史跡・九戸城跡(くのへじょうあと)。
豊臣秀吉の天下統一の
最後の戦いとなった
九戸政実(まさざね)の乱の
舞台となった所です。
時は天正19年(1591)。
豊臣秀次を総大将とし
名だたる武将で編成された
豊臣方の軍勢は6万5千ともいわれます。
九戸方の軍勢は5000で
対峙したとされます。
九戸城のすぐ近くには
糠部観音28番札所の
岩谷観音(いわやかんのん)が祀られます。
▼岩谷観音(以前のブログ記事)
https://fugenin643.com/blog/かんのんまいり%E3%80%80岩谷観音/
現在の岩谷観音堂のすぐそばには
千補陀堂(せんほだどう)建立碑
という碑があります。
千補陀堂の「補陀」は
観音菩薩の浄土を意味する
補陀落(ふだらく)という語から
来ていると思われます。
この千補陀というのは
千体の観音像を指しており
田子町出身の高僧である
奇峯学秀(きほうがくしゅう)が
九戸政実の乱の戦没者慰霊のため
ご奉納された千体の観音像を意味します。
千補陀堂は天保6年(1835)の
白髭水と呼ばれる大洪水で
仏像もろとも流されてしまいました。
奇峯学秀は生涯において
三千数百体の仏像を作仏しますが
現存確認されているのは80体程で
当山にも千手観音坐像が
お祀りされております。
また岩谷観音堂は
お堂の修復にあたって
当山先師である清珊(せいさん)が
祈祷したことが記される棟札があるそうです。
延宝8年(1680)に
盛岡にあった当時の本坊が
大火災により焼尽しますが
これは九戸政実の怨霊によるものとの
伝えもございます。
南部藩祈願所という
寺格であったということもあり
時を経て九戸政実のエピソードが
語られたものと思いますが
それだけ後世においても
インパクトが大きかったといえます。
九戸城に赴いた当日は
九戸城まつりが開催されており
九戸政実にちなんだイベントなど
様々に行われていました。
郷土の歴史を伝えるだけでなく
感じて頂こうというお心が
伝わってくる素敵な催しでした。