絵画と写真

キャンバスに描かれた絵と

プリント用紙に印刷された写真。

 

「物」としては

いずれも平面ですが

描き込まれたものと

映し出されたものは

意味合いが全くことなります。

 

そりゃそうでしょうと

思われるかもしれませんが

実はこのことについては

思想的アプローチや

哲学的アプローチによって

多くの考察がなされています。

 

写真については

技術的展開が大きく関与しており

今やスマホで誰もが

撮影することが出来ます。

 

今では写真をデータとして

認識する傾向があるでしょうが

デジタルカメラ以前は

写真店などに

フィルムの現像をお願いして

仕上げてもらってからでないと

その出来栄えは分かりませんでした。

 

スマホで撮影する現在の方式に比して

フィルムカメラ時代は

より身体性が伴っていたように思います。

 

フィルムカメラには

上限枚数があったので

ここぞという時に

シャッターを押していたと記憶しています。

 

絵を描くという行為は

はるか昔から

行われてきたもので

その画法は数多く存在します。

 

仏教においても

大切な意味をもつ絵画もあり

仏画や曼荼羅を

その代表として挙げられます。

 

絵画にしろ

写真にしろ

それを目にした観者により

その意味が汲み取られます。

 

「その意味」というのは

共有する規定がない限り

絵画の作者や

写真の撮影者が

意図したものと

一致することは稀といえます。

 

イメージ人類学にならい

「その意味」をイメージと呼び

その意味を伝達するものをメディアと

呼ぶことにします。

 

絵画と写真をメディアの例としていますが

より日常的で身近なものとしては

言語もメディアとして挙げられます。

 

私と友人がいたとして

私が何かを伝えようとして

絵を用いて

口頭で言葉によって説明した場合

私が伝えようとした内容がイメージで

絵と言葉がメディアということになります。

 

私からの説明を受けた友人もまた

絵と私の言葉を通じて

内容を伝達されるわけですが

友人の受け取った内容もまた

イメージということになります。

 

私が当初伝えたかったイメージと

友人が結果として受け取ったイメージが

完全に一致しているかどうか

確認し尽くすのは難しいでしょうが

普段の何気ない行いを

深く考えてみると

以上のような見方も可能です。

 

こういった捉え方は

仏教の重要な考え方に

つながっていくものなのですが

ブログでは収集がつかなくなるので

この辺にしておきます。

 

無意識なことを

意識的に見てみることは

とても大切な修行のあり方で

誰もが身近に行える

瞑想につながります。

 

瞑想と聞くと

プロフェッショナルなイメージを

持たれる方もいると思いますが

入門的で重要なポイントは

日常無意識に行っていることに

意識を向けてみることだと考えます。

 

自身の呼吸に意識を向けてみる。

 

身の回りのコト・モノに

意識を向けてみる。

 

そういったことが

自心を整えることとなり

様々な効果がもたらされると

科学的根拠も示され

世界的に支持されている現代。

 

そもそも

日本文化に含まれていた

姿勢であるともいえますが

その姿勢は忘れられかけていたものだった

ともいえるように思います。