紐解き七崎観音⑩

当シリーズ

1年以上ぶりの投稿です。

 

最近の投稿にも本シリーズと

大いに関わるものがあるので

そちらもご参照ください。

 

▼草創期に関して

「開創当時を考える」シリーズ

 

▼近現代に関して

R7開山忌関連(草創期と近現代について触れています)

 

前回(紐解き七崎観音⑨)は

語りの一旦を担い

その拡散に貢献した方々を

広い意味でヒジリと

表現してみました。

 

諸聖

山伏

修験者

私度僧

などをヒジリと言っています。

 

七崎観音に関する

霊験譚や縁起譚は

もともと口承によります。

 

寺社縁起や諸尊縁起ほか

霊験譚で語られるものは

歴史とは似て非なるものであることは

ずっと以前より強調してきました。

 

ここでいう歴史とは

現代的意味においての歴史であり

現在より時間的に遡って

実際に発生したことの記録

といった意味でしょうか。

 

縁起・由緒譚といった類のうちにも

先にいった意味での歴史が

含まれていないという

意味ではありませんが

歴史と等価に捉えるのは

難しいといえます。

 

語りの一翼を担い

多くの方に広げた

ヒジリには

様々な方が想定され

口々に発される内容は

各人において

内在化されたもので

その理解を踏まえた

表現(言い回しや抑揚など)も

異なるでしょう。

 

語りは

それを聞くものにとっての効果だけでなく

それを語るものにとっての効果も

認められるものです。

 

自身の内に

内在化したものを

第三者に向けて

伝達するプロセスは

昨今の臨床場面で見られることのある

ナラティブ・アプローチと

類似すると思われます。

 

声による伝達は

話者の内面とつながり

そして語りが伝達されるためには

対象者がいることが必要です。

 

ヒジリ→対象者

に話が伝達されれば

そこからさらに対象者を通じて

新たな話者(対象者)において

内在化されたものが

別の対象者へ伝達されるという

連鎖によって広がっていきます。

 

対象者から別の対象者への伝達を

第二次伝達とすれば

それはカッチリしたものではなく

世間話のような形であることの方が

多かったでしょうし

むしろ世間話のような形の伝達が

大きな拡散力を持っていたとも

考えられます。

 

口承は「声の伝達」とすれば

文書など記述によるものは

「文字の伝達」です。

 

さらにこれら伝達には

保存の働きもあるので

「声の保存・伝達」

「文字の保存・伝達」

ともいえます。

 

その両者は

保存・伝達という

働きが同じであっても

口承によるものは

簡略明快な内容である

傾向にあるのに比べ

文字によるものは

固定化が目指される傾向にあり

心情や場面などの

情景描写が多い傾向にあるなど

大きく異なります。

 

口承は声によるため

その内容が人々の記憶に

留められるとはいえ

文字などに記録されなければ

史料としては残りませんが

文書は

その内容いかんに関わらず

史料としては残ります。

 

唐代の義浄三蔵が

『南海寄帰内法伝』で

口承でしか伝えられていない

経典があったため

文字にとどめたと

記されているように

口承を重んじて

継承されてきたものが

あったことは

とても興味深く思いますし

口承は奥深いものだと感じます。

 

真言宗においても

口伝といって

文字に起こすのではなく

阿闍梨が弟子に対して

儀式において伝授する伝統が

今なおあることもまた

口承文化の尊さに通じると思います。

 

文字による保存・伝達は

現代に生きる私たちにとっては

とても馴染みあるもので

今や大量の情報を扱うことが可能です。

 

とはいえ

文字による保存・伝達の

性格は今も昔も共通しており

文字による情報の保存には

限界があるのは間違いなく

そのことに私たちの多くは

気がついているように思います。

 

たまたま残った文字が

当時からすれば

デタラメなものだった

なんてことがないとは

いいきれないわけです。

 

「語り」には

①物語などの内容

②語るという行い

の二つの意味があり

①が同じであっても

②の方法or主体により

バリエーションが生まれるのは

自然なことといえるでしょう。

 

七崎観音にまつわるお話は

一様ではないことについて

「語り」のあり方に注目して

わずかながら述べてみました。

 

七崎観音に関して

口承されてきた内容は

明治の到来とともに

イザナミノミコトと

藤原諸江卿のお話への

変更が図られることになります。

 

これは時代的背景によるもので

政府の政策において

神仏分離による“神社化”が

国家神道において

重要な意味を持つためです。

 

明治・大正・昭和(終戦まで)

を通して神社に関わる政策に

幾度か変遷があるにせよ

宗教ではなく祭祀において

大きな意味が付与されていきます。

 

旧来の縁起類の

改変の様子を

以下の引用に

見ることが出来ます。

 

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])の当地についての箇所

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナミノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

又諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれりと

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

 

〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

 

以上の部分に

社人と里人の説が記載されています。

 

この部分には

当地の先人方の

明治政府より求められた

「旧観音堂の神社化」への

苦心しての対応を

見てとることが出来ます。

 

「全く後人の偽作」

とありますが

当時求められた神社化において

旧来守られてきた伝統や

地域に誇る歴史といったものを

下敷きにして

イサナミノミコトを祭神とした

縁起が用意されたと考えられます。

 

真言神道や両部神道という

神道と仏教が融合した形があるのですが

女神であるイザナミノミコトを

蓮華部という曼荼羅のパートを司る

観自在菩薩と

関連づけて捉える理解の方法を

採用したのではないかと

拙僧泰峻は考えています。

 

要するに

イザナミノミコトを祭神としたのは

神仏習合・真言神道の考え方や

曼荼羅の思想が背景にあり

七崎観音と七崎観音堂時代との

つながりを内包することで

行政的に実行される断絶を

乗り越えようとした

と考えております。

 

神仏分離が図られた頃

地域によっては

廃仏毀釈という現象が多発しますが

当地ではその風潮が希薄であり

旧観音堂の「神社化」が

漸次進められているように見えます。

 

現在の七崎神社の境内に

「ほこ杉」と呼ばれる

巨大な杉がありますが

この名称は明らかに

古事記・日本書紀の

神話に由来しており

天沼矛(あめのぬほこ・古事記)

天之瓊矛(あめのぬほこ・日本書紀)

から来ています。

 

古事記・日本書紀が

仏教的な様相を帯びて

語られた時代があり

その内容は

中世神話と表現されることもあり

神道灌頂といった儀式が

真言宗でも行われていたので

明治における諸対応への

根拠たる思想を

そもそも持ち合わせていた

とも考えられます。

 

明治における

改変された縁起について

次回も触れてみたいと思います。