年代の判明している
近世以降の
仏像・仏具であったり
所蔵している棟札などを
ザックリと時系列に
箇条書きで並べたものを
以前こちらのブログで
紹介させていただきました。
今回はさらに主な史料と
当派で大切にされる
両祖大師の御遠忌(ごおんき)の
年次を加えてみます。
両祖大師とは
弘法大師・空海上人と
興教大師・覚鑁(かくばん)上人
のお二人を指します。
御遠忌を迎えるに当たり
記念事業を行うことが多いため
御遠忌の年次について
記載することにしました。
定期的に迎えられる
御遠忌という節目を
時間軸に落としていくことは
当山の歴史を紐解くうえで
とても有意義なことです。
当ブログは
研究メモとしても
活用しております。
今後お寺の寺史などを
作成するにあたっての
基礎資料作りでもあると捉え
取り組んでおります。
地道な作業な必要なことゆえ
一気に仕上げることは
難しいですが
コツコツ取り組みたいと思います。
それでは
以下に“研究メモ”を記して
本日は終えたいと思います。
※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])に掲載される神社所蔵の棟札については青字で記します。
※伝説・伝承含め当山に関連する記述の見られる主な史料(近世以降)の年代等を緑字で記します。
※弘法大師や興教大師の御遠忌(ごおんき)を紫字で記します。
- 仁王門造営(寛永2[1625])
- 弘法大師800年御遠忌(寛永11年[1634])
- 興教大師500年御遠忌(寛永19年[1642])
- 『雑書』(確認されているのは寛永21年[1644]3月14日〜天保11年[1840]末【欠落箇所アリ】)
- 『寺社記録』(寛永21年[1644]〜天保8年[1837]【欠落箇所アリ】)
- 本七崎観音(明暦元年[1655])
- 観音堂並十二末社再興(観音堂3間四方/棟札は明暦2年[1656]に宥鏡上人が作成)
- 吊灯籠(寛文10年[1670])
- 弘法大師850年御遠忌(貞享元年[1684])
- 興教大師550年御遠忌(元禄5年[1692])
- 現七崎観音(貞享4年[1687]/4間四方の観音堂が再建[棟札が神社にアリ])
- 観音堂並小宮葺替(元禄6年[1693])
- 『系縁集』(元禄11年[1698]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
- 『来歴集』(元禄12年[1699]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
- 殺生禁断札設置(正徳2年[1712]/南部利幹公)
- 仁王門改造(享保2年[1717])
- 仁王像(享保3年[1718])
- 前机(享保9年[1724])
- 稲荷大明神造営(享保12[1727])
- 快傳上人逆修建立の墓石(享保14年[1729]、施主信敬とある)
- 『津軽一統志』(享保16年[1731])
- 寺屋敷(庫裡)(享保18[1733]/この時に観音山[現在の七崎神社境内]に2000本余の杉を植樹と記載アリ)
- 弘法大師900年御遠忌(享保19年[1734])
- 興教大師600年御遠忌(寛保2年[1742])
- 学秀仏・千手観音坐像(享保年間奉納と推定/学秀仏と思われる不動明王像と大黒天像アリ)
- 龜峯扁額(享保頃の可能性/落款が「龜峯」「主忠信」「不爾」)
- 南祖法師尊像(延享元年〜2年[1744〜45]と推定)
- 賽銭箱(寛保3年[1743]12月)
- 『奥州南部糠部巡礼次第』(寛保3年[1743]6月3日〜18日の15泊16日で則誉守西上人ら14名が巡礼)
- 『祐清私記』(著者・伊藤祐清は寛保元年[1741]に諸士系図武器右筆等諸用掛りについており、この際に収集した諸資料や記録をもとに編集したと見られている)
- 御輿再修覆(宝暦6年[1756]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵)
- 鳥居新築(宝暦10年[1760]春)
- 『御領分社堂』(宝暦10年[1760]頃)
- 愛染堂再興(宝暦13年[1763])
- 不動堂再興(宝暦13年[1763])
- 天照皇大神宮再興(宝暦13年[1763])
- 大黒天堂造営(宝暦13年[1763])
- 仁王門修造(宝暦13年[1763]3月)
- 御輿新造(明和2年[1765]3月)
- 『平泉雑記』(安永2年[1773]/南祖坊が植えた姥杉の伝説)
- 夫婦地蔵(安永3年[1774])
- 弘法大師950年御遠忌(天明4年[1784])
- 『いわてのやま』(天明8年[1788]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
- 鈸(寛政2年[1790]/宥慎上人により奉納)
- 興教大師650年御遠忌(寛政4年[1792])
- 荒神堂再建(寛政5年[1793]8月6日)
- 『邦内郷村志』(明和・寛政年間/大巻秀詮)
- 地蔵菩薩(享和2年[1802]/現在、位牌堂本尊)
- 『十曲湖』(文化7年[1807]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
- 鐘楼堂再建(文化5年[1808]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵)
- 愛染明王(文化7年[1810]/宥瑗上人により奉納)
- 本堂再建(文化8年[1811])
- 千手観音堂再建(本堂再建と同時期)
- 香炉(本堂再建と同時期/宥瑗上人により奉納)
- 圓通閣扁額(文化14年[1817]/三井親孝の書)
- 『当時十和田参詣道中八戸よりの大がひ』(文政年間のものと見られている/十和田湖参詣道について)
- 『十和田記 全』(文政12年[1829]成立と見られている/「御縁起見る心得のケ条覺」に彼岸中日に青龍大権現[南祖坊]来臨のいわれに触れられている)
- 秋葉権現堂再建(天保4年[1833])
- 『盛岡砂子』(天保4年[1833]/星川正甫)
- 弘法大師1000年御遠忌(天保5年[1834])
- 吊灯篭(天保8[1837]/宥威上人により奉納)
- 不動尊祈祷札(吊灯籠と同時期と推定/権僧正とあるため瑜伽者は晩年の宥威上人)
- 鰐口(天保12[1841]/河内屋により奉納)
- 興教大師700年御遠忌(天保13年[1842])
- 八体仏(弘化年間[1845〜48])
- 稲荷大明神(嘉永2年[1849]/普賢院宥青[当山先師]、善明院栄隆[修験“善行院”14代])
- 『鹿角日誌』(嘉永2年[1849]7月16日〜8月3日の日誌/松浦武四郎)
- 『八戸浦之図』(嘉永年間[1848〜1855])
- 一王子再建(安政4年[1857]8月)
- 『十和田山神教記』(万延元年[1860])
- 観音堂再修(安政10年[1863])
- 斗南藩縁故者墓石16基(主に明治4〜5年[1871〜72])
- 旧神臣略系(明治7年[1874])
- 『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])
- 『奥々風土記』(江刺恒久が南部利剛の命により編纂)
- 弘法大師1050年御遠忌(明治17年[1884])
- 観音堂内御堂造立(明治19年[1886])
- 興教大師750年御遠忌(明治25年[1892])
- 興隆講規則(明治34年[1901]/観音講を組織化して再興)
- 十三仏掛軸木箱の蓋(明治39年[1906])
- 本堂屋根葺替(大正3年[1914]12月)
- 七崎山龍神堂木札(大正4年[1915]5月)
- 『郷社七崎神社誌』(大正6年[1917]/小泉幸雄)
- 『糠部五郡小史 附 三戸名所旧蹟考 埋木の花 鄙の土』(大正11年[1922]/当地については小泉幸雄氏が記述している)
- 地蔵菩薩(明治末〜大正期/一時当山の代務者をつとめた赤穂覚信師が作仏)
- 北沼観音(昭和2年[1927]蓮沼にて発見、昭和4年[1929]旧8月17日建立)
- 観音堂並仁王門改築(昭和6年[1931]/『七崎観世音道場普請報告書』に記載)
- 子安地蔵堂(昭和6年[1931])
- 『十和田湖鳥瞰図』(昭和8年[1933]/吉田初三郎/七崎観音と永福寺[普賢院]が描かれている)
- 弘法大師1100年御遠忌(昭和9年[1934])
- 本堂庫裡修繕(昭和9年[1934]/長峻和尚尊霊歎徳文に記載)
- 大日坊大黒天(昭和10年[1935]頃と推定/61世長峻上人は昭和10年に大日坊88世住職にも就任)
- 興教大師800年御遠忌(昭和17年[1942])
- 戦勝祈願札3枚(戦争期)
- 本堂屋根葺替(昭和22年[1947]12月/戦後の統制経済の様子を伝える記述がある)
- 「北ノシノキ」と書かれた木板(昭和22年[1947]12月12日/3名の名が列記)
- 『永福寺物語』(昭和22年[1947]/山岸郷友会編集部/江戸期まで本坊であった盛岡永福寺は明治になり廃寺。その後、昭和17年[1942]に再興が許可。本誌は再興永福寺の落慶記念。)
- 本堂修築(昭和26年[1951]/写真アリ)
- 戦没者慰霊碑(昭和37年[1962]11月)
- 本堂改築並位牌堂新築(昭和51年[1975])
- 観音堂宮殿塗装修復(昭和56年[1981])
- 弘法大師1150年御遠忌(昭和59年[1984])
- 子安地蔵厨子(昭和59年[1984])
- 仁王門新造並山号札・観音札所札(昭和59年[1984])
- 観音堂内陣格天井並中台八葉院法曼荼羅及新装照明(昭和60年[1985])
- 子安地蔵内格天井(昭和60年[1985])
- 観音堂内格子前扉(昭和61年[1986])
- 鐘楼堂建立(平成2年[1990])
- 興教大師850年御遠忌(平成4年[1992])
- 本尊厨子(平成5年[1993])
- 客殿並位牌堂新築(平成12年[2000])
- 鐘楼堂修繕(平成25年[2013])
- 長谷寺式十一面観音三尊造立(令和二年[2020]/仏師・小堀寛治氏)