盛岡南部藩の家老の
“事務日記”である『雑書』(ざっしょ)。
盛岡藩政期の藩政の様子や
領内の主だった出来事を
うかがい知ることが出来ます。
その『雑書』の
文化7年(1810)7月6日と
文化8年(1811)閏2月22日の箇所に
当山についての記述が
見られます。
あらためて
確認してみると
現本堂以前の本堂についてのことや
当時の様子についての
一端が垣間見られるので
こちらで紹介させていただきます。
※( )と下線は筆者によります。
①文化7年(1810)7月6日
五戸七崎村普賢院
看主(覚宥)願出候は
本堂八間二七間之処
数十年罷成大破仕
去年九月境内杉願上頂戴仕
尚旦(檀)家共より得助力候得共
少旦(檀)家故行届兼迷惑仕候間
七崎村近村旦(檀)家共申合
講会弐会興行仕
右余分を以
普請入料へ足加申度候間
被 仰付被下度旨
永福寺末書を以申出
其筋為逐吟味
相対を以
講会願之通
寺社御奉行へ申渡之
②文化8年(1811)閏2月22日
五戸七崎村普賢院
此度本堂再建成就仕候二付
為入仏供養導師仕候二付
長谷寺差遣度候間
往来十八日御暇被下度
願之通御暇被下置候ハゝ
来る廿五日
此元出立為仕度旨
永福寺申出
願之通寺社御奉行へ申渡之
この2つの記事は
貴重な情報や状況を
いくつか伝えております。
①の記事で
看主とあるのは
当時の普賢院住職・覚宥師です。
覚宥師は現本堂の再建時の方で
他にも鐘楼堂の再建(文化5年[1808])
千手観音堂の再建(文化11年[1814])
も成し遂げられております。
現本堂は八間×六間ですが
その前の本堂は八間×七間
であるということが
この記事からは分かります。
「数十年罷成」
(数十年経過しての意)
とあることから
文化7年(1810)時点の本堂は
1700年代に再建など何らかの
“手入れ”があったと思われます。
享保18年(1733)の
棟札は「再建立當寺屋敷共…」とあり
当山中興(ちゅうこう)の
快傳(かいでん)上人が
大掛かりな事業をされております。
中興(ちゅうこう)というのは
本堂などの伽藍を
手がけられた住職に対し
形容される言葉でして
細かなことを言えば
快傳上人以外にも
中興と形容されるかたは
当山先師には多くいらっしゃいます。
その中でも殊に快傳上人は
「中興開山」された先師として
位置づけられております。
現本堂以前の本堂は
もしかしたら
この快傳上人の時代に
再建などが成されたかもしれません。
文化7年の火災については
具体的に触れられておりませんが
①の記事によると
火災に遭う以前より
本堂の傷みがあって
前年(文化6年[1809])9月より
何かしらの準備が進められていたか
検討されていたことが
うかがわれます。
また
江戸期は本坊(盛岡永福寺)が
盛岡にあり
当山は自坊として
“飛び地の直轄管理”のような
形だったため
境内の杉を使うにも
お堂に手入れをするにも
本坊を通して
寺社奉行の許可が
必要だったことがうかがえます。
文化8年(1811)の
入仏供養(現在でいう落慶式)の
導師についても
本坊や寺社奉行を通して
決定されており
何をするにも
煩雑な手続きが
必要であったことが
伝わってまいります。
いつの世も
色々と大変だということを
今回の記事は
伝えているようにも思うのです。
▼【本堂解体の様子】
仁王門が解体されました。
廃材もほとんど運び出され
基礎を残すのみといった状態です。
本日も解体の様子を
お寺の歴史に触れながら
お伝えする動画を用意出来ましたので
よろしければご覧下さい。
▼動画はコチラ(youtube)
https://www.youtube.com/watch?v=AEPluXR9Wpc