七崎観音と早稲田観音のお話

当山に

七崎観音(ならさきかんのん)として

お祀りされる観音様は秘仏で

旧暦1月17日にのみご開帳されます。

 

本年は2月28日が

ご開帳にあたり

ご宝前にて

午後8時より法要が行われます。

 

ということもあり

今月は当山の観音様に関連した

投稿が多めになっております。

 

これまでも何度か

とりあげてきましたが

現在、七崎観音として祀られる

聖観音像はもともと

御前立(おまえだち)であり

本来秘仏として祀られていたのは

別の聖観音像であるということが

最近になって判明しました。

 

御前立と秘仏が入れ替わったのは

明治になってからの

神仏分離における諸対応であったり

明治から昭和にかけての

諸住職が交代されるときに

十分な申し渡しがなされなかったり

戦争期に一時住職が不在となったり

様々な要因が重なって

引き起こされたと思われます。

 

ある意味

歴史に翻弄された結果と

いえるのではないでしょうか。

 

もともとの形と

現状との違いは

“激動の歴史”を背景としているので

この部分も

語り継いでいくべき

エピソードだと感じています。

 

今後は江戸期までの秘仏を

本七崎観音(もとならさきかんのん)

と呼ばせていただきます。

 

さて

本日はこの本七崎観音と

三戸沖田面の早稲田観音について

とりあげたいと思います。

 

今回も

画像資料を用意したので

そちらをご覧いただきながら

お読みいただければと思います。

 

画像資料は要点を

まとめているので

かえって分かりやすい

かもしれません。

 

七崎観音と早稲田観音は

歴史的に深く関わっており

いずれの別当も

「永福寺自坊」でした。

 

当地には

永福寺の地名が残りますが

これはかつて当山が

永福寺と呼ばれていたためです。

 

当山は

延暦弘仁年間(8C末〜9C初頭)に

圓鏡上人により開創され

承安元年(1171)に

行海上人により

開基(過去帳には中興とある)

されたお寺です。

 

また鎌倉〜江戸時代初期には

永福寺の寺号が用いられました。

 

永福寺(えいふくじ)は

鎌倉二階堂の永福寺(ようふくじ)の

僧侶である宥玄を開祖として

建久2年(1191)に三戸に

建立されたとされます。

 

この建立には経緯があり

そのことについては

以前も何度か紹介しておりますので

そちらをご参照下さい。

https://fugenin643.com/blog/%e6%a3%9f%e6%9c%ad%e3%81%ab%e8%80%b3%e3%82%92%e5%82%be%e3%81%91%e3%82%8b%e4%ba%8c/

 

要するに

三戸に建立された永福寺が

当山も管理することとなり

次第に当山も

永福寺と呼ばれるように

なっていったとされるわけです。

 

三戸の永福寺と

七崎の永福寺は

元和3年(1617)盛岡に

永福寺が建立されるに伴い

自坊と位置づけられました。

 

盛岡を本坊とし

旧地である三戸と七崎の永福寺は

自坊・嶺松院(れいしょういん、三戸永福寺)

自坊・普賢院(ふげんいん、七崎永福寺)

という関係になります。

 

前置きがとても長くなりましたが

早稲田観音は嶺松院が別当寺で

七崎観音は普賢院が別当寺なので

両観音は関わりがとても深いのです。

 

本堂建替という

歴史的節目ということもあり

ここ数年

これまでにも増して

本格的に様々な調査を

進めてまいりましたが

早稲田観音の観音像と

本七崎観音の観音像について

次のような可能性が

浮上いたしました。

 

 

歴史的背景と

棟札などの史料を踏まえると

この2つの観音像は

かなり高い可能性で

同じ時期に同じ仏師あるいは仏所で

作仏されたものと思われます。

 

いずれも

南部重直公の奉納で

宥鏡上人が本坊住職の時期です。

 

宥鏡上人は

本山の長谷寺(奈良県桜井市)から

おいでになり

本坊住職となられた方です。

 

長谷寺の本尊は

十一面観音であり

また長谷寺は西国三十三観音霊場の

草創に深く関わるお寺で

“観音信仰の拠点”ともいうべき所です。

 

長谷寺からいらした宥鏡上人は

観音様とご縁の深い方であり

自坊(普賢院と嶺松院)観音堂の

再興にご尽力されていたことは

後世に伝えたい事績といえます。

 

仏像の造形においても

とても多くの共通点を

見い出すことが出来ます。

 

本七崎観音は

所々かなり傷んでいたため

本堂建替事業のなかで

修繕することにし

現在修繕に取り掛かっております。

 

修繕を決めた当初は

まだ由緒も判明していませんでしたが

不思議なもので

最近になって点と点が一気につながり

色々と浮かび上がってきました。

 

これまで本七崎観音は

旧本堂の観音堂の内殿に

安置されており

内殿の観音扉が開かれるのは

年に1回のみだったので

そもそも調査する機会が

ありませんでした。

 

本堂建替という大きな取り組みが

本七崎観音の由緒を

明らかにしてくれたように

感じています。