出会いも別れも
いつ訪れるのかは
分からないものです。
だからこそ
日々のひとときひとときを
大切にすることは
ふりかえってみると
大きな意味を持つと思います。
「来世はあるのですか?」と
時折尋ねられたことがあります。
どのような来世を
想定されているかという
細やかなことはさておいて
「来世は“ある”」と考えます。
来世・あの世が
存在するという意味での
“ある”と説明するのは困難だと
個人的に思いますが
確実なのは
来世・あの世を“想念出来る”のは
私たちであるということです。
そして
その想念のあり方に
先人の叡智が
切実に込められていると思うのです。
儀式を司式する立場の僧侶を
導師と表現しますが
先に触れた叡智と
それを基に構築されていて
これからを生きていく私たちが
これからを生きていくうえで
大きな意味を発揮しうるものを
示すことで良き方向へ導かんとする師が
導師であるともいえそうです。
拙僧泰峻は
習俗を事例として死生観をテーマにして
研究機関で研究をしていますが
現世と繋がりがある来世観は
多くの場合
生者の生き方に
ある意味パラレルに関わっています。
各地域に根ざす習俗と融け合う形で
日本の寺院の慣習や儀式は
今も執り行われており
そこには具体的な情景を伴う物語があります。
行事や儀式を司式する導師は
物語の案内人でもあります。
案内する物語は
導師自身が腹落ちしていて
導師自身が思いを流し込んで
血の通ったものであることが
求められているように感じます。
