28日に秘仏・七崎観音を
ご開帳して行われる行事に向け
本日は仮観音堂より主なお仏像を
仮本堂にお遷ししました。
準備をしていると
いつもお世話になっている
小泉電気店の小泉智英さんが
照明を持ってきて下さいました。
実際に照明を使ってテストすると
とても素晴らしい雰囲気となりました。
おかげさまで
幻想的な空間にて
法要を行うことが出来そうです。
▼28日の詳細はコチラをご参照下さい▼
28日に秘仏・七崎観音を
ご開帳して行われる行事に向け
本日は仮観音堂より主なお仏像を
仮本堂にお遷ししました。
準備をしていると
いつもお世話になっている
小泉電気店の小泉智英さんが
照明を持ってきて下さいました。
実際に照明を使ってテストすると
とても素晴らしい雰囲気となりました。
おかげさまで
幻想的な空間にて
法要を行うことが出来そうです。
▼28日の詳細はコチラをご参照下さい▼
昨日紹介した寺史資料に
江戸以前についても
情報を追記してみました。
江戸以前については
詳細な記述がないため
当山の過去帳を典拠にして
開創以降の先師について
追記しました。
長い歴史の中で
お名前が分からない先師様が
多くいらっしゃいますが
わずかであっても
お名前が現代に留められていることは
とても凄いことだと感じます。
また
弘法大師空海
興教大師覚鑁(かくばん)を
両祖大師(りょうそだいし)に関する
行事についても
一部追記しました。
両祖大師に関係する行事にあわせ
記念事業を行う傾向もあるので
様々な考察に有意義なためです。
分かっていることや
所蔵しているものを
文字に起こしてみると
案外情報量が多いことに
気づかされます。
歴史や伝承は
唯一無二のものゆえ
大切にしたいと思います。
※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])を典拠にしたものについては青字で記します。(※一部追記アリ。)
※伝説・伝承含め当山に関連する記述の見られる主な史料の年代等を緑字で記します。前回のものに追記したものがあります。
※弘法大師空海や興教大師覚鑁の両祖大師に関すること、寛永11年[1634]以降の御遠忌(ごおんき)を紫字で記します。
※近世以前(ここでは寛政12年[1625]以前)については、当山の過去帳を主な典拠として橙色で記します。(※一部追記アリ)
年代の判明している
近世以降の
仏像・仏具であったり
所蔵している棟札などを
ザックリと時系列に
箇条書きで並べたものを
以前こちらのブログで
紹介させていただきました。
今回はさらに主な史料と
当派で大切にされる
両祖大師の御遠忌(ごおんき)の
年次を加えてみます。
両祖大師とは
弘法大師・空海上人と
興教大師・覚鑁(かくばん)上人
のお二人を指します。
御遠忌を迎えるに当たり
記念事業を行うことが多いため
御遠忌の年次について
記載することにしました。
定期的に迎えられる
御遠忌という節目を
時間軸に落としていくことは
当山の歴史を紐解くうえで
とても有意義なことです。
当ブログは
研究メモとしても
活用しております。
今後お寺の寺史などを
作成するにあたっての
基礎資料作りでもあると捉え
取り組んでおります。
地道な作業な必要なことゆえ
一気に仕上げることは
難しいですが
コツコツ取り組みたいと思います。
それでは
以下に“研究メモ”を記して
本日は終えたいと思います。
※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])に掲載される神社所蔵の棟札については青字で記します。
※伝説・伝承含め当山に関連する記述の見られる主な史料(近世以降)の年代等を緑字で記します。
※弘法大師や興教大師の御遠忌(ごおんき)を紫字で記します。
当山では本堂建替事業の
第5年目を迎え
本年より新本堂の建設が始まり
来年秋頃に完成する予定です。
この機会に
普賢院の寺史を
作成したいと考えています。
新本堂が完成すると
棟札や古い文書は
再び丁重にしまうことになるので
このタイミングでしか
行うことが出来ないので
当ブログの投稿も活かしつつ
まとめていこうと思います。
次第をはじめ文書については
除きますが
当山所蔵の棟札ほか
年代が判明している(一部推定)
江戸期以降の
主な仏像や灯籠などを
あげると以下のようになります。
※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])に掲載される神社所蔵の棟札については青字で記します。
先に少しだけ触れている
大正15年(1926)の
『郷社七崎神社誌』は
当時の社司・小泉幸雄氏が
編纂したもので
結びとして書かれた自序に
次のように記されてあります。
神社誌の編纂に志すこと多年。即ち明治37年より大正6年3月に至る14年を以て、漸く完成を見るに至れり。此間資料蒐集に務め、特に盛岡藩南部伯爵家及遠野南部男爵家の古文書の拝見を許され、之れに力を得て多大の成果を収めたり。御両家に対し甚深なる敬意と感謝の誠意を表するものなり。
本誌編纂に当り参考資料は、盛藩旧事記、南部男爵家の御邦内郷村誌、東北太平記、七崎観世音伝話記、其他棟札、不肖幸雄保存せる南部五世伝、南部地雷復、霊験縁起、小泉家系図、言ひ伝並に明治維新に至るまでの事績等の参酌に依るものなるを以て、地方の史実に関するものあるべきも、多少とも本社に関係あるものは或は重複の嫌あるも之を記載せり。
大正6年以降現在までの事績にして、将来記録すべきは之れを記載し且つ新事実の発見する毎に訂正したり。
本年は皇輝ある紀元2600年を迎え奉祝記念として、本誌を印刷に附し広く有志に分ち永久に伝え、以て御神徳発揚の資に供せんとす。
当山近くの七崎神社は
明治になるまでは
当山が管理していた
旧観音堂(寺号・徳楽寺)でした。
小泉家は
明治まで修験家でもあり
旧観音堂に深く関わりがありました。
参考資料にある
七崎観世音伝話記は
幸雄氏の曽祖父にあたる
大学院泰道などが
「古老の伝説」を文政年中に
編纂したものと説明されおり
参詣人の案内役をすることもあった
修験の方々が
一種の手引のような形で
七崎観音にまつわるお話を
まとめられていたことがうかがえます。
引用した自序をみると分かるように
神社誌は参考文献をもとにしつつ
神社所蔵の棟札や
当地での言い伝えを踏まえて編集された
力作といえます。
当時の状況を考えると
大変なご労力があったと思うのです。
この神社誌で
挙げられている棟札と
当山が所蔵する棟札や
一部仏像や仏具などについて
寛永2年(1625)以降のものを
先に列挙してみました。
青字で示したのが神社誌で
触れられているものですが
全体からすると
ごく一部のものですし
お寺の歴史を紐解くうえで
ある意味最も尊い古文書たる
過去帳にも触れられていないので
明治以前のことを述べるには
やはり限界があるように感じます。
当地の大先輩であり
旧観音堂に仕えていただいた
修験の流れを組むお家の
小泉幸雄氏の労作にて
語られるお寺の歴史を
さらに厚みのあるものに
したいと考えております。
また本山の長谷寺や仁和寺や
当時の本坊・盛岡永福寺や
その他多くの関係寺院との
関わりであったり
宗派における節目の行事などを
踏まえると
意義が浮かび上がるものもあるので
そういったことも押さえながら
後世に託すべく『寺史』を
作成したいと思います。
ここでようやく
棟札の本題に入らせていただきます。
ここに至るまでで
かなりの分量をさいたので
今回の棟札の紹介は
少しだけにします。
本堂建替事業まっただ中なので
旧本堂の棟札について見ています。
次の画像資料の通り
この棟札は結構大きく
形は剣形(けんがた)で
表裏に文言が見られます。
幅についてですが
底が21cmで
上に向かって多少
幅が広がっていまして
一番広い所が22cmです。
文言については次回以降
紐解いてまいります。
少しづつ
懐かしさが増してきた旧本堂。
本年から
いよいよ新本堂の建設です。
今回は一昨年から
ピタッと更新が止まっていた
「棟札に耳を傾ける」の
第3稿をアップいたします。
▼以前のものはコチラ
当山は
開創以来1200年もの
歴史が積み上げられた古刹で
これまでも様々な節目にあたり
縁起や由緒が
改めて有縁の方や
ご参詣の方に説かれてきました。
平成令和の本堂建替においても
所蔵される文書や棟札を踏まえ
近世の史料の記述や
最近の諸資料を見直して
普賢院の寺史を
作成したいと思います。
現在発行されている書籍含め
近世の史料がもとになり
当山が紹介されているのですが
近世の史料は
寺史を紐解く上で重要になる
当山の過去帳に触れられていません。
過去帳は他見厳禁ゆえ
公開するようなものではありませんが
住職をつとめられた
先師の御名が記された
尊い古文書でもあります。
近世の史料に目を通してみると
お寺の創建について
諸開山上人の没年齢が
創建年代や中興年代になっていたり
記載される棟札の文言に
誤植が見られるなど
注意を払うべき所が多くあります。
それらをのみ
典拠としてしまうと
当然のことながら
不十分な説明にならざるをえません。
専門性が高く
いわゆる郷土史という
枠組みだけでは
紐解けない部分もあるので
個々の課題を明らかにしつつ
出来る形で
整えていきたいと考えております。
これまでも
当山について
様々なことを紹介して
まいりましたが
最近は資料を添付しつつ
投稿を重ねております。
特に棟札については
文字ばかりよりも
添付した図のような形の方が
断然分かりやすいと思うので
資料を示しつつ
お話を進めていきたいと思います。
ここしばらくは
文化8年(1811)の旧本堂棟札について
お寺の歴史に触れながら
見ていきたいと思います。
資料が現時点で
13枚あるので
投稿を重ねる中で
説明を補足する形式で
「棟札に耳を傾ける」シリーズを
進めていきたいと思います。
▼旧本堂(令和元年お盆の様子)
▼以下、資料画像になります。
以上が、現時点で
用意した画像になります。
まだ未完ですが
とりあえずアップいたします。
ブログの文章よりも
ビジュアル的なので
ストーリーが分かりやすい
のではないでしょうか。
これらの資料をたたき台に
棟札について紐解きつつ
お寺の歴史や伝説についても
紹介させていただきたいと思います。
昨年、由緒が明らかになった
古い観音像(現在修繕中です)。
本堂建替に伴い取り掛かっている
仏像・仏具や文書の整理の
甲斐ありここ何年か
歴史的発見が続いていますが
観音像の素性が判明したことも
とても大きなことでした。
▼関連記事はコチラ
普賢院の観音堂本尊である
七崎観音(ならさきかんのん)の
大切な行事「おこもり」が
本年は2月28日(旧暦1月17日)に
行われます。
そういった時季でもあるので
昨年新たに判明したことの
整理を行い
なるべく分かりやすい形で
紹介したいと思います。
ダイジェストを
次の画像にまとめたので
まずはそちらをご覧下さい。
昨年新たに判明したのは
図でいうと青で示された箇所の
聖観音像についてです。
こちらの観音像は
とても古いもので
昭和期までは
大きな厨子に
納められていました。
大きな厨子は
傷みが顕著だったため
すでに処分されています。
その由緒については
長らく不明だったのですが
これまで積み重ねてきた
“探求”が功を奏しまして
明暦元年(1655)に
南部重直公により奉納された
ということが判明しました。
旧観音堂は
慶安2年(1649)に落雷により
焼失しています。
その後
重直公を施主として
承應3年(1654)〜明暦2年(1656)に
観音堂ほか末社十二社が
再興されおり
その棟札が残っております。
『寺社記録』によると
落雷による観音堂焼失後の
慶安4年(1651)にも
再興されたと記述が見られます。
この時期
重直公は病を患っており
藩内の多くの寺社仏閣に
病気平癒のご祈祷をするよう
藩令が下されていました。
病状が一時回復した重直公は
“ご祈祷の御礼”もかね
各所の寺社仏閣の
修繕事業の施主となられています。
七崎観音堂についても
その時期とちょうど重なります。
重直公は
寛文4年(1664)年秋にご逝去され
同年冬に次代藩主となられたのが
重信公で
現・七崎観音の聖観音像を
ご奉納された藩主です。
重信公は「御前立(おまえだち)」
として聖観音像を
納められています。
「御前立」とは
本尊などの主要な仏像の前に
ご安置される仏像です。
これまで触れてきたことを
踏まえるに
明暦元年(1655)以降は
重直公がご奉納された
聖観音像が七崎観音として
祀られていたと考えられます。
重直公ご奉納の聖観音が
七崎観音として祀られ
その御前立として
重信公ご奉納の
現・七崎観音が
祀られていたと思われます。
ではなぜ現在の形に
なったのかについてですが
思い当たる所が
いくつかありまして
この点については
後々記させていただきます。
▼『新撰陸奥国詩』掲載の俯瞰図をもとに
近世の当地の再現イラスト。
▼近世における主なお堂の
建立年代と規模。
十和田湖伝説を今に伝える写本のひとつ
『十和田山神教記』(とわださんじんきょうき)。
当山には写本2冊が残されております。
その写本をもとに
絵本『龍になったおしょうさま』を
有志と制作しました。
「龍になったおしょうさま」は
南祖坊(なんそのぼう)のことです。
南祖坊は
当山2世住職・月法律師(がっぽうりっし)の
弟子であり
十和田湖の龍神である
青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)に
なったとされる僧侶です。
以前より
寺子屋ワークショップ
「香りのこころ」で
お世話になっていた
小松美央さん(ひつじや)
在家渓静さん(くるみのひろば)と
平成30年に「かたり部(ぶ)」という
会をたちあげました。
地域に伝わる物語をはじめ
さまざまなことを
自分たちが出来る形で
語り伝えていこうという会です。
『十和田山神教記』は
数ある十和田湖伝説の中でも
とても魅力的なストーリーを
今に伝えているのですが
あまり知られてはいません。
当山に写本が残されていることもあり
この物語を絵本にして
親しみやすいものにしたいという
思いがありました。
当初は絵本を作成する予定でしたが
ここ3ヶ月程
オンラインで会議を重ねる中
動画にしてみようということになり
製本に先んじて
動画を制作しました。
朗読は
拙僧(副住職)の高校時代の
同級生でもあり
アナウンサー経験のある
種市佳子さんにご担当いただきました。
種市さんにも
かたり部を立ち上げる前から
絵本動画を作ったときには
朗読をしてほしいということを
お願いしておりました。
ご協力下さった
素晴らしい方々の
お力添えにより
素敵な絵本動画が
出来たと感じています。
普賢院は
弘仁初期頃(810頃)に開創され
承安元年(1171年)に開基された
古いお寺で
来年は開基から850年という
メモリアルイヤーでもあります。
そのメモリアルイヤーを前に
念願がひとつ叶ったことに
感謝しております。
18分程の動画に
まとめておりますので
『十和田山神教記』が伝える
十和田湖伝説に
ぜひ触れてみて下さい。
現段階で予定されている
新本堂と本堂裏整備について
図化して整理してみたいと思います。
以前もお伝えしたと思いますが
新本堂の前方ラインが
旧本堂よりも下がり
本堂前のスペースが
以前よりも広くなります。
また
大屋根の関係や
両サイドの建物との間隔の関係で
新本堂の中心ラインが
以前よりも若干北側に
スライドします。
本堂正面入口が
本堂に向かって“右側”に
ややズレるといえば
分かりやすいでしょうか。
本堂中心ラインは
本尊様が祀られる
中心線ということです。
たまたまですが
その「新中心線」上には
歴代先師墓と
建立予定の合葬墓が
位置することになります。
新本堂にお参りされた方が
手を合わせ
祈りを捧げられる
その方向に
歴代先師墓と合葬墓が
あるということは
とても尊いことだと感じています。
いま取り組ませていただいている
本堂建替事業では
本堂裏手の整備も行われます。
合葬墓が
歴代先師墓の隣に
建立されます。
会津斗南藩縁故者の墓石16基を
現在地から同所西側に移設・整理し
また供養碑を建立いたします。
会津斗南藩縁故者供養碑は
当山有縁の方が
ご寄付して下さる予定です。
さらに
青龍権現(せいりゅうごんげん)碑を
十和田湖の方角に向けて
手を合わせられるように
建立します。
青龍権現碑は
八戸市根城の番地石材店の
番地さんがご寄付下さいます。
青龍権現とは
十和田湖の龍神です。
当山2世の月法律師の弟子として
修行された僧侶・南祖坊(法師)が
十和田湖の龍神・青龍権現に
なったと伝説では
語られております。
お寺の空間は
祈りを捧げ
歴史や伝承・伝説に触れられる
尊いものでもあります。
尊い空間たるべき
環境を整えることは
とても大切なことといえます。
「ハード」も「ソフト」
きちんと整え続ける努力をおしまず
情熱と覚悟をもって励んでまいります。
明治9年(1876)に
国に提出された青森県の地誌
『新撰陸奥国誌』には
かつての観音堂の様子が
スケッチされております。
ここでいう観音堂とは
現在の七崎神社の場所に
明治まであったもので
徳楽寺という寺号が
用いられており
当山は長く観音堂の別当寺を
つとめております。
明治時代に行われた
神仏分離の対応のため
観音堂(徳楽寺)は廃寺となり
同書には社殿が建立され
七崎神社に改められました。
そのスケッチは
デフォルメされているのですが
細かな所の特徴が
おさえられております。
このスケッチでは
現在の当山駐車場東南側に
あたる部分が描かれています。
なので
こちらのスケッチをもとにして
江戸末期の当山本堂と庫裡を
配置させて
各所に簡単な説明を加えると
以下のようになります。
ちなみにですが
かつての観音堂は
明暦2年(1656)時点で
大きさが3間四方(18畳)
宝暦13年(1763)以降で
4間四方(32畳)であることが
棟札や史料より分かっています。
当山本堂は
文化7(1810)以前が
8間×7間(112畳)
文化8年(1811)〜令和2年10月が
8間×6間(96畳)です。
スケッチには
観音堂と境内だけではなく
当山有縁の家々も描かれております。
今回の再現図を作成するにあたり
細かな発見や気づきを
沢山得ることが出来ました。
歴史を感じつつ
実りある探求作業が出来たと
感じています。
江戸期に
当山はどのような様子であったかを
うかがい知ることが出来る
史料のひとつとして
『御領分社堂』があげられます。
『御領分社堂』は
当時の観音堂(七崎山 徳楽寺)と
様々なお堂(小社)の様子を
伝えております。
ここでいう観音堂は
現在の七崎神社の場所に
明治時代になるまであったお堂でして
七崎山徳楽寺という寺号が
用いられておりました。
明治までは
四間四方のお堂で
護摩堂を兼ねた観音堂であったことが
史料より分かっております。
ここ数年
旧観音堂を「永福寺本堂」と紹介する
文献がいくつか見られましたが
旧観音堂は本堂ではありません。
専門性の高い要素であったり
内部の者にしか分からない事柄が
いくつも絡んでいるため
そのような記述になってしまうのも
無理ないことだと思いますが
地元で伝えられることと
あまりに乖離したものを
生半可な状態で由緒であると
紹介されることは
当山としても好ましくありません。
話を戻しまして
『御領分社堂』という
宝暦13年(1763)の書物は
宝暦9年(1759)の幕府の御触(おふれ)
により開始された
藩領の社堂の調査を
まとめたものです。
なので
同書に掲載されている内容は
宝暦13(1763)以前のものとなります。
というのも当山には
宝暦13年(1763)3月の棟札(むなふだ)
3枚が所蔵されているのですが
その内容が同書『御領分社堂』には
反映されておりません。
少し細かなことかもしれませんが
当山に所蔵される棟札と
関係する部分でもあるので
本稿にてご紹介いたします。
『御領分社堂』では
七崎(豊崎の古称)について
以下のように
記載されております。
※( )、文字色は筆者によります。
寺院持社堂 五戸御代官所七崎
一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)
古来縁起不相知
萬治元年(1658)重直公御再興被遊
貞享四年(1687)重信公御再興被遊候
何(いずれ)も棟札(むなふだ)有
一 大日堂
一 不動堂
一 愛染堂
一 大黒天社
一 毘沙門堂
一 薬師堂
一 虚空蔵堂
一 天神社
一 明神社
一 稲荷社
一 白山社
右十一社堂は観音堂御造営之節
依御立願何も御再興被遊候
小社之事故棟札も無之
只今大破社地斗に罷成候
一 月山堂 壱間四面板ふき
一 観音堂 右ニ同
右両社共に観音堂御造営之節
重直公御再興也
善行院(ぜんぎょういん)
当圓坊(とうえんぼう)
覚圓坊(かくえんぼう)
覚善坊(かくぜんぼう)
右四人之修験は本山派にて
拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候
古来より拙寺(永福寺)拝地之内
三石宛(ずつ)遣置
掃除法楽為致置候
上記では
大日堂、愛染堂、不動堂
の3つのお堂が
小社(小さいお堂の意)ゆえ
棟札(むなふだ)も無いと
掲載されております。
この調査は
先にも触れたように
宝暦9年(1759)のお触れにより
実施されたもので
『御領分社堂』が報告書として
まとめあげられたのが
宝暦13年(1763)なので
七崎(現在の豊崎)の調査が
実施されたのは
宝暦13年(1763)以前だと
いえると思います。
その宝暦13年(1763)三月に
大日堂(天照皇大神宮)、
愛染堂、不動堂が
再建されていることが
当山所蔵の棟札から分かります。
大日如来は天照大神と
本地垂迹の関係で捉えられております。
そのことは
大日如来を象徴する種字(梵字)が
荘厳体で記されたうえで
天照皇大神宮一宇云々と
棟札に書き留められていることからも
うかがわれるかと思います。
愛染堂も不動堂も
同時期に再建されております。
棟札には
大檀那大膳太夫利雄公と
記されており
再建の大檀那(大施主)は
当時の盛岡南部藩藩主である
南部利雄(としかつ)公
であることが分かります。
盛岡南部藩家老の日誌『雑書』
文化7年(1810)7月6日の所に
当山について触れておりまして
ここに江戸中期の本堂の規模が
八間×七間であることが
記されており
またこの時点で
その本堂が「数十年罷成」とあります。
なので
1810年から数十年前に
何らかの大きな“手入れ”が
本堂になされたのだと思われます。
建替えなのか修繕なのかは
分かりませんが
1700年代のどこかで
事業がなされたのでは
ないでしょうか。
1700年代といえば
享保年間(1716〜1736)に
快傳上人により中興されております。
そして
今回紹介した棟札が示すように
宝暦13年(1763)には
大日堂(天照皇大神宮)、
愛染堂、不動堂が再建されました。
参考までにですが
宝暦6年(1756)には
御輿(みこし)が「再修覆」
されております。
本稿でとりあげた棟札は
快傳上人により
中興されて以降の
当山の“歩み”を紐解く上で
とても貴重なものだと感じます。