いことだと感じています。

 

ありがたいことに

ここ数年は様々な研究に

触れさせていただく機会が多く

新たな視座を得たり

新たな発見や気づきが多く

当山の歴史や伝承などの

整理や研究も

アップデートを

重ねさせていただいております。

 

先にも記しましたが

本年は開基開山から850年という

メモリアルイヤーなので

「普賢院古代史」について

これまで以上に

背景を踏まえて

探ってみたいと思います。

 

明治期のご住職について「発見」がありました

明治期の

普賢院過去帳を

調べていた所

たまたま明治期の

当山住職についての

記述を見つけたのですが

これが凄い「発見」となりました。

 

激動の明治期に

当山住職を務められていた

髙橋宥浄(ゆうじょう)師

という方について

これまで詳しいことは

分かりませんでした。

 

これまで

分かっていたこととしては

①没年月日は明治31年4月19日

②父は宥芳師(当山先師かつ嶺松院先師)

③母の墓が当山にある

④観音堂復興に尽力

(明治19年に内御堂奉造[棟札アリ])

といった位でした。

 

今回見つけた過去帳の記述には

宥浄師について

「厚みのある」情報が見られます。

 

該当箇所の画像を貼って

次のように画像資料にしてみました。

 

明治期の過去帳を

調べるきっかけになったのは

会津斗南(となみ)の末裔で

当山有縁のお家である

三村家のご先祖さまについて

確認したいことがありまして

目を通しておりました。

 

そういった経緯がなければ

丹念に目を通すことも

なかったと思います。

 

本日3月21日は

当山の宗祖・弘法大師が

ご入定(にゅうじょう)された

“ご命日”でもあり

真言宗では大切にされる

一日でもあります。

 

そのような日に

不思議なめぐり合わせで

当山の一先師様のことについて

発見を得られたことに

大きな意義を感じます。