開山忌と供養祭のお話のつづき〜近現代史に触れながら〜

初代住職のご法事にあわせ

歴代先師のご供養を行う

開山忌(かいさんき)。

 

ならびに

会津斗南藩縁故者供養

戦没者供養

合葬墓供養を

5月10日に行います。

 

令和7年は

この行事にて

四大明王像の開眼も

執り行います。

 

本年の開山忌に関して

数日前にも書いたので

そちらもご参照ください▼

令和7年の開山忌について①

 

開山忌ならびに供養祭は

住職と弟子のみで

行なってきたものですが

参列はご自由にいただけるので

ご希望の方は

ご一緒いただき

お焼香していただければと思います。

 

本堂でお勤めをして

本堂裏手境内墓地にて

歴代住職墓

合葬墓

会津斗南藩縁故者供養所を

お参りして

最後に本堂前の

戦没者留魂碑を参拝します。

 

令和7年は

いわゆる太平洋戦争の

終戦80年という年です。

 

戦没者の慰霊追悼について

全国各地で難しさに

直面している昨今でして

豊崎地区においても

遺族会の維持継続は

困難であるとして

昨年の会合の時には

令和7年に何かしら

決断する必要があると

奥田卓司会長が

お話されていました。

 

奥田会長には

公私共に昔から

お世話になっており

都度都度に

戦争に関することや

慰霊追悼について

お話を伺わせていただき

切実な思いや願いも

お聞きしたことがあるので

当山として出来ることを

出来る形で精一杯

継続してまいりたいとの

思いを強く抱いています。

 

当山も当時の住職と

その弟が出征・戦死しています。

 

拙僧泰峻からみると

大叔父にあたるお二人です。

 

大叔父たちは

拙僧も一緒に暮らした

大叔母・道子の弟たち

祖母・豐の兄たちで

大叔父ら兄妹の過ごした時代は

幼少期から困難が伴いました。

 

というのも

その父である当山61世・長峻師は

行年60でご遷化されており

その時に次代を担う

長男・晃雄師は14歳で

その姉の道子は17歳

弟の高明は12歳

妹の豐は10歳という状況で

お寺の住職については

晃雄師が住職に就任する時まで

代務者を立てなければなりませんでした。

 

代務者としては

親戚でもあり

大学者でもあった神林隆淨大僧正などの

多大なご助力がありました。

 

神林大僧正の奥様が

長峻師と兄妹であったご縁で

神林家には

大変お世話になった経緯があります。

 

戦争期については

その前後のことも含めて

以前ブログで書いたことがあるので

いくつかリンクを貼っておきます。

 

▼過去の参考記事

「昭和の最困難期」

「普賢院近現代の「巨星」長峻大和尚」

「稀代の古刹 七崎観音⑨」

 

上記の記事を

読み返すと

実に大変な時期であったことを

再確認させられます。

 

こういったことが

あったということの中には

時代を超えた気づきや教訓が

多分に込められていると考えます。

 

明治以後から

戦時下における

参拝や祈りのあり方には

切実なものが感じられます。

 

あまり紹介する機会がなかったので

本稿で少しだけ述べますと

幕末明治の混乱期や

戦時下において

七崎観音への参拝のあり方は

実に切実なものがあります。

 

幕末から明治への移行は

戦乱を伴うものであり

それは明治になってからも

国内の戦火が静まるまでに

しばらくの時間を要しました。

 

政策面においても

例えば宗教政策については

当初打ち出されたものが

うまく機能しなかったために

方針を変更しながら

着地点が模索されています。

 

神仏分離と廃仏毀釈を

同じものと誤解される方も

いらっしゃると思いますが

神仏分離は政府として

トップダウンで試みられたもので

廃仏毀釈は現象として

発生したものといえます。

 

神仏分離への対応として

当山では旧観音堂のあった

境内地を切り離して

旧観音堂を廃止して

仏像・什器などは普賢院に移し

旧地・旧堂は七崎神社となりました。

 

明治2年(1869)に

七崎観音(本七崎観音[本体仏]と

現七崎観音[御前立])は

遷座されたにも関わらず

多くの方が旧地へ

観音参りに訪れたため

応急策として

小堂を用意してそこに

七崎観音(現七崎観音)を再遷座し

明治9年(1876)の再々遷座まで

小堂が維持されています。

 

神仏分離の行政的実行と

地域によっては顕著な

廃仏毀釈の風潮の中

旧来通りに参拝がなされていたことは

大いに注目すべきことで

地域として長きにわたり

「協創された」伝統の凄みを

個人的には感じるのです。

 

この点については

若干本稿で触れますが

後日深ぼって

ご紹介したいと思います。

 

ちなみに

当地においては

廃仏毀釈の痕跡は希薄で

漸次順応が図られています。

 

明治9年(1876)の

官撰地誌『新撰陸奥国誌』は

数年の調査により編集され

明治天皇御巡幸を前に

完成したものです。

 

北方における

天皇御巡幸という出来事は

当然のことながら

政治的にも

当時の宗教的にも

大きな影響力があることで

明治上旬の出来事を

検証するにあたり

見落としてはならないことです。

 

こういった件については

別の機会にするとし

話をもとに戻しまして

旧来通りに観音参りをされた方が

いかなる祈りを

捧げられたかについて

思いをはせたとき

ルンルンな気分での参拝というより

時勢に伴う祈りが多いのです。

 

七崎神社となった旧地に

七崎観音(現七崎観音)が

小堂にて祀られた明治2〜9年は

国内においてもですが

東北地方においても

心穏やかな時期ではなく

むしろ社会不安により覆われた

時期でした。

 

関連する話題として

取り潰された会津藩の方が

斗南藩として再興を許可され

五戸・むつへ向かう道中

当地に身を寄せられ

そして当山にて弔われた方が

いらっしゃいます。

 

当山で弔われた斗南藩縁故者は

明治4〜6年が没年であり

斗南藩の方にとって

とても厳しい時期にあたります。

 

会津斗南藩縁故者の墓石16基が

当山には現存しておりまして

本堂建替の機会に

供養所として供養碑を建立し

墓石も並列して

供養所を整えました。

 

その方々も

当山はもちろんですが

七崎観音堂旧地にも

お参りされて

祈りを捧げられたと思われます。

 

トップダウンで

新たな秩序への変更が

図られることは

当初において

旧来よりの秩序を保ってきた

方々からすれば

言葉にならない不安に

さいなまれたはずです。

 

幕末明治は

戦火により多くの方が殉死した

時期でもあり

そういったことに対する

祈りも切実に捧げられており

そのような祈りは

日清・日露・太平洋戦争

といった一連の戦時下でも同様です。

 

七崎観音が明治9年に

再々遷座されたことは

明治天皇御巡幸を前に

地域として

行政的要求に準じた

「神社」を整える必要が

あったと捉えるのが

自然だと思います。

 

環境における

行政的(表向き)な変化が

あったにせよ

それ以前からも

それ以後も

頼りとされた観音菩薩に

切実な祈りが捧げられ続けました。

 

戦時下において

出征者の家の方が

毎日のように観音参りをされた

エピソードは

当山だけではないでしょう。

 

当山では

地域で戦死者が出ると

本堂に遺影が掲げられ

供養がなされました。

 

現在境内にある

戦没者留魂碑は

昭和37年(1962)に

建立されたものです。

 

留魂碑には

地域の戦没者のお名前が

刻まれており

さらに当山では

当地だけでなく

当山有縁の戦没者の

過去帳と位牌が用意され

供養されてまいりました。

 

戦没者過去帳は

先代・泰永師が用意し

したためたものです。

 

開山忌にあわせて

会津斗南藩縁故者

戦没者供養を行うのは

これまでなされてきた供養に

託された様々な思いを

考えてのことでもあります。

 

あちこち話が飛びましたが

「開山忌ならびに供養祭」のうち

供養祭の内容に関して

会津斗南藩縁故者供養と

戦没者供養について

書かせていただきました。