刻まれた祈りのあり方の記憶

会館裏手のイチイは

「千年イチイ」と呼ばれます。

 

千年イチイ同所には

稲荷大明神が祀られています。

 

嘉永2年(1849)に

建立されたもので

側面には

導師 普賢院 宥青 善明院 栄隆

と刻されています。

 

「普賢院 宥青(ゆうせい)」は

当山先師の宥青上人です。

 

もう一方の

「善明院 栄隆(えいりゅう)」は

江戸前期から明治4年(1871)まで存続した

当地の修験です。

 

こちらの修験は

当山に残る『旧神宦略系』(明治7年)

によると承応年中(1652〜1655)の

初代・明正院から旧・観音堂に仕えており

今回とりあげている普明院は

14代目にあたります。

 

江戸時代になり

幕府の宗教統制は強まり

近世の史料をひもといてみると

修験に対しての統制は

厳しいものであったことが分かります。

 

さらに時代が移り変わって

明治期になると

神仏分離の諸法令が

幾度も出されるわけですが

修験は仏教諸宗の中でも

特段厳しい対応がなされます。

 

最も象徴的なのは

明治5年(1872)に出された

修験禁止令かと思います。

 

当地では

今回とりあげた普明院の系統のほか

もう一系統の修験があり

旧・観音堂に仕えていたのですが

どちらも服飾(修験をやめる意)され

神職へつくことになったため

修験は消滅してしまいました。

 

明治になり

山野路に点在していた神仏の祠や

無住のお寺やお堂は統廃合したり

極力寺社仏閣の境内に移すようにとの

政府の方針もあり

明治以前までの祈りの環境は

大きく変化することになります。

 

稲荷大明神の石碑には

かつての祈りのあり方の記憶が

刻まれているといえるでしょう。