前回(紐解き七崎観音⑩)は
多様な語りの発生について
声による「口承」と
文字による「文書」による
伝達という観点から検討してみました。
現代に生きる私たちにとって
「文書」は黙読をもって
そこに保存された情報を
取り出そうとするアプローチが
ごく日常的ですが
時代が違えば事情も異なり
「文書」と「音読」をセットとして
捉えられていたそうです。
「文書」により保存され
伝達が目指された情報は
眼識(目による情報の認識)
だけでなく
耳識(耳による情報の認識)
にも関わりながら
情報受者に取得されていた
と一応表現できるでしょう。
私たちは
自身の感覚器官(六根)により
各器官が対象とするもの(六境)を
把握し認識(六識)します。
五蘊(色受想行識)
という考え方は
私たちの認識構造を把握するのに
大変参考になるものでして
私たちの内面から
物事との接触・認識までの流れを
識→行→想→受→色
と捉えます。
専門度が高いので
識をここでは便宜的に
「あらゆる経験が蓄積される深層的な心」とし
行については
「各自の思考のクセ」とします。
意識的無意識的とわず
私たちの様々な「経験」が
心のうちに種のように
ストックされており
諸条件によりその種が発現し
想起させる力が働いて
物事の認識や行動に関わるという
内的で深層的な心と外的環境とのあり方を
捉える考え方があるのです。
こういったものは
私たちの認識のあり方や
世の中のあり方を
観察(瞑想)するためという
側面のあるもので
観念論的な思考としてだけではなく
実践が伴ってこそ
本領が発揮されるものといえます。
これらの思想や実践は
「苦」と「識」が
深く関わっていると
仏道で捉えられていることの
明示でもあります。
観音菩薩は
観自在菩薩とも言いますが
観自在菩薩は
「観ること自在なる菩薩」です。
自在というのは
とわわれないことを意味します。
「観ること」(因)により
「自在なる」(果)となる。
その「観ること」を考える時
本稿で触れた諸項目が
解読の鍵となります。
観自在菩薩に
関連する経典は様々あり
法華経や華厳経や般若心経といった
超有名経典ほか
多くの経典に登場しており
曼荼羅においても重要な尊格です。
「観自在」について
若干の説明をするはずが
結構長くなってしまいました…
奇数月に開催している
『写経カフェ』では
こういった類のお話が主となるので
ご興味をお持ちの方は
そちらでお話に
耳を傾けていただければと思います。
前回も
幕末明治以降の七崎観音について
触れましたが
その流れで今回も
同史料を扱います。
令和7年は終戦80年
という節目ということで
他シリーズでも
幕末明治以降について
触れています。
太平洋戦争について
深ぼって考えるためには
幕末明治にさかのぼって
考える必要があるためです。
また
当地だけではなく
戦争期において観音菩薩は
様々な願いが捧げられた尊格であり
この点からも様々
述べられることがあると考えています。
七崎観音についていえば
旧観音堂が廃止され
旧地は神社化され
七崎観音は遷座された
のが明治時代で
ひとつ(無分別)のものが
ふたつ(分別)にされた
ともいえます。
明治〜昭和20年(1868〜1945)の
77年の間は
目まぐるしさがあり
寺社関係についても
明治冒頭から
大きな変化がいくつもあります。
それらのことにも
触れながら眺めることは
とても有意義と捉えています。
細かなことについては
徐々に触れるとして
前回扱った史料について
以下に再掲します。
『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])の当地についての箇所
全く後人の偽作なれとも
本条と俚老の口碑を
採抜せるものなるへけれは
風土の考知らん為に左に抄す
七崎神社
祭神
伊弉冉命[イザナミノミコト]
勧請之義は古昔天火に而
焼失仕縁起等
無御座候故
詳に相知不申候
異聞あり
ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして
勧請の由来は天災に焼滅して
縁起を失ひ詳らかなることは
知かたけれとも
四条中納言 藤原諸江卿
勅勘を蒙り◻刑となり
八戸白銀村(九大区 三小区)の
海浜に居住し
時は承和元年正月七日の
神夢に依て浄地を見立の為
深山幽谷を経廻しかとも
宜しき所なし居せしに
同月七日の霄夢に
当村の申酉の方
七ノの崎あり
其の山の林樹の陰に
我を遷すへしと神告に依り
其告の所に尋来るに大沼あり
水色◻蒼
其浅深をしらす
寅卯の方は海上漫々と見渡され
風情清麗にして
いかにも殊絶の勝地なれは
ここに小祠を建立したり
則今の浄地なりと
里老の口碑に残り
右の沼は経年の久き
水涸て遺阯のみ僅に
小泉一学か彊域の裏に残れり
当村を七崎と云るは
七ツの岬あるか故と云う
又諸江卿の霊をは荒神と崇め
年々八月六日より十二日まて
七日の間 祭事を修し来たれりと
(以上 里人の伝る所
社人の上言に依る)
この語を見に初
伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも
縁起記録等なく詳ならされとも
南部重直の再興ありし頃は
正観音を安置せり棟札あり
〈引用文献〉
青森県文化財保護協会
昭和41(1966)年
『新撰陸奥国誌』第五巻
史料では
「七崎神社としての縁起」について
「全く後人の偽作なれとも」として
以下の2説を述べています。
- 祭神はイザナミノミコト。むかし火事があり、縁起など焼失して無いため、詳細については分からない。
- 祭神イザナミノミコトの勧請について、天災で縁起を失っているため、詳細を知るのは難しいと前置きをし、藤原諸江卿が当地に勧請したという説を示す。四条中納言であった諸江卿は、勅令により白銀に居住しており、承和元年(834)1月7日の夢でイザナミノミコトの神告を受け、当地に勧請された。
大まかにいえば
上記の様になります。
藤原諸江卿という人物が
登場していますが
この伝説的人物を祖先とする
家々が当地にあります。
藤原諸江卿は
大同2年(807)1月3日に
没したとの説もありますが
大同2年という年は
北東北全体において
坂上田村麿将軍と結び付けられて
語られる年号でもあり
おそらく明治以後に
旧観音堂エリアの“神社化”に
必要な縁起類の編成作業において
藤原諸江卿と大同2年が
結び付けられて
語り直されたと思われます。
田村麿将軍は
「観音菩薩の権化」と言われるなど
観音信仰と深く関わる人物でもあるので
神社化作業においては
田村麿将軍と藤原諸江卿が
入れ替えられた形で
縁起が編まれたと言えそうです。
七崎観音の縁起についても
同じエピソードで
主人公が
田村麿将軍と藤原諸江卿という
違いのものがあるので
先述の様な改変作業が
必要あって為されたと
考えられるのです。
当地の神仏分離作業中
縁起改変において
「藤原諸江卿」という人物が
重要な役割を担ったといえます。
当山に残る
古文書や棟札や
各種表白において
藤原諸江卿について
全く記述がないことからも
明治以後における
縁起改変作業で
採用された人物であった可能性が
高いように思います。
引用した史料では
藤原諸江卿を荒神として
祀っていたとの報告もありますが
当山と旧修験家が所有していた
荒神像は三宝荒神と思われることから
諸江卿を荒神として祀っていた
という報告は
神社化の縁起改変に伴う内容である
可能性があるものの
「藤原諸江卿=荒神」と祀って
そのための行事があったとすると
怨霊信仰や祖霊信仰の観点から
様々に述べることが出来るので
この辺は別の機会に
深めてみたいと思います。
これまで見てきたような
縁起改変作業は
時代的要求があって
実行されたものであり
必要があった故のことで
「不敬なもの」ではありません。
すこぶる強烈な
政治的・時代的圧力が
長い歴史や伝統を
政治的・時代的要求に耐えうる
縁起に編み直さざるを得なかったのが
明治における神仏分離の頃だった
とまとめられるでしょう。