三国伝記について③最古の十和田湖伝説のあらすじ

これまで

“最古の十和田湖伝説”とされる

『三国伝記』巻12第12話

「釈難蔵得不生不滅事」を見る

前段階として

『三国伝記』や撰者・玄棟(げんとう)に

伺える長谷信仰や

十一面観音信仰について

かなりザックリではありますが

触れてまいりました。

 

今回は

“最古の十和田湖伝説”の

あらすじを見てまいります。

 

以下、拙僧(副住職)の拙訳にて

大まかなエピソードを

ご紹介いたします。

 


「難蔵が入定するお話」

 

むかし

播州(現在の兵庫)の

書寫山(しょしゃざん)に

釈難蔵(仏弟子の難蔵の意)

という者がいました。

 

難蔵は法華経という

尊いお経を

とても大切にした

法華持経者であり

修行者でした。

 

即身における

弥勒出世値遇を誓い

読誦、回峰、参詣

怠ることなく

心して精進に

励みました。

 

難蔵が熊野にて

三年の山籠(さんろう)にのぞみます。

 

千日となる夜

御殿から翁が現れ

常陸と出羽の境にある

言両(ことわけ)山に

居住すれば

弥勒出生に値遇できると

告げられました。

 

お告げをうけ

言両山(ことわけやま)へ赴くと

その山は錦の如くに花に彩られ

藍の如くの円池があり

老巨木が生い茂り

奇岩や塊石がそびえる

まさに深山幽谷でした。

 

難蔵は

円池の端(はた)に

草庵をこしらえました。

 

草庵に住んで

法華経を読誦する様子は

まるで仙人の如くです。

 

毎日行われる

難蔵の読経を

18、9歳程の美女が

聴いていました。

 

難蔵は

不思議に思いながらも

日々を過ごしました。

 

ある時

その女性は難蔵に

自身が池の主の龍女であることを明かし

自身と夫婦になって欲しいと

告白します。

 

龍女は自身と夫婦となれば

龍の寿命である龍寿を得て

弥勒出世の値遇という

難蔵の願いも達成されると

難蔵に伝えます。

 

難蔵は

あれこれと深く悩みましたが

龍女と夫婦となることを

決意します。

 

ある時

龍女は難蔵に

八頭大蛇(やずだいじゃ)

のことを告げます。

 

龍女がいうには

この言両(ことわけ)山から

西に三里にある

奴可嶽(ぬかのたけ)の池に

八頭大蛇がいて

その八頭大蛇は

龍女を妻として

一月の上旬十五日間は奴可の池

下旬十五日間はこの池に

住むとのことです。

 

そしてもうじき

八頭大蛇がやって来るので

そのことを心得てほしいと

伝えられます。

 

龍女の言葉を聞き

難蔵は恐れる気配もなく

八巻の法華経を頭に戴くと

九頭龍(くずりゅう)になりました。

 

そして

例の八頭龍(大蛇)が

やって来きました。

 

八頭龍(大蛇)と九頭龍は

七日七夜「食い合い」ました。

 

激しい戦い(食い合い)の末

八頭龍は「食い負け」ます。

 

八頭龍(大蛇)は

大きな身を曳いて

円池(大海)に入ろうとすると

大きな松が生え出て

八頭龍の行方は阻まれました。

 

八頭龍(大蛇)は

威勢尽きて小身になり

本の奴可嶽の池に入りました。

 

八頭龍(大蛇)に

「食い勝った」難蔵は

龍女と共に

言両(ことわけ)山(嶽)に

住みました。

 

今でも

その池の辺りでは

激しい波の響きの奥に

かすかに法華経を読誦する声が

聞こえるといいます。(終)


 

以上が

最古の十和田湖伝説の

あらすじです。

 

深めたい箇所が

多々あるのですが

今回は話の重要な舞台である

「言両山」について

少しだけ触れさせて頂きます。

 

「言」と「両」という言葉は

特に密教では

馴染み深いもので

言両(ことわけ)という名称からは

「真言両部(しんごんりょうぶ)」

という言葉が連想されます。

 

ついでながら

奴可嶽の「奴可(ぬか)」は

糠部(ぬかべ・ぬかのべ)という

地域の名称に由来しているというのが

これまでの「定説」ですが

仏教的意味合いが込められていると

仮定するのであれば

「ナラカ」という梵語に由来して

いるとも考えられます。

 

「ナラカ」は

「奈落(ならく)」と

音写される言葉で

要するに「地獄」を意味します。

 

奴可嶽が「地獄」を踏まえて

設定された“お山”と捉えるならば

八頭大蛇についての検討も

より深いものになるように思います。

 

地獄は八熱地獄と八寒地獄

という「熱」「寒」

各々に八大地獄があるとされます。

 

八頭龍(大蛇)が

この八大地獄に通じていると

考えることも出来るでしょうし

日本神話に登場するヤマタノオロチに

仏教的意味が重ねられているとも

考えることが出来るように思います。

 

ヤマタノオロチでいえば

難蔵は書寫山(しょしゃざん)の者

とされますが

この書寫山は「スサノオの杣(そま)」

とも呼ばれます。

 

古事記や日本書紀の

いわゆる日本神話について

かつての僧侶は深く

学んでおりますので

神仏習合の様相が色濃い

“中世における”記紀神話を

踏まえていたとしても

何ら不思議はありません。

 

言両(ことわけ)山の

話に戻りますが「言両」を

「真言両部(しんごんりょうぶ)」の

意味として捉えるならば

中世における神仏習合思想の

根本を支える考え方である

曼荼羅(まんだら)について

触れなければなりません。

 

この曼荼羅の考え方は

神仏習合思想が台頭した時代の

「国土観」を見る上でも

必要不可欠のものです。

 

今回は

最古の十和田湖伝説のあらすじを

紹介させて頂きました。

 

『三国伝記』の撰者は

仏道に深く関わる玄棟であるゆえ

この書物は仏教やその背景に

ある程度通じていないと

意味を汲み取れないように感じます。

 

最古の十和田湖伝説である

「釈難蔵得不生不滅事」の

文面はかなり仏教的です。

 

それゆえに

文字として記されているものに加え

「仏教的前提」となっている部分にも

目配せしながら

次回も最古の十和田湖伝説を

見ていきたいと思います。

 

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かんのんまいり 高山観音①高山神社

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第4番札所

高山(たかやま)観音。

 

4番札所のある

島守という場所は

十和田湖伝説に登場する

八の太郎(八郎)と

関わりのある場所です。

 

高山観音の御像は現在

高松寺(こうしょうじ)に

お祀りされておりますが

もとは高山神社の場所にあった

観音堂の本尊です。

 

島守は古くより

霊験あらたかな場所とされた所です。

 

高山神社の本殿を目指し

お山を登る道中は

山岳霊場としての雰囲気が

感じられます。

 

高山神社は

イザナギノミコト

イザナミノミコトが

祭神として祀られます。

 

明治の神仏分離令をうけ

四十八社が相殿として

合祀されたそうです。

 

この「島守四十八社の神々」は

八の太郎(八郎)伝説にも

登場する神々です。

 

その伝説の

あらすじですが

川魚を食べた

八の太郎(八郎)は

喉がひとく渇きます。

 

喉をうるおすべく

沢の水を飲みますが

飲めども飲めども

喉の渇きはおさまらず

気がつけば大蛇の身となっていました。

 

大蛇となった八の太郎(八郎)は

川をせきとめて

島守盆地に水をためて

そこに棲もうとしますが

それを良しとしなかった

島守四十八社の神々が

八の太郎(八郎)を

追い出したという物語です。

 

高山神社境内には

不動明王像

毘沙門天像

弘法大師像

金精様なども祀られます。

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三国伝記について②長谷信仰・十一面観音信仰と三国伝記

『三国伝記』(さんごくでんき)は

“最古の十和田湖伝説”が収録されます。

 

『三国伝記』は

室町時代のもので

全12巻からなり

360話が収録されます。

 

撰者は玄棟(げんとう)という

沙弥(しゃみ:修行者)で

インド、中国、日本の三国

それぞれ120話で合計360話の

物語を様々な書物からの引用を

行いつつまとめております。

 

日本についての120話のうち

当山の本山

長谷寺の霊験譚である

『長谷寺験記』(はせでらげんき)関係の

説話は12話にも及びます。

 

『三国伝記』において

一寺院の説話として

日本にまつわる話全体の1割もの

引用がされるのは長谷寺だけです。

 

長谷寺のある地は

泊瀬(はつせ)ともいわれ

古事記にもその名が登場します。

 

長谷寺の本尊である

十一面観音は長谷寺式(はせでらしき)

といわれるお姿の十一面観音で

盤石(ばんじゃく)という石に立ち

右手に錫杖(しゃくじょう)を持ちます。

 

盤石は不動明王の徳をあらわし

錫杖は地蔵菩薩の徳をあらわします。

 

長谷の十一面観音は

古くから篤く信仰された尊格で

十一面観音信仰は奈良時代には

盛んであったそうです。

 

また『三国伝記』撰者である

玄棟(げんとう)は

近江の善勝寺(ぜんしょうじ)に

ご縁のある方です。

 

『三国伝記』に収録される

近江の善勝寺の縁起によると

お寺を開いたのは

聖徳太子の血縁である良正上人で

この善勝寺本尊は

弥勒菩薩(みろくぼさつ)と

聖徳太子作の十一面観音とされます。

 

玄棟自身が十一面観音と

縁深い方であったと思われます。

 

さらに近江という場所自体が

長谷寺と深く関わる地であり

長谷寺本尊の十一面観音像は

琵琶湖にあった

巨大な霊木(楠)を彫ったものです。

 

日本最古の観音霊場である

西国三十三観音霊場の

発祥の地は長谷寺です。

 

長谷寺と名のつくお寺は

全国に多くありますが

その「総元締め」が

奈良の長谷寺です。

 

十一面観音の信仰は

東北においても古くから

伝わっていたようで

三戸の南部町にある

恵光院(長谷寺)の十一面観音は

平安時代の仏像で

青森県内では最古のものです。

 

三戸でいえば

三戸永福寺を引き継いだ

永福寺自坊の嶺松院(れいしょういん)が

あった場所に現在ある

早稲田観音も十一面観音です。

 

当山は永福寺発祥の地であり

現在は地名のみが残っておりますが

その創建に関する説話が

『長谷寺験記』にあり

それも十一面観音のお話です。

 

それは坂上田村麻呂将軍が

奥州に十一面観音を祀るお寺を

6ケ寺建立したとの説話であり

永福寺の寺伝によればそのうち

田村の里・七崎(現在の豊崎)の

お寺が永福寺であるとされます。

 

この類の話は県内他所にも見られ

例えば深浦町の古刹である

円覚寺(真言宗醍醐派)も

坂上田村麻呂将軍が

聖徳太子作の十一面観音を安置し

観音堂を建立したとの

いわれがございます。

 

円覚寺を開基された

円覚という方は

大和(奈良)の方です。

 

『三国伝記』には

十一面観音についてのみならず

瀧蔵権現(りゅうぞうごんげん)

天満天神(てんまんてんじん)など

長谷寺にまつわる神祇(じんぎ:神さま)の

話も収録されており

長谷信仰の影響が感じられます。

 

『三国伝記』は

インドの梵語坊

中国の漢字郎

日本の遁世者の3名が

京都の清水寺にて

応永14(1407)年の

8月17日(観音縁日の前夜・逮夜)に

観音さまに捧げる法楽(ほうらく)として

一人ずつ話をしていくという

場面設定となっております。

 

京都の清水寺は

観音様のお寺であり

本尊は十一面千手千眼観音で

観音様をとても篤く信仰した

坂上田村麻呂将軍ゆかりのお寺です。

 

あちこちに話題が飛びましたが

『三国伝記』において

長谷信仰・十一面観音信仰の関わりが

見られるということを見てきました。

 

話題を

十和田湖伝説に移したいと思います。

 

『三国伝記』巻12第12話の

「釈難蔵得不生不滅事」という説話が

“最古の十和田湖伝説”とされます。

 

次回はこの「釈難蔵得不生不滅事」を

見ていくことにします。

 

▼『三国伝記』について①

https://fugenin643.com/blog/三国伝記について①/

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三国伝記について①伝説の“最古の語り手”

当山は

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説と

ゆかりのあるお寺です。

 

南祖坊という僧侶が

「十和田湖の主」となるというのが

伝説の大きな筋書きです。

 

そして南祖坊は

当山前身の永福寺にて

修行したと伝えられます。

 

この伝説は様々に

語られたり記されたりしまして

主に伊達藩を中心になされていた

東北独特の芸能である

奥浄瑠璃(おくじょうるり)という

語り物の題材にもなっております。

 

ただこの奥浄瑠璃という用語については

使われる方により意味合いが様々で

明らかな語り物としての

奥浄瑠璃ではない

縁起物(えんぎもの)や

霊験譚(れいげんたん)

といった類も含んでいたり

場合によっては「聖職者」が

語ったとされるものまでも含んで

用いられている感があります。

 

十和田湖南祖坊伝説は

山伏やマタギのような

修験と関わりのある者のみならず

“広い層”の方が語り手となり

伝え手となり

それぞれの地域的特色を

帯びていきながら

広く親しまれたようです。

 

この伝説に関わる写本等は

各地にありまして当山にも

『十和田山神教記』

(とわださんじんきょうき)

の写本が残されております。

 

伝説は語られる地域

それを伝える写本によって

実にバリエーションが豊かです。

 

その伝説を伝える最古の書物が

『三国伝記』(さんごくでんき)です。

 

この『三国伝記』を手がかりとして

あらためて伝説と向き合うと

様々なことが浮かび上がります。

 

この『三国伝記』自体は

現在の滋賀県辺りで

玄棟(げんとう)という方により

まとめられたものですが

撰者にまつわる背景や

書物の収録内容を紐解くに

当山の本山である

奈良県の長谷寺に関係する

長谷信仰(はせしんこう)や

十一面観音信仰が

色濃く伺えるものです。

 

撰者の玄棟という方は

善勝寺(ぜんしょうじ)という寺院と

ゆかりのある方とされますが

この善勝寺も十一面観音と

とても関わりのある寺院ですし

『三国伝記』は

長谷寺の霊験記である

『長谷験記』(はせげんき)から

多く引用されております。

 

そういったことに触れながら

この『三国伝記』について

3、4回に分けて

お伝えさせて頂きます。

 

「三国伝記について②」は

9月初頭にアップいたします。

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十一面観音のお寺 恵光院

南部町にございます

蓮台山長谷寺観音

恵光院(けいこういん)にて

行われた開帳法要に

出仕してまいりました。

 

恵光院さまは

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場

第22番札所でもあります。

 

こちらの本尊は

十一面観音です。

 

本堂にお祀りされる

本尊の十一面観音は

長谷寺式といわれ

当山や恵光院さまの本山でもある

奈良県桜井市の長谷寺と

同じ様式の十一面観音です。

 

長谷寺式十一面観音は

右手に錫杖を持つのが

大きな特徴です。

 

こちらのお寺様には

本堂のほかにも

境内に諸堂があります。

 

本堂横の参道を登ると

奥の院として観音堂があり

こちらにも十一面観音が

お祀りされております。

 

観音堂の十一面観音像は

平安時代のもので

県内では最古の仏像で

毎年8月20日に御開帳されます。

 

恵光院はかつて

長谷寺(はせでら)という寺院でした。

 

長谷寺は

盛岡永福寺が建立される際に

六供坊のひとつとして

盛岡に改められることになり

以後は恵光院として

このお山を引き継いでおります。

 

ちなみにですが

盛岡永福寺六供坊のうち

東坊(ひがしのぼう)は

普賢院だったとされます。

 

当山の前身である永福寺は当初

十一面観音を本尊として

七崎(現在の豊崎)に

建立されたと伝えられます。

 

そして南部氏により

三戸にも建立されますが

三戸永福寺を引き継いだ

嶺松院(れいしょういん)

(現在の早稲田観音)も

十一面観音をお祀りしております。

 

また現在盛岡にある

永福寺は「聖天の御山」とされますが

内々陣(ないないじん)の本尊は

十一面観音です。

 

十一面観音信仰は

奈良時代より盛んであったようです。

 

この古い時代から盛んであった

十一面観音信仰は

永福寺にまつわる歴史や信仰を

紐解く上では非常に重要なものだと

最近は痛感しております。

 

この十一面観音信仰は

十和田湖伝説とも関わりが見られます。

 

十和田湖伝説でいうと

例えば“最古の十和田湖伝説”が収録される

『三国伝記』(さんごくでんき)という

室町期の書物において

十一面観音との関わりを

多く指摘することが出来ます。

 

話がそれましたが

由緒ある十一面観音と

ご縁を深めさせて頂いた

法要となりました。

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十和田山青龍大権現とは何者ぞ

当山は

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説と

ゆかりのあるお寺です。

 

その伝説とは

南祖坊という僧侶が

十和田山青龍大権現

(とわださんせいりゅうだいごんげん)

という龍神になる物語です。

 

南祖坊は

当山にて修行されたとされます。

 

当山では観音堂に

南祖坊の御像である

南祖法師(なんそほっし)尊像が

お祀りされております。

 

一昨年に南祖法師尊像が

「発見」されたことを契機として

当山では“本腰を入れ”て

整理を進めております。

 

「仏教的な見地から」整理を進める中で

興味深いことが浮かび上がってきたり

つながりが見えてきました。

 

一気に全部をここに

記すことは出来ませんが

覚書も兼ねて

十和田山青龍大権現の

ルーツについて

仏教的な見地から

ご紹介させて頂きます。

 

大権現という言い回しは

尊称なので

以下「青龍権現」とさせて頂きます。

 

永福寺の伝えでは

永福寺5世の月躰(がったい)法印の

弟子であった南祖坊が

神護寺(じんごじ)の

清瀧(せいりょう・せいりゅう)権現

十和田湖畔の休屋(やすみや)に

勧請(かんじょう)したのが

青龍権現だとしております。

 

「永福寺5世の月躰法印」は

当山では「月法律師」とされており

当山二世の住職となっております。

 

この清瀧権現は

弘法大師空海と

深く関わる龍神です。

 

さらには空海以後の

恵運(えうん)

宗叡(しゅえい)

聖宝(しょうぼう)といった

真言宗における諸大徳(だいとく)にも

まつわる権現で

それはそれは深い意味を持ちます。

 

十和田湖南祖坊伝説では

南祖坊が入定して青龍権現になる

というストーリーですが

永福寺の伝えでは

南祖坊が清瀧権現を勧請して

祀ったのが青龍権現であるとしており

この違いはとても重要なポイントです。

 

青森県内では十和田湖の神様は

女性であるとする地域がありますが

南祖坊が勧請したとされる清瀧権現は

“女性の龍神”なので

それを踏まえると諸説に通じる部分が

増えるかと思います。

 

清瀧権現は

善如(女)龍王(ぜんにょりゅうおう)

ともいいます。

 

弘法大師空海の師で

かつての唐の皇帝に

篤く信頼されていた恵果(けいか)という

阿闍梨(あじゃり)がいらっしゃいます。

 

恵果阿闍梨は長安の

青龍寺の方ですが

この青龍寺の名は

青龍権現(清瀧権現)に由来します。

 

「清瀧権現」は当初「青龍権現」であり

「氵」(さんずい)はついておりません。

 

恵果阿闍梨は

青龍を勧請して鎮守としたことに由来し

お寺の名が青龍寺になったとされます。

 

青龍に「氵」がつくのは

弘法大師空海が唐に渡って

日本に戻って以後の話です。

 

細かなエピソードを紹介すると

相当なボリュームになるので

割愛しますが

海波をしのいで日本へ来たことを顕して

青龍に「氵」をつけ清瀧と改めたとされます。

 

弘法大師空海は

天長年間に請雨法(しょううぼう)という

“雨乞い”の修法(しゅほう)を行い

その際に善如龍王(清瀧権現)が現れたとの

伝承があります。

 

その場所が

神泉苑(しんせんえん・しんぜんえん)です。

 

神泉苑の名は

現在も十和田湖の聖地の呼び名として

使われております。

 

以前から感じていたのですが

十和田湖にはそれ以外にも

仏教(殊に密教系)に由来する

名称が見られます。

 

余談ですが

当山の本尊である

愛染明王(あいぜんみょうおう)は

清瀧権現との関係で見るならば

修法において深く関わっております。

 

当山は

宝暦13年(1763年)に愛染明王堂を

再建したと棟札に書かれております。

 

その後文化7年(1810年)に火災に遭います。

 

その年に

盛岡永福寺より現在の本尊である

愛染明王像が贈られており

翌年に本堂が再建されております。

 

江戸時代文化期の南部藩の財政は

低迷期であり

当山本堂の再建にあたっては

富籤(とみくじ)発行が許可され

資金の一部にあてられております。

 

火災の翌年に本堂が建立され

しかも愛染明王像が

贈られているという歴史からは

いかに七崎が大切であるかということと

愛染明王を祀ることの重要性を

読み取ることが出来るように思います。

 

愛染明王という尊格は

最極深秘(さいごくじんぴ)の仏とされ

愛染明王が説かれるお経である

金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経

(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)

という経典は

高野山の金剛峯寺の寺名の基です。

 

真言宗の読誦経典として最も重要な

『般若理趣経』(はんにゃりしゅきょう)

というお経がありますが

この教主は愛染明王とされます。

 

当山において

愛染明王堂が再建されたり

愛染明王像が当山に贈られたりした

少し前の永福寺住職がしたためた

多くの次第の中に

愛染明王関連の次第が幾つか見られます。

 

その内容にまで

踏み込んで説明するには

相当な時間がかかるので

これも割愛しますが

愛染明王を“龍の本地”とする

修法の次第が見られます。

 

これには

両部大日如来

不動明王

如意輪観音

准胝観音

如意宝珠(にょいほうしゅ)など

多くの要素をからめての説明が

必要となりますが

「秘説」「口伝」として

師資相承されてきた修法を

紐解くことで

十和田山青龍権現を

これまで以上に躍動的でかつ

壮大なスケールで

捉えることが出来るかと思います。

 

これまでの諸要素を踏まえて

当山の歴史をかえりみますと

十和田山青龍権現の

“本地(ほんじ)”として

愛染明王を当山に祀った

という可能性が出てまいります。

 

そしてその可能性は

かなり高いと思われます。

 

青龍権現のルーツであるとお伝えした

清瀧権現の本地は「通常」であれば

如意輪観音と准胝観音ですが

修法においては本地仏として

様々な尊格が立てられることは

珍しいことではありません。

 

祈祷寺において修法というのは

とても重要なもので

“高位”な阿闍梨でなければ

修法することが許されなかったものは

数多く存在しており

その中には愛染明王関係のものが

多く含まれまれております。

 

話があちらこちらに

飛んできたので

根本的な所を整理すると

十和田山青龍権現のルーツは

清瀧権現であり

南祖坊により

勧請され祀られたものだと

永福寺では伝えております。

 

修法や作法といった分野のことを

事相(じそう)といいます。

 

いわゆる密教と呼ばれる

真言宗や天台宗において

事相は極めて重要なもので

非常に多くの伝えがあります。

 

今回は主に事相を踏まえて

青龍権現を紐解いてみましたが

とても面白い指摘を

出来るように思います。

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少しずつ少しずつ

昨年9月末に

ご縁がありまして

当山が所属いたします

真言宗豊山派(ぶざんは)の

総合研究院 現代教化研究所なる

研究機関に籍を置かせて頂いて以来

「日々の研究も修行なり」との思いで

これまでにも増して

“探究活動”に励ませて

頂いております。

 

“探求分野”は幾つかありますが

その中の一つとして

当山が関係する

十和田湖伝説についても

これまで手薄であったと思われる

仏教的視点(正確には密教的視点)

を踏まえて調べを進めております。

 

ちなみにですが

十和田湖伝説については

当山との関係も含めて

大きな“発見”がありましたし

“最古の十和田湖伝説”とされる

説話が収録される『三国伝記』

という室町時代の書物と

当山の総本山である長谷寺に

大きな関わりが指摘されており

現代教化研究所の一員として

今後様々な方向で

テーマを設定出来ることが

個人的に確信を持てたことなどの

成果を得ることが出来ました。

 

時間はかかると思いますが

少しずつ形にしていきたいと

考えております。

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南祖坊伝説が生きるふるさと

当山のございます豊崎町は

歴史が古い地域で

様々な伝承に彩られております。

 

豊崎町は古くは

七崎(ならさき)といいますが

現在の豊崎町よりも

かなり広い地域だったようです。

 

様々な伝承のうち

有名なものとしては

南祖坊(なんそのぼう)伝説が

挙げられます。

 

南祖坊は当山の前身である

永福寺の弟子となり

諸国修行の果てに

十和田湖の龍神となったと

語られる方です。

 

この伝説発信の拠点は

七崎だったそうです。

 

当山より西側の方に

滝谷(たきや)という地域があり

当山と滝谷の間には

「南宗坊」という地名があります。

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ちなみにですが

南祖坊には様々な表記があり

南蔵、難蔵、南宗坊など

何種類かございます。

 

当山の過去帳によると

先に触れた滝谷という地域も

かなり古い地域です。

 

滝谷には天満宮があり

こちらもかつては永福寺が

管理していたそうです。

 

この天満宮は

七崎より十和田方面へ

修行に向かう者が

立ち寄った場所と伝えられます。

 

南祖坊も立ち寄ったとの

伝承もあるそうです。

 

当山と滝谷の間には

南祖法師(なんそほっし)像が

お祀りされている所があります。

 

南祖法師(なんそほっし)とは

出家した南祖坊の尊称です。

 

この像は地元の篤信の方が

昭和9年に建立されたものだそうです。

 

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伝承や伝説は

“文献学的な歴史”とは

似て非なるものです。

 

活き活きと語り伝えられてきた

伝説はその時代時代に

受け入れられ

今に至っております。

 

この地域に今も残る

伝承や伝説を“活き活き”と

後世に託していきたいと願います。

今に生きる八郎伝説

南祖坊(なんそのぼう)伝説には

八郎(はちろう)という

“キーパーソン”が登場します。

 

南祖坊は幼少期を

当山の前身である永福寺にて

過ごしたとされます。

 

八郎は

八郎太郎や八之太郎など

幾通りかの名前で呼ばれ

その由緒地は様々です。

 

南祖坊と八郎の伝説は

十和田湖の主であった

大蛇の八郎を

諸国修行の末に

十和田湖を永住の地と

見定めた南祖坊が解き放ち

青龍大権現として

十和田湖の新たな主となる

という筋書きです。

 

八郎が「生まれた」とされる

場所は様々ありますが

八戸市の南郷も

八郎が生まれた地と伝えられます。

 

そのご縁で

青葉湖(世増(よまさり)ダム)にも

“新たな八郎のエピソード”が

添えられております。

 

「伝説」は今もなお

生き続け語り継がれております。

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馬の守り神 蒼前

少し前に

ご縁がありまして

八甲田のブナ林を

乗馬でトレッキングさせて

頂きました。

 

トレッキングとは

山を歩くことです。

 

当山の地域も

かつては家々の多くが馬と同居し

馬がとても身近な地域でした。

 

当山の地元である豊崎には

蒼前神社(そうぜんじんじゃ)という

神社があります。

 

蒼前神社は「馬の守り神」とされ

蒼前様(そうぜんさま)と通称されます。

 

この蒼前様は

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)の父である

藤原宗善(そうぜん)が祀られたものです。

 

『十和田山神教記』という書物に

南祖坊の父である藤原宗善の死後

一社が建立され

宗善を馬頭観音(ばとうかんのん)として

崇められたと記されております。

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