5月10日の開山忌で四大明王の開眼も行います

開山忌(かいさんき)は

当山初代住職のご法事にあわせ

歴代先師のご供養を行う行事です。

 

また開山忌にあわせ

会津斗南藩縁故者供養

戦没者供養

合葬墓供養も行います。

 

さらに本年は

新たにお迎えする

四大明王像の開眼も

行います。

 

様々な意味を託した

開山忌ならびに供養祭について

何回かに分けて

投稿したいと思います。

 

当山では

次の三師を

三開山上人としています。

 

三開山上人

  • 開創開山・圓鏡大和尚(延暦・弘仁年間[782~824]開創/弘仁8年[817]5月15日寂)
  • 開基開山・行海大和尚(承安元年[1171]5月開基[中興]/建仁年中[1201~1203]寂か)
  • 中興開山・快傳大和尚(享保年間[1716~1736]に中興)

 

圓鏡上人の頃について

諸研究によりながら

仏教学的あるいは僧侶観点で

投稿を重ねてみたので

ご興味をお持ちの方は

ご一読いただければと思います。

 

▼「開創当時を考える」シリーズ

https://x.gd/m2kzn

(やや専門的です)

 

平安後期から鎌倉初期の

行海大和尚についても

深ぼってご紹介すると

とてもドラマチックというか

波乱万丈であったろう

ご生涯が想像されます。

 

行海上人は

大往生を遂げた方でして

11世紀初頭から12世紀初頭までの

約一世紀を在世とされるので

興教大師の生きた

“激動の時代”を目の当たりに

していたと推定しています。

 

行海大和尚については

機会があれば

ブログでもシリーズで

紹介したいと思います。

 

江戸中期

飢饉等で多くの人が

心身ともに疲弊していた時代に

活躍されたのが

快傳大和尚です。

 

快傳大和尚の時代

多くのお堂の修繕がなり

仏像が造立され

伽藍整備も図られました。

 

快傳大和尚は

かつて境内にそびえていた

大イチョウを植えたと

される方でもあり

また

享保期の寺屋敷建立棟札には

当地に様々な木々を植え

さらに

観音山(七崎山)に2000本の杉を

植えたと記録があります。

 

当地へ植樹されたものは

諸仏諸尊への供物や

修行における自給生活に

資するようなものが多いです。

 

観音山の2000本の杉の植樹は

おそらく現當二世安楽のために

賢劫仏(けんごうぶつ)になぞらえ

観音山を曼荼羅に見立てた

浄行ではないかと考えます。

 

観音山は当山の旧境内地で

明治まで観音堂があった場所で

明治以降は観音堂は廃止され

境内地を切り離し

現在は七崎神社となっています。

 

棟札の記載は

記録としての史料なので

快傳大和尚以前の観音山には

2000本もの杉を

植えられるだけのスペースが

あったということでもあり

現在の景観とは

全く異なる景観だったことを

暗示します。

 

杉だけでなく

伽藍や諸堂の整備

仏像の造立・請来などを

総合的に踏まえると

「曼荼羅に見立てた浄行」を

意識された方であり

さらには修行における

環境を整える意図も

看取出来るといえるでしょう。

 

そんな快傳大和尚についても

機会があれば

ブログでも紹介したいと思います。

 

本年の開山忌では

新たにお迎えする

四大明王像の開眼も行います。

 

不動明王と四大明王を

あわせて五大明王と称します。

 

不動明王は

真言宗においても

日本の信仰史においても

篤く敬われてきた尊格で

修行においてとても重要な意味を

宿しています。

 

普賢院合葬墓は

不動明王を本尊としており

不動明王は当行事にも

大きく関わります。

 

ということで

今回はここまでとし

つづきはまた後日とします。

 

▼昨年の開山忌ならびに供養祭