戒名と御布施について

仏事において

最も多く寄せられるご質問は

戒名(法名)と御布施についてです。

 

この戒名であれば

どれ位の御布施を

お渡しすればよいですか?

 

この問いには

明確な金額を伴う答えは

ありません。

 

実際の所では位号(いごう)と

言われる部分を1つの基準として

納める御布施を

決められる方が

多いようですが

本質的な意味からすれば

微妙な所です。

 

お寺によっては

戒名料という形で

御布施とは別に御浄財を

お納め頂いたり

戒名別に御布施の目安を

定めている所もあります。

 

それらは多くの場合

お寺の運営や護持において

採用されている方法なので

本質的にどうこうという話とは

少し異なります。

 

話がそれましたが

位号(いごう)とは

孩児(がいじ)、孩女(がいにょ)

童子(どうじ)、童女(どうにょ)

信士(しんじ)、信女(しんにょ)

居士(こじ)、大姉(だいし)など

戒名(法名)の最後に添えられる

部分のことです。

 

次のような

ご要望もよく耳にします。

 

御布施の額に失礼があっては

ならないので戒名は

居士や大姉ではなく

信士や信女でお願いします。

 

こういったご要望は

珍しいことではありませんし

お気持ちも分かります。

 

しかし当山において

歴代住職が守り伝えてきた

志や姿勢からすれば

こういったご要望通りに

戒名を調整することは

出来かねます。

 

戒名は商品ではありません。

 

しかるべき戒名を

しかるべき方に

お授けさせて頂いております。

 

そもそも戒名は

位号によって

良いとか悪いとか

位が高い低いなどという

次元のものではありません。

 

仏弟子として

悠久の昔より受け継がれる

尊いお諭しである戒律を

正式に授かり

御教え(法)を担う者である

あかしが戒名(法名)です。

 

葬儀における戒名(法名)は

その方の歩みを讃えるものであり

現世的ものさし

金銭的ものさしにより

左右されるものではありません。

 

尊い命を授かり

立派に尽くされ

生涯を全うされた方の

お弔いに際し

御布施の事をはじめ

金銭的な不安を要因に

“違和感のある戒名”を

授けることは感心しません。

 

信士の戒名が”安い・平凡”

居士の戒名が”高い・偉い”など

いう考えは間違いです。

 

そういった「目」でもって

多くの戒名を見ることは

これまでに戒名を授かった方に

対しても大変に失礼なことです。

 

お気持ちは良く分かるのですが

僧侶としては

この点をしっかりと

お伝えしなければなりません。

 

有縁の方々に

儀式を執り行って頂き

お心をお運び頂き

新たな歩みの志を

お捧げすることこそが

最も大切です。

 

葬儀や仏事は

お弔いであると同時に

今を生きる方々の

心の修養の場でもあるのです。

 

それが本義であり

その部分がないがしろにされれば

古い祈りの形を受け継ぎ

諸々の作法をなすことを許された

僧侶が儀式を執り行う必要は

ないように感じます。

 

葬儀や法事のみが

ご供養ではありません。

 

それらはご供養の節目であり

自身ともお向き合い頂く

尊い機会です。

 

金額の価値は

尊い命の価値ではありません。

 

お金の価値は

相対的なものであり

日々刻々激しく変化しうるものですが

命の尊さははかり知れないものです。

 

尊い命の歩みを

讃えるものである戒名を

そのような「金額としての御布施」で

もって向き合うようなことは

仏道にはそぐいません。

 

どのように御布施を納めるか

明確に提示して頂きたいという

お声も寄せられますが

それでは御布施の本来の意味が

失われてしまいます。

 

時間の経過の中で

故人をお偲び頂きながら

どうするかをお考え頂いて

思いを通わせて頂いた上で

御布施をお納め頂きたく存じます。

 

先にも触れましたが

お気持ちは痛いほど

良く分かるのです。

 

当山では本義にのっとり

謹んで全ての儀式を

“全力で”執り行っております。

 

命に優劣がないゆえに

お弔いの儀式そのものにも

差別はありません。

 

有縁の方には

是非ともご理解頂きたい次第です。

 

▼【参考拙稿】お葬式について

https://fugenin643.com/blog/道を示すお葬式/

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お地蔵さまに託されたおもい

24日は

お地蔵様のご縁日です。

 

お地蔵様は

地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

という尊格です。

 

地蔵とは

万物を載せ万物を育む

壮大な大地の如くの

慈悲を宿すという

意味の言葉です。

 

地蔵菩薩は

子どもとゆかりのある

仏さまとしても有名です。

 

子安地蔵(こやすじぞう)

水子地蔵(みずこじぞう)

というお地蔵様を

ご存知ないでしょうか。

 

子どもの健やかなること

子どもの安らかなることを

切に願う心は

親であれば誰しもが

お抱きのお心かと思います。

 

地蔵菩薩は

そのような切なるおもいが

託されてきた仏さまでもあります。

 

西院の河原(さいのかわら)和讃

という御詠歌があります。

 

この御詠歌では

黄泉の旅へ赴く

小さな子どもの物語が

描かれます。

 

自身の親はどこにいるのかと

ひたすらに探し巡る

小さな子ども達。

 

子ども達が

探せども探せども

会うことの叶わない

愛する両親。

 

子ども達は

会いたい家族へ

おもいを届けるために

河原の石を積み上げます。

 

しかし、夜が来ると

積まれた石を鬼が倒します。

 

子どもたちは

かえでのような

小さな手を合わせ

助けを願います。

 

そこへ西の彼方より

お地蔵様がやってきて

子ども達に

手を差し伸べます。

 

両親に代わり

子ども達を

お地蔵様が

楽しみ尽きることなく

お守り下さるという

西院の河原の物語。

 

お地蔵様には

沢山の願いやおもいが

託されております。

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日々の中で向き合うお仏壇

当山有縁の方が

仏壇を新居に移すのに伴い

お経をあげてほしいとの

お願いがあり

お勤めにお伺いしました。

 

お寺まで車でお迎え頂き

運転して下さった

施主様のお姉様と

あれこれと車中20分少々

お話しながら

お宅へと向かいました。

 

ご供養のことや

ご子息様のこと

受験のこと

留学のことなど

車中の話題は様々でしたが

何気ない会話の中にも

示唆に富んだものが

散りばめられておりました。

 

お気軽に

ご忌憚のないご発言を

頂けることはとても

ありがたいことです。

 

頂くご質問などに

お答えする中で

新たな発想が浮かぶことは

よくあることです。

 

対話を通じて

頭の中に思い描いて

頭の中の引き出しに

しまっておいた考えが

久しぶりに

思い出されたりと

車中での時間は

有意義なものでした。

 

引っ越し先に

改めて置かれた仏壇は

きれいにお手入れされて

いらっしゃいました。

 

ほこりが

たまりやすい所が

仏壇にはあるのですが

ほこりのたまりもなく

お手入れされておりました。

 

ご家族の方や

ご親戚の皆様が

仏壇を大切にお守り

されていることが

伝わってまいりました。

 

お仏壇にお祀りされる

お位牌は施主様の

お母様のものです。

 

仏壇供養の日は晴天で

風になびくカーテン越しに

優しい陽ざしが

差し込んでいました。

 

仏壇は

日々の時間の中で

お守りされることに

深い意味があります。

 

車中での会話の中からも

どのような「日常の時間」が

流れているのかを

少しだけ垣間見させて

頂いたように思います。

 

仏壇が置かれる

空間と時間に

思いをはせながら

お手合わせさせて頂きました。

 

きれいに手入れをしたものに

映り込む自身の姿は

「この世のほとけ」と

いわれると

聞いたことがあります。

 

要するに

きれいに保たれているものや

きれいな状態にされたものは

それと向き合われる方の

心のあり方にも通じている

ということです。

 

綺麗な仏壇に

そのお家の方々の

“清らかなお心”を感じた

お勤めでした。

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般若心経の経本を作成しました

当山の名前入りの

般若心経の経本が

出来上がりました。

 

これまで当山で

季節の法要の際などに

使用して頂いておりました

経本よりも

字が大きく見やすいもの

となっております。

 

また、堅い紙で

表裏の表紙が

表装されていない分

手軽に扱って頂ける

経本となっております。

 

経本裏面には

当山の寺院名を印刷し

中面には

当山本尊・愛染明王の

御真言(ごしんごん)を

印刷して仕上げて頂きました。

 

有縁の方にお役立て頂ければ

至極幸いです。

 

写経カフェなどの

寺子屋でも役立てて

まいりたいと思います。

 

本堂や客殿など各所に

置いておきますので

経本が御入用の方は

ご自由にお取り下さい。

 

お寺にお声掛け頂いても

構いません。

 

多くの方に

お使い頂ければと

思いますので

謹んでお知らせいたします。


 

▼表紙

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▼旧来の経本(左)と新経本(右)

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▼字が大きくなりした(右)

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▼中面(左)と裏表紙(右)

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ご縁を感じる場としての仏事

GW中には

遠方より帰省される折に

ご法事を営まれる方が

多くいらっしゃいます。

 

最近では

ご法事のみならず

葬儀においても

極少人数の身内の方にて

執り行われる事が

多くなっております。

 

この傾向の背景には

ご事情のあることなので

致し方ない部分も

あるかと思います。

 

つい先日

77回忌のご法事を

営まれた檀家さんが

いらっしゃいました。

 

正確には77回忌と併せて

他の回忌もお勤めしましたが

77回忌にあたる方を中心とした

ご法事が執り行われました。

 

施主様のご兄弟ご一行様が

集われてのご法事でした。

 

両親や先祖があって今がある

ことに対して

心から感謝しています

とおっしゃられていた

御宗家の皆様の真心が

通わされた温かで賑やかな

ご法事となりました。

 

仏事はご縁を感じる場でもあります。

 

ご縁と「付き合い」は

似て非なる物です。

 

ご法事等の仏事が

「付き合い」として

捉えられがちな

昨今であるように感じます。

 

真心が運ばれ

ご縁を感じて頂く場が

仏事であるということを

今の世にあってこそ

強く感じて頂ければと願います。

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八戸近辺の葬儀

お弔いの儀式は

地域により流れが異なります。

 

八戸近辺では

火葬を行った後の葬儀が主な流れです。

 

多くの場合

2日間で執り行います。

 

お寺によっても

異なりますが

当山での主に下記の流れで

お弔いをご一緒させて頂いております。

 

【初日】

①棺前供養

②出棺

③火葬・拾骨

④通夜

 

【第2日】

⑤葬儀

⑥初七日より百ヶ日の供養

⑦納骨(お墓がある場合)

 

こういった流れが大方ですが

諸事情により

1日で火葬と葬儀を行う

場合もありますし

3日に渡り儀式を行う

場合もあります。

 

昨今は

「多死社会(たししゃかい)」

とも言われます。

 

それだけ沢山の方が

生涯を全うされるその時を

迎えられているということです。

 

当山有縁の方の葬儀も

増えているように感じております。

 

「本義に則るということ」

当山では大切にしております。

 

葬儀も簡略化の傾向が見られますが

それはあくまでも規模の縮小化に止め

尊い意味が託された儀式自体の簡略化は

極力避けるべきだと思います。

 

儀式自体とは

導師がなす作法や読経次第のことです。

 

儀式に際し大切なことは

祭壇の立派さや

供花の多さなどではありません。

 

仏道では

命に優劣はないということを

大前提としております。

 

全ての歩みが

仏に連なる尊いものであると考えます。

 

当山の伝統的な考えとして

優劣なき命そのものと

向き合う儀式ゆえに

僧侶がなす作法や読経には

差別はありません。

 

様々な分野で簡略化が顕著な今だからこそ

伝統的なものの意味を

しっかりと踏まえるべきではないでしょうか。

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合葬墓・永代供養をご一緒に考えませんか?

昨今は

終活ブームです。

 

溢れんばかりの

終活情報が出回っております。

 

出回る情報の

量が多く

幅が広すぎるために

不安をあおられていらっしゃる方も

多いのではないでしょうか。

 

当山でも

様々な相談や問い合わせが

寄せられております。

 

その中でも

お墓に関するものが

多いように感じます。

 

お墓については

経済誌でも

頻繁に採り上げられております。

 

これまで

前提とされていたこと。

 

家のあり方

地域のあり方。

 

変化すること自体には

善悪はありません。

 

その時その時に応じながら

考えるべきことがあります。

 

地域やご家庭ごとに

考えるべきことは異なります。

 

総合的に

地域全体で

向き合わなければ

ならない時代である

ということなのだと

感じております。

 

現行のものでは

対処できないものは

対処できるのもに

手直しするか

新たに作るしかありません。

 

そのような流れの中で

当山でも

合葬墓(がっそうぼ)の

建立を検討しております。

 

合葬墓については

ただ作れば良いという

ものではありません。

 

その内容について

深い検討を

必要とするものです。

 

そこで当山では

合葬墓や永代供養を

必要とされている有縁の方と

共に検討を重ねさせて頂き

ご供養の形を

整えさせて頂きたく存じます。

 

当山檀信徒の皆様には

お便りにて通知させて頂きますが

合葬墓や永代供養を

必要とされる方

検討されていらっしゃる方で

当山にてのご縁を

ご希望される方は

ご一緒にご検討頂ければ

と考えております。

 

合葬墓や永代供養について

お考えの方で

ご一緒にご検討頂ける方

いらっしゃいましたら

お知らせ下さいませ!

 

様々に検討させて頂き

共に形作らせて頂ければと

考えておりますので

どなた様も

お気軽にお声掛け下さい。

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梵字般若心経をお授けします

平成29年より

葬儀に際し

当山住職による

梵字(ぼんじ)般若心経の写経

故人様の棺に

納めさせて頂くことと

いたしました。

 

梵字般若心経の

写経供養は

数年前まで

実施されておりましたが

住職の体調不良もあり

一時中断しておりました。

 

梵字とは

古代インドの文字で

深遠なものとして

仏教では大切にされるものです。

 

その1文字1文字

その1筆1筆に

深い意味があり

“仏の象徴”とされます。

 

梵字の言語哲学は

非常に深く

味わい深いものです。

 

当山住職は

梵文(ぼんぶん)の専門家であり

学生時代は博士課程まで

大学に籍を置いて学びを深めた

“梵字のスペシャリスト”です。

 

当山住職ならではの

有縁の方々に対する

祈りの形かと思います。

 

住職は

健康上の理由から

かつてのように

お勤めすることが

難しい状況で

現在は拙僧(副住職)が

法務(ほうむ)を担当

させて頂いております。

 

“住職のおもい”が

託された写経を

儀式の中にて

謹んで授与させて頂きます。

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お経のおはなし〜意味が分からなくとも〜

お経の意味が分からずに

読経していても

きちんとご供養になりますか?

 

そのようなご質問を

頂いた事がございます。

 

結論から申しますと

尊いご供養となります。

 

伝えたい思いがあっても

言葉にできない思いも

あるものです。

 

いざ何かを

伝えようと思っても

適切な言葉が

見当たらなかったり

するものです。

 

伝えたいことがあっても

言葉にしきれないことも

よくあることです。

 

あえて言葉にせずに

思いを捧げることも

温かな心のやりとりです。

 

お経には

そういった一面もあります。

 

当然のことながら

お経や

一連の作法、儀式には

意味があります。

 

しかし

お経との向き合い方は

意味を紐解くだけでは

ありません。

 

意味が分からなくとも

ただひたすらに

“一心に”お経を唱えることにも

深い意味があるのです。

 

真言宗では

御宝号(ごほうごう)といって

南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)

という短い「お経」があります。

 

南無阿弥陀仏

南無妙法蓮華経

南無本師釈迦牟尼仏

など宗派毎に

それぞれの宗派を

代表する文言があります。

 

それぞれの文言には

記される文字が

意味する所のみならず

仏道のこころが全て

託されております。

 

皆様各々に

ゆかりのある

お唱え方に

ご自身のお声をのせて

「おもい」を奏でられては

いかがでしょうか。

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グリーフという視点

誰しもが

生涯を全うする

その時を

迎えなければなりません。

 

お葬式は

死と向き合う儀式であり

命と向き合う儀式です。

 

死と向き合うことは

その方の生き方に

触れることであり

自身の生き方と

向き合うことでもあります。

 

供養(くよう)とは

先立った大切な方へ

真心を捧げるとともに

自身の心も養うことでもあります。

 

仏道とは

歩み方です。

 

仏道としてのご供養は

“自身の歩み”も

大きく問われる所です。

 

愛別離苦(あいべつりく)は

悲しみの極みといわれます。

 

愛別離苦とは

愛する者、親しい者と

いつか必ず

別れなければならない

という「苦」です。

 

「グリーフ」という

言葉をご存知でしょうか。

 

身近な方の「死」に

接した時に

多くの方が向き合うこととなる

「変化」があります。

 

グリーフとは

失った時に感じられる

ごく自然なもので

将来的に重要視されるもの

であろうと思われます。

 

現実的に

死別は必ずしも

「悲しみ」のみに限定

されるものではありません。

 

細かくいえば

「死」という

大きな節目に際し

様々な感情の変化が

見られることは

ごく自然なことです。

 

様々な感情が

ごく自然であるにも関わらず

ありのままの感情を語ることは

憚られることが多いのかと思います。

 

ありのままの感情には

確かな理由があり

嘘偽りのないものです。

 

 

グリーフと正面から向き合う団体で

『リヴオン』という団体がございます。

 

リヴオンによれば

「グリーフ」は大切な人、ものを

失うことによって生じる

その人なりの反応、状態、プロセス

のことです。

どんな感情も反応も

おかしなものではありません。

怒りも、悲しみも、時に安堵さえも

失った時に感じるのは

自然なものです。

と説明されております。

 

ありのままの感情を

ありのままに受け入れること。

 

これは

とても大切なことです。

 

葬儀の時のみならず

ご法事の際においても

ありのままの感情は

十人十色で当然なのです。

 

どのような感情を

抱かれたとしても

それは真実であり

善悪云々の次元では

ありません。

 

ありのままのお心で

それぞれが

それぞれの

向き合い方で

ご供養のひとときに

思いを馳せて頂く。

 

とても大切な

ことだと思います。

 

 

▼リヴオンHP

http://www.live-on.me/grief/index.html

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