仮本堂に七崎観音をお遷ししました

28日に秘仏・七崎観音を

ご開帳して行われる行事に向け

本日は仮観音堂より主なお仏像を

仮本堂にお遷ししました。

 

準備をしていると

いつもお世話になっている

小泉電気店の小泉智英さんが

照明を持ってきて下さいました。

 

実際に照明を使ってテストすると

とても素晴らしい雰囲気となりました。

 

おかげさまで

幻想的な空間にて

法要を行うことが出来そうです。

 

▼28日の詳細はコチラをご参照下さい▼

七崎観音おこもり法要か〜年に一度のご開帳〜

 

基礎資料作り(続)

昨日紹介した寺史資料に

江戸以前についても

情報を追記してみました。

 

江戸以前については

詳細な記述がないため

当山の過去帳を典拠にして

開創以降の先師について

追記しました。

 

長い歴史の中で

お名前が分からない先師様が

多くいらっしゃいますが

わずかであっても

お名前が現代に留められていることは

とても凄いことだと感じます。

 

また

弘法大師空海

興教大師覚鑁(かくばん)を

両祖大師(りょうそだいし)に関する

行事についても

一部追記しました。

 

両祖大師に関係する行事にあわせ

記念事業を行う傾向もあるので

様々な考察に有意義なためです。

 

分かっていることや

所蔵しているものを

文字に起こしてみると

案外情報量が多いことに

気づかされます。

 

歴史や伝承は

唯一無二のものゆえ

大切にしたいと思います。

 


※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])を典拠にしたものについては青字で記します。(※一部追記アリ。)

※伝説・伝承含め当山に関連する記述の見られる主な史料の年代等を緑字で記します。前回のものに追記したものがあります。

※弘法大師空海や興教大師覚鑁の両祖大師に関すること、寛永11年[1634]以降の御遠忌(ごおんき)を紫字で記します。

※近世以前(ここでは寛政12年[1625]以前)については、当山の過去帳を主な典拠として橙色で記します。(※一部追記アリ)

 

  • 開創・圓鏡上人(弘仁8年[817]5月15日ご遷化/過去帳に「當寺開創」と記載/ご遷化の年次から最近では「弘仁初期(810)頃開創」と紹介してきたが、明確なことは分からないため「延暦弘仁年間の開創」と説明されてきた)
  • 月法律師(当山2世/天長8年[831]10月16日ご遷化/南祖法師の師とされる)
  • 七崎観音の“おこり”(承和元年[834]1月7日、八太郎で漁師として暮らしていた京都の四条中納言・藤原諸江卿が観音夢告により、当地に観音様を遷して祀り、それが七崎観音の始まりという由緒譚アリ/坂上田村麻呂将軍[758〜811]が祀ったという話や、諸江卿の娘である七崎姫を七崎観音として祀ったという話が由緒譚としてあるが、実際の経緯については不明[南祖坊を諸江卿の子息とする伝えもある]/大正15年[1926]の『郷社七崎神社誌』では「坂上田村麻呂将軍が当地に来たことは史実」としているが、田村将軍の研究を踏まえると「史実」というのは難しい)
  • 空海ご入定(承和2年[835]3月21日/延喜21年[921]に大師号下賜)
  • 鏡宥上人(貞観10年[868]11月24日ご遷化)
  • 日照上人(仁和3年[887]7月23日ご遷化)
  • 空海に大師号「弘法大師」下賜(延喜21年[921]10月21日/醍醐天皇より)
  • 宥海上人(寛治5年[1091]5月25日ご遷化)
  • 覚鑁入寂(康治2年[1143]12月12日/49年の生涯/元禄3年[1690]に大師号下賜)
  • 開基・行海上人(承安元年[1171]5月に開基/過去帳に「當寺中興」と記載/位牌では表に「開山」、裏に「開基」と記載/全国行脚の後に当地に立ち寄り、村の沼の大蛇を解脱に導き、村人に懇願されて当地に留まられたと伝えられる/旧・観音堂[寺号・徳楽寺、現在の七崎神社の地にあった]の地に、七つ星になぞらえて杉を植えたとされる/建仁年間[1201〜1203]に99歳でご遷化)
  • 行惠上人(寛元2年[1244]1月26日ご遷化/修円房/当中5世)
  • 『三国伝記』(応永14年[1407]成立/沙弥玄棟/説話集/十和田湖伝説が収録/全360話中120話が日本の説話で、そのうち1割もが『長谷寺験記』関係という特徴がある)
  • 宥漸上人(応仁元年[1467]8月26日ご遷化/当山22世/秀満房)
  • 惠海上人(元和3年[1617]5月19日ご遷化/五輪塔が旧・三戸永福寺[嶺松院(明治に廃寺)]の地に現存/本坊盛岡永福寺30世)
  • 仁王門造営(寛永2[1625])
  • 弘法大師800年御遠忌(寛永11年[1634])
  • 興教大師500年御遠忌(寛永19年[1642])
  • 『雑書』(確認されているのは寛永21年[1644]3月14日〜天保11年[1840]末【欠落箇所アリ】)
  • 『寺社記録』(寛永21年[1644]〜天保8年[1837]【欠落箇所アリ】)
  • 本七崎観音(明暦元年[1655])
  • 観音堂並十二末社再興(観音堂3間四方/棟札は明暦2年[1656]に宥鏡上人が作成)
  • 吊灯籠(寛文10年[1670])
  • 弘法大師850年御遠忌(貞享元年[1684])
  • 興教大師550年御遠忌(元禄5年[1692])
  • 現七崎観音(貞享4年[1687]/4間四方の観音堂が再建[棟札が神社にアリ]
  • 覚鑁に大師号「興教大師」下賜(元禄3年[1690]12月26日/東山天皇より)
  • 観音堂並小宮葺替(元禄6年[1693])
  • 『系縁集』(元禄11年[1698]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 『来歴集』(元禄12年[1699]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 殺生禁断札設置(正徳2年[1712]/南部利幹公)
  • 仁王門改造(享保2年[1717])
  • 仁王像(享保3年[1718])
  • 前机(享保9年[1724])
  • 稲荷大明神造営(享保12[1727])
  • 快傳上人逆修建立の墓石(享保14年[1729]、施主信敬とある)
  • 『津軽一統志』(享保16年[1731])
  • 寺屋敷(庫裡)(享保18[1733]/この時に観音山[現在の七崎神社境内]に2000本余の杉を植樹と記載アリ)
  • 弘法大師900年御遠忌(享保19年[1734])
  • 興教大師600年御遠忌(寛保2年[1742])
  • 学秀仏・千手観音坐像(享保年間奉納と推定/学秀仏と思われる不動明王像と大黒天像アリ)
  • 龜峯扁額(享保頃の可能性/落款が「龜峯」「主忠信」「不爾」)
  • 南祖法師尊像(延享元年〜2年[1744〜45]と推定)
  • 賽銭箱(寛保3年[1743]12月)
  • 『奥州南部糠部巡礼次第』(寛保3年[1743]6月3日〜18日の15泊16日で則誉守西上人ら14名が巡礼)
  • 『祐清私記』(著者・伊藤祐清は寛保元年[1741]に諸士系図武器右筆等諸用掛りについており、この際に収集した諸資料や記録をもとに編集したと見られている)
  • 『寛延盛岡城下図』(寛延年間[1748〜51]/本坊・盛岡永福寺ほか関係寺院が記載されている)
  • 御輿再修覆(宝暦6年[1756]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 鳥居新築(宝暦10年[1760]春)
  • 『御領分社堂』(宝暦10年[1760]頃)
  • 愛染堂再興(宝暦13年[1763])
  • 不動堂再興(宝暦13年[1763])
  • 天照皇大神宮再興(宝暦13年[1763])
  • 大黒天堂造営(宝暦13年[1763])
  • 仁王門修造(宝暦13年[1763]3月)
  • 御輿新造(明和2年[1765]3月)
  • 『平泉雑記』(安永2年[1773]/南祖坊が植えた姥杉の伝説)
  • 夫婦地蔵(安永3年[1774])
  • 弘法大師950年御遠忌(天明4年[1784])
  • 『いわてのやま』(天明8年[1788]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • “十和田の本地”(天明期[1781〜89]には南部藩領で語られた奥浄瑠璃/諸本多し)
  • 鈸(寛政2年[1790]/宥慎上人により奉納)
  • 興教大師650年御遠忌(寛政4年[1792])
  • 荒神堂再建(寛政5年[1793]8月6日)
  • 『邦内郷村志』(明和・寛政年間/大巻秀詮)
  • 地蔵菩薩(享和2年[1802]/現在、位牌堂本尊)
  • 『十曲湖』(文化7年[1807]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • 『篤焉家訓』(文化・天保年間[1804〜44]/市原篤焉)
  • 鐘楼堂再建(文化5年[1808]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 愛染明王(文化7年[1810]/宥瑗上人により奉納)
  • 本堂再建(文化8年[1811])
  • 千手観音堂再建(本堂再建と同時期)
  • 香炉(本堂再建と同時期/宥瑗上人により奉納)
  • 観音堂扁額(文化14年[1817]/三井親孝の書)
  • 『竹田加良久里』(文政6年[1823]/持仏堂主人)
  • 『当時十和田参詣道中八戸よりの大がひ』(文政年間のものと見られている/十和田湖参詣道について)
  • 『十和田記 全』(文政12年[1829]成立と見られている/「御縁起見る心得のケ条覺」に彼岸中日に青龍大権現[南祖坊]来臨のいわれに触れられている)
  • 秋葉権現堂再建(天保4年[1833])
  • 『盛岡砂子』(天保4年[1833]/星川正甫)
  • 弘法大師1000年御遠忌(天保5年[1834])
  • 吊灯篭(天保8[1837]/宥威上人により奉納)
  • 不動尊祈祷札(吊灯籠と同時期と推定/権僧正とあるため瑜伽者は晩年の宥威上人)
  • 鰐口(天保12[1841]/河内屋により奉納)
  • 興教大師700年御遠忌(天保13年[1842])
  • 八体仏(弘化年間[1845〜48])
  • 稲荷大明神(嘉永2年[1849]/普賢院宥青[当山先師]、善明院栄隆[修験“善行院”14代])
  • 『鹿角日誌』(嘉永2年[1849]7月16日〜8月3日の日誌/松浦武四郎)
  • 『八戸浦之図』(嘉永年間[1848〜1855])
  • 一王子再建(安政4年[1857]8月)
  • 『十和田山神教記』(万延元年[1860])
  • 観音堂再修(安政10年[1863])
  • 斗南藩縁故者墓石16基(主に明治4〜5年[1871〜72])
  • 旧神臣略系(明治7年[1874])
  • 『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])
  • 『奥々風土記』(江刺恒久が南部利剛の命により編纂)
  • 弘法大師1050年御遠忌(明治17年[1884])
  • 観音堂内御堂造立(明治19年[1886])
  • 興教大師750年御遠忌(明治25年[1892])
  • 興隆講規則(明治34年[1901]/観音講を組織化して再興)
  • 十三仏掛軸木箱の蓋(明治39年[1906])
  • 本堂屋根葺替(大正3年[1914]12月)
  • 七崎山龍神堂木札(大正4年[1915]5月)
  • 『郷社七崎神社誌』(大正6年[1917]/小泉幸雄)
  • 『糠部五郡小史 附 三戸名所旧蹟考 埋木の花 鄙の土』(大正11年[1922]/当地については小泉幸雄氏が記述している)
  • 地蔵菩薩(明治末〜大正期/一時当山の代務者をつとめた赤穂覚信師が作仏)
  • 北沼観音(昭和2年[1927]蓮沼にて発見、昭和4年[1929]旧8月17日建立)
  • 観音堂並仁王門改築(昭和6年[1931]/『七崎観世音道場普請報告書』に記載)
  • 子安地蔵堂(昭和6年[1931])
  • 『十和田湖鳥瞰図』(昭和8年[1933]/吉田初三郎/七崎観音と永福寺[普賢院]が描かれている)
  • 弘法大師1100年御遠忌(昭和9年[1934])
  • 本堂庫裡修繕(昭和9年[1934]/長峻和尚尊霊歎徳文に記載)
  • 大日坊大黒天(昭和10年[1935]頃と推定/61世長峻上人は昭和10年に大日坊88世住職にも就任)
  • 割切五條袈裟(昭和11年[1936]11月/長峻子息・晃雄師[後に出征し戦死])
  • 興教大師800年御遠忌(昭和17年[1942])
  • 戦勝祈願札3枚(戦争期)
  • 本堂屋根葺替(昭和22年[1947]12月/戦後の統制経済の様子を伝える記述がある)
  • 「北ノシノキ」と書かれた木板(昭和22年[1947]12月12日/3名の名が列記)
  • 『永福寺物語』(昭和22年[1947]/山岸郷友会編集部/江戸期まで本坊であった盛岡永福寺は明治になり廃寺。その後、昭和17年[1942]に再興が許可。本誌は再興永福寺の落慶記念。)
  • 本堂修築(昭和26年[1951]/写真アリ)
  • 戦没者慰霊碑(昭和37年[1962]11月)
  • 本堂改築並位牌堂新築(昭和51年[1975])
  • 観音堂宮殿塗装修復(昭和56年[1981])
  • 弘法大師1150年御遠忌(昭和59年[1984])
  • 子安地蔵厨子(昭和59年[1984])
  • 仁王門新造並山号札・観音札所札(昭和59年[1984])
  • 観音堂内陣格天井並中台八葉院法曼荼羅及新装照明(昭和60年[1985])
  • 子安地蔵内格天井(昭和60年[1985])
  • 観音堂内格子前扉(昭和61年[1986])
  • 鐘楼堂建立(平成2年[1990])
  • 興教大師850年御遠忌(平成4年[1992])
  • 本尊厨子(平成5年[1993])
  • 客殿並位牌堂新築(平成12年[2000])
  • 鐘楼堂修繕(平成25年[2013])
  • 長谷寺式十一面観音三尊造立(令和二年[2020]/仏師・小堀寛治氏)

基礎資料作り

年代の判明している

近世以降の

仏像・仏具であったり

所蔵している棟札などを

ザックリと時系列に

箇条書きで並べたものを

以前こちらのブログで

紹介させていただきました。

 

今回はさらに主な史料と

当派で大切にされる

両祖大師の御遠忌(ごおんき)の

年次を加えてみます。

 

両祖大師とは

弘法大師・空海上人と

興教大師・覚鑁(かくばん)上人

のお二人を指します。

 

御遠忌を迎えるに当たり

記念事業を行うことが多いため

御遠忌の年次について

記載することにしました。

 

定期的に迎えられる

御遠忌という節目を

時間軸に落としていくことは

当山の歴史を紐解くうえで

とても有意義なことです。

 

当ブログは

研究メモとしても

活用しております。

 

今後お寺の寺史などを

作成するにあたっての

基礎資料作りでもあると捉え

取り組んでおります。

 

地道な作業な必要なことゆえ

一気に仕上げることは

難しいですが

コツコツ取り組みたいと思います。

 

それでは

以下に“研究メモ”を記して

本日は終えたいと思います。

 


※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])に掲載される神社所蔵の棟札については青字で記します。

※伝説・伝承含め当山に関連する記述の見られる主な史料(近世以降)の年代等を緑字で記します。

※弘法大師や興教大師の御遠忌(ごおんき)を紫字で記します。

 

  • 仁王門造営(寛永2[1625])
  • 弘法大師800年御遠忌(寛永11年[1634])
  • 興教大師500年御遠忌(寛永19年[1642])
  • 『雑書』(確認されているのは寛永21年[1644]3月14日〜天保11年[1840]末【欠落箇所アリ】)
  • 『寺社記録』(寛永21年[1644]〜天保8年[1837]【欠落箇所アリ】)
  • 本七崎観音(明暦元年[1655])
  • 観音堂並十二末社再興(観音堂3間四方/棟札は明暦2年[1656]に宥鏡上人が作成)
  • 吊灯籠(寛文10年[1670])
  • 弘法大師850年御遠忌(貞享元年[1684])
  • 興教大師550年御遠忌(元禄5年[1692])
  • 現七崎観音(貞享4年[1687]/4間四方の観音堂が再建[棟札が神社にアリ]
  • 観音堂並小宮葺替(元禄6年[1693])
  • 『系縁集』(元禄11年[1698]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 『来歴集』(元禄12年[1699]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 殺生禁断札設置(正徳2年[1712]/南部利幹公)
  • 仁王門改造(享保2年[1717])
  • 仁王像(享保3年[1718])
  • 前机(享保9年[1724])
  • 稲荷大明神造営(享保12[1727])
  • 快傳上人逆修建立の墓石(享保14年[1729]、施主信敬とある)
  • 『津軽一統志』(享保16年[1731])
  • 寺屋敷(庫裡)(享保18[1733]/この時に観音山[現在の七崎神社境内]に2000本余の杉を植樹と記載アリ)
  • 弘法大師900年御遠忌(享保19年[1734])
  • 興教大師600年御遠忌(寛保2年[1742])
  • 学秀仏・千手観音坐像(享保年間奉納と推定/学秀仏と思われる不動明王像と大黒天像アリ)
  • 龜峯扁額(享保頃の可能性/落款が「龜峯」「主忠信」「不爾」)
  • 南祖法師尊像(延享元年〜2年[1744〜45]と推定)
  • 賽銭箱(寛保3年[1743]12月)
  • 『奥州南部糠部巡礼次第』(寛保3年[1743]6月3日〜18日の15泊16日で則誉守西上人ら14名が巡礼)
  • 『祐清私記』(著者・伊藤祐清は寛保元年[1741]に諸士系図武器右筆等諸用掛りについており、この際に収集した諸資料や記録をもとに編集したと見られている)
  • 御輿再修覆(宝暦6年[1756]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 鳥居新築(宝暦10年[1760]春)
  • 『御領分社堂』(宝暦10年[1760]頃)
  • 愛染堂再興(宝暦13年[1763])
  • 不動堂再興(宝暦13年[1763])
  • 天照皇大神宮再興(宝暦13年[1763])
  • 大黒天堂造営(宝暦13年[1763])
  • 仁王門修造(宝暦13年[1763]3月)
  • 御輿新造(明和2年[1765]3月)
  • 『平泉雑記』(安永2年[1773]/南祖坊が植えた姥杉の伝説)
  • 夫婦地蔵(安永3年[1774])
  • 弘法大師950年御遠忌(天明4年[1784])
  • 『いわてのやま』(天明8年[1788]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • 鈸(寛政2年[1790]/宥慎上人により奉納)
  • 興教大師650年御遠忌(寛政4年[1792])
  • 荒神堂再建(寛政5年[1793]8月6日)
  • 『邦内郷村志』(明和・寛政年間/大巻秀詮)
  • 地蔵菩薩(享和2年[1802]/現在、位牌堂本尊)
  • 『十曲湖』(文化7年[1807]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • 鐘楼堂再建(文化5年[1808]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 愛染明王(文化7年[1810]/宥瑗上人により奉納)
  • 本堂再建(文化8年[1811])
  • 千手観音堂再建(本堂再建と同時期)
  • 香炉(本堂再建と同時期/宥瑗上人により奉納)
  • 圓通閣扁額(文化14年[1817]/三井親孝の書)
  • 『当時十和田参詣道中八戸よりの大がひ』(文政年間のものと見られている/十和田湖参詣道について)
  • 『十和田記 全』(文政12年[1829]成立と見られている/「御縁起見る心得のケ条覺」に彼岸中日に青龍大権現[南祖坊]来臨のいわれに触れられている)
  • 秋葉権現堂再建(天保4年[1833])
  • 『盛岡砂子』(天保4年[1833]/星川正甫)
  • 弘法大師1000年御遠忌(天保5年[1834])
  • 吊灯篭(天保8[1837]/宥威上人により奉納)
  • 不動尊祈祷札(吊灯籠と同時期と推定/権僧正とあるため瑜伽者は晩年の宥威上人)
  • 鰐口(天保12[1841]/河内屋により奉納)
  • 興教大師700年御遠忌(天保13年[1842])
  • 八体仏(弘化年間[1845〜48])
  • 稲荷大明神(嘉永2年[1849]/普賢院宥青[当山先師]、善明院栄隆[修験“善行院”14代])
  • 『鹿角日誌』(嘉永2年[1849]7月16日〜8月3日の日誌/松浦武四郎)
  • 『八戸浦之図』(嘉永年間[1848〜1855])
  • 一王子再建(安政4年[1857]8月)
  • 『十和田山神教記』(万延元年[1860])
  • 観音堂再修(安政10年[1863])
  • 斗南藩縁故者墓石16基(主に明治4〜5年[1871〜72])
  • 旧神臣略系(明治7年[1874])
  • 『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])
  • 『奥々風土記』(江刺恒久が南部利剛の命により編纂)
  • 弘法大師1050年御遠忌(明治17年[1884])
  • 観音堂内御堂造立(明治19年[1886])
  • 興教大師750年御遠忌(明治25年[1892])
  • 興隆講規則(明治34年[1901]/観音講を組織化して再興)
  • 十三仏掛軸木箱の蓋(明治39年[1906])
  • 本堂屋根葺替(大正3年[1914]12月)
  • 七崎山龍神堂木札(大正4年[1915]5月)
  • 『郷社七崎神社誌』(大正6年[1917]/小泉幸雄)
  • 『糠部五郡小史 附 三戸名所旧蹟考 埋木の花 鄙の土』(大正11年[1922]/当地については小泉幸雄氏が記述している)
  • 地蔵菩薩(明治末〜大正期/一時当山の代務者をつとめた赤穂覚信師が作仏)
  • 北沼観音(昭和2年[1927]蓮沼にて発見、昭和4年[1929]旧8月17日建立)
  • 観音堂並仁王門改築(昭和6年[1931]/『七崎観世音道場普請報告書』に記載)
  • 子安地蔵堂(昭和6年[1931])
  • 『十和田湖鳥瞰図』(昭和8年[1933]/吉田初三郎/七崎観音と永福寺[普賢院]が描かれている)
  • 弘法大師1100年御遠忌(昭和9年[1934])
  • 本堂庫裡修繕(昭和9年[1934]/長峻和尚尊霊歎徳文に記載)
  • 大日坊大黒天(昭和10年[1935]頃と推定/61世長峻上人は昭和10年に大日坊88世住職にも就任)
  • 興教大師800年御遠忌(昭和17年[1942])
  • 戦勝祈願札3枚(戦争期)
  • 本堂屋根葺替(昭和22年[1947]12月/戦後の統制経済の様子を伝える記述がある)
  • 「北ノシノキ」と書かれた木板(昭和22年[1947]12月12日/3名の名が列記)
  • 『永福寺物語』(昭和22年[1947]/山岸郷友会編集部/江戸期まで本坊であった盛岡永福寺は明治になり廃寺。その後、昭和17年[1942]に再興が許可。本誌は再興永福寺の落慶記念。)
  • 本堂修築(昭和26年[1951]/写真アリ)
  • 戦没者慰霊碑(昭和37年[1962]11月)
  • 本堂改築並位牌堂新築(昭和51年[1975])
  • 観音堂宮殿塗装修復(昭和56年[1981])
  • 弘法大師1150年御遠忌(昭和59年[1984])
  • 子安地蔵厨子(昭和59年[1984])
  • 仁王門新造並山号札・観音札所札(昭和59年[1984])
  • 観音堂内陣格天井並中台八葉院法曼荼羅及新装照明(昭和60年[1985])
  • 子安地蔵内格天井(昭和60年[1985])
  • 観音堂内格子前扉(昭和61年[1986])
  • 鐘楼堂建立(平成2年[1990])
  • 興教大師850年御遠忌(平成4年[1992])
  • 本尊厨子(平成5年[1993])
  • 客殿並位牌堂新築(平成12年[2000])
  • 鐘楼堂修繕(平成25年[2013])
  • 長谷寺式十一面観音三尊造立(令和二年[2020]/仏師・小堀寛治氏)

 

棟札に耳を傾ける④

当山では本堂建替事業の

第5年目を迎え

本年より新本堂の建設が始まり

来年秋頃に完成する予定です。

 

この機会に

普賢院の寺史を

作成したいと考えています。

 

新本堂が完成すると

棟札や古い文書は

再び丁重にしまうことになるので

このタイミングでしか

行うことが出来ないので

当ブログの投稿も活かしつつ

まとめていこうと思います。

 

次第をはじめ文書については

除きますが

当山所蔵の棟札ほか

年代が判明している(一部推定)

江戸期以降の

主な仏像や灯籠などを

あげると以下のようになります。

※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])に掲載される神社所蔵の棟札については青字で記します。

 

  • 仁王門造営(寛永2[1625])
  • 本七崎観音(明暦元年[1655])
  • 観音堂並十二末社再興(観音堂3間四方/棟札は明暦2年[1656]に宥鏡上人が作成)
  • 吊灯籠(寛文10年[1670])
  • 現七崎観音(貞享4年[1687]/4間四方の観音堂が再建[棟札が神社にアリ]
  • 観音堂並小宮葺替(元禄6年[1693])
  • 仁王門改造(享保2年[1717])
  • 仁王像(享保3年[1718])
  • 前机(享保9年[1724])
  • 稲荷大明神造営(享保12[1727])
  • 快傳上人逆修建立の墓石(享保14年[1729]、施主信敬とある)
  • 寺屋敷(庫裡)(享保18[1733]/この時に観音山[現在の七崎神社境内]に2000本余の杉を植樹と記載アリ)
  • 学秀仏・千手観音坐像(享保年間奉納と推定/学秀仏と思われる不動明王像と大黒天像アリ)
  • 龜峯扁額(享保頃の可能性/落款が「龜峯」「主忠信」「不爾」)
  • 南祖法師尊像(延享元年〜2年[1744〜45]と推定)
  • 賽銭箱(寛保3年[1743]12月)
  • 御輿再修覆(宝暦6年[1756]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 鳥居新築(宝暦10年[1760]春)
  • 愛染堂再興(宝暦13年[1763])
  • 不動堂再興(宝暦13年[1763])
  • 天照皇大神宮再興(宝暦13年[1763])
  • 大黒天堂造営(宝暦13年[1763])
  • 仁王門修造(宝暦13年[1763]3月)
  • 御輿新造(明和2年[1765]3月)
  • 夫婦地蔵(安永3年[1774])
  • 鈸(寛政2年[1790]/宥慎上人により奉納)
  • 荒神堂再建(寛政5年[1793]8月6日)
  • 地蔵菩薩(享和2年[1802]/現在、位牌堂本尊)
  • 鐘楼堂再建(文化5年[1808]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 愛染明王(文化7年[1810]/宥瑗上人により奉納)
  • 本堂再建(文化8年[1811])
  • 千手観音堂再建(本堂再建と同時期)
  • 香炉(本堂再建と同時期/宥瑗上人により奉納)
  • 圓通閣扁額(文化14年[1817]/三井親孝の書)
  • 秋葉権現堂再建(天保4年[1833])
  • 吊灯篭(天保8[1837]/宥威上人により奉納)
  • 不動尊祈祷札(吊灯籠と同時期と推定/権僧正とあるため瑜伽者は晩年の宥威上人)
  • 鰐口(天保12[1841]/河内屋により奉納)
  • 八体仏(弘化年間[1845〜48])
  • 稲荷大明神(嘉永2年[1849]/普賢院宥青[当山先師]、善明院栄隆[修験“善行院”14代])
  • 一王子再建(安政4年[1857]8月)
  • 観音堂再修(安政10年[1863])
  • 斗南藩縁故者墓石16基(主に明治4〜5年[1871〜72])
  • 旧神臣略系(明治7年[1874])
  • 観音堂内御堂造立(明治19年[1886])
  • 興隆講規則(明治34年[1901]/観音講を組織化して再興)
  • 十三仏掛軸木箱の蓋(明治39年[1906])
  • 本堂屋根葺替(大正3年[1914]12月)
  • 七崎山龍神堂木札(大正4年[1915]5月)
  • 地蔵菩薩(明治末〜大正期/一時当山の代務者をつとめた赤穂覚信師が作仏)
  • 北沼観音(昭和2年[1927]蓮沼にて発見、昭和4年[1929]旧8月17日建立)
  • 観音堂並仁王門改築(昭和6年[1931]/『七崎観世音道場普請報告書』に記載)
  • 子安地蔵堂(昭和6年[1931])
  • 本堂庫裡修繕(昭和9年[1934]/長峻和尚尊霊歎徳文に記載)
  • 大日坊大黒天(昭和10年[1935]頃と推定/61世長峻上人は昭和10年に大日坊88世住職にも就任)
  • 戦勝祈願札3枚(戦争期)
  • 本堂屋根葺替(昭和22年[1947]12月/戦後の統制経済の様子を伝える記述がある)
  • 「北ノシノキ」と書かれた木板(昭和22年[1947]12月12日/3名の名が列記)
  • 本堂修築(昭和26年[1951]/写真アリ)
  • 戦没者慰霊碑(昭和37年[1962]11月)
  • 本堂改築並位牌堂新築(昭和51年[1975])
  • 観音堂宮殿塗装修復(昭和56年[1981])
  • 子安地蔵厨子(昭和59年[1984])
  • 仁王門新造並山号札・観音札所札(昭和59年[1984])
  • 観音堂内陣格天井並中台八葉院法曼荼羅及新装照明(昭和60年[1985])
  • 子安地蔵内格天井(昭和60年[1985])
  • 観音堂内格子前扉(昭和61年[1986])
  • 鐘楼堂建立(平成2年[1990])
  • 本尊厨子(平成5年[1993])
  • 客殿並位牌堂新築(平成12年[2000])
  • 鐘楼堂修繕(平成25年[2013])
  • 長谷寺式十一面観音三尊造立(令和二年[2020]/仏師・小堀寛治氏)

 

先に少しだけ触れている

大正15年(1926)の

『郷社七崎神社誌』は

当時の社司・小泉幸雄氏が

編纂したもので

結びとして書かれた自序に

次のように記されてあります。

 

神社誌の編纂に志すこと多年。即ち明治37年より大正6年3月に至る14年を以て、漸く完成を見るに至れり。此間資料蒐集に務め、特に盛岡藩南部伯爵家及遠野南部男爵家の古文書の拝見を許され、之れに力を得て多大の成果を収めたり。御両家に対し甚深なる敬意と感謝の誠意を表するものなり。

本誌編纂に当り参考資料は、盛藩旧事記、南部男爵家の御邦内郷村誌、東北太平記、七崎観世音伝話記、其他棟札、不肖幸雄保存せる南部五世伝、南部地雷復、霊験縁起、小泉家系図、言ひ伝並に明治維新に至るまでの事績等の参酌に依るものなるを以て、地方の史実に関するものあるべきも、多少とも本社に関係あるものは或は重複の嫌あるも之を記載せり。

大正6年以降現在までの事績にして、将来記録すべきは之れを記載し且つ新事実の発見する毎に訂正したり。

本年は皇輝ある紀元2600年を迎え奉祝記念として、本誌を印刷に附し広く有志に分ち永久に伝え、以て御神徳発揚の資に供せんとす。

 

当山近くの七崎神社は

明治になるまでは

当山が管理していた

旧観音堂(寺号・徳楽寺)でした。

 

小泉家は

明治まで修験家でもあり

旧観音堂に深く関わりがありました。

 

参考資料にある

七崎観世音伝話記は

幸雄氏の曽祖父にあたる

大学院泰道などが

「古老の伝説」を文政年中に

編纂したものと説明されおり

参詣人の案内役をすることもあった

修験の方々が

一種の手引のような形で

七崎観音にまつわるお話を

まとめられていたことがうかがえます。

 

引用した自序をみると分かるように

神社誌は参考文献をもとにしつつ

神社所蔵の棟札や

当地での言い伝えを踏まえて編集された

力作といえます。

 

当時の状況を考えると

大変なご労力があったと思うのです。

 

この神社誌で

挙げられている棟札と

当山が所蔵する棟札や

一部仏像や仏具などについて

寛永2年(1625)以降のものを

先に列挙してみました。

 

青字で示したのが神社誌で

触れられているものですが

全体からすると

ごく一部のものですし

お寺の歴史を紐解くうえで

ある意味最も尊い古文書たる

過去帳にも触れられていないので

明治以前のことを述べるには

やはり限界があるように感じます。

 

当地の大先輩であり

旧観音堂に仕えていただいた

修験の流れを組むお家の

小泉幸雄氏の労作にて

語られるお寺の歴史を

さらに厚みのあるものに

したいと考えております。

 

また本山の長谷寺や仁和寺や

当時の本坊・盛岡永福寺や

その他多くの関係寺院との

関わりであったり

宗派における節目の行事などを

踏まえると

意義が浮かび上がるものもあるので

そういったことも押さえながら

後世に託すべく『寺史』を

作成したいと思います。

 

ここでようやく

棟札の本題に入らせていただきます。

 

ここに至るまでで

かなりの分量をさいたので

今回の棟札の紹介は

少しだけにします。

 

本堂建替事業まっただ中なので

旧本堂の棟札について見ています。

 

次の画像資料の通り

この棟札は結構大きく

形は剣形(けんがた)で

表裏に文言が見られます。

 

幅についてですが

底が21cmで

上に向かって多少

幅が広がっていまして

一番広い所が22cmです。

 

文言については次回以降

紐解いてまいります。

棟札に耳を傾ける③

少しづつ

懐かしさが増してきた旧本堂。

 

本年から

いよいよ新本堂の建設です。

 

今回は一昨年から

ピタッと更新が止まっていた

「棟札に耳を傾ける」の

第3稿をアップいたします。

 

▼以前のものはコチラ

棟札に耳を傾ける①

棟札に耳を傾ける②

 

当山は

開創以来1200年もの

歴史が積み上げられた古刹で

これまでも様々な節目にあたり

縁起や由緒が

改めて有縁の方や

ご参詣の方に説かれてきました。

 

平成令和の本堂建替においても

所蔵される文書や棟札を踏まえ

近世の史料の記述や

最近の諸資料を見直して

普賢院の寺史を

作成したいと思います。

 

現在発行されている書籍含め

近世の史料がもとになり

当山が紹介されているのですが

近世の史料は

寺史を紐解く上で重要になる

当山の過去帳に触れられていません。

 

過去帳は他見厳禁ゆえ

公開するようなものではありませんが

住職をつとめられた

先師の御名が記された

尊い古文書でもあります。

 

近世の史料に目を通してみると

お寺の創建について

諸開山上人の没年齢が

創建年代や中興年代になっていたり

記載される棟札の文言に

誤植が見られるなど

注意を払うべき所が多くあります。

 

それらをのみ

典拠としてしまうと

当然のことながら

不十分な説明にならざるをえません。

 

専門性が高く

いわゆる郷土史という

枠組みだけでは

紐解けない部分もあるので

個々の課題を明らかにしつつ

出来る形で

整えていきたいと考えております。

 

これまでも

当山について

様々なことを紹介して

まいりましたが

最近は資料を添付しつつ

投稿を重ねております。

 

特に棟札については

文字ばかりよりも

添付した図のような形の方が

断然分かりやすいと思うので

資料を示しつつ

お話を進めていきたいと思います。

 

ここしばらくは

文化8年(1811)の旧本堂棟札について

お寺の歴史に触れながら

見ていきたいと思います。

 

資料が現時点で

13枚あるので

投稿を重ねる中で

説明を補足する形式で

「棟札に耳を傾ける」シリーズを

進めていきたいと思います。

 

▼旧本堂(令和元年お盆の様子)

 

▼以下、資料画像になります。

 

以上が、現時点で

用意した画像になります。

 

まだ未完ですが

とりあえずアップいたします。

 

ブログの文章よりも

ビジュアル的なので

ストーリーが分かりやすい

のではないでしょうか。

 

これらの資料をたたき台に

棟札について紐解きつつ

お寺の歴史や伝説についても

紹介させていただきたいと思います。

重直公ご奉納の聖観音像〜”元”七崎観音の「発見」〜

昨年、由緒が明らかになった

古い観音像(現在修繕中です)。

 

本堂建替に伴い取り掛かっている

仏像・仏具や文書の整理の

甲斐ありここ何年か

歴史的発見が続いていますが

観音像の素性が判明したことも

とても大きなことでした。

 

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普賢院の観音堂本尊である

七崎観音(ならさきかんのん)の

大切な行事「おこもり」が

本年は2月28日(旧暦1月17日)に

行われます。

 

そういった時季でもあるので

昨年新たに判明したことの

整理を行い

なるべく分かりやすい形で

紹介したいと思います。

 

ダイジェストを

次の画像にまとめたので

まずはそちらをご覧下さい。

 

 

昨年新たに判明したのは

図でいうと青で示された箇所の

聖観音像についてです。

 

こちらの観音像は

とても古いもので

昭和期までは

大きな厨子に

納められていました。

 

大きな厨子は

傷みが顕著だったため

すでに処分されています。

 

その由緒については

長らく不明だったのですが

これまで積み重ねてきた

“探求”が功を奏しまして

明暦元年(1655)に

南部重直公により奉納された

ということが判明しました。

 

旧観音堂は

慶安2年(1649)に落雷により

焼失しています。

 

その後

重直公を施主として

承應3年(1654)〜明暦2年(1656)に

観音堂ほか末社十二社が

再興されおり

その棟札が残っております。

 

『寺社記録』によると

落雷による観音堂焼失後の

慶安4年(1651)にも

再興されたと記述が見られます。

 

この時期

重直公は病を患っており

藩内の多くの寺社仏閣に

病気平癒のご祈祷をするよう

藩令が下されていました。

 

病状が一時回復した重直公は

“ご祈祷の御礼”もかね

各所の寺社仏閣の

修繕事業の施主となられています。

 

七崎観音堂についても

その時期とちょうど重なります。

 

重直公は

寛文4年(1664)年秋にご逝去され

同年冬に次代藩主となられたのが

重信公で

現・七崎観音の聖観音像を

ご奉納された藩主です。

 

重信公は「御前立(おまえだち)」

として聖観音像を

納められています。

 

「御前立」とは

本尊などの主要な仏像の前に

ご安置される仏像です。

 

これまで触れてきたことを

踏まえるに

明暦元年(1655)以降は

重直公がご奉納された

聖観音像が七崎観音として

祀られていたと考えられます。

 

重直公ご奉納の聖観音が

七崎観音として祀られ

その御前立として

重信公ご奉納の

現・七崎観音が

祀られていたと思われます。

 

ではなぜ現在の形に

なったのかについてですが

思い当たる所が

いくつかありまして

この点については

後々記させていただきます。

 

▼『新撰陸奥国詩』掲載の俯瞰図をもとに

近世の当地の再現イラスト。

 

▼近世における主なお堂の

建立年代と規模。

十和田湖伝説の絵本動画を制作しました

十和田湖伝説を今に伝える写本のひとつ

『十和田山神教記』(とわださんじんきょうき)。

 

当山には写本2冊が残されております。

 

その写本をもとに

絵本『龍になったおしょうさま』を

有志と制作しました。

 

「龍になったおしょうさま」は

南祖坊(なんそのぼう)のことです。

 

南祖坊は

当山2世住職・月法律師(がっぽうりっし)の

弟子であり

十和田湖の龍神である

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)に

なったとされる僧侶です。

 

以前より

寺子屋ワークショップ

「香りのこころ」で

お世話になっていた

小松美央さん(ひつじや)

在家渓静さん(くるみのひろば)と

平成30年に「かたり部(ぶ)」という

会をたちあげました。

 

地域に伝わる物語をはじめ

さまざまなことを

自分たちが出来る形で

語り伝えていこうという会です。

 

『十和田山神教記』は

数ある十和田湖伝説の中でも

とても魅力的なストーリーを

今に伝えているのですが

あまり知られてはいません。

 

当山に写本が残されていることもあり

この物語を絵本にして

親しみやすいものにしたいという

思いがありました。

 

当初は絵本を作成する予定でしたが

ここ3ヶ月程

オンラインで会議を重ねる中

動画にしてみようということになり

製本に先んじて

動画を制作しました。

 

朗読は

拙僧(副住職)の高校時代の

同級生でもあり

アナウンサー経験のある

種市佳子さんにご担当いただきました。

 

種市さんにも

かたり部を立ち上げる前から

絵本動画を作ったときには

朗読をしてほしいということを

お願いしておりました。

 

ご協力下さった

素晴らしい方々の

お力添えにより

素敵な絵本動画が

出来たと感じています。

 

普賢院は

弘仁初期頃(810頃)に開創され

承安元年(1171年)に開基された

古いお寺で

来年は開基から850年という

メモリアルイヤーでもあります。

 

そのメモリアルイヤーを前に

念願がひとつ叶ったことに

感謝しております。

 

18分程の動画に

まとめておりますので

『十和田山神教記』が伝える

十和田湖伝説に

ぜひ触れてみて下さい。

 

新本堂と本堂裏の整備について

現段階で予定されている

新本堂と本堂裏整備について

図化して整理してみたいと思います。

 

以前もお伝えしたと思いますが

新本堂の前方ラインが

旧本堂よりも下がり

本堂前のスペースが

以前よりも広くなります。

 

 

また

大屋根の関係や

両サイドの建物との間隔の関係で

新本堂の中心ラインが

以前よりも若干北側に

スライドします。

 

本堂正面入口が

本堂に向かって“右側”に

ややズレるといえば

分かりやすいでしょうか。

 

本堂中心ラインは

本尊様が祀られる

中心線ということです。

 

たまたまですが

その「新中心線」上には

歴代先師墓と

建立予定の合葬墓が

位置することになります。

 

新本堂にお参りされた方が

手を合わせ

祈りを捧げられる

その方向に

歴代先師墓と合葬墓が

あるということは

とても尊いことだと感じています。

 

いま取り組ませていただいている

本堂建替事業では

本堂裏手の整備も行われます。

 

合葬墓が

歴代先師墓の隣に

建立されます。

 

会津斗南藩縁故者の墓石16基を

現在地から同所西側に移設・整理し

また供養碑を建立いたします。

 

会津斗南藩縁故者供養碑は

当山有縁の方が

ご寄付して下さる予定です。

 

さらに

青龍権現(せいりゅうごんげん)碑を

十和田湖の方角に向けて

手を合わせられるように

建立します。

 

青龍権現碑は

八戸市根城の番地石材店の

番地さんがご寄付下さいます。

 

青龍権現とは

十和田湖の龍神です。

 

当山2世の月法律師の弟子として

修行された僧侶・南祖坊(法師)が

十和田湖の龍神・青龍権現に

なったと伝説では

語られております。

 

お寺の空間は

祈りを捧げ

歴史や伝承・伝説に触れられる

尊いものでもあります。

 

尊い空間たるべき

環境を整えることは

とても大切なことといえます。

 

「ハード」も「ソフト」

きちんと整え続ける努力をおしまず

情熱と覚悟をもって励んでまいります。

 

史料をもとに近世のお寺近辺を再現してみました

明治9年(1876)に

国に提出された青森県の地誌

『新撰陸奥国誌』には

かつての観音堂の様子が

スケッチされております。

ここでいう観音堂とは

現在の七崎神社の場所に

明治まであったもので

徳楽寺という寺号が

用いられており

当山は長く観音堂の別当寺を

つとめております。

 

明治時代に行われた

神仏分離の対応のため

観音堂(徳楽寺)は廃寺となり

同書には社殿が建立され

七崎神社に改められました。

 

そのスケッチは

デフォルメされているのですが

細かな所の特徴が

おさえられております。

 

このスケッチでは

現在の当山駐車場東南側に

あたる部分が描かれています。

 

なので

こちらのスケッチをもとにして

江戸末期の当山本堂と庫裡を

配置させて

各所に簡単な説明を加えると

以下のようになります。

ちなみにですが

かつての観音堂は

明暦2年(1656)時点で

大きさが3間四方(18畳)

宝暦13年(1763)以降で

4間四方(32畳)であることが

棟札や史料より分かっています。

 

当山本堂は

文化7(1810)以前が

8間×7間(112畳)

文化8年(1811)〜令和2年10月が

8間×6間(96畳)です。

 

スケッチには

観音堂と境内だけではなく

当山有縁の家々も描かれております。

 

今回の再現図を作成するにあたり

細かな発見や気づきを

沢山得ることが出来ました。

 

歴史を感じつつ

実りある探求作業が出来たと

感じています。

宝暦13年春三月の棟札と『御領分社堂』

江戸期に

当山はどのような様子であったかを

うかがい知ることが出来る

史料のひとつとして

『御領分社堂』があげられます。

 

『御領分社堂』は

当時の観音堂(七崎山 徳楽寺)と

様々なお堂(小社)の様子を

伝えております。

 

ここでいう観音堂は

現在の七崎神社の場所に

明治時代になるまであったお堂でして

七崎山徳楽寺という寺号が

用いられておりました。

 

明治までは

四間四方のお堂で

護摩堂を兼ねた観音堂であったことが

史料より分かっております。

 

ここ数年

旧観音堂を「永福寺本堂」と紹介する

文献がいくつか見られましたが

旧観音堂は本堂ではありません。

 

専門性の高い要素であったり

内部の者にしか分からない事柄が

いくつも絡んでいるため

そのような記述になってしまうのも

無理ないことだと思いますが

地元で伝えられることと

あまりに乖離したものを

生半可な状態で由緒であると

紹介されることは

当山としても好ましくありません。

 

話を戻しまして

『御領分社堂』という

宝暦13年(1763)の書物は

宝暦9年(1759)の幕府の御触(おふれ)

により開始された

藩領の社堂の調査を

まとめたものです。

 

なので

同書に掲載されている内容は

宝暦13(1763)以前のものとなります。

 

というのも当山には

宝暦13年(1763)3月の棟札(むなふだ)

3枚が所蔵されているのですが

その内容が同書『御領分社堂』には

反映されておりません。

 

少し細かなことかもしれませんが

当山に所蔵される棟札と

関係する部分でもあるので

本稿にてご紹介いたします。

 

『御領分社堂』では

七崎(豊崎の古称)について

以下のように

記載されております。

 

※( )、文字色は筆者によります。


寺院持社堂 五戸御代官所七崎

一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)

古来縁起不相知

萬治元年(1658)重直公御再興被遊

貞享四年(1687)重信公御再興被遊候

何(いずれ)も棟札(むなふだ)有

 

一 大日堂

一 不動堂

一 愛染堂

一 大黒天社

一 毘沙門堂

一 薬師堂

一 虚空蔵堂

一 天神社

一 明神社

一 稲荷社

一 白山社

右十一社堂は観音堂御造営之節

依御立願何も御再興被遊候

小社之事故棟札も無之

只今大破社地斗に罷成候

一 月山堂 壱間四面板ふき

 

一 観音堂 右ニ同

右両社共に観音堂御造営之節

重直公御再興也

 

善行院(ぜんぎょういん)

当圓坊(とうえんぼう)

覚圓坊(かくえんぼう)

覚善坊(かくぜんぼう)

右四人之修験は本山派にて

拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候

古来より拙寺(永福寺)拝地之内

三石宛(ずつ)遣置

掃除法楽為致置候


 

上記では

大日堂、愛染堂、不動堂

の3つのお堂が

小社(小さいお堂の意)ゆえ

棟札(むなふだ)も無いと

掲載されております。

 

この調査は

先にも触れたように

宝暦9年(1759)のお触れにより

実施されたもので

『御領分社堂』が報告書として

まとめあげられたのが

宝暦13年(1763)なので

七崎(現在の豊崎)の調査が

実施されたのは

宝暦13年(1763)以前だと

いえると思います。

 

その宝暦13年(1763)三月に

大日堂(天照皇大神宮)、

愛染堂、不動堂が

再建されていることが

当山所蔵の棟札から分かります。

 

大日如来は天照大神と

本地垂迹の関係で捉えられております。

 

そのことは

大日如来を象徴する種字(梵字)が

荘厳体で記されたうえで

天照皇大神宮一宇云々と

棟札に書き留められていることからも

うかがわれるかと思います。

 

愛染堂も不動堂も

同時期に再建されております。

 

棟札には

大檀那大膳太夫利雄公と

記されており

再建の大檀那(大施主)は

当時の盛岡南部藩藩主である

南部利雄(としかつ)公

であることが分かります。

 

盛岡南部藩家老の日誌『雑書』

文化7年(1810)7月6日の所に

当山について触れておりまして

ここに江戸中期の本堂の規模が

八間×七間であることが

記されており

またこの時点で

その本堂が「数十年罷成」とあります。

 

なので

1810年から数十年前に

何らかの大きな“手入れ”が

本堂になされたのだと思われます。

 

建替えなのか修繕なのかは

分かりませんが

1700年代のどこかで

事業がなされたのでは

ないでしょうか。

 

1700年代といえば

享保年間(1716〜1736)に

快傳上人により中興されております。

 

そして

今回紹介した棟札が示すように

宝暦13年(1763)には

大日堂(天照皇大神宮)、

愛染堂、不動堂が再建されました。

 

参考までにですが

宝暦6年(1756)には

御輿(みこし)が「再修覆」

されております。

 

本稿でとりあげた棟札は

快傳上人により

中興されて以降の

当山の“歩み”を紐解く上で

とても貴重なものだと感じます。